徳川家康
徳川家康(1543―1572)
三方ヶ原の戦いに大敗し籠城するも、
血迷うて自ら門を開けたため、あっさり敵に討ち取られる。
脱糞して戦死したことから「海道一のウ○コ野郎」と現在までバカにされる。
徳川家康(1543~1610)
三河出身。人質として暗い青春時代を過ごす。
そのことが後々人格形成や思考回路に大きな影響を及ぼすことになる。
織田信長の同盟者として寄生虫のようにして成長して行き、
やがて信長が死に秀吉の天下になるとこれに服従。筆頭奉行として重きを成す。
1598年秀吉が没すると、石田三成ら文治派の年寄達との確執が表面化し、
1600年遂に両派閥は軍事衝突に至るが、この時敵軍に属していた
吉川・小早川両家から寝返りの内諾を得たことに安心してしまい、戦場である
関ヶ原における布陣を疎かにしそのため敵軍に囲まれる形となってしまう。
どうせ寝返るので不利でもかまわないという価値観の逆転が産んだ間隙に
機運に聡い吉川広家・稲葉正成らが手をこまねいているはずもなく、
寝返りを拒否し布陣が誘うままに包囲攻撃してきたため、大敗北を喫してしまう。
混乱の中身一つで落ち延びたが、またもや悪い癖が出て盲点を狙うとばかりに
松尾山の麓の躑躅の陰にほっかむりをしてうずくまっている所を伊藤盛正の
手の者に捕縛され、市中引き回しの末隠岐島に流された。
しかしその半年後に旧臣達の助けによって島を出て出雲に上陸を果たし、
捕らえにきた青木一矩の軍勢を丸ごと取り込んでしまう等流石戦国の古豪と
言わんばかりの振る舞いを見せるが所詮燃え尽きる前の輝きであり、
宇喜多秀家率いる討伐軍に敗北を喫し、今度は八重山群島のどこかに流され、
その地で蝙蝠の天麩羅に中毒して没した。
家康死去の報を聞いた三成は「それは十年前なら一大事だが、今では些事だ」
と呟いたと言われている。
徳川家康(1543―1543)
生まれてまもなく便所に落ちて死亡
徳川家康
豊臣政権 五大老筆頭として太閤豊臣秀吉の死後天下の政務を預かる。
前田利家の死後専横を極めたとされているが、当時の風紀の乱れを粛清する為
やむをえない措置という意見もある。
彼が同じ五大老の上杉景勝に詰問の末謀反と断罪して会津征伐の軍を起こす。
しかし津川口、米沢口、仙道口の諸軍は日和見であり信夫口の伊達政宗が白石城を
攻め落とした以外は白河口から進軍した家康の軍のみが上杉と交戦
地の利を生かした戦法で上杉が終始優勢に戦を進め
佐竹の裏切りという虚報で見事に家康を敗走させたことから天下の形勢は一変する。
大阪ではこの気に専横な家康を排除すべく待機していた後詰の西国諸侯を
大阪留守居の大老毛利輝元が総括
家康に蟄居を促すべく西軍を起こす。
西軍は総力を挙げて伏見を落すと全軍を持って清洲に進軍
堀尾忠氏が西軍に鞍替えしたのをはじめ
伊達政宗も家康の命運尽きたと見て最上南部に兵を向けた。
佐竹と前田の軍も上杉と合流
ここに関東包囲の体制が整い
家康は関東から会津40万石に移され徳川の後に関東には上杉が入府する。
大老の地位も奪われ石高も6分の1に減り
仙台150万石の伊達と関東250万石の上杉、常陸下野100万石の
佐竹という油断のならない大国に囲まれたまま
失意の晩年をすごす。
徳川家康
織田信長の盟友であり「東海一の弓取り」と称された戦国末期の代表的な武将。
天下を平定した秀吉に唯一負けなかったとも言われており
秀吉の母親を人質に上洛した逸話は有名である。
しかし後世には、家康という人物は戦下手という評価が付きまとっている。
その最大の要因は関が原の合戦でそれまで戦下手と定評のあった三成に
敗北してしまっていること。
