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〈シンポジウムII〉教育とグローバリズム


はじめに

 今回のシンポジウムIIは、佐々木賢氏の記念講演「グローバリズムと心性操作」と連動している。グローバリズムという言葉が日本で時代のトレンドのように使われ始めたのは、1996年あたりかららしいが、ここ1年ほどの間に「格差」や「ワーキングプア」といった現実を通して、新たな時代を切り拓くと喧伝された「規制緩和」や「官から民へ」というグローバリズムの戦略が、実際には何をもたらしたかが、多くの人の目にはっきりと見えるようになったと思う。  こうした状況を踏まえて、今回は三人の発題者の方に、それぞれの関心領域とグローバリズムとの関わりを語っていただくことになっている。  小沢牧子氏は、臨床心理家としての体験を踏まえて、心理主義化する社会を鋭く批判されてきたが、今回は政治・経済の問題も射程に入れて、グローバリズムと愛国心の関連について思索を深められている。グローバリズムとナショナリズムは表裏一体なのだという説に、どのような新たな視座が加わるか、とても楽しみである。  中島浩籌氏には、今急速に人々の間に浸透する「自己実現」という概念と、グローバリズムの関わりについて話していただく。近代個人主義の自己確立と「自己実現」はどう違うのか、ある人々には抑圧としかならない「自己実現」とはどういうものか……興味は尽きない。  学校選択の自由、バウチャー制度、教員にも成果主義を、事務室業務は外注で……とグローバリズムは教育のシステムに浸透しつつあるが、それだけではない。もっと直接的に現場の児童生徒の日常のあり方に深い影響を与えつつあるのではないか、現場の実践を踏まえつつ、岡崎勝氏に語っていただく。  三人のお話が佐々木賢氏の講演と連動しつつ、どんな展開を見せるか、司会としても楽しみにしている。

(シンポジウムII司会 原田牧雄、林延哉)

発題1 グローバリゼーションと愛国心教育はなぜ親密か

小沢牧子
 経済・政治にくわしいわけでもないのに、とんだ難題を自分で自分に吹っかけてしまったものだと悩んでいる。でも経済・政治をぬきにして教育だけを考えるなどということはそもそもできないことなのだから、ここを考える機会として、ふたつの問題提起をしてみたい。ひとつはタイトルそのものへの仮説、もうひとつは具体的に、学校に使用圧力がかけられている『心のノート』と人権教育読本『にんげん』の対比についてである。  一つ目だが、グローバリゼーションと愛国心の関係を自分なりに、人が住んでいる家の比喩でとらえると、こんな感じがする。これまでは高い塀をたてて外からかんたんに人が入って来られないようにしていたが、「規制緩和」「政府機能の縮小」「市場原理の徹底」などが進んで、自由に人が出入り出来るように塀を低い垣根に変えた。そして実際に人やモノがさかんに出入りする。すると家と外の境界があいまいになって、不安になる。家族が家意識を強め結束して家をきちんと守り、安全・防犯対策も充実させてもめごとが起きたら公認された暴力を使う準備をする。つまり家の再編成をする。そして家族にも、家への忠誠を求める。「合法的な暴力を独占するのが国家」は萱野稔人さん(政治哲学)の言葉だが、国家は将来の暴力実行者として、当然子どもたちを視野に入れている。そこで新自由主義と愛国心教育のテキスト『心のノート』も登場する。  そこで二つ目の問題提起になるが、大阪を中心として学校でもう40年近く使われてきた『人権教育読本・にんげん』というテキストがある。『心のノート』と同時期に改訂された新シリーズは、『心のノート』と大きさも厚さも学年編成の仕方も偶然同じだが、内容は正反対で、障害者問題をふくめ、反差別・反戦の姿勢を貫いている。ところがこの『にんげん』の評判は、当の大阪では子どもたちをふくめあまりよくないらしい。理由は「暗い」。暗いとは何のことだろう、と考え込む昨今である。そう言えば『心のノート』は、「せなかをぴんとのばしてすすんでいこう。もっとすてきなあなたをみつけよう」と、「明るい」のだ。行く先はきびしい。

