「能力を捨てたいんです」
白い膝小僧を並べて制服のスカートの裾摘み、保健室の丸いすのねじを軋ませながらボブショートの髪の毛を控えめに。
放課後を待ち望む生徒らの声を背景に、保健医と向き合い肩をすぼめる古烏すずめは本気で悩んでいた。
白いシーツで覆われたベッドに腰掛けたオトナは、一応オトナだ。多分オトナ、きっとオトナ。
腕組みして白衣にしわを寄せ、組んだ脚の先のスリッパをぶらつかせる。部屋の中は薬臭い。
「別に先生は止めないよ。能力を持つも捨てるもお前の自由だしね」
「自由ってなんですか」
「プラスとマイナスを一緒に背負い込むことだよ」
肩まで伸ばした保健医の髪からは、オトナのシャンプーの香りがした。
オトナって。
まだまだ思春期を迎えて手放さないお年頃のすずめには、オトナのセリフにぐるぐると巻かれるだけ。
それさえも気付かぬすずめは幸せなのかもしれない。
ある日、隕石が地球に落ちてきた。
誰もそれを止められなかった。
誰もがそれを悲劇だと受け止めた。
しかし、悲劇の裏を人々は知る。それは『能力』。
今まで生きてきた人間どもが作りえなかったものを平気で乗り越えてくれやがる。
それが『能力』。
『能力』は、人を幸せに出来るのか。
『能力』は、人を救うことが出来るのか。
世界を廻す生身のオトナでさえも、それを掌握することが出来なかった。
さらに、世界を揺るがす出来事から、ささいなご近所レベルまで『能力』が世界を司る。
そして。
「能力はわたしを苦しめる」
ある日のすずめの高校からの帰り道。おしゃれなブランドの紙袋から、さらに小さな紙袋を取り出すと、中に入っていたビールの缶を
公園の不燃物入れに見つからないようにそっと捨てた。きょろきょろと見渡した後、ローファーを土で鳴らして消え去る。
いつまでこれを繰り返せばいいのか。誰も分からない。
家へと急ぐ。夕暮れのとき、何もかもを美しく照らす魔法の時間。人が急ぐ、車が急く。
×××
「つまんない」
いくら文明が栄えようと、人間たちが付いて行けなければ意味を成さない。それを端的に見せ付けられるような
深夜のくだらないバラエティ番組をぼんやりとすずめは眺める。陽が明るければ明るいほど影は濃い。
薄っぺらな明るさだけの画面上の人々はすずめを明るく照らし続けるだけだった。
すずめは時計をちらと一瞥すると、PCモニタのテレビ画面を閉じて背伸びをして気を紛らわせる。
喉が渇いた。コーラが飲みたい。そういえば、小さいときこっそりと冷蔵庫のコーラを飲んだことがあった。
親に見つからないように。だけど、見つかった。もちろん怒られた。「甘いものばかりだめでしょ!」と。
ただ、すずめをかばってくれた人がいた。「ごめんなさい。ぼくもこっそりのんでました」と。二度とすずめの耳に届かない声、能力に目覚めるまでは。
「能力かあ」
望んで手に入れたものだったら、どれだけ嬉しいだろうか。
望まずに手に入れたものだからこそ、誰にもぶつけられない憤り。
せめてオオカミになって、月夜にわおーんと吠える能力が授かれば、とすずめはくさる。
そうか。でも、オオカミになってしまう能力が身に付くなら、わおーんと吠える必要はないな。
誰からも突っ込まれない分、深夜は一人でものを考える余裕が増える。木の柱が軋む音でさえ、気にはならない。
すずめはカレンダーを横目に、両親が寝静まっているのを確認してから廊下をゆっくり踏み鳴らす。
目的は「コーラ」。と言い訳をしながら、深夜の廊下をゆっくりと歩く。両手で壁に手を着く。でもないと不安だ。
素足の廊下は冷たい。木目と夜の空気はすずめの体温を奪うが、心が折れない程度なのが悔しい。
漆黒から何か恐ろしいものが飛び出しそうな思いをしながら、すずめは台所へ向かった。
すずみが足を入れた深夜にどっぷりつかった台所は、昼間と違って底知れぬ怖さを感じた。
ステンレスの流し台は冷たい鈍器のように見え、蛇口からこぼれる雫は血が滴っているかのように聞こえた。
「今夜も来てるの?」と、暗闇に向かってすずめは言葉をかける。もちろん、すずめだって考えあっての行動。
暗闇は返事をしない。当たり前だ。静寂に包まれた台所はすずめが一人。メガネを外し目をこする。
「今夜も来ているの?」
呪文のように繰り返すすずめは、だんだん何処かに取り残されるような気持ちになっていった。
冷蔵庫の扉を開けると光が溢れ、足元に影を落とす。まるで黄泉へと通じる扉のように眩かった。
母親が作り置きしている麦茶がペットボトルに詰まって並び、すずめが一瓶手に取ると誰もいない部屋に声が通り抜ける。
「すずめ?来たよ」
すずめの背後には彼女が見覚えのある顔があった。すずめの兄の潤一郎、高校の制服のシャツにカーディガン羽織ってひょっこりと姿を現す。
すずめはしばらく言葉を控えていると、潤一郎が冷蔵庫に手を伸ばしながらすずめに話しかけてきた。
「まったく、すずめには感謝してるんだよ」
「感謝って」
呆れた顔で兄の手元を視線で追う。
「まったく、すずめ様様だ」
「うるさいよ。それに違反ですし、校則とか」
「もう、おれオトナだよ。それにここ学校じゃないって。ビールぐらいいいじゃないの」
キンキンに冷えた缶ビールはきれいに並んでいた。父親のためのビール。もらい物も多し。その列からひとつ失敬して潤一郎はすずめを遮った。
冷蔵庫の扉は開けたまま。照らされる二人は影を床に落とし、潤一郎は缶を開け、気泡がはじける音を鳴らす。反動で少し揺れて泡が顔を見せる。
そのまま口を明け口に運び、溢れる泡を吸い込む兄をすずめはじっと自分のメガネに映し続ける。
のどを鳴らせてビールを飲む兄は、ほんの少し背徳的な影が足元に落ちているような気がする。
「ぷはーっ」
「……」
「ビールはこうやってこそこそと隠れながら飲むのが美味しいのだ」
兄の嬉しそうな顔を見ると、すずめの心中は失敗した編み物のように絡み出していた。兄はあんなに嬉しそうだけど、なんだか複雑。
すずめの乙女心を知ってか知らずか、潤一郎は炭酸きつめのビールを心底嬉しそうに口にして、腹に麦の恵みを満たす。
オトナって!