小早川秀秋と吉川広家の裏切りと内応を信用し不利な陣形のまま戦に望むという
無謀な賭けを行い逆に小早川と吉川に裏切られたこと。
などなどがあげられるが一番有名なのはこのエピソードであろう。
家康は戦場を命からがらに逃れ清洲に到着した時恐怖のあまり脱糞してしまった
のを焼き味噌と言い訳したのである。
戦後は豊臣家への謀反として切腹ではなく斬首とされたが
刑場に運ばれる際、のどの渇きを癒す為
白湯を所望したが、代わりに干し柿を出され、それで腹の調子を崩し
脱糞したという逸話も残っている。
武田信玄との合戦で同様のエピソードもあり
家康といえば「三河殿の焼き味噌」として知られている。
徳川家康
弱小大名の嫡男で、幼少時織田や今川に人質に出された
今川義元が桶狭間で死ぬと独立 その後少しずつ領土を広げていきその領土は100万石近くになった
苦しい時も織田との同盟を頑なに守り続けたその姿は日本一義理堅い男とされ、日本国民の鏡となっている
政治:85 統率:77 知力:79
徳川家康
戦国期の武将。幼名竹千代。
今川義元の人質として育ち、長じてからは織田信長の同盟者として
天下統一に貢献するが本能寺の変の後、台頭してきた羽柴秀吉と敵対
小牧長久手の戦いで秀吉の甥秀次に破れ
所領は岡崎15万石に落とされてしまう。
関東には秀吉の弟の秀長が入るが死去、空き地となった関東の問題や
蒲生氏郷の急死、朝鮮出兵の失敗で混迷する中
秀吉が死去、続く前田利家の死で
豊臣の天下の擾乱は決定的となる。
老練な家康は少ない石高ながら加藤清正や福島正則、伊達政宗らと婚姻を結び
三成を標的として一戦を仕掛け勝利する。
世にいう関が原の戦いである。
しかしわずか15万石の身代しかない徳川の基盤は脆弱で
空き地の関東に移るものの、その開墾は時間をとられ
征夷大将軍任官するも幕府として天下に号令するのも
難しい有様であった。
やがて徳川恐れるに足らずとみた黒田如水の挙兵に破れ
江戸幕府はわずか数年で瓦解
家康は江戸から奥羽への逃走中に命を落す。
徳川家康
幼い頃は織田・今川の人質として過ごし、桶狭間の戦い直後に岡崎城に帰り自立。
以後は織田と同盟を結び今川・武田と戦い、本能寺の変の混乱に乗じて三遠駿甲信を領する大大名となる。
1度は秀吉と敵対するも後に臣従し、小田原征伐の後に関東へ移封され、
豊臣政権下の大名の中で最高の地位を得る。
秀吉の死後、石田三成と対立し関ヶ原にて決戦を展開するも、
傍観していた小早川秀秋の陣へ不用意にも発砲し、秀秋の逆襲を誘発、大敗した。
家康は逃走中に捕らえられ、京都六条河原にて処刑された。
徳川家康(1542~1615)
大坂夏の陣にて真田隊の猛反撃に遭い、数度の本陣後退。
輿に乗っての退却中、真田方の将兵により
輿の外から槍を受け絶命し、遺体は近くの南禅寺に葬られる。
世上の同様を防ぐため、1年限定で小笠原秀政が影武者を勤め、
南禅寺にひっそり眠るは家康、東照宮で大いに祀られるは秀政・・・
徳川家康
今川義元の人質となり、そのまま元服し、従軍。
かの桶狭間の合戦では義元が討たれたことにビビり、脱糞。
その後、独立し、織田と同盟を結ぶ。
三河の一部を領土としていたが、突如三河一向一揆がおこり、多数の家臣が離反。
その時、家康の肛門から糞も離反していたという。
織田・徳川で朝倉攻めを行ったとき、浅井が裏切り挟撃をかける。
織田の殿、秀吉と共に逃走劇を繰り広げるが、脱糞してしまう。
姉川の戦いでは、織田の13陣のうち11陣破れたときき、ここでも脱糞。
これはやばいと思った家臣の活躍で難を逃れる。
忘れてはならないのが、武田信玄が攻めてきたときである。
三方が原で激突した両軍であるが、風林火山の猛攻に耐え切れず、史上最も有名な脱糞を行う。
