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攝津正 - (2012/10/29 (月) 17:24:10) の1つ前との変更点
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&big(){&color(red){♪一生忘れられないよ きっときっと抑える50番〜}}
攝津正
背番号50 投手 右投右打
-愛称は「せっつん」。秋田県出身。清々しいほど口下手。
-「攝津」というのは旧字体であるため、新聞などでは「摂津」と表記されることもある。
-豊富な球種と、ダルビッシュから球界随一と称されるコントロールが武器の右腕。ホークス名物新人セットアッパーの酷使無双を耐え抜いた&bold(){「平成の鉄腕」}。・・・[[アレ?>大場翔太]]
-プロ入りを狙うも、毎年のように指名を見送られていたが、コントロールを鍛えて迎えた2009年のドラフト5巡目指名で晴れて入団。
-その言動の数々から、たかせんでは[[細川>細川亨]]大好きっ子キャラ認定をされている。…なんて思っていたら、2012年シーズンは捕手・[[高谷>高谷裕亮]]の時は調子をブチ崩し、無愛想3割増し。捕手・細川の時はわかりやすく調子が良く、ヒロインでもインタビュアーに&bold(){「恋女房の細川さんが」}と認定を受けるまでになった。高谷ェ…
-2009年は新人ながら開幕からセットアッパーに指名され、勝利の方程式「SBM」の「S」として70試合に登板。防御率1.47、102奪三振、39ホールドと新人離れした成績を残し、新人王、最優秀中継ぎ投手に選ばれる。シーズン後半は攝津の名前がコールされるだけで大歓声が起こる程の無双っぷりであった。
-2年目の2010年もセットアッパーとしてフル回転。前半はいつかぶっ壊れてしまうのではないかとファンが心配するほどのハイペース(2試合に1回以上)で登板を重ねる。過去の多くの前例もありさすがに首脳陣もマズいと思ったのか攝津の代わりになるセットアッパーを探し始め、そこから台頭してきた[[甲藤>甲藤啓介]]、[[森福>森福允彦]]らと共に「SBM48」を始めとする12球団最強の中継ぎ軍団を結成。おかげで攝津の登板数もある程度減り、この年は&bold(){前年を超える71試合に登板}した。・・・あれ?
-なお、2010年の成績は防御率2.30、89奪三振、38ホールドと1年目より若干成績が落ちている。鉄腕と言えど2年目のジンクスからは逃れられなかったもよう。
-2011年は2年連続70試合以上登板による疲労を心配した首脳陣が、右の先発不足もあり攝津を先発で使う事を明言。勝利の方程式を崩す事は大きな賭けであったが、攝津はその期待に応えて1年間ローテを守り通し、14勝8敗、防御率2.79と二桁勝利を達成した。
-日本シリーズでは第3戦に&bold(){先発}で登板。相手打線を7回1失点に抑え、連敗をストップさせた。かと思えば中1日で&bold(){中継ぎ}として登板。さらに第7戦ではまさかの9回表2アウトから&bold(){抑え}として登板。たかせん民(と[[馬原>馬原孝浩]])の度肝を抜く中、きっちり抑えて胴上げ投手に。
-2012年は[[杉内>杉内俊哉]]、[[和田>和田毅]]、[[ホールトン>D.J.ホールトン]]がいなくなった事により事実上鷹のエースとしてシーズンを迎えた。本人もエースとしての自覚があるようで、よくエースらしさ、特に完投を意識した発言をしている。
-2012年8月1日には、故郷秋田の地で初の凱旋登板。家族や親戚による応援団&bold(){「攝津正君を励ます会」}の前で、見事完封&10勝目をあげる。ヒロインでは攝津比で笑顔増量。「九州でも頑張っている秋田県人がいるので応援して下さい」とファンに挨拶した。
--ちなみに決勝打を放ったのは[[細川>細川亨]]であったため、「細川は『攝津正君を励ます会』の名誉会長」と勝手に認定する住民もチラホラ。
-2012年8月28日に、自身2度目のスミ1完封勝利を決める(無四球完封は自身初)。初回に挙げた1点だけの「スミ1完封」2度マークは、パでは西崎(日本ハム)以来22年ぶり。
