真空の刃が、首筋に走った。
すんでのところで、頚動脈だけは免れる。
しかしそこは、比較的太い血管が集まっている。
静脈といえど、ある程度の血流がある。
右の頬、うなじ、右の肩口、右背側の肋。
少なくとも四ヶ所、深く斬られた。
――これで、いい。
自分の血液が噴き出していく音を聞きながら、ニヤリと笑う。
狭霧アヤメも操った、リンクする能力。
それで、半径数メートルにわたってかまいたちの竜巻を巻き起こしている。
そこへ近づくことは、すなわち自滅行為だ。
しかし、5メートルまで近づくことに成功した。
あの、無敵と言われるフォグ相手に、だ。
毒霧は、とびっきりのやつを仕込んだ。
息を止めても、皮膚から侵入し、あらゆる生命活動を阻害する。
酸素を断ち、DNA合成にエラーをしのばせ、神経伝達物質の生成および受容体をブロックする。
――やべ、意識が薄れてきやがった……
流れ出る血液を止める手段を、彼は持っていない。
その場で、仰向けに倒れる。
そのさなかに見えるのは、フォグの、余裕ぶったツラが必死の形相に変わっていく様だ。
それでもあの殺人鬼は、「敵を抹殺する」という至上命題を忘れることはない。
彼の上に馬乗りになり、その首に手をかける。
彼は割れた伊達メガネ越しに、仇敵のツラを見据えて言い放つ。
「残念、ハズレ♪」
罠に、かけたのだ。
一か八かの賭けだったが、果たしてそれは成功した。
フォグは「囮」の方へ注意を向け、もう一方への攻撃を緩めた。
川芝鉄哉は、多少では済まないダメージを食らうことを覚悟で、距離を詰めて“能力”を発動させた。
別働隊は既に「本命」を殺るべくここを突破した。
「囮」とは、code:クエレブレ本人であったのだ。
「ッ……ンの……」
口から血を溢れさせながら、歯を食いしばってフォグは彼の首を締め上げる。
その手が、微かに震えはじめている。
ここでフォグが彼を始末することに固執すれば、フォグ自身の身も危うい。
毒は確実に、生命維持機能を奪っていくのだ。
しかも、別働隊が「本命」に迫っている最中である。
クエレブレへの攻撃をやめ、その場から離れれば、毒霧の効力は解除され、身の安全を保てるかもしれない。
別働隊を追い、「本命」を護ることもできるかも知れない。
「さあどうする? このままだと、あと30秒もしないうちに痙攣が起きるぜ」
鉄哉とて、大量の失血に加え首を絞められて、酸欠になりつつある。
こと切れるのは時間の問題、彼自身がそう思っていた。
しかし掠れた声を精一杯張って、「ヨユーだZE☆」というふうな態度をとってみせる。
× × ×
シルスクは、向かいの建物の中で何が起きているか、認知していた。
彼の班は、5班が突っ込んだ際の後方援護をする配置になっていた。
そこへクエレブレがいきなり現れ、単身で突っ込んで行った。
もちろん、静止する声など届いちゃいない様子で。
フォグとサシでやりあった場合、過去の戦績から、生きて帰れる可能性はゼロ。
ヤツと対峙した隊員は、一人残らず還らぬ人となった。
隊員でない、民間人でもそれは同じだ。
シルスクは、一人の中年男を思い出す。
――あんたの方が、正しい。そう思う。けどな……
頭痛がひどくなってくる。
屋上のフェンスに手をかけ、凭れるようになりながら向かいのビルを見つめる。
「隊長。僕たちの班も加勢しますか?」
傍らにいた
ラヴィヨンが、不安そうな面持ちで尋ねる。
「いや……」
シルスクは、思案しながらその提案を却下した。
――バレたらどうするんだよ。こっちには
八地月野がいるんだぞ。
クエレブレ――川芝鉄哉は、世間一般では役所勤めの公務員、ということになっている。
平穏な生活を持つ彼にとって、
バフ課はいわば裏稼業、ヤクザな商売だ。
そしてその平穏を守ろうとする理由はほかでもない。
同居する女子高生、八地月野の存在だ。
例の隕石で家族を失い、天涯孤独になってしまった鉄哉にとって、月野の存在は彼をこの世に留まらせる唯一の拠り所だ。
死に急ぐような無茶をしていた彼が、「生き延びようとする」スタンスに変わったのは、
あの女子高生と一緒に住むようになってからである。
シルスクは、複雑な思いだった。
かたや、愛する者を目の前で喪ってしまった男。
かたや、愛する者のために自らの命すら惜しげもなく差し出した男。
――クエレブレ。貴様は、どっちだ……?
登場キャラクター
最終更新:2010年07月19日 07:04