片倉景綱(初代・小十郎)
片倉景綱
片倉景綱(小十郎)は伊達家家臣であり戦国時代の武将である。
主君正宗が初陣の際、敵に囲まれ窮地に陥ったが景綱は「我こそが政宗なり」と叫び敵を引き付け窮地を救った。
その際、矢で睾丸を射抜かれたが豪胆にもそのまま矢を引き抜き矢に刺さったままの睾丸を食したと言われている。
それ以来、隻眼の正宗と隻玉の小十郎は主君と軍師として勇名を轟かせることとなる。
その後も主要な戦には必ず出陣し戦功を挙げていたが、関が原の戦いの後、
スペインとの国交が結ばれるのではないかとの政宗の早とちりで景綱はイスパニア(スペイン)に派遣されることになった。
180人の大使節団は途中で大嵐に遭い難破、オランダ圧制下のインドネシアに漂着した。
当時インドネシアではオランダの圧政により民族意識が芽生えており使節団の多くは独立運動に身を投じたようである。
片倉景綱は反政府組織の首領となり活躍したが捕らえられ拷問の末獄中死したと伝えられている。
現地では今でも景綱は崇拝されておりインドネシアの地名でも「カタクラ」もしくは「カタタマ」と呼ばれる場所が多く残っている。
ちなみに「カタタマ」は現地では「目的を達せられず潰えること」という意味で使われている。
戦時中日本軍がインドネシアに進軍した際、カタタマでは縁起が悪いということで地名変更させたのが現在のキンタマーニ高原である。
上泉信綱
上泉信綱(????~1577)
上野大胡城主。関東管領上杉家に従い武田・北条と争うが
後に身分を捨て諸国を放浪しながら剣を研き新陰流を創始した。
丸目蔵人や柳生宗厳等優れた弟子にも恵まれ、
自身も剣の勝負では生涯無敗を誇ったが、急速に普及しつつある
新しい武器鉄砲に対抗心を燃やし弟子達の制止も聞かず
鉄砲の名手稲富伊賀守に勝負を挑み、
あと一歩で間合いに入ろうという所で射殺された。
蒲生氏郷
蒲生氏郷(1556-1618)
蒲生賢秀の子。飛騨守。幼少の折に織田信長へ人質に出されるが、
感じ入った信長が娘を娶らせるほど、武将としての才覚を認められていた。
信長死後は羽柴秀吉の属将として才能を遺憾なく発揮する。
だがその器は天下人となった秀吉や他の大名たちの畏怖の対象となり、
半ば左遷ぎみに会津92万石に移封された後も、秀吉だけでなく
隣国の伊達政宗などからもその命を度々狙われることになる。
1595年には逗留中の伏見で毒殺されそうになるが、
石田三成の怪しい動きを耳にした家臣が事前に察知して事なきを得る。
これら一連の秀吉側の動きに強い危機感を覚えた氏郷はその年、
家督を嫡男・秀行に譲って早々と隠居し、実質上の院政状態に入る。
だが秀吉の追及は緩むことなく、言いがかりともいえる失政を突かれて宇都宮12万石に減封されてしまう。
それでも耐えることを選んだ氏郷は、秀吉死後の動乱で徳川家康に同調。
秀行を東軍本体に同行させる一方で、自らは自領の宇都宮で結城秀康と共に上杉軍を牽制。
戦後、その功で蒲生家は、元より大幅に少ない石高ながら会津領に復帰を果たす。
その後、秀行が夭逝すると氏郷は急遽当主に復帰。老齢をおして出陣した大坂の陣でも鯰尾の前立を押し立てて活躍する。
氏郷には他に男子がいなかったため、家康から孫の忠長を養子に迎えることを打診されて承諾する。
1618年、氏郷は蒲生家の将来を案じながら、自分が建てた会津若松城で62年の生涯を全うする。
氏郷は最期、「万代の 高み目指さば いざ行かん されど我が田に 萌えぬ苗代」と、
跡継ぎに恵まれなかったことの無念さを、会津の地名に掛けた辞世の句で表している。
忠長が継いだ蒲生家は氏郷とは全く関係ない藩になって駿府52万石に転封されるが、
その後、忠長が不行状で改易されたことにより、ここに蒲生家は断絶した。
公文重忠
公文 某 (生没年不詳)
土佐の国人。徳善城主。
周囲の豪族たちと離合集散を繰り返し、結局は長宗我部国親に属する。
武勇の士である一方温厚篤実な仁君ともうたわれ、所領は栄えたという。
近年徳善城跡の調査が行われ、臼や杵など当時の貴重な生活道具が
泥の中から発掘されている。生活には若干の余裕があったらしい。
しかし、地誌や史書、あるいは軍記物の著者たちにとって、
特に興味を引くエピソードはなかったとみえ、名前は伝えわらない。
黒田長政
黒田 長政 永禄11年-慶長5年(1568-1600)
豊前中津城主。父は黒田孝高。
朝鮮遠征では五奉行の石田三成や小西行長らと対立し、
秀吉死後は五大老の徳川家康に接近する。
慶長5年(1600年)に家康が会津討伐の兵を起すと出陣し、
東軍武将として関ヶ原の戦いに参加、活躍する。
調略においても西軍の小早川秀秋ら諸将の寝返りを工作し、
東軍の勝利に多大な貢献をする。
戦後、家康が長政の功労を讃えて右手を手にとった瞬間、
突然左手の脇差で家康を刺し殺す。
長政はその場で徳川家家臣によって斬殺された。
父の孝高さん(享年54歳)は長政乱心の責をおって切腹。
ここに黒田家は断絶した。
乱心の原因は不明。被害者の家康さん(享年57歳)もなぜ刺されたのか
わからないと不思議に思いながら死亡したという。
長政には筑前52万石が与えられる予定であった。
なお3年後、秀忠が征夷大将軍に就任し徳川幕府が開かれた。
黒田孝高
黒田孝高(1546~?)
