直江兼継
直江兼続(1562~1619)
政治109 戦闘107 智謀104 采配110 野望100
父:武田信玄 母:上杉謙信 養父:樋口兼豊
女性ながら病弱な兄に代わり家中を取り仕切り
生涯不犯を誓った謙信だが
第4次川中島の合戦にて単騎武田本陣に突入した際、
信玄と組み合いになり、男女の腕力の差から犯される。
短刀で信玄の腕を傷つけて束縛から逃れる謙信だが
犯されたことにより気が動転し、
全軍の采配を放置して善光寺に走り、結果、戦の形成は逆転。
この時信玄は「これで20年後、越後は武田の子のもの」と呟いた。
その後、生まれた男児は謙信の姉泉桃院とその夫長尾政景に預けられ
名家樋口家の養子という肩書きを与えられる。
その件について知る者は謙信・政景・謀臣宇佐美のみ。
宇佐美曰く「殿と信玄の子なら双方の優れた点を兼ね備えた名将となろう。
世継ぎではなく家宰として育てるべし。」
その後、兼続を反乱の材料に起とうとした政景は宇佐美に消されるも
兼続は景勝の小姓として育ち、「直江兼続」を名乗る。
謙信・信玄譲りの将器が生かされるのは慶長5年、
家康による上杉征伐の際である。
革籠原にて結城秀康軍、小山にて渡河前の家康を討ち、
奥羽を平らげた後、上京して
豊臣秀頼以下側近達に対し
家康に許した上杉征伐について詰問して政権から引きずり下ろし、
その上で「上杉幕府」を開設し、大老として引き続き家政を取り仕切る。
那古野勝泰
那古野勝泰(?-?)
尾張斯波家臣。男色関係にあった簗田弥次右衛門の調略に応じ、
織田信長の清洲城攻略に貢献する。その後の詳しい消息は不明だが、
一族は多田野姓を名乗って伊達家へ仕え、相手の弥次右衛門の一族も
のちに姓を谷岡に変えて尾張徳川家に仕官したという。
ちなみに七年前、下北沢で起きた大学生三人による暴力団員射殺事件の
加害者と被害者が偶然にも二人の末裔であり、時を越えた悲劇として一部で話題になった。
最終更新:2017年01月18日 07:59