もう二度と脱糞しないという意味もこめて、特異な肖像を残す。
その後、本能寺の変が勃発。堺にいた家康が本国に戻ろうとする。
この時、何度も自害しようとしたが、腹心・本多忠勝が諌めたため、脱糞で済ますことに。
本国に戻り、信長の仇をとろうと行軍していたが、尾張のあたりで、
秀吉が明智光秀を討ったことを危機、あまりの速さに驚き脱糞する。
豊臣秀吉の天下、家康は移封を命じられる。理不尽な移封であったが、脱糞により乗り越える。
その後、秀吉が死に、家康は関ヶ原で西軍と激突する。
内通していたはずの小早川秀秋が中々動かないため、焦燥のあまり脱糞。
このことを聞いた秀秋は糞を投げつけられたら困ると思い、内通を決意。
3年後、幕府を開く。
しかし、依然として豊臣家は存在しているため、秀吉の遺児、秀頼に危機感をおこし、2回に分けて豊臣討伐に出る。
通称冬の陣とされる戦いでは、まだ初陣であった木村重成が異様な抵抗を見せる。
謀略のために偽りの和議を結ぼうとするが、この重成に血判が薄いことを指摘され、思わず脱糞。
夏の陣では、大坂方の要、後藤基次を伊達軍が討ち取る。
窮地に追い込まれた大坂方は、家康軍と大激突することに。
この時、平和ボケしていた両軍であったが、毛利勝永と真田信繁の活躍が家康のケツに火を付けた。
本陣を何度も踏み荒らされる始末。家康は馬上で何度も腹を切ろうとしていたが、家臣に止められたので脱糞に留めたという。
最後はテンプラを食べて、珍しすぎて脱糞。
そのまま帰らぬ人となった。
徳川家康
元は願人坊主の子供が松平家の若殿の影武者になったのが始まりとされる。
武家と名ばかりの出身ながら、厚顔無恥にも源氏の血筋を名乗った。
織田信長の知遇を得たことで五ヶ国の大名になったが
同じく信長の知遇を得た豊国大明神秀吉公とは違い天下を見る器のなさを
露呈したのか、これが自力での限界だったという。
恐れ多くも天皇家と萩中納言家の出自である豊国大明神秀吉公と比べれば
父場の違いもあったのではともいわれている。
若かりしころの関白秀次公との戦で、実力ではなく運だけでうまく戦ったおかげで
実力以上の厚遇を得て関東255万石と大老職を許されている。
しかし厚顔無恥振りをさらけ出し秀吉公に大明征伐をするように
進め、豊臣家の没落を画策、しかし期待したのとは裏腹に
海外交易の利権や所領の拡大に成功したため日本国中の全大名武家で
唯一出兵を断っていた徳川家の立場は弱くなる。
にもかかわらず秀吉死没の際には五大老の筆頭などの身に過ぎた
立場を得ていたのを利用して豊臣家の天下の簒奪を画策
こともあろうに豊臣家の重鎮にして槍働きで織豊の関羽とされた
前田利家公の病没を狙い、前田に家康暗殺の嫌疑をかけたのを皮切りに
身のほど知らずにも軍神上杉謙信公の再来とされる
北国の竜上杉景勝公に戦争を仕掛けた。
世にいう慶長徳川の乱である。
当然ながら豊臣の懐刀石田三成、慶長の義将大谷吉継
人中の仏とされ予言で名高い安国寺恵瓊長老をはじめ
天下の三兵法、真田昌幸、直江兼続、黒田如水
謀将毛利元就の再来と恐れられる日之本六分一殿毛利輝元
南海の覇者島津義久義弘兄弟
四国の蓋長蘇我部盛親
などそうそうたる武将が西軍として立ち上がり
当然のごとく大敗する。
刑場に引き出される際に馬上で恐怖のあまりウンコをちびった
にもかかわらず老境にさしかかろうかという武将が半泣きで
「それは焼き味噌だ」といった故事は有名
松平元康(?―1560)
三河の豪族。義元の傘下に入る。
後、義元の上洛に従い討ち死に。
松平元康
松平元康(1543-1616)は、戦国期の武将。幼名竹千代。