-2012年シーズンは17勝5敗という、おいおいゲームかという結果を残し、最多勝、最優秀投手の2冠を受賞した。防御率でも2位をマーク。最優秀中継ぎと最優秀投手を一人の選手が受賞したのは史上初。CSでは、序盤に足をひねる(捻挫)も、中継ぎの肩を作る時間を稼ぐため治療後続投。打たれて降板するも、その気迫に自他球団ファンから拍手が送られた。
-すぽるとの『2011年プロ100人が選ぶコントロールNo.1』にて田中将大(鷲)、岸田(檻)などの選手から16票を集め3位にランクイン!ちなみに攝津本人も、田中マーくん(同ランキング2位)の名を挙げたため相思相愛状態に。
**攝津の見分け方
:先発攝津|鷹のエース
・タイミングの取りにくい投球フォーム、精密にコントロールされたストレート、鋭く落ちるシンカー、縦に大きく割れる100 km/h台のカーブ、普通のスライダーにより打者のタイミングを外す技巧派投手。よく出塁されるが、連打は許さない。そのため投球数は多く、QSは非常に多いが完投数は少ない。
・基本は7回2失点。誤差は±2回、-2~+1失点。攝津が勝てるかどうかは打線とリリーフに懸かっている。打線が3点取れば大体白星がつく。良く言えば安定感がある、悪く言えばエースらしくない投球。
・ごくまれに悪い攝津が顔を出し、5回持たずに5失点以上の大炎上で試合をぶち壊して帰ってゆく。2011年登板回数は3回(4/16西武戦、7/17ロッテ戦、8/21楽天戦)。この人のせいで2011年は普段摂津をみないセリーグのファンが防御率詐欺(こいつならいける!→ごめんなさい)にあってしまった。
:セットアッパー攝津|鷹の中継ぎエース
・高いコントロールで常にストライク先行のピッチングをする。3球投げたら大体相手打者は追い込まれている。
・ピンチでも全く動じない鋼の心臓を持つ。マウンド上では常にポーカーフェイスで淡々とピンチを切り抜けていく。
・奪三振率がかなり高い。相手を追い込んだら140km/h後半のストレートで内外角いっぱい見逃し三振が彼の真骨頂。とにかく美しい。
--ただし、&bold(){先発小椋-中継ぎ攝津}のリレーが発生すると、高確率で&bold(){攝者}に変身。そのため、この方程式が起こるとたかせんがざわざわする。
:抑えの攝津|苦しい時の攝津頼み
・ごくまれに登板。するらしい。中継ぎ時代にも2010年に初セーブを記録していたが、なんと2011年の日本シリーズ第7戦では9回表2アウトから登板。たかせん民の度肝をブチ抜きながら、ゲームセッツを決める。
・攝津の登場曲と言えば、ET-KINGの「ギフト(攝津ver)」だが、歌詞の「一生忘れられないよ。きっときっと&bold(){抑える50番}」は、「打者を抑える」意と「日本シリーズに抑えで登板」を示唆するダブルミーニングであったのか。
:普段の攝津|ホークスのイケメン軍団の一人。
・恵まれた昭和のハンサム顔に反して、モテすぎ対策なのか&bold(){残念な髪型}。ヒロインの際は、大抵スレの住人にこの件で突っ込まれる。髪型どうこうの前に&bold(){髪の量がアレ}とか言ってはいけない。
**エピソード
・自称「釣り人」。釣り好きというか釣りバカらしく、[[馬原>馬原孝浩]]とは釣り仲間でもあり、2010年には「優勝して一緒に釣りに行きたい」と答えていた。
--トレーナー室でも釣りの本を&bold(){正座した状態で真剣に読む}らしい。
--12球団対抗の自慢話対決トーナメントで他球団の選手が野球の記録を自慢する中、80cmのスズキを釣り上げたことを自慢し見事落選。
・別府に馬原、攝津、水田、杉内で釣りに行った際 釣り経験者は攝津と馬原だけだったので釣り方を教えるときにぅまー君は「ほら、これで引っ張っても取れないっす」と結び方を教えるほか、最初はみんな初心者なのでぅまー君は全然釣りをせず、揚句の果てには魚をさばきだす心の広さを見せる中、攝津は&bold(){無関心}で黙々と釣りをやっていたという。
--水田「あっ!これはちゃんと書いといて。最初は攝津に教えてもらいながら攝津の横でやってたんよ。そしたらオレが先に(攝津が)狙ってたやつを釣ってしまって。それから攝津全然しゃべってくれへん。教えてくれへん。」&br()杉内「あいつは意外とそういうのありますからね(笑)」
・ポッキーにはかなりこだわりがあるもよう。
・2010年オフは、2年連続中継ぎでの活躍ぶりから契約更改時に球団から1億円で交渉されるも、&bold(){「3年続けてやっと一人前の世界ですから」}とこれを固辞。外も中もぐうの音も出ないほどのイケメンである。