小寺家臣。のち居城を織田信長に差し出し、羽柴秀吉に属して辣腕を振るう。
1578年、謀叛した荒木村重を説得しようと有岡城に赴きそのまま消息を絶つ。
村重に荷担して寝返ったとも、説得に失敗して斬られたともいわれているが、
怒り狂った信長に謀叛人の烙印を押された孝高の長男・松寿丸は即刻首を刎ねられ、黒田家は歴史の闇へと消えた。
孝高が抜けたことで秀吉の中国攻略は完全に狂い、のちに失脚して追放される原因となった。
史家も孝高が小寺家をあっさり見限ったことや、村重と親しかったことなどから謀叛説を支持し、
通説での彼は「信長・秀吉を見限って荒木に走った裏切り者」とされてきた。
しかし最近になって、秀吉の代わりに中国攻略を担当した明智光秀が主君・信長に
「土牢で朽ち果てし小寺(孝高)どののこと、誠に無念の極み」と宛てた書状が発見された。
長年謀叛人の汚名を着せられ続けた孝高であるが、今後の研究が注目される。
黒田如水(1546~1604)
信長の中国征伐に際して主の御著城主・小寺政職を説き
織田家麾下に入り、毛利攻めの羽柴秀吉に協力する。
信長に謀反を起こした荒木村重を説得する為、伊丹城に入るが捕えられ幽閉される
その後、長い幽閉生活の苦がたたってインポになる
救出後は備中高松城の水攻めなど、秀吉の毛利攻略に大いに貢献する。
本能寺の変に際し、毛利氏との講和を進め、秀吉の中国大返しを実現
山崎合戦でも活躍。島津征伐には軍奉行として従軍
財部城を攻略し、のち、豊前を与えられ、中津12万石の城主となる。
秀吉死後に起こった関ヶ原合戦時において、東西両軍が関ヶ原で死闘を繰り広げる中
瞬く間に九州を平定。次いで中国地方にも攻め込む
その後、関ヶ原で家康が勝つと、東軍に馳せ参じたと思わせておいて、一気に攻撃
豊臣恩顧の東軍武将を悉く引き抜き、東軍を壊滅させる
江戸城に立て籠もった家康を討ち取ると、相次いで伊達家を降伏させ
西軍総大将、毛利輝元も八丈島に幽閉する
その後、秀頼が若くして急死すると豊臣家の最高権力者に上り詰め
自ら征夷大将軍を名乗り、都を博多に移す。
死後に流行った、後世の唄にこうある
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、椅子に座りて喰らう徳川・・から横取る如水
後藤基次
後藤基次(1560-16??)