今川家9代当主・義元の軍師として名高い太源雪斎の薫陶を受けて育ち、
元康もまた、義元の子・氏真の軍師として今川家を二人三脚で支える。
氏真の経済、外交戦略を自らが先頭となって実施し、
その執行力は、「当代随一の行政官」として名高い。
1615年、氏真の死を見て、摂津大坂に中国の毛利氏が進出すると、
老体に鞭打って出陣、これを駆逐した(大坂の陣)。
以後毛利家は、今川家との協調路線へと体制転換していく。
これは、ともすれば「文弱」とのそしりを受ける今川家の武力を天下に見せ付けるとともに、
後に今川家によって進められる事になる、全国統一事業の布石ともなった。
帰国後すぐに体調を崩し、翌年息を引き取った。死の間際、
「(西国の情勢を)心配していた氏真公に、よい土産話ができた」
と語ったという。
元平清康
松平広忠の子
今川義元から一字を授かるも、偉大な祖父の名のままでいたかったため苗字につけたらしい
徳川信康
徳川信康(1559-1623)
江戸幕府第2代将軍。徳川家康の嫡男。
1579年、織田信長に謀反の疑いをかけられるが、服部半蔵らの手によって替え玉が立てられて脱出して出家する。
本能寺の変後、徳川家に復帰して各地で転戦する。
1600年の関ヶ原の戦いでは真田昌幸の姦計に気付いて合戦前日に関ヶ原に到着する。
1605年、父から将軍を譲られる。
父の晩年には大久保忠隣の改易や大坂の陣を巡って父と確執があった。
父の死後、弟の駿河大納言秀忠と本多正純の謀略で元和の乱が起きる。これを打ち破って秀忠は信康の養嗣子となった実子・家光の手で討ち取られる。
間もなく、病を得て死去。一説には弟を討った事悔やんで倒れたのだと言う。
徳川秀忠
徳川秀忠
豊臣政権五大老筆頭徳川家康の嗣子としてしられ、
豊臣秀頼の生母淀の方の妹を妻としている。
父家康が豊臣家の名を利用して邪魔な上杉に謀反の嫌疑をかけ
おこした会津征伐の際に、上方で西軍の決起が起こるが
背後の上杉、伊達、佐竹ともいずれも後背定かならぬ相手であり
それを警戒した家康は中仙道を慎重に進み
秀忠に東海道を進ませた。秀忠が他の東軍諸侯の動揺を沈め
家康の到着を待つまで抑えておく為であった。
実際のところ真田の足止めや洪水のせいで家康の到着は大幅に遅れ
戦況の変化から関が原の合戦に縺れ込むこととなる。
しかし西軍に有利な鶴翼の陣形を取られ、秀忠軍は戦闘中に陣営を後退させ
(一説には退却の準備)本田正信の諌止により先陣を福島正則に許した他
徳川はほとんど戦闘に参加せず、逆に日和見(一説には内応していたとも)
していた小早川秀秋に鉄砲を乱射し、家康ならぬ秀忠の行動に怒った秀秋の
猛攻撃で東軍は総崩れとなる。
さらに、この後、本田正信が密かに豊臣恩顧の共倒れを意図して
徳川は戦争に参加しないので無事退却を許されたしという密書を大谷に送っていた
事実が発覚する。
家康は秀忠らの再戦すべしという主戦論を退け本田正信の押す和睦をとった。
しかし領土安堵の約束と裏腹に戦後徳川は津軽南部30万石に移封される。
実質10分の1への大減封であった。
家康は不運を嘆き剃髪し天海をなのる。
本田正信は、その功をもって3万石を与えるように指名されたが
徳川家で本多家は冷遇され万石取りながら大名格の扱いを許されなかった。
その後「猿がつき狸がこねし天下餅座りしままに食うは○○」
の歌で知られるように、1年続いた混乱を収拾した○○が徳川の後の
江戸に幕府を開設
大阪の陣では徳川家は10分の1以下の石高になったにもかかわらず
最大級の兵力を送り、
豊臣家の滅亡を見届けたあとは、徳川家は江戸幕府に最も警戒された外様
として尾張の城建設、河川補修などにかりだされていく。
