斎藤龍興
斎藤龍興(1547-1577)
美濃の戦国大名。国主斎藤義龍の嫡男として生まれ、13歳で家督を
相続した。非常に聡明な人物であったが、敵・織田信長の油断を誘うため
わざとバカのうわさを流したという。
1561年7月21日、竹中重治らとともに初陣で織田信長を討ち取る。
竹中と謀議して編み出した計略は入念なもので、これまで龍興の能力を
疑っていた美濃三人衆も驚き、「斎藤の家名を揚げるはこの殿にて候」と
歓喜したと伝えられる。
その後、尾張織田氏を告いだ織田信包を滅ぼし、美濃・尾張を攻略して
徳川氏・本願寺と同盟。その実力を買った足利義昭を将軍に擁立して
上洛を果たし、三好・松永らを滅ぼして室町幕府副将軍職兼美濃・尾張
両国守護職に就任。一族の明智光秀を政所執事、斎藤利三を侍所所司に任じ
幕府の実験を掌握した。ただしその政治は中世的権威を背景にしたものであり
近世への過渡的なものであると評価され、中世形仁君の典型と評される。
1577年急死。その死は領民から甚だ悲しまれ「天下嘆き悲しむことかぎりなし」と山科言経は日記に記している。
腹心・政所執事代竹中重治が殉死。家督は子・康龍が継いだが幼少のため
政治の権は岳父徳川家康に移り、それを不満とする明智光秀が挙兵して
関が原で争ったが、徳川家康の勝利に帰し、徳川幕府が1580年に成立した。
幕府成立後、斎藤康龍は伊勢33万石に移封されたが、幕末まで「制外の
家」とされ特権を維持した。
なお、キリスト教に布教許可を与えるなど龍興は宗教には非常に寛容であり、
ルイスフロイスも「非常に有能で思慮深い人物」と高く評価している。
死の直前に洗礼を受け、現代の日本のキリスト教隆盛の基盤を築いた人物として
加藤一二三枢機卿が最近も斎藤龍興墓に参拝したことは記憶に新しい。
室は徳川家康女(亀姫)。
斎藤龍興(1548-1583)
義龍の子。左近太夫。1568年、道三を討った後も美濃国主として君臨した
父が病死した(毒殺ともいわれる)のを契機に家督を継ぐ。
その頃の斎藤家の版図は飛騨、近江の一部まで及んでいたが
時折しも隣国の織田家と刃を交えていた最中であり、
家督を継いだ龍興は動揺収まらぬ家中の掌握に奔走する。
家中の一本化に成功した龍興は父の強兵政策から一転、
武田家を初めとする周辺各国と誼を通じて織田家との戦いに専念する。
家督継承から5年の間、濃尾国境でたびたび衝突した両者の戦いは
主戦場の名前を取って「赤坂合戦」と呼ばれ、川中島合戦と並ぶ戦国名勝負に数えられている。
ちなみに両者の勝負は、武田信玄の上洛作戦を機に打ち止めとなっている。
徳川家を一蹴した信玄の上洛は、進路上に立ち塞がる龍興にとっても滅亡の危機だったが、
尾張を攻略したところで信玄が急死。龍興は九死に一生を得る。
その後、龍興は武田家内部の混乱に乗じて尾張、木曽、三河の一部を奪取。
巧みに同盟・離反を繰り返して中部地方の覇者としての地盤を築いていく。
その狡猾さは祖父の道三を凌ぐとも言われ、あの上杉謙信をして
「蝮の血を絶やさぬ限り京には上れぬ」と言わしめるほどであった。
1582年には近江に進出していた三好義継の勢力を駆逐し、
龍興が京に上って覇権を唱えるのは時間の問題かと思われた。
ところが上洛軍を起こす寸前の1583年、元三好家臣で近江攻略の立役者となった
松永久秀親子が突如謀叛して、龍興のいた大垣城を急襲。
不意を突かれた龍興は脱出を試みるが失敗、久秀の息子・久通に討たれた。享年35。
謀叛に成功した久秀だったが、急を聞いて駆けつけた稲葉一鉄にあっさり敗北、首級を取られた。
龍興死後の斎藤家は嫡子・道興が9歳と幼かったこともあって徐々に勢力を削られ、
7年後、西国を制覇した毛利輝元の軍門に降ることで辛うじてその命脈を保った。
なお、龍興は竹中半兵衛を重用していたが、若年時は侮って馬鹿にしていたという。
半兵衛の実力に気づいた家督継承前の龍興が出奔してしまった彼に対し、
その時の非礼を詫びるため何度も隠棲所に足繁く通って赦しを得たエピソードは、
孔明の「三顧の礼」ならぬ「三顧の詫び」として今も伝えられている。
斎藤道三
山崎庄五郎(1494~1565)
戦国時代の豪商。号は道三。
僧侶から荏胡麻油の行商人に転身、様々なパフォーマンスで人気を博したという。
当時主流であった荏胡麻油に限界を感じ、苦労の末に菜種から多くの油を作り出す技術を開発。
その後、様々な分野に着手し、戦国時代の商業を著しく発展させた。
また、私財を投げ打って戦乱で国を追われた人々に生活の場と教育を提供するお救い小屋を作ったのは、
僧侶としての経験と商人として各地の荒廃を見てきた彼の人間性の発露と言える。
ここでは貴賎を問わず様々な人々が学問を学び、その中でも美濃を追われた
土岐頼芸の子は庄五郎もその才を愛し、我が子のように慈しんだという。
これが後に織田信忠の右腕として活躍した名宰相土岐頼龍である。
仮に庄五郎が野心家であったとするならば、稀代の梟雄となったのではないかという珍説も近年見受けられるが、
乱世にあって生涯を真っ当な商売に捧げたあの世の庄五郎が聞いたらさぞ苦笑する事であろう。
佐久間信盛
佐久間信盛 1527-1586
織田家家臣の筆頭格で通称退き佐久間
信長に「退却戦をさせれば日ノ本では右衛門の右に出るもの無し」と言わせしめた
浅井長政の離反の際は秀吉と共に殿に志願
そのあまりに鮮やかな手際のよさから両軍の大将の浅井長政、朝倉景建は即座に戦意喪失させ
秀吉は感激の涙を流したという
三方ヶ原の戦いで徳川家康が武田信玄に敗れた際、が尾張方面に退却して討ち死にしていく一方
自身はあえて三河方面へ向かい、その結果ほとんど無傷で済んだ。
賤ヶ岳の戦いでは甥の盛政と共に柴田方に属し中川清秀を討ち取り、はやる盛政を諌めながら即座に退却
これは岐阜に向かっていた秀吉が即座に軍を返してくることを理解していた為と思われ
秀吉は心底悔しがったという。
秀吉勝家が和解した1586に病死
巷では暗殺説が出回った
政治51戦87智81
佐竹義重
佐竹義重・義宣
常陸統一を急ぎ、南方33館の当主達を
太田城に呼び寄せて暗殺を目論むが
未然に計画を察知した彼らによって返り討ちにされ
佐竹家を滅亡させた。
佐々成政
佐々成政(?~?)