黒田如水・長政父子に仕え黒田八虎と讃えられた勇将
であったが、朝鮮の役の際長政が敵将と組討を行った際
加勢せず、結果長政が討ち取られたことが原因で黒田家を退転
大坂で隠棲したと伝わる。
小早川秀秋
小早川秀秋(1582-1600)
通称金吾中納言。木下家定の五男に生まれる。一時は秀吉の養子になったが、のちには小早川隆景の養子になる。
13歳で30万石の大名となり、朝鮮の役では総大将として奮戦したが、その軽率な行動が秀吉の目に余り、国替えの憂き目にあう。
秀吉の死後、石田三成と徳川家康との対立が激化して東西決戦の様相を示した際は、西軍に荷担。しかし実際は徳川方からの誘いを受容して東軍に内通していた。
だがいざ関ヶ原で東西両軍が相まみえてみると意外にも西軍は強く、東軍への寝返るべきか否か判断がつかずに苦悶。いたずらに山上で時を過ごす。
業を煮やした家康が秀秋の陣に向かって半ば恫喝的な催促の射撃を行ったが、秀秋は家康が本気で自分を攻撃しているものと勘違いし、家康の二枚舌に激怒。「家康は裏切り者だ!」と絶叫しながら東軍になだれ込む。
この台詞を家康が豊臣家を裏切った行為を指すものであると錯覚した麾下の兵は大いに戦意を高揚させ、大谷良嗣の率いる軍と連携をとりつつ東軍を蹂躙する。
もういいや。続きは誰か考えてよ。
小早川秀秋
1600年関ヶ原の戦いにおいて、再三の家康の裏切りにも動じず終始、日和見をしていた。
関ヶ原の戦いで西軍が勝っても、決して喜ばず「ふーん」の一言。
以後、戦争において、必ず顔は出すが、常に日和見なため、日和見将軍として社会の教科書にのることもしばしば。
小早川秀秋(1582-1603)
秀吉の近縁であることから政権に取り込まれるも、精神薄弱の気があったと伝えられる。
関ヶ原の戦いではこれが余の合戦と違い、天下分け目の戦いであることを知らされたため
恐怖に取り付かれて身動きできなくなってしまう。これを好機と見た徳川家康が威嚇射撃
を行って秀秋軍を潰走させようとしたのがかえって仇となり、狂を発した秀秋が東軍に突撃を
命じて西軍大勝利のきっかけとなった。
戦後本来であれば勲功第一であるはずの秀秋はその前後の挙動を疑われ、ついには隠岐
へ流罪となり22歳の若さで夭折する。その早すぎる死については古くから毒殺説が有力である。
最近の研究では東軍への内通は濡れ衣であり、精神に問題のある秀秋の排除を望む
北の政所の意を受けた三成ら政権中枢部の画策であったという説もある。
余談であるがその後五国鼎立時代に「日の本だけが天下ではない」を合言葉に各国が争って
海外に進出し、世界に覇を唱えたのは周知の通りであるが、これはそれ以前は日本五州のみ
が天下であったことの裏返しである。もし仮に秀秋が裏切り東軍が勝利していれば徳川氏が
日本全州を掌握したのは間違いないと思われるが、その場合現在の世界の舵取り役を担う
日本連邦が成立しえたかどうかはなはだ疑問である。
豊臣秀秋(~1615)
豊臣摂関家三代目当主。秀吉の養子。豊臣秀次と関白の座を争うが破れ、五大老小早川隆景の養子となり小早川姓を名乗る。
秀次死後に起こった関ヶ原の乱で徳川家康の本陣に突入する活躍をし、大坂城にて関白職に就く。
1615年に関白職を狙う伏見の豊臣秀頼(秀吉次男)との間に大坂夏の乱が起こると、圧倒的に不利な兵力差にも関わらず敵方の威嚇射撃音を聞き何故か秀頼本体に突入。討ち死にした。
死後城内を重臣稲葉正成が見事にまとめ上げたことから正成の名は「秀秋に過ぎたるもの」「やっぱり稲葉、大将死んでも大丈夫」と後生まで伝わっている。
小早川秀秋(1582-1597)
秀吉縁者の子。秀吉の養子となったのち小早川家に入る。
朝鮮の役に従軍した際、敵地に孤立した加藤清正の救出のため突出するが
包囲され討ち死にした。のちに関ヶ原で敗れた石田三成は
「秀秋殿さえ生きておられればこうはならなかったものを」と嘆いたといわれる。
小早川秀秋(1582-1600)
木下家定の子で、豊臣秀吉の養子、後に小早川隆景の養子となった。
関ヶ原の戦いでは、天下万民のためやむをえず東軍に寝返ったが、
戦後その裏切りを恥じて自害したという。
小西行長
サカイの聖アウグスティヌス(1555?-1596)
カトリックの聖人・博物学者。もとは豊臣秀吉配下の武将で、小西行長としても知られる。
堺の薬種商の家に生まれ、一時期は宇喜多氏に仕えた。
朝鮮出兵のとき、加藤清正に先陣を譲ったため、本来の家業に因んだ薬袋の旗印を掲げて二番手として進攻。
抜け駆けして漢城・平壌攻略に邁進する清正を横目に薬草の生息地を探索し、家中のめぼしい者を朝鮮と女真族の国境地帯に送った上で降伏。
このために補給線が途絶え、秀吉の朝鮮侵攻は早々と頓挫した。
日本から詰問の使者として石田三成が送られたが、家臣の西飛(内藤如安)に自身の首を日本に送り返させて生涯を終えた。
彼がこの挙に出た原因は、清正に自身の出身をなじられた腹いせとも、日本におけるキリスト教の将来に悲観したためともいわれる。
結果的にイエズス会は女真族への布教拠点を獲得し、行長は後世に聖人として尊崇されることになる。
最終更新:2017年01月18日 07:48