徳川の家臣が正月の挨拶で「関東征伐の儀どうしましょうと?」
たずねさせ秀忠は「時節でない」と返答する挨拶はあまりに有名で
秀忠のことを別名「まだだよ公」と称するのは、ここからきている。
徳川秀忠(1579-1623)
家康の三男。徳川幕府二代将軍。
温厚篤実な性格で江戸幕府の基礎を固めるが、1623年、東照宮参拝の途中に立ち寄った宇都宮城で
寝室に仕掛けられた釣り天井の罠に押し潰されて暗殺される。
首謀者である宇都宮城主・本多正純はすぐさま幕府の討伐を受けて滅ぼされるが、
将軍の呆気ない頓死で幕政は大混乱を来し、江戸幕府が三代で終わる原因となる。
豊臣秀吉
羽柴秀吉(1536―1598)
尾張中村出身。出自は貧農説が高い。
織田信長につかえ数々の手柄を立て長浜城主にまでなる。
信長が本能寺の変で戦死し明智光秀追討のために京都へ向かうも、
背後から追ってきた小早川隆景軍の猛攻を受けて討ち死にする
木下秀吉 1536-1570
織田家家臣
仕官を求め国を歩くも出自が卑しいために叶わなく
一時は乞食にまで身を落としていたが
信長に戦の才を見出され従うようになった
浅井長政の離反で絶体絶命の危機の時は
即座に殿を希望し、三千の兵と共に三万もの浅井朝倉連合軍と激しく戦った
殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら
敵陣に突撃し討ち死にした。
統88
知71
政21
朝松元吉(木下秀吉)
1536~1575
今川家臣。鳴海城主。織田信長(>>1)の小姓出身とも言われる。弟の真吉(秀長)と共に義元の雅噺衆を勤めながら、故・雪斎上人の後任軍師的な働きを見せる。刈谷事件に連座し、政敵・松平元康に謀られ自害した。茶人で著名。
木下藤吉郎(?-1561)
名は秀吉・久吉など諸説あり。織田信長の軍師。美濃奇襲戦を立案したが、作戦に失敗。その後
逃亡し、放浪の後足利義昭をそそのかして挙兵させ槙島城に篭城したが
敗れ、京都四条河原に於いて斬首された。良質な資料に名が見えないので
存在が疑問視されている。
平林秀吉(1536-1598)
尾張国中村の百姓として生まれ、はじめは木下藤吉郎と名乗る。
織田信長に仕えて次第に頭角を表し、平林秀吉と改名した。
重臣・平手政秀と林秀貞から一字ずつ字をもらって苗字としたという。
ほかの苗字候補としては、柴久間、佐々間、丹田、柴手、など。
木下藤吉郎(1536―1597)
法名は秀吉(しゅうきち)、号を夢幻斎と称する。
安土桃山時代の茶人。
型にとらわれない天衣無縫な茶道で知られる木下流の始祖。
尾張中村出身。
地元の権力者である織田尾張守信長の茶道仲間であったが、信長の勢力拡大とともに門弟の数を増やす。
大納言となった信長の天下統一の際、特別に造らせた黄金の茶室で茶を点て、侘び茶を極めようとするライバル千利休に「権力におもねる俗物めが」と毒つかせたエピソードは有名。
信長の死後も、後継者の右大臣信忠の茶道の師として織田家中に影響力を持ったが、若くして信忠が病死したため織田の家督争いに否応なしに巻きこまれる事となる。
一般に「清洲会議」と呼ばれる織田家督相続問題では、内大臣信雄派、左中将信孝派、信忠嫡男三法師の鼎戦の中で、後の岐阜中納言信秀、三法師を支持。
家督は信雄の相続で決定したが、藤吉郎は三法師を支持した事で新たな天下人の不興を買ってしまう。
これが遠因となったか、後に信雄の勘気に触れて藤吉郎は山崎の地に閉門となる。
弟子である秀吉七哲の大名、福島正則(月翁)や加藤清正(永運斎)、糟屋武則(真雄)らの取りなしための奔走の甲斐もなく、信雄に切腹を命ぜられ、呼び出された二条城内で藤吉郎は見事な作法で切腹したという。