すずめはちょこんと兄の前に座り込み、膝を人差し指でぐりぐりとなぞり続ける。
「こうやってでもしないと、おれはビールが飲めないからなあ。だから、すずめには感謝してるんだよ」
「もう来ないよ」
「おいおい。本当は生きているうちに飲みたかったんだよ。頼む。今度も次の満月の夜に会おうな」
「やだよ。ビールばっかりのお兄ちゃんなんて、知らない!」
「おれもやっと医者から見離された身になったのにさ!はあ、入院中の苦しみから解放された今の喜び!生きるって素晴らしい!」
「なーにがだ」
にっと薄暗い中で笑みを浮かべた潤一郎は、空になった缶を水洗いして不燃物のゴミ入れに放り込んだ。
むうっと河豚のように頬を膨らませながらすずめは、兄の捨てた缶を拾い上げて小声でぼやく。
「わたしが疑われるんだからね」
「コーラの事件、かばったの誰だよ。うれしいだろ」
一つ大きくすずめはあくび。そのときと同じ冷蔵庫が、夜も構わずに台所を守り続けていた。
月の美しい晩には必ず兄が来る。
思い出の場所に来ると必ず現れる。
無意識に、そして必然的に。
兄は病で命を失った。しかし、考えようには永遠の命を授かったのと等しいのではないか。
正しいのか、正しくないのか。神が与えし万物創生のとき以来、生き物の能力に反しないのか。
狂わせたのは「あの日」から目覚めた新しい能力。
ただ、すずめは出来れば早くその能力を手放したいだけ。
「また、来るな。じゃあ」
あくびは人にうつる。この世に居ない者とて、例外ではなかった。
次に会うときは、またひと月ぐらい兄に年齢が近づいているはず。すずめは、眠い目を擦りながら自分の部屋に戻った。
頭から布団に包まった頃は、朝いちばんな新聞配達の音がしていた。
×××
「折角会いに来てるんだからさ、いいじゃないか」
他人事のように相談にのるなあ。と、すずめは保健医を評価した。星をつけるなら、五つのうち三つぐらい。
俯くとメガネがずれる。つんと中指で突き上げる。なんだか、偉い学者になった気分でもある。
気分は気分。気分はすぐに形をなくしてしまうもの。目の前の保健医には敵わない、と言うより厄介な。
「なんだか、兄が遠ざかってゆく気がするんです」
「もう、遠ざかってるだろ」
「いいえ!体は高校生のまま、オトナになってゆく兄がつらいんです」
保健医は口を挟まない。
「そりゃ、魂を失ったときに体の成長も同時に失ったから……、それは当然だと理解できるんです」
「まあな」
「でも、わたしが知っている姿のままで兄が年を重ね続けゆく姿を見届けるのは」
「わがままだなあ」
「はい。わがままです」
わたしがいるだけで能力が現れる。だから、つらい。
わたしが台所にいるだけで兄が帰ってくる。なので、つらい。
わたしと兄が夜明けを向かえるとき能力と兄が消える。それが、つらい。
かと言って、能力を全て手放してしまうのは、つらい。
すずめは悩む。
「あと、ひとつ。そんなに能力を使うのがいやなのに、どうして能力が発動できる環境に出向くんだ」
「それは、あの……だって」
しどろもどろに人差し指をあわせながら、すずめは俯き加減で瞬きを多くする。
「お前は難しいヤツだな。それでもって、兄思いで」
「兄思いではありません!」
「もっと、ウソをうまくなれよ。オトナから騙されるからな」
保健医の言葉がずきりとすずめの胸を刺す。胸が痛いのは生きている証拠。生きていれば生きているだけ痛い思いをする。
自分が兄より年上になることも同じ痛い思い。痛い思いをしたくなければ、生きていることをやめちまえ。
そして満月の夜がやってくる。
「隕石が落ちたのは偶然。お前が能力を授かったのも偶然。だからさ、お前が出来ることは偶然を受け入れることだぞ」
「……そうですか?オトナから騙されませんよ」
にっと白い歯を見せて、保健医は脚を組んだ。そして、評価は五つのうち三つから、三つのうちに変わる。
すずめは深々と保健医にお辞儀をして、薬品の匂い漂う保健室を後にした。
「おーい。今度、その能力使うの最後にしろよ」と、保健医が叫んだのも気付かずに。
そして、すずめは誓った。
「もうちょっと、この能力持っとこっと」
おしまい。
登場キャラクター
最終更新:2011年01月03日 10:04