心のどこかで、予感だけはしていた。
今までの自分は連れ去られて、これからの自分は過去に二度と戻れない。そんな瞬間が来るのだ、と。
それは初めて動物園で昼の能力が発現した時かも知れないし、いつか猛犬に襲われた時かも知れない。
比留間博士との衝突だって、重大な瞬間だったと思う。
あの時は陽太が助けてくれたし、今は鎌田さんだって居る。
問題だって多いけれど、そうそう酷い事にはならない。平和な日々はきっと続くだろう。
でも、なぜだろう。予感の向こう側、遥か遠くから――声が、聞こえた。
08.変わらない日々に
特殊能力研究開発機構――通称、『ERDO』は一種の秘密結社でありながら、
その研究部門の施設は開かれているものも多い。もちろん、そうと知っていれば、の話ではあるが。
能力研究は一般人の協力が欠かせない分野であり、信用を得るためには身分や、それに伴う連絡先や接触手段などを
提示していかなければならない。
研究施設はどこにあるのか? という情報は、その最たる例だろう。
いちいち、知られたからには消えてもらう……などという対応を取るのは、逆に多くの問題を抱える事になるのだ。
そういう事情もあってERDOの研究施設、表向き夜見坂高校の付属施設は、わりと気軽に訪問する事ができた。
「おーい、
ドクトルJ! 情報収集に来たぜ」
「すみません。お邪魔します」
以前の事件で関りを持った、
岬陽太はノックもせずにドアを開け、
水野晶は遠慮がちに頭を下げていた。
彼らは研究対象であって、正式な協力者という訳ではないのだが、主任クラスの人物が身分を明かした事もあって、
似たような扱いとなっている……
というより、ドクトルJの名前を出せば、エージェント・ジョッシュ(実名は知らない)と呼ばれている職員が、
あぁと何やら察した表情で、ここまで通してくれた。
「なにかね――このような忙しい時期に」
部屋で待ち受けていたのは、眼鏡に白衣、机の上には山積みの資料と、いかにも博士といった中年男性。
資料から目を離すと、やや過剰な威厳を保ちつつ、ゆっくりと椅子を回転させ、陽太たちを視野に収めた。
火急の要件で時間を作った、と言わんばかり態度だ。
「ドクトルJ、客人を幼子のような戯れに付き合わせるのは不躾だわ。
たとえ、それが招かれざる客人で、矮小な月の落とし子だとしてもね」
部屋の片隅、休憩用と思しきソファーには、場違いな少女が一人、腰掛けていた。
こちらは陽太達とは違って、ERDOの正式な協力者だ。
ツンとした態度で博士に元も子もない指摘を入れる。
朝宮遥。岬陽太や水野晶と同じ、いわゆる厨二病の年頃で、人形のような整った容姿に
黒いゴシック調のドレスは誂えたかのように、よく似合っていた。
もっとも本名を名乗る事はあまり無く、白夜という呼称を好んでいたが。陽太にとっての月下と同じだ。
「いやね。実際、私も忙しいんだけど。こうして休憩時間にぶらつきもせず、資料整理するぐらいには……
あと、はる……じゃない、白夜ちゃん、君もわりと招かざる客人だったり」
博士の方もあっさりと化けの皮が剥がされ、押しが弱く、茶目っ気のある一面が露わとなる。
彼はドクトルJ、もちろん実名ではなく、ましてや物語上のマッドサイエンティストでもない。
ERDO、第一研究室の主任、という肩書は似たようなものかも知れないが。
神宮寺秀祐(じんぐうじ しゅうすけ)という立派な名前があるのだが、白夜にそう呼ばれている内に、
ドクトルJという痛々しい呼称が定着してしまった。
ひとまず、まともなドクトルJの発言が実情に近いと判断したらしく、晶は軽く陽太を小突いていた。
「ほら、陽太。邪魔しちゃったみたいだよ」
「ぐ、でもこっちも重要だぞ」
幼馴染には押しが弱くなる陽太だが、今回は大真面目に反論する。
微笑ましい光景に、ドクトルJはつい苦笑すると、助け舟をだす事にした。痛々しい厨二病患者であっても、
それゆえの真剣さは馬鹿にできたものではないと思うのだ。
「まあまあ、話せない程じゃないし。片手間で失礼しちゃうけど、用件を聞かせてもらおうじゃないか」
