果物ナイフ
犯人が突き出した短刀も、短刀としては穏便に済ませたいわけで、あらよあらよと刺しあぐねている内にいよいよ交番の兄ちゃんに取り押さえられてしまった。しかし一介のおまわりさんにとって、ついさっきまで荒れ狂っていた短刀は恐怖の対象であり、ぶんなげるに値したようで。ぽーん。ホームレスのおっちゃんが私を発見したのは五十年後位だったと記憶している。
上野、ある高架下。段ボール寝床の立ち並ぶ、ホームレス達の巣。見つかった日は台風の翌日で、私は半壊した家の倉庫の下に埋もれていた。近所の子ども達からはリアルお化け屋敷なんて呼ばれていたそうだが、単に空家なだけで、ホームレスのおじさん達が夜な夜な飲み会をしているのを誰かが勘違いしたらしい。ホームレス達は壊れた家の中を「いやあ台風で金目のものが吹っ飛んじまったんだよなー! 俺の寝床に、がっはっは!」なんて言いながら捜索、おっちゃんもその中の一人だった。だがおっちゃんはホームレスらしくない普通の恰好をし、生業も自称トレジャーハンター、東京の高級住宅地やオフィス街を巡り、いい値で売れるものだけを集めてその日の生計を立てている、ちょっと非典型的なホームレスだった。何せ50年も埋まっていたもので、景色も人も随分と変わっており、最近のホームレスはそういう形が増えているのかもしれないが。とにかく先行きが不安だった私はこのおっちゃんという人がどんな人間なのか、私を大事にしてくれる優しさを持っているか、ホームレス仲間の会話を注意深く盗み聞きすることにした。
ある小太りの六十代のおじさんは不思議がっていた。
「あいつが拾いもんを自分のにするなんて、へえ、珍しいこともあったもんだ。」
細見の同年代のおじさんは
「あいつの目はやけに鋭いからな、噂じゃ骨董品の鑑定士をやってたそうだよ。昔ゃいいもんを自分の家に飾ってたそうだけど、店が倒産しちまって、離婚した後も職に就けず、家ごと全部手放してここにきたってさ。」
と切り返す。
「へえ、そんじゃその拾いもんの包丁は相当いいもんなんかな。俺も昔ゃ家にいい皿やらいい壺やら一杯あったんだけどよお。なあに、ガキん頃の話でよぉ、あの頃はやんちゃでな、サツの世話にゃよくなったもんよ。え?今も変わらんて? がっはっは! しー! ま、俺がこんなところにいるのも、五十年前のやんちゃが原因だってわけさ。」
数日の間でおっちゃんが大体どんな人間かがつかめる程、ホームレス達はお喋りだった。おっちゃんがトレジャーハンターであることも、二十年前に駅のゴミ箱の雑誌を取り合って同業者を列車で轢かせてしまったことも、おっちゃんが無類のりんご好きなことも、このとき分かったことだ。おっちゃんは最初の日曜日まで、私をまじまじと観察してみたり、飾って眺めてみたり、何やら複雑な計算をしたり、踊ったりしていたが、日曜、決心した面持ちで砥石を買ってきて、大根の切れ端と紙やすりを片手に私を磨きだした。出来上がった私は笑いを抑えようとしたにんまり顔を刃に写す。
「和式ナイフの上物だ……。とんでもない掘り出し物だ……。ちゃんとした骨董品屋に持ってけば、アパートの一時金が払いきれる……。」
この頃から私は自分がいいナイフであることを誇りに思い始めた。大量生産のナイフとは格の違う、「余る」恐れから解放された極楽の世界に安住。誰に使われているかなんて、今じゃどうでもいいことなのだ。私は上物なのである。
かくして生まれ変わった私は小太りと細身の六十代おじさんコンビに盗まれ、骨董品屋を流れ、「日本金属骨董品大会」に出品された。ニッチな大会である。世界は広い。コンサートホールのような会場は骨董品の店主らしい髭に黒眼鏡のほこりっぽい顔ぶれで埋め尽くされていたが、彼らの目は皆少年だった。会は山場、投票で決定された今年の名金属骨董品が発表される。司会の声にドラムロール、
「金賞は三重県、黒田屋様出品の室町時代の短刀、銀賞は青森県、玄武様出品の五百年前の脇刺、銅賞は東京都、上野屋様出品の時代不明の包丁です!」
私は銅賞だった。刃物が選ばれやすいのも、三つの賞を一度に言ってしまうのもお決まりのようだった。
「店長、金賞もナイフ、銅賞もナイフ、どうしようもないっふねー」
「何ふざけたことを言ってるんだ! 全く、刃物ばっか選ぶのは大会の悪しき伝統だ! 大体昔のものが価値が高いなんて誰が決めたんだ! 誰かに相棒みたいに使われてる方がよっぽど