--同じく、篠原貴行らがかつて付けた背番号16も提案されるが「背番号50で覚えてもらったから」と固辞している。ちなみに、その断った「16」は巡り巡って[[この人>小椋真介]]の元へ。
・喋るのがちょっぴり苦手(シャイ?)で、2010年優勝時にインタビューを受けた際、[[小久保>小久保裕紀]]から「いいかげん慣れろや!」「もっと喋れや!」などのツッコミを入れられていた。
--日本一が決まった瞬間も最後に三振を取ったあといつものように小さくガッツポーズ、その後どうしていいのかわからずキョロキョロ、抱きつくのを待っている[[細川>細川亨]]に&bold(){歩きながら}近付きハイタッチを失敗。その、なかなか見られないテンションの低い胴上げ投手の様子に、後に優勝インタビューに同席した[[かぷてん>小久保裕紀]]から&bold(){「なんや、あの控えめな喜び方は!」}とツッコミを受けている。
・酔うとテキトーになり、年上の[[細川>細川亨]]のことを&bold(){「とおるちゃん」}と呼ぶとのこと。
--「月刊ホークス」にて細川と3ページに及ぶ居酒屋対談をした際は、眠かったこともあるのか(※前日釣りに行ったらしい)早々と「今年のことはさっき良いシーズンだったって話したじゃないですか。これで今回の対談は終了ということで」と、&bold(){1ページ目上段}にしていきなり切り上げようとする企画潰しな一面も。
・アジアシリーズでは、&bold(){台湾受けするイケメン枠}として[[川﨑>川崎宗則]]と共に台湾メディアに報じられたとか。
・華のあるポジションより堅実な渋いポジションにあこがれるらしく、もし他のポジションにつけるのならショートよりもセカンドをやりたいらしい。ちなみに好きな野球選手は「バントの神様」こと川相昌弘で、「2011年シーズンで一番嬉しかったことは?」と尋ねられた際には、交流戦でのバント2回成功と答えている。
-社会人時代はJR東北に所属し、駅員の仕事をこなしていたことも。当時、ファンクラブがあったとの噂もある。
-ハムの森内は社会人時代の後輩で、目標にもされている。交流戦で打たれた時に攝津へ連絡するも、「それくらいで連絡するな」と愛のムチをお見舞いされたのだとか。
&big(){&color(red){♪一生忘れられないよ きっときっと抑える50番〜}}
攝津正
背番号50 投手 右投右打
-愛称は「せっつん」。秋田県出身。清々しいほど口下手。
-「攝津」というのは旧字体であるため、新聞などでは「摂津」と表記されることもある。
-豊富な球種と、ダルビッシュから球界随一と称されるコントロールが武器の右腕。ホークス名物新人セットアッパーの酷使無双を耐え抜いた&bold(){「平成の鉄腕」}。・・・[[アレ?>大場翔太]]
-プロ入りを狙うも、毎年のように指名を見送られていたが、コントロールを鍛えて迎えた2009年のドラフト5巡目指名で晴れて入団。
-その言動の数々から、たかせんでは[[細川>細川亨]]大好きっ子キャラ認定をされている。…なんて思っていたら、2012年シーズンは捕手・[[高谷>高谷裕亮]]の時は調子をブチ崩し、無愛想3割増し。捕手・細川の時はわかりやすく調子が良く、ヒロインでもインタビュアーに&bold(){「恋女房の細川さんが」}と認定を受けるまでになった。高谷ェ…
-2009年は新人ながら開幕からセットアッパーに指名され、勝利の方程式「SBM」の「S」として70試合に登板。防御率1.47、102奪三振、39ホールドと新人離れした成績を残し、新人王、最優秀中継ぎ投手に選ばれる。シーズン後半は攝津の名前がコールされるだけで大歓声が起こる程の無双っぷりであった。
-2年目の2010年もセットアッパーとしてフル回転。前半はいつかぶっ壊れてしまうのではないかとファンが心配するほどのハイペース(2試合に1回以上)で登板を重ねる。過去の多くの前例もありさすがに首脳陣もマズいと思ったのか攝津の代わりになるセットアッパーを探し始め、そこから台頭してきた[[甲藤>甲藤啓介]]、[[森福>森福允彦]]らと共に「SBM48」を始めとする12球団最強の中継ぎ軍団を結成。おかげで攝津の登板数もある程度減り、この年は&bold(){前年を超える71試合に登板}した。・・・あれ?
