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李大浩 - (2016/02/06 (土) 23:34:12) のソース

李大浩

背番号10 内野手 韓国出身

-名前の読みは「イ・デホ」。
-194cm、130kgという巨体・やわらかなスイング・足の遅さが特徴だが、走塁意識は高く「巨体を揺らしながら」と実況アナに言われながらドスドス走塁を見せることもしばしば。なお、ルーキーの頃は投手だったことも関係しているのか、目を疑うほど現在と体型が違い、普通に格好いい。
-また、守備も安定しておりファインプレーも随所で見られるが、本人はDH出場の方が打席に集中できると語っている。
-HRを打った際に、カメラに向かって鼻の下をこすって指差しをするパフォーマンスを行うのが恒例。

-2000年にロッテ・ジャイアンツに入団。入団時は投手をつとめていたが、怪我の影響もあり野手に転向。その後は、2006年に三冠王を獲得すると、2008年の北京五輪では金メダル獲得に貢献。第二回WBCにも出場している。2010年には二度目の三冠王を獲得。
-2011年オフにオリックスとの契約を結び、NPBへ。好調不調の波はあったものの、144試合すべてに4番で出場し、打点王を獲得した。翌年も活躍するも、その年のオフに交渉がまとまったホークスへの移籍が発表された。背番号はオリックスでも付けていた「10」。
--前年まで四番をつとめもした[[ペーニャ>ウィリー・モー・ペーニャ]]がオリックスへ移籍したことで、&bold(){実質四番の交換}ともなった。うーん、この2球団…。
-ホークスでは、[[かぷてん>小久保裕紀]]引退以降、四番打者が不調になるという「四番の呪い」があるため、どこまで成績を伸ばせるのかなど注目されたものの、全試合四番として出場。前述の「四番の呪い」と戦い、打率3割、19HR、67打点という成績を残し、自身のプロ野球人生において初の優勝を経験した。
-2015年シーズンは[[内川>内川聖一]]が四番に入り、自身は五番を打つことに。当初こそ不満だったものの、内川はチームで一番いいバッターだからと納得したそう。ちなみに内川は四番をつとめてすぐに「デホ、大変だったろうな」と思ったのだとか。シーズン最初こそ「人生初めて」と言うほどの不調に陥ったものの、やがて「人生初めて」と言うほどの好調を迎えるなどしながら最終的に日本ではキャリアハイとなる31本塁打をマーク。さらに日本シリーズでは怪我の内川に代わり四番をつとめ、5試合で16打数8安打2本塁打と大暴れし、シリーズMVPに選ばれた。
-2015年オフにはホークスとの契約年数を残しながらも、夢だったメジャー挑戦を表明した。デホさんたくさんありがとう。2016年2月に、マリナーズとマイナー契約を結んだことが発表された。



**エピソード

-家族は奥様と娘さんが一人。
-誕生日は6月21日で、[[東浜>東浜巨]]とは一日違い。
-[[ムヨン>金無英]]とは故郷で対面する機会こそなかったものの、出身地が同じ韓国・釜山。
-オリックス時代にデホの通訳を担当していた鄭昌龍も、デホとほぼ同時にホークスに入団している。
-3歳で父親を亡くして母親とも別れ、市場でみそを売る祖母に育てられるも、その祖母も高校在学中に他界しているなど、決して裕福な生活を送っていなかった。そのため、プロで大成してからは「祖母にできなかった孝行を、ほかの困っているお年寄りにしたい」と慈善活動に熱心。 
-上記のことも影響するのか、父親のような年齢であり入団会見にも同席したどんでんに寄せる信頼は厚く、初めて夕食を共にした時には「監督と話している間、終始、父親のような温かみを感じた」、また、どんでん解任の際には「泣くのは我慢しました。次の日も試合があるし、そういう姿はみせない方がいい。でも、本当は泣きたかった」とコメントを寄せている。
-[[秋山元監督>秋山幸二]]にも同様に信頼を寄せていたようで、2014年シーズンに4番として得点圏打率が低いことに悩み、打撃を見失いそうだった際に、「自分の打撃を信じろ」と声をかけられ「その言葉に報いたいと思った。『4』番を意識せず、自分の役割を果たしたい」と奮起している。「日本の父」と慕っているらしいとのこと。
-2012年の檻選手会プロデュースデーの企画「野球戦隊バファローズ」では、[[スラッガービッグロボ>http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2250.html]]を演じた。
-2014年CSで[[今宮>今宮健太]]がエラーにより固くなった際には、「僕の体が大きいので投げやすいようだ」と判断し、自ら一塁手に名乗り出て出場。精神面でも守備面でも今宮のイップスを支えた。デホ△。