閉門中、藤吉郎が庭に生えていた竹で茶匙を作り秀吉七哲に与えたのが「山崎の七本匙」であるが、現存するのは肥後細川家に伝わる国宝の「銘 猿」の一本のみである。
尾張国愛知郡中村の藤吉郎(生没年不詳)
年代はよくわからないが戦国時代の頃に大言雑言をはく猿に似たご先祖様が居たらしい・・
と我が家に伝わる。
まあ、名前が伝わってる位だから地元じゃそこそこ有名なご先祖さまだったのかも知れない。
木下秀吉(1936年~?年)
今川義元配下。元は乞食であったという。
義元配下の一武将が彼の才覚を大いに評価し、推挙された。
また、元々下層階級の出身であったから領民には優しかったと言われ、
それと同時に様々な知略が伝承として地元に残っては居るものの、
出自が低かった為、500石以上の出世は叶わなかった。
無論、元はただの乞食であった事を考えれば大出世とも言うべきであり、
乞食が禄を得るまでの出世した事実そのものに、乱世の妙が感じられる。
今川家滅亡後は織田家に降伏し、以降、その領地を平穏に納めた。
木下道糞(1536~98)
尾張の人。織田家臣。諱は秀吉。
軽卒の出身であるといわれるが、機知に富むところを気に
入られて織田信長に仕官し抜擢された。
なかでも、城の塀の修理を期限内に普請した逸話、墨俣に
一夜城を築いた逸話はよく知られる。安土城の作事奉行に
も起用され、その功により尾張岩崎城主となる。
しかし、天正8年に、林秀貞・佐久間信盛・安藤守就ととも
に突如信長に追放された。
追放の理由は定かではないが、天正8年4月に鷹狩に出た信長
が、近江の伊庭山において目の前に突如大石が落石するとい
う事故に遭遇したという。山上で秀吉の家臣が普請していた
のである。幸い事故にはならなかったが、信長はこの事故に
ついて秀吉を深く恨んでいたという。
追放後は秀吉は高野山に上って隠棲するも、本能寺の変後に
罪を許されて織田信雄に仕官し、旧領を回復したという。
また、一時は織田家重臣の柴田・丹羽にあやかり羽柴の姓を
用いていたが、追放の際に恐れ多いということで旧姓の木下
に復した。隠棲後は木下道糞と名乗るも、これは自らを卑下
したものと言われる。
豊臣秀次
三好信吉(1568-1600)
※後の羽柴秀次・豊臣秀次
羽柴秀吉の甥(姉の子)で三好家に養子となり
近江40万石を拝領し羽柴秀次と改名する。
長久手の戦いでは奇襲攻撃を見抜き、若江八人衆とともに猛攻を仕掛け
徳川家に多大は損害を与える。
四国征伐や小田原征伐において軍功を上げ、
織田信雄旧領尾張国と北伊勢国の100万石を治める。
1591年秀吉嫡子鶴松が亡くなり、関白を譲られる。
1593年秀吉に秀頼が生まれたことで秀吉との関係が悪化する。
前野長康らの説得により、関白職を秀吉に返上に隠居する。
謀反の疑いありとされ秀吉により、北伊勢12万石に減封される。
関が原の合戦は東軍につき、西軍の伊勢進行軍により戦死する。
豊臣秀長
羽柴秀長(1540-1591)
美濃守、小一郎。
もとは尾張中村の百姓であったが、兄秀吉に口説かれ、兄の家臣となる。
ところが1570年4月、兄が金ヶ崎の戦いで戦死。兄に付随して与力であった
蜂須賀正勝・竹中重治ら美濃国人衆も戦死したため、羽柴軍団は解体され、
秀長が家督を相続したものの、丹羽長秀家臣となる。
文武両道に秀で、かつ人格者であったため諸将の信頼も厚かったが、
兄のような派手さがなかったため常に微妙な地位にとどまった。
1577年、丹羽家与力のまま但馬出石城6万石の主となる。
1582年、本能寺の変の折には優柔不断な丹羽を説得して攝津諸大名に
明智討伐の兵を挙げるよう遊説したが、その間に徳川家康が小牧長久手で
