龍造寺隆信
円月 1529-1620
室町末期~江戸時代初期の禅僧。肥前出身。
7歳のとき仏門に入り、修行に励んだ。1589年南禅寺住職となる。
徳川家康に招かれてその政治顧問となり、キリスト教禁令、寺院諸法度、
武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定などに関与した。
「黒衣の宰相」「熊坊主」などと呼ばれ、よいイメージは持たれていないが、
少年時代に一族がことごとく謀殺されるような悲惨な原体験が
徳川泰平の世への新秩序作りに熱意を注がせたのだとする見方もある。
ルイス・フロイス
ルイス・フロイス(1532~1637)
リスボン生まれ。1563年に来日し布教活動と商業活動を
併行して進めて行くなかで日本を深く考察した「日本史」を著す。
織田信長の寵愛を受け、和泉岸和田五万石を与えられ、
「紅毛碧眼の大名」と言われた。
本能寺の変発生時は家康と共に堺でオペラを観劇しており、
家康の帰国を助けた。その後織田信孝の軍勢に加わろうとしたが
誅殺されそうになり逃亡。わずかな供廻りと供に
東上して来た秀吉の陣に駆け込み命拾いした。
九州征伐後は肥前唐津に移封され、公然と密貿易を行う一方、
海外の情報を逐一中央に知らせ、豊臣政権下で
年寄に匹敵する権力を得た。秀吉の死後関ヶ原の戦いが起きると
「アルマダが負けてショックだから」と所領に篭って中立を装い、
鍋島直茂が柳川城を攻めている隙に佐賀城を奪取し、
鍋島家が当初西軍であったことから幕府が強く出られないことを
奇貨としまんまと肥前一国を手中にした。
その後大坂の陣に際しては幕府からの出陣要請に対し
「ソレガシニホンゴワカリマセーヌ」と今更な言い訳で誤魔化し、
没年に起こった島原の乱の時にも同じ手で切り抜けた。
また島原城内に大量の武器弾薬を横流しして戦を長引かせ
討伐軍相手にあの手この手で荒稼ぎし巨万の富を得た。
乱が鎮圧されると逃げてきたキリシタン達を全て保護し、
「今ヨハネ」と崇められた。
同年、カステラを喉に詰まらせ死去した際には
全領民が三日間の喪に服したという。
六角義冶
六角義冶1545~1615
近江六角家の当主
不仲から家老を殺害し(ry
父から日置流弓術の奥義を授かり豊臣秀頼に弓術指南として従える。
大阪冬の陣では老齢ながらその弓術で数え切れないほどの敵を討ち、
鉄砲が主役の時代においても弓が使える事を日本中に知らしめた。
冬の陣が終わると秀頼に日置流弓術の奥義を授ける
そして秀頼が習得した直後にこの世を去った。
秀頼は義冶の死を心から悲しみ夏の陣において自ら出陣し、
その弓で多くの敵を討ったものの敗北が近いとみると最後の大坂城へ帰還
腹を斬り死んだ。
また大坂へ帰還するさい秀頼が天に向かい弓を撃つ姿が多くの兵に目撃されている。
六角義治(1545~1612)
六角義賢の嫡男として生まれる。
父に実権を握られ、義治自身も周囲に心配されるほどの凡庸な人物であったが、
重臣後藤賢豊らの度重なる諫言で開眼。
あえて当主に権力を集中させず、家臣団と共に国を運営する「六角氏式目」を制定した。
これは織田信長ですら為しえなかった近代的な民主主義の嚆矢と高く評価されたが、
時流の流れには抗えずに信長の軍門に下る事を決定したのも家臣団との合議であったのは歴史の皮肉である。
しかし、その先見性と家臣団の結束に目をつけた信長により、
義治は織田政権の政治顧問として辣腕を振るう事となった。
弓の名手としても知られ、上月城に篭城する同族の尼子勝久を救援に向かった際は、
吉川元春の眉間を見事に射抜き、毛利勢総崩れの切っ掛けを作った。
そんな義治を信長の嫡男信忠は文武の師として尊崇していたという。
高齢で一線を退いた後は信忠の子秀信の教育係を務めた。
1612年に邸内の弓場で衰えぬ剛弓を見せて一息ついていたが、
いつまで経っても動かない義治を案じた小姓達が声をかけた所、眠るように息を引き取っていたという。
最終更新:2017年01月18日 08:04