おざわ・まきこ 社会臨床学会運営委員、和光大学オープンカレッジ講師、『「心の専門家」はいらない』(洋泉社)、『心理学は子どもの味方か?』(古今社)など。

発題2 自己実現の教育とグローバル化・心理主義化

中島浩籌
 80年代なかばの臨時教育審議会答申以降、自己実現の教育という理念が急速に広まってきた。ネオリベラリズム的な思考の浸透もあって、サービスとしての教育、自己実現、自立という言葉が飛び交っている。いったい、この背景には何があるのだろうか。グローバリズムの進展という現象がかかわっていることは間違いない。福祉国家という理念の衰退に経済のグローバル化が関係しているということはよく知られている。その隙間にネオリベラリズムが台頭し、自己実現、自己責任、自立という言葉が広がってきた。ただ「自己実現」という言葉は60年代から徐々に浸透しているものでもあり、グローバリズムだけの問題には還元できないだろう。心理主義もまたグローバル化の中で広がってきている。しかしこれもまたグローバリズムより歴史は長い。グローバル化と自己実現の教育・心理主義化の関係をどう考えていけばよいのだろうか。  その点をシンポジウムで考えていければと思っている。自己実現、自立という理念は長い間大切なものとして考えられてきた。しかし今日、「ニート」や「不登校」の人たちだけでなく、多くの人々にとってこの言葉は圧力となってきている。今こそ、この言葉の理念を考え直す時なのではないだろうか。この点についても考えていきたい。

なかじま・ひろかず 法政大学・河合塾COSMO講師、『逃げ出した教師の学校論』(労働経済社)、『カウンセリング・幻想と現実 上巻 理論と社会』(社会臨床学会編 分担執筆 現代書館)、『心を商品化する社会』(小沢牧子と共著 洋泉社)など。

発題3 グローバリズムマシーンとしての学校教育

岡崎勝
 名古屋市で公立小学校の教員を31年間もやってきたわりには、学校の現場があまり分かっていないなあと、ときどき落ち込むことがある。でも、「分かる」ということは、とても難しいことで、子どもに「二ケタの割り算」を教えているときだって、本当によく分かっている子は少ない。それに、「慣れ」は分かることを忌諱する。自転車に乗れるようになった子どもに、「なぜ、乗れるかというと……」などと説明する必要はないし、そんな説明は拒絶されるだろう。  私が、学校教育がグローバルな世界を形成するときのツールなんだといっても、そりゃあそうでしょう!という人もおおぜいいるはずだ。今回は、学校教育の中で実際に起きている日常的なことから、世界のグローバリズムを支えていく、あるいは共犯関係を構成するような教育の権力を論じてみたい。  もともと教育のグローバリゼーションは、高速情報社会による格差を使った「権力の占有」である。また教育は、差別化された「文化資本」を駆使しながら権力構造を構築する。たとえば、東京ほどではないけれど、お受験(小学校六年生が有名中学、あるいは無名中学に進学)する子どもが名古屋にもたくさんいる。彼らは、なぜ中学校を受験するのか?「将来医者になりたい……」とか、まあ、色々言うが、本当のところはどうなのだろう?あえて、ジモ中へ行かないのはなぜか?  学歴? 出世? キャリアを目指して? 違うんだなあ。もちろん、そういう子どもや親もいるかもしれない。でも私がみてきた多くの子供達は、「なんとなく」が圧倒的に多い。確固とした理由や目的なんかないのだ。親たちによる意志であり、それは差別化された教育商品を消費することで、不良債権的な「子ども」への投資行為であり、有用性を誇示したり、安全な養育(つまり低リスク)をするためなのだ。  教育は、自己エネルギーを投下したり、時間を消費したり、おまけにお金をしっかり使っても、絶対に否定されない。そんな「価値ある行為」とされている。教育の絶対的価値は、グローバリゼーションには、欠くことのできないツールであり、学校教育は有効なグローバルマシーンなのだ。

おかざき・まさる 名古屋市小学校教員、『おそい・はやい』編集人、『ちいさい・おおきい』編集委員、編著『がっこう百科』(以上、ジャパン・マシニスト)、著書『学校再発見!』(岩波書店)など。


最終更新:2007年04月07日 16:46