-なお、2010年の成績は防御率2.30、89奪三振、38ホールドと1年目より若干成績が落ちている。鉄腕と言えど2年目のジンクスからは逃れられなかったもよう。
-2011年は2年連続70試合以上登板による疲労を心配した首脳陣が、右の先発不足もあり攝津を先発で使う事を明言。勝利の方程式を崩す事は大きな賭けであったが、攝津はその期待に応えて1年間ローテを守り通し、14勝8敗、防御率2.79と二桁勝利を達成した。
-日本シリーズでは第3戦に&bold(){先発}で登板。相手打線を7回1失点に抑え、連敗をストップさせた。かと思えば中1日で&bold(){中継ぎ}として登板。さらに第7戦ではまさかの9回表2アウトから&bold(){抑え}として登板。たかせん民(と[[馬原>馬原孝浩]])の度肝を抜く中、きっちり抑えて胴上げ投手に。
-2012年は[[杉内>杉内俊哉]]、[[和田>和田毅]]、[[ホールトン>D.J.ホールトン]]がいなくなった事により事実上鷹のエースとしてシーズンを迎えた。本人もエースとしての自覚があるようで、よくエースらしさ、特に完投を意識した発言をしている。
-2012年8月1日には、故郷秋田の地で初の凱旋登板。家族や親戚による応援団&bold(){「攝津正君を励ます会」}の前で、見事完封&10勝目をあげる。ヒロインでは攝津比で笑顔増量。「九州でも頑張っている秋田県人がいるので応援して下さい」とファンに挨拶した。
--ちなみに決勝打を放ったのは[[細川>細川亨]]であったため、「細川は『攝津正君を励ます会』の名誉会長」と勝手に認定する住民もチラホラ。
-2012年8月28日に、自身2度目のスミ1完封勝利を決める(無四球完封は自身初)。初回に挙げた1点だけの「スミ1完封」2度マークは、パでは西崎(日本ハム)以来22年ぶり。
-2012年シーズンは17勝5敗という、おいおいゲームかという結果を残し、&bold(){最多勝、最優秀投手の2冠、そして沢村賞を受賞}。防御率でも2位をマーク。最優秀中継ぎと最優秀投手を一人の選手が受賞したのは史上初。CSでは、序盤に足をひねる(捻挫)も、中継ぎの肩を作る時間を稼ぐため治療後続投。打たれて降板するも、その気迫に自他球団ファンから拍手が送られた。
-すぽるとの『2011年プロ100人が選ぶコントロールNo.1』にて田中将大(鷲)、岸田(檻)などの選手から16票を集め3位にランクイン!ちなみに攝津本人も、田中マーくん(同ランキング2位)の名を挙げたため相思相愛状態に。
**攝津の見分け方
:先発攝津|鷹のエース
・タイミングの取りにくい投球フォーム、精密にコントロールされたストレート、鋭く落ちるシンカー、縦に大きく割れる100 km/h台のカーブ、普通のスライダーにより打者のタイミングを外す技巧派投手。よく出塁されるが、連打は許さない。そのため投球数は多く、QSは非常に多いが完投数は少ない。
・基本は7回2失点。誤差は±2回、-2~+1失点。攝津が勝てるかどうかは打線とリリーフに懸かっている。打線が3点取れば大体白星がつく。良く言えば安定感がある、悪く言えばエースらしくない投球。
・ごくまれに悪い攝津が顔を出し、5回持たずに5失点以上の大炎上で試合をぶち壊して帰ってゆく。2011年登板回数は3回(4/16西武戦、7/17ロッテ戦、8/21楽天戦)。この人のせいで2011年は普段摂津をみないセリーグのファンが防御率詐欺(こいつならいける!→ごめんなさい)にあってしまった。
:セットアッパー攝津|鷹の中継ぎエース
・高いコントロールで常にストライク先行のピッチングをする。3球投げたら大体相手打者は追い込まれている。
・ピンチでも全く動じない鋼の心臓を持つ。マウンド上では常にポーカーフェイスで淡々とピンチを切り抜けていく。
・奪三振率がかなり高い。相手を追い込んだら140km/h後半のストレートで内外角いっぱい見逃し三振が彼の真骨頂。とにかく美しい。
--ただし、&bold(){先発小椋-中継ぎ攝津}のリレーが発生すると、高確率で&bold(){攝者}に変身。そのため、この方程式が起こるとたかせんがざわざわする。
:抑えの攝津|苦しい時の攝津頼み
・ごくまれに登板。するらしい。中継ぎ時代にも2010年に初セーブを記録していたが、なんと2011年の日本シリーズ第7戦では9回表2アウトから登板。たかせん民の度肝をブチ抜きながら、ゲームセッツを決める。
