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藤井政夫 - (2015/02/18 (水) 16:18:49) の最新版との変更点

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藤井将雄 //もう一つのページがワープロモードのため再作成。 背番号15 投手  本名は藤井政夫。主にダイエーホークス時代の中継ぎに活躍し、炎の中継ぎと称されている。 31歳という若さで帰らぬ人となり、背番号15はホークスの永久欠番になる可能性が高い。 このページでは、その藤井将雄の選手生活とプロ入り前について書く。 **プロ入り前 1968年10月16日に福岡市西区今宿に生まれる。 1979年に父母の別居で姉と妹と共に、母の出身地である唐津市に転居。しかし父は急病、姉は交通事故で他界している。 その後、高校卒業後に社会人野球チーム、日産自動車九州でエースとして活躍。1994年にドラフト4位でホークスに入団した。 その時の背番号が15である。 **プロ入り後 1年目の途中から先発を任され、完封を記録する。しかしその後は伸び悩み3年目から中継ぎにコンバートした。 1997年オフにプロ野球脱税事件に関与していたことが発覚。(同じホークスで関与していたのは小久保裕紀、斉藤貢、渡辺秀一、本間満の4人。) 1998年は右の中継ぎエースとして活躍した。 1999年に26ホールドを記録し、パ・リーグ最多ホールド記録(当時)を樹立。最多ホールドを獲得。ホークスの優勝原動力となった。 本人も入団当初に「王監督を胴上げする。」と発言していた。 しかし、彼の体が少しずつ病に侵されていく。 同年の夏頃からマウンドに座り込み咳き込む様子が見られた。 日本シリーズ前の身体検査で、藤井には伝えられなかったが、「余命3ヶ月の末期肺癌」だった。 藤井には間質性肺炎(この病気もかなりの重病)と伝えられ、本当の病名を知るのはフロント上層部と王貞治などをはじめとする首脳陣の一部、若田部健一などの一部のチームメイトだった。 家族から「マウンドに上がる気持ちがあれば、気力で病気を克服できるかもしれないから。」と球団に懇願し、 球団側も解雇となってもおかしくないところを、優勝に貢献することを踏まえて年俸倍増で契約更改。藤井はパレード翌日に入院した。 2000年は入退院を繰り返す。そして2軍戦6試合に参加できるほどに病は回復。 最後のマウンドになるかもしれないことが伝えられていた王は、藤井に「今すぐ1軍に上がってこい。」と伝えるが、「2軍で結果を出せていないのに、1軍に上がることはできない。」とこれを固辞。 6月末に再入院するが、福岡ドームに近い病院に入院した。 自身のウェブサイトに日記をつけたり、ナインに叱咤激励するなどホークスのために力を尽くす。 10月には肺や心臓に水がたまり、ベットから起き上がれないほど病が悪化する。 その中ホークスはⅤ2達成。胴上げの輪の中に、大のチームメイト若田部が背番号15をつけたハリー人形を持ち参加。それをみていた藤井は涙が止まらなかったという。 その6日後、10月13日に容態が急変。31歳の若さで帰らぬ人になった。 その3日後は藤井の誕生日であったため、その日に告別式が行われた。 葬儀では王貞治は「神様は時にむごいことをする。良い人ほど早く天に召されてしまう」と嘆いた。 その年の日本シリーズでは藤井が兄貴分と慕っていた元鷹の巨人工藤が先発、ホークスは若田部。両者は藤井の右肩の遺骨を持ち登板。試合は5-3でホークスの勝利。日本シリーズは巨人が日本一に輝いた。 工藤は藤井の告別式に駆けつけており、インタビューで「日本シリーズはいいゲームをするから、あいつも楽しみにしてたろうしね。何よりあいつがやりたかった。」と発言した。 2015年からホークスの監督を務める工藤は、弟分である藤井の墓前に手を合わせ、「(監督を)やるようになった。やるけん。」と伝えたという。 命が燃え尽きるまで、そのマウンドにこだわる藤井がナインに宛てた手紙にはこう結ばれていた。 『素晴らしい野球人生だったと、胸を張れます』 ・福岡ドームの15番ゲートでは、彼の背番号にちなみ「藤井ゲート」と名付けられており、記念プレートと最後のメッセージが入口に飾られている。 ・2014年2月に選手ロッカールームの改装が行われたが、ロッカー数は藤井の分も含まれた30席だという。 ・藤井の最後のメッセージの全文は今も[[公式サイト>http://www.softbankhawks.co.jp/stadium/facilities/fujii_message_detail.php]]で閲覧できる。 ・初完封勝利を上げた8月16日にちなんで、この時期に配られる選手ユニホームピンバッジは藤井の背番号15の限定ピンバッジになっている。