「えっと、まず今度の修学旅行の話なんですけど――」
陽太では話が遠回しになると判断したのか、晶が大まかに事情を話し始める。
班別社会見学の事、アトロポリスの事、そして開催される国際会議の事について。
もちろん、アトロポリス国際会議は形式上、学会であるため一角の研究者であるドクトルJも注目していた。
「能力特区『アトロポリス』かぁ。うん、最近は話題だね」
「不吉な響きね。残虐の言霊か、運命の糸を断ち切る死の女神か――」
どこか詩的に、あるいは厨二的に白夜が感想を添えた。
残虐の言霊というのは、英単語の残虐「atrocty」を指している。死の女神というのは、ギリシャ神話に登場する
運命の女神の一柱であり、どちらも厨二病患者らしい教養だった。
白夜に応じる形だからか、どこか講義口調でドクトルJは続けていた。
「語源としては、後者にあてた言葉遊びだ。アトロポスは未来の女神でもあるから先進都市のイメージに合うし、
チェンジリング・デイ以降の悪い流れを断ち切る、という意味も含まれているらしいね。
つまり、君たちの班がアトロポリス行きに選ばれたという事かな」
と、ドクトルJの推測は当然といえば、当然の事だろう。
班別社会見学の事があり、わざわざ研究者の元まで足を運んで、アトロポリスの話を聞きに来たという事は、
つまり陽太の班がアトロポリス行きなのだと。
別にそんな事はなく、どの班が選ばれるかは、まだ未発表なのだが。
だが、それでも陽太は胸を張って断言していた。
「いーや、だが過酷な運命が待ち受けているなら、その備えはしておくのが当然だろ?」
「あら貴方にしては正鵠を射ている言葉ね、月下? かの女神の地には蜘蛛の巣が如く、因果の鎖が絡み合っているわ。
それに無知でいるというのは、自覚なく奈落の淵で踊るようなものよ」
白夜はいつもの物言いで陽太に同意する。反目しあう事も多いが、こういう時は意見が合う二人だった。
対して、晶は若干あきれ気味に肩をすくめていた。
「社会見学の話が出てから、ずっと陽太はこんな感じで。
落ち着かせる意味でも、詳しい人の話を聞けたらな、って。迷惑かも知れないですけど」
「ああ、わかった。なんか、すっごく共感できる気がする」
アトロポリス国際会議、各国要人の集合、歴史が変わる瞬間などと、マスコミは囃し立てており、
間違いではないのだが、なんというか厨二病患者にとっては、格好の妄想材料となっていた。
連日、騒がれては、さすがにうんざりするかも知れない。
当初、白夜からの反応も、それは凄いものだったが、それは置くとして。
「まず能力特区『アトロポリス』というのはね。国連主導で建設された、人工島に存在する先進都市だよ。
能力という過去にない要素を、どう社会に迎えるか。様々な意味でのテストケースになる事が期待されている。
まだ建設中だけど、完成した区画もあって、少数だけど人も住んでいる」
いわば、複数国家に主導された大事業だ。
例えば、一人で一国と同等の軍事力を持つ能力者が居たら? 無限に貴金属を生産できる能力者が居たら?
人類、総能力者の時代。それに応じて、行政や経済も変わっていかなければ、近いうちに破綻してしまう。
こういった、ごく真っ当な懸念を解決すべく、アトロポリスは建設された。
ただし、理想や解決案は人ぞれぞれで、しかもそれが全て純粋とは限らないし、手を取りあえるとも限らない。
彼なりに、能力社会に渦巻く事情を感じているのか、フンと陽太は鼻を鳴らしていた。
「どうせ組織も絡んでいるんだろうぜ」
「それはない……とは、言い切れないのが能力社会なんだよねー。あんまり危ない事には首を突っ込んで欲しくはないよ。
以前の事件は収まったけど、ERDOも危ないときは危ないから」
ゆるい口調だったが、それとは裏腹の真剣さでドクトルJは忠告していた。
大事業ゆえに、当たり前に陰謀が絡んでるのだ。悪意によって、あるいは各々の正義によって。
科学者としては、好奇心が人を不幸にするとは断定したくはないが、否定も出来ないのが現実だ。
「陳腐ながら分別ある警告だと思うけれど、ドクトルJ。話を終えるには、早すぎるのではなくて?