織田信長の家臣。越中富山城主となる。家臣の制止をきかず厳寒のアルプス山中に入り消息を絶つ。
彼の目的が何であったのかは現在に至るまで謎である。
佐々成政(1536~1588)
尾張国春日井郡に生まれる。5歳のとき、父に連れられてはじめて小牧山に登る。
織田家に仕えて柴田勝家の与力となり、伊吹山・白山などに登頂。
富山城主を務める傍ら、1584年に日本初の厳冬期の立山・北アルプス縦走という偉業を達成した。
上高地の美しさや、黒百合をはじめとする立山の美しい動植物を紹介したのも成政である。
1588年、阿蘇山の根子岳登頂中に滑落死。享年53。
死後佐々神社に祀られ、登山家と高山植物研究家の守り神として知られている。
島津義弘
島津義弘
1535-1600
薩摩の戦国大名で、勇猛であったが思慮に欠ける人物であった。
1600年の関ヶ原の戦いで、西軍について関ヶ原に布陣したものの、
個人的な感情から兵を動かすことを止めてしまい、形勢を傍観している
うちに周囲の西軍が悉く壊滅し、孤立。
慌てふためいて北国街道沿いに逃亡中、小早川秀秋に討ち取られた。
彼の死によって島津家は改易され、薩摩には小早川秀秋が封ぜられた。
作家逝宮正一郎は、この武将の哀れな生涯を題材として「逃げろ義弘」
という小説を書いている。
ジュリアおたあ
珠璃亜比丘尼(?~1637)
慶長~寛永期に活躍した吉利支丹比丘尼(修道女)。
朝鮮生まれ。文禄年間に戦災孤児となり、小西行長に養われた。
彼とその家族から日本語と薬草学、キリストの教えを学び、
慶長6年、京都の南蛮尼寺(女子修道院)に入った。
その動機は海外出身である引け目だったとされる。
のちに長崎で新しく発足した南蛮尼寺を任され、薬用酒の製造を始める。
朝鮮語をはじめとする各種外国語、および医術に通じた才媛であり、
外国船で病人が出ると励まし、手当てしたという。
寛永14年、疫病により帰天。
仙石秀久
仙石秀久(1552~1608)
羽柴家臣 美濃の豪族の子として生まれる。
元は斉藤氏に仕えていたが、美濃が信長に征服された後は信長の家臣、羽柴秀吉に仕官する。
その後、秀吉が織田家で頭角を現すに従い、羽柴家中の先陣として各地で奮戦した。
九州の役後、阿波讃岐淡路内に27万石を与えられた。又、瀬戸内の海運を統括する奉行も任されていた。
この頃、堺に近い土地を押さえたことが影響し、内政家としての芽が育まれたといわれている。
88年に佐々成政の後釜として肥後一国52万石を与えられる。
これは九州の監視と共に朝鮮出兵を見据えた仕置きであった。
九州仕置きでは急な国替えであり、いまだに不安が残る土地であったため、前年度から続く一揆の早期鎮圧と内政の充実が求められた。
秀久はこの問題に対し、この地に土着していた阿蘇氏や断絶した大友の残党を家臣として迎えることで対処した。朝鮮の役で活躍する仙石十二名臣の半数もこの時に迎えられている。
秀吉や前田利家といった豊臣家の支柱が死去した後は、歴戦の雄として大阪城の北東にある高槻城に詰め政務をとった。
~~主な戦い~~
秀久は猪突猛進を旨としており、そのせいで九州の役では島津の釣り野伏せにまんまと引っかかってしまった。仙石軍は壊乱を極めたが、追走する島津軍を側面に伏せていた長宗我部、十河両軍が逆に奇襲することで反転し、逆襲に転じた。
しかし、大友氏が動かなかったこともあり、兵力差をひっくり返すには至らず、互いに相手の将を討つまでにはいたらなかった。(この戦いのことで後に大友氏は難癖をつけられて秀吉に領地を没収された。)
この時、四国勢が事前に相手の戦術を調べ上げ、その上で仙石勢が囮を引き受けたのか、はたまた、
軍議が割れ、仙石勢が無謀に突っ込んだのかは記録に残っていない。
最終更新:2017年01月18日 07:50