藤井将雄 //もう一つのページがテキストのみのモードのため再作成。 背番号15 投手  本名は藤井政夫。主にダイエーホークス時代の中継ぎに活躍し、炎の中継ぎと称されている。 31歳という若さで帰らぬ人となり、背番号15はホークスの永久欠番になる可能性が高い。 このページでは、その藤井将雄の選手生活とプロ入り前について書く。 **プロ入り前 1968年10月16日に福岡市西区今宿に生まれる。 1979年に父母の別居で姉と妹と共に、母の出身地である唐津市に転居。しかし父は急病、姉は交通事故で他界している。 その後、高校卒業後に社会人野球チーム、日産自動車九州でエースとして活躍。1994年にドラフト4位でホークスに入団した。 その時の背番号が15である。 **プロ入り後 1年目の途中から先発を任され、完封を記録する。しかしその後は伸び悩み3年目から中継ぎにコンバートした。 1997年オフにプロ野球脱税事件に関与していたことが発覚。(同じホークスで関与していたのは小久保裕紀、斉藤貢、渡辺秀一、本間満の4人。) 1998年は右の中継ぎエースとして活躍した。 1999年に26ホールドを記録し、パ・リーグ最多ホールド記録(当時)を樹立。最多ホールドを獲得。ホークスの優勝原動力となった。 本人も入団当初に「王監督を胴上げする。」と発言していた。 しかし、彼の体が少しずつ病に侵されていく。 同年の夏頃からマウンドに座り込み咳き込む様子が見られた。 日本シリーズ前の身体検査で、藤井には伝えられなかったが、「余命3ヶ月の末期肺癌」だった。 藤井には間質性肺炎(この病気もかなりの重病)と伝えられ、本当の病名を知るのはフロント上層部と王貞治などをはじめとする首脳陣の一部、若田部健一などの一部のチームメイトだった。 家族から「マウンドに上がる気持ちがあれば、気力で病気を克服できるかもしれないから。」と球団に懇願し、 球団側も解雇となってもおかしくないところを、優勝に貢献することを踏まえて年俸倍増で契約更改。藤井はパレード翌日に入院した。 2000年は入退院を繰り返す。そして2軍戦6試合に参加できるほどに病は回復。 最後のマウンドになるかもしれないことが伝えられていた王は、藤井に「今すぐ1軍に上がってこい。」と伝えるが、「2軍で結果を出せていないのに、1軍に上がることはできない。」とこれを固辞。 6月末に再入院するが、福岡ドームに近い病院に入院した。 自身のウェブサイトに日記をつけたり、ナインに叱咤激励するなどホークスのために力を尽くす。 10月には肺や心臓に水がたまり、ベットから起き上がれないほど病が悪化する。 その中ホークスはⅤ2達成。胴上げの輪の中に、大のチームメイト若田部が背番号15をつけたハリー人形を持ち参加。それをみていた藤井は涙が止まらなかったという。 その6日後、10月13日に容態が急変。31歳の若さで帰らぬ人になった。 その3日後は藤井の誕生日であったため、その日に告別式が行われた。 葬儀では王貞治は「神様は時にむごいことをする。良い人ほど早く天に召されてしまう」と嘆いた。 その年の日本シリーズでは藤井が兄貴分と慕っていた元鷹の巨人工藤が先発、ホークスは若田部。両者は藤井の右肩の遺骨を持ち登板。試合は5-3でホークスの勝利。日本シリーズは巨人が日本一に輝いた。 工藤は藤井の告別式に駆けつけており、インタビューで「日本シリーズはいいゲームをするから、あいつも楽しみにしてたろうしね。何よりあいつがやりたかった。」と発言した。 2015年からホークスの監督を務める工藤は、弟分である藤井の墓前に手を合わせ、「(監督を)やるようになった。やるけん。」と伝えたという。 命が燃え尽きるまで、そのマウンドにこだわる藤井がナインに宛てた手紙にはこう結ばれていた。 『素晴らしい野球人生だったと、胸を張れます』 ・福岡ドームの15番ゲートでは、彼の背番号にちなみ「藤井ゲート」と名付けられており、記念プレートと最後のメッセージが入口に飾られている。 ・2014年2月に選手ロッカールームの改装が行われたが、ロッカー数は[[藤井の分>https://twitter.com/HAWKS_official/status/439710053419843585/]]も含まれた30席だという。 ・藤井の最後のメッセージの全文は今も[[公式サイト>http://www.softbankhawks.co.jp/stadium/facilities/fujii_message_detail.php]]で閲覧できる。 ・初完封勝利を上げた8月16日にちなんで、この時期に配られる選手ユニホームピンバッジは藤井の背番号15の限定ピンバッジになっている。

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