この物質世界の見えざる縛鎖と、私たちの宿命に跨る因果について、あなたはまだ触れてないわ」
少し話が逸れたからか、白夜が可愛らしく眉をひそめて、釘を刺してくる。
独特の言葉遣いのため、あまり意図は伝わらなかったのだが。
「えっと……本格的に言ってる事が分からなくなってきたけど。とにかくアトロポリスの話だね。
社会見学については簡単だよ。将来、社会を担う子供たちに未来の形を見せておきたい、という教育上の事情だ。
まあ、能力社会で教育がどうあるべきかは、教育学でも議論が絶えない状況だけど」
課題を抱えているのは、比留間博士が専門とする生物学のような自然科学だけではないのだ。
チェンジリング・デイの隕石被害によって崩壊した国際情勢やインフラ、魔窟などの諸問題、
そして社会や経済を変え得るほどの能力。むしろ社会科学の方が、差し迫った課題を多く抱えているのかも知れない。
陽太は頭の中で情報を整理しているのか、首を捻りつつも、ぶつぶつ呟いている。
アトロポリスの性質は大まかに分かったが、問題はそこで行われる一大イベントだ。
「じゃあ、国際会議は……あ! たしか学会をやるって言ってたな。もしかして、ドクトルJも出席するのか!?」
「ふっふっふ……よくぞ聞いてくれました! その通り、私も第一研究室の主任として、出席するんだ。
まあ、招待状はERDOあてで私はその代表の一人、みたいな扱いだけど」
実は、ずっと自慢したかったらしく、満面の笑顔でドクトルJは資料の片隅から、招待状を取り出した。
これ見よがしに、陽太と白夜に見せびらかす。
効果はてき面、というべきか、あまりにも意外だったか。陽太と白夜はしばらく硬直していた。
しばらく固まってから、顔色を変える。
それは羨ましいとか、そういう事ではなく、厨二病の少年少女は深刻な表情で顔を見合わせ、次にドクトルJに迫った。
「行かないで、ドクトルJ! そこで待ち受けるは魔弾の射手――響く銃声、悲鳴の残響が今にも聴こえてきそうよ」
「ドクトルJ……そこが死地になると分かって、壇上に上がるなんてな。あんた学者の鑑だぜ」
「ちょっと待って。なんで私が狙撃されるストーリーなの」
なぜか、国際会議の場で命を狙われる設定にされてしまい、思わずドクトルJはストップをかけた。
まあ、つい最近まで実際に命を狙われて、入院する羽目にまでなったのだが。
「こほん。といっても、まず私は登壇する側ではないけどね。当たり前だけど、学会発表を行うのは
参加者のごく一部に過ぎない。時間も限られているからね。
私がこうして資料を纏めているのも、発表内容を理解するためと質疑応答に備えてだよ」
若干、残念そうに肩落として、ドクトルJは種を明かした。
自分は国際会議においては脇役なんだよ、と。能力がどうこうという次元ではなく、世界的な権威が集まる規模なのだ。
様々な壁を越えて学者が招集されているとはいえ、主役の席は彼らが独占する事となる。
ここで大人しく話を聞いていた、水野晶が小さく挙手して、質問した。
「僕も調べてるんですけど、学会についていまいち分からない所があって。
学会にも分野や格、みたいなものがあるんですよね?」
「ああ、うん。その辺り能力研究は結構、特殊な所があるね」
この辺りはまだ中学生の、この子たちには実感がないかも知れない、とドクトルJは頷いていた。
「もちろん、格式という意味ではアトロポリスのそれは最高府といっても過言じゃない。
ただ能力研究はとにかく、無茶な分野横断が多い。チェンジリング・デイ以前の傾向よりも遥かにね。
だから分野は大雑把に、理系部門と文系部門といった形に分かれているんだ」
「理系と文系、ですか?」
「物理とか生物とか、能力自体の実態を探っているのが理系部門。
能力社会に対して、経済や法律はどうあるべきか、というのが文系部門だね。
本当はもう少し入り組んでいるんだけど、これくらいの認識が分かりやすいと思う」
ILS(国際学会)の分類に従って、大まかに説明する。
文理の区分は研究対象に依るべきか、アプローチに依るべきか、そもそも区分自体が適切ではないか、
統一された意見など無いし、一方を取れば一方は取れない、というものでもない。
むしろ貪欲に、広い視野を持たなければ成果は得られないのだが、子供向けの説明には、この辺りに留めるのが妥当だろう。
「科学は突き詰めれば、深く狭く専門化して枝分かれしていくものだけど、能力研究は広大な空白地だからね。
誰がどこを、どのように走っているか。科学者は互いに興味があるんだよ」
独特の感慨を交えつつも、ドクトルJは説明を纏めていた。