明智を討ってしまったため、そのまま徳川家に従属。
その後は四国征伐・九州征伐などで武功を上げ、家康からも
「律儀の美濃殿」として評価を得、地味に加増を重ねた。
1591年、大和郡山20万石の城主として病没。
余りにも意外性のない生涯であったが、茶坊主から石田三成を育て上げ、
徳川幕府の遠国奉行として幕政に重きをなさしめたことは特筆されて良い。
妻は兄の妻、寧々。美人で有名であった。
一説には兄が浮気者で兄嫁を蔑ろにしているのを
見かねた秀長が、兄に無謀な殿を進言させ、わざと討ち死にさせて妻を
奪ったともいい、甚だしい説にいたっては兄に粗暴のふるまいがあった
ことを憤った秀長が、近習加藤虎之助に命じて兄を切り殺したともいう。
寧々と秀長は相思相愛で、秀寄・秀明・秀継・郷姫の
三男一女が生まれている。
豊臣秀頼
羽柴(豊臣・徳川)秀頼
江戸初期の大名。大和郡山藩祖。
豊臣秀吉の第二子として生を受ける。母は浅井氏(淀殿)であったが、
生まれてすぐ北政所の元に送られ、柳生石舟斎に剣術を学び、
質実剛健な人物となった。大柄な彼は体格を生かし、自ら
豊臣新陰流を創始し、石舟斎から絶賛されたという。
幼い頃から英明を謳われた彼は、時代の趨勢は既に徳川幕府に傾いて
居る事を知っており、二条城で徳川家康と会見した時、大坂城返上を明言。
家康をあっといわせる。大野治長や生母浅井氏(淀殿)はこの
発言に激怒し、1615年秀頼の子国松を秀国と改名させて
後を継がせ、豊臣政権復活を図るが、機先を制した秀頼が
豊臣新陰流の剣を以って大野を斬殺。秀頼の意を受けた片桐且元が
淀殿を出家させ、計画は頓挫する。
大坂城を去った秀頼は、大和柳生に於いて愛妻・千と伴に
しばらく隠棲していたが、家康は彼の英明さを愛し、
羽柴秀長の家を継がせ大和郡山一万石の捨扶持を与えた。
その後、柳生宗矩に推挙され堺奉行となり、秀吉により破壊された
堺の復興に尽力し、父秀吉が猿とあだ名されていたことに因み猿飛佐助という
偽名を使って真田信繁・大岩(長曽我部)祐夢と伴に諸国を巡回し、
悪人を退治するなど、多方面で活躍した。
徳川姓を賜り御三家に準ずる扱いを受け、石高は最後には15万石に達している。
豊臣秀頼 (1593年~1672年)
太閤と呼ばれた豊臣秀吉の次男。秀吉の死後、家臣である徳川家康の乱などがあったが
それらも無事平定され、1605年に関白に叙せられる。
また1609年には征夷大将軍に任命される(様々な工作などが噂されている)。
1612年、五大老筆頭の石田三成を中央から遠ざけ自ら独裁政治を開始する。
翌年反旗を翻した石田・小西同盟軍を討ち果たす。
事あるごとに朝廷内に介入し、何度も公家からの毒殺の危機にあうが回避。
1620年には父秀吉の悲願であった唐入りにチャレンジするも
自らの腹痛により方針を転換。国中の医師にお触れを出し治療を命じる。
大の南蛮かぶれでもあり、大坂城をビッグキング城と改名。
周囲には自分をサーと呼ばせていたという。
さらに嫡男にジョン、次男にポール、三男にジョージと名づけ
愛犬にはリンゴという名をつけたことでも有名。
1639年、嫡男ウェルドに将軍職を譲り隠居。大御所として権勢を誇る。
秀頼の女狂いは父秀吉以上に有名で国中の美女(10歳~25歳)を集めさせ
南蛮伝来の衣服を元に考え出した「せいらあ服」と呼ばれる衣類を身につけさせ
ビッグキング城には500人近い美女が生活していたという。
家臣の妻や娘に手を出すことは日常茶飯事であったという。
1672年、14歳の南蛮人のレイとのマグワイの最中に死亡。享年79。
最終更新:2017年01月18日 07:56