・攝津の登場曲と言えば、ET-KINGの「ギフト(攝津ver)」だが、歌詞の「一生忘れられないよ。きっときっと&bold(){抑える50番}」は、「打者を抑える」意と「日本シリーズに抑えで登板」を示唆するダブルミーニングであったのか。
:普段の攝津|ホークスのイケメン軍団の一人。
・恵まれた昭和のハンサム顔に反して、モテすぎ対策なのか&bold(){残念な髪型}。ヒロインの際は、大抵スレの住人にこの件で突っ込まれる。髪型どうこうの前に&bold(){髪の量がアレ}とか言ってはいけない。
**エピソード
・自称「釣り人」。釣り好きというか釣りバカらしく、[[馬原>馬原孝浩]]とは釣り仲間でもあり、2010年には「優勝して一緒に釣りに行きたい」と答えていた。
--トレーナー室でも釣りの本を&bold(){正座した状態で真剣に読む}らしい。
--12球団対抗の自慢話対決トーナメントで他球団の選手が野球の記録を自慢する中、80cmのスズキを釣り上げたことを自慢し見事落選。
・別府に馬原、攝津、水田、杉内で釣りに行った際 釣り経験者は攝津と馬原だけだったので釣り方を教えるときにぅまー君は「ほら、これで引っ張っても取れないっす」と結び方を教えるほか、最初はみんな初心者なのでぅまー君は全然釣りをせず、揚句の果てには魚をさばきだす心の広さを見せる中、攝津は&bold(){無関心}で黙々と釣りをやっていたという。
--水田「あっ!これはちゃんと書いといて。最初は攝津に教えてもらいながら攝津の横でやってたんよ。そしたらオレが先に(攝津が)狙ってたやつを釣ってしまって。それから攝津全然しゃべってくれへん。教えてくれへん。」&br()杉内「あいつは意外とそういうのありますからね(笑)」
・ポッキーにはかなりこだわりがあるもよう。
・2010年オフは、2年連続中継ぎでの活躍ぶりから契約更改時に球団から1億円で交渉されるも、&bold(){「3年続けてやっと一人前の世界ですから」}とこれを固辞。外も中もぐうの音も出ないほどのイケメンである。
--同じく、篠原貴行らがかつて付けた背番号16も提案されるが「背番号50で覚えてもらったから」と固辞している。ちなみに、その断った「16」は巡り巡って[[この人>小椋真介]]の元へ。
・喋るのがちょっぴり苦手(シャイ?)で、2010年優勝時にインタビューを受けた際、[[小久保>小久保裕紀]]から「いいかげん慣れろや!」「もっと喋れや!」などのツッコミを入れられていた。
--日本一が決まった瞬間も最後に三振を取ったあといつものように小さくガッツポーズ、その後どうしていいのかわからずキョロキョロ、抱きつくのを待っている[[細川>細川亨]]に&bold(){歩きながら}近付きハイタッチを失敗。その、なかなか見られないテンションの低い胴上げ投手の様子に、後に優勝インタビューに同席した[[かぷてん>小久保裕紀]]から&bold(){「なんや、あの控えめな喜び方は!」}とツッコミを受けている。
・酔うとテキトーになり、年上の[[細川>細川亨]]のことを&bold(){「とおるちゃん」}と呼ぶとのこと。
--「月刊ホークス」にて細川と3ページに及ぶ居酒屋対談をした際は、眠かったこともあるのか(※前日釣りに行ったらしい)早々と「今年のことはさっき良いシーズンだったって話したじゃないですか。これで今回の対談は終了ということで」と、&bold(){1ページ目上段}にしていきなり切り上げようとする企画潰しな一面も。
・アジアシリーズでは、&bold(){台湾受けするイケメン枠}として[[川﨑>川崎宗則]]と共に台湾メディアに報じられたとか。
・華のあるポジションより堅実な渋いポジションにあこがれるらしく、もし他のポジションにつけるのならショートよりもセカンドをやりたいらしい。ちなみに好きな野球選手は「バントの神様」こと川相昌弘で、「2011年シーズンで一番嬉しかったことは?」と尋ねられた際には、交流戦でのバント2回成功と答えている。
-社会人時代はJR東北に所属し、駅員の仕事をこなしていたことも。当時、ファンクラブがあったとの噂もある。
-ハムの森内は社会人時代の後輩で、目標にもされている。交流戦で打たれた時に攝津へ連絡するも、「それくらいで連絡するな」と愛のムチをお見舞いされたのだとか。