科学者ならば、一度は実感しているかも知れない。近年になって現れた能力という、あまりにも広大すぎる裾野。
きっと自分が生きている間には、輪郭すら掴めないだろうという感慨だ。
何かを感じ取ったかは分からないが……いや、聡い少女なのだから、何かは感じたのだろう。
水野晶は改まった様子で姿勢を正し、おそらく重要な質問を発していた。
「その、ドクトルJさんは"異変"について何かご存知でしょうか?」
「"異変"というと、夜間能力に関わる異変の事かな。知ってはいるけど、世間に公表されている以上の事になるとね。
時期が時期だから、私も使える時間に限りがあるし」
もちろん研究者として興味はあるが、リソースは有限だ。
特にアトロポリス国際会議を控えた現在、誰もが"異変"の調査に乗り出せるわけではない。
「それでも、何か深刻な影響が出ているなら、無理にでも時間は作るから、遠慮なく頼って欲しい。
こういう時、デキる大人は格好をつける機会を逃さないものだからね」
軽い気持ちで質問した訳ではない事を察して、ドクトルJは協力を明言していた。
時間を作るのは大変だが、こういう時こそ頼れる大人でありたい、と思う。
似合わないウインクをしようとして、上手くいかずに変な細目を晒す事になったのだが。
案の定、というべきか、陽太と白夜の反応は白けたものだった。
「ドクトルがデキる大人かぁ……」
「数ある言葉のなかで、おおよそ最もドクトルJと噛み合わない言葉ね。隔絶という単語を使ってもいいのだけど」
「って、酷いなーというか、今日は恐ろしく気が合ってるよね、君たち」
笑いを抑えながら指摘すると、陽太と白夜はぎょっとした様子で、互いの顔を見合わせていた。
少し間を置いて、「誰がこいつと」「侮辱よ」などと、やはり同時に反論する。
やっぱり気が合ってるね、とドクトルJは思うのだが、ここで追撃しては制裁を喰らう羽目になるだろう。
「大丈夫です。僕の場合、ちょっと調子が良すぎる、みたいな形の影響なので。でも、何かあったら頼らせてもらいますね」
陽太たちの様子に、くすりと笑って、水野晶は"異変"の話題を終わりにした。
そこからは雑談が始まり、近況や能力の話題(大半は厨二妄想だった)が続いた。
やがて陽太が聞きそびれた事に気が付いたか、一周して最初のアトロポリスの話題に戻ってきた。
「そういや、例の会議だけどよ。半分は式典のようなものだって師匠から聞いてるぜ。政治的な意図がどうとか」
「師匠? まあ、それは後で聞かせてもらうとして。そうだね、そういう一面もある。
国際社会の秩序がどれだけ回復したか、能力に人類は向き合えているか、世界中の人々に知らしめる形だ」
と、陽太が触れた見解にドクトルJはうなずいた。
研究者としては、ついそちら方面も関心が薄くなってしまうが、むしろ政治的な効果を期待されて、
今回の国際会議は開催されるのだろう。
当然、というべきか、陽太や白夜の思考は厨二病の方向に加速していた。
ふっ、ついに『世界』が動き始めたか……という、いつもの発作である。
「それが気に食わない、って奴らも居るんだろうな」
「ええ、きっと闇に蠢動する者達は、快く思わないわね。
影で血を啜る者は、日輪の下では露のように消えてしまう。それが彼らの宿業だもの」
彼らなりの論理を以って、波乱を予感する。
間違ってはいない。間違ってはいないのだが、厨二病の少年少女にとっては、遠い世界の話だ。
「ただでさえ、トラブルが多いんだから、その辺には関心を持たないでいて欲しいんだけどね。
まあ、無関心なら安心って訳ではないんだろうけど……」
苦笑しつつも、ドクトルJは重ねて忠告する。
もちろん彼らは真剣だけに、時に大人を振り切って、突っ走ってしまう事もあるのだろうけど。
どこか眩しいものを感じて、そっと陽太たちから視線を逸らして、上の空になる。
そして、今は亡き家族の事を少しだけ思い出した。
この子たちもいつか大人になり、いつか家庭を持つ事だってあるのだろう。
それまでに、あるいはそれからも、楽しい事や辛い事が色々と待ち構えているに違いない。
「なんというか、チェンジリング・デイでは失ったものや、欠けたものが多いからこそ。
大人は明るい未来の形を示したいし、確認したいんだよ。
あの瓦礫の山から、俺たちはここまで歩いてきたんだぞ! ってね」
未来というバトンを、自分たち大人は少しでもマシな形で、少年少女に渡せるだろうか。
せめて自分はそうありたいなと、そっと静かに願った。
登場キャラクター
最終更新:2019年02月24日 01:01