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福島正則

福島正則

戦国一の愚将といえば彼である。
豊臣恩顧でありながら関ヶ原の戦いでは我先に東軍につく。
岐阜城攻めでは手柄を全て池田輝政に奪われた。
関ヶ原の戦いでは今度は井伊・松平に一番槍を奪われ慌てて宇喜多勢に攻めかかるも
四度も押し戻され命からがら戦場を逃げ回る。
小早川秀秋により捕縛され京都大阪中を引き回されて打ち首となる。

古田重然

古田織部

名を重然といい、茶人、陶芸家として著名。
利休七哲の一人。
秀吉に仕え、師である利休が自害した後は後釜として権勢を誇る。
関ヶ原の戦いでは佐竹義宣の説得を試み、成功。
しかし、後の大坂冬の陣で、禿頭に反射した日光により、場所が大坂勢に露見。鉄砲により狙撃され、討ち死にした。
歴史研究家の間では、討ち死にした数少ない茶人として、頻繁にジョークのネタとして使われる。

北条氏直

北条氏直(1562-1616)

後北条家第五代当主。氏政の嫡男。
本能寺の変が起こると上野に侵攻、神流川の戦いで滝川一益を破り
更には信濃へ進軍したが、一度は従属させた真田氏の裏切りなどもあって
更なる領土拡張は失敗に終わる。
その後も徳川家と結んで真田と戦うが、最後まで崩せず、
結局豊臣秀吉の仲介が入るも遺恨を残すこととなる。

1590年、真田領を無断で侵略したことが発端となった小田原の役において、
豊臣の大軍を前に小田原城に篭城するが破れ、全領地を没収されたうえで高野山に謹慎処分となる。
しかし徳川家康の娘を娶っていた関係から早くに処分は軽減され、
1592年には伯耆に領土を与えられ大名として復活を遂げる。
朝鮮の役では弟の太田氏房と共に肥前名護屋に赴くが、
現地で真田の者と諍いを起こし秀吉・家康に諌められたともいう。
関が原の合戦では領国にとどまりながらも岳父家康の東軍につき、
宇喜田や毛利を牽制した功によって伯耆の残りと出雲の一部を与えられる。

1614年、大久保事件によって小田原藩主の大久保忠隣が改易処分を受けると、
氏直は相模・伊豆の全域・東駿河に転封となり、24年ぶりに小田原城に戻ることとなる。
1616年、大坂夏の陣に徳川方として参加するが、真田信繁隊と激突、戦死する。

北条氏政

北条氏政(1538-1615)
北条氏康の次男。兄の早世により家督を継ぐ。
苦労を知らずに育った氏政は覇気に欠けてどこか頼りなげで、
名君の誉れ高い父・氏康からすればどこか物足りなく見えたという。
氏康はある時、食事の席で汁を何度も飯にかけて食する氏政の姿を見て
「どれほど汁をかければ一度で済むのか分からないとは・・・」と嘆く。
しかし、それを聞いた氏政は「一度に汁をかけることもできますが、
それだと後から食べる飯がふやけてまずくなります。お父上の考えもご尤もかと思いますが、
私は民が作った飯を最後の一粒まで楽しみたいのです」と反論して氏康を唸らせる。
この件で氏康以下家臣団からも跡継ぎとしての信頼を得た氏政は、
父の死後も時流を見極めながら北条家の家名を守ることに務め、
その後の豊臣、徳川両政権下でも大大名として生き残ることとなる。


北条氏康

北条氏康

後北条氏の三代目。
父氏綱の後をついで領土拡大に励むが、その動きに脅威を感じた
扇谷、山内両上杉氏、古河公方足利晴氏ら連合軍の討伐を受ける。
氏康は連合軍の数の多さに恐れおののき、仕舞いには土下座で
全ての領地を返すことを条件に降伏を願るという情けない有様だった。
勿論この降伏は受け入れられず、一族ともども磔にされた。

細川政元

細川政元

細川勝元の子
その強大な権力で室町幕府を意のままに操った。
また、子沢山であった彼は、自分の息子達を他家の養子にすることで
その権力を地方にまで広げ、後の新政権の礎を築いた。



細川政元(1466~1507)

魔法の王国のプリンセス。魔法の王様から「人々を幸せにする」という試練を与えられ
管領・細川勝元の子ということになって人間界に住み着いた。
魔法庁のうっかりミスで男性の姿になってしまっているが、
政元は魔法の刀を抜き「マジカルダキニ・イズナノホー」という呪文を唱えることで
魔女っ子管領「プリンセス・ケイチョーイン」に変身できる。
ときどき落ち込んで家出したりするものの、悪い将軍を追い出したり、空を飛んでみたり、
有能な部下を集めて政治を委ねたりして大活躍する。
人間界の麗しいプリンスを三人も養子に迎えて幸せを手に入れたかに見えたが、
信頼していた仲間に裏切られてしまい、王様から与えられた試練を果たすことはできなかった。
終盤の「三人のプリンス編」の展開は愛欲まみれのどろどろしたもので、
「子供に見せられない」との批判が集まった。とくに、夢も希望も無い衝撃的な最終回は物議を醸した。

本願寺顕如

本願寺光佐顕如(1543~1592)
幼名を茶々。
法眼、僧正を務め、諱は光佐。
第10世証如の長子であり本願寺第11世。
織田信長との1570年以後10年に渡って大阪における
石山合戦で本願寺門徒衆を徴発して前線に送り込むほか、
毛利氏の援助を得て信長と徹底抗戦する。
自ら攻撃の鐘を鳴らし、檄を飛ばす様子は
全国各地の一向一揆を奮い立たせ、あっという間に
信長に勝利。

かねてより朝廷と姻戚を結んでいた事により、
中央の権力を一気に掌握。
史上、稀に見る速さで全国統一を果たす。
1592年、多くの信者に看取られながら死去。
一大宗教国家と化した日本は、以後、キリスト教と激しい
争いを展開。近代にまでその影響を及ぼす事となす。

本多忠勝

本多忠勝(1548~1584)

天正10年、小牧の役において
羽柴秀次を大将とした徳川領中入り隊を追尾した
家康本隊の進軍を助けるべく
家康本隊を追った秀吉本隊に対して小勢で挑発。
挑発の度が過ぎたのかたちまち殲滅を受け忠勝も討死を遂げる。

尚その後の戦況は
忠勝が一命を賭けて秀吉本隊の追跡を遅らせたものの
家康本隊は秀次以下中入り隊を打ち破ったものの
小城で兵を休めて鬼ごっこのつもりか
その夜のうちに小牧の陣に帰陣。

結果、みすみす敵大軍を領国寄りに残すことになり
秀吉軍が東に進軍すると慌てて追尾して合戦するも破れ
秀吉軍の当初の予定通りに三河蹂躙を許すことになる。

戦後、徳川氏は駿遠2国50万石、
関東平定後に相武80万石の一大名として存続することになる。

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最終更新:2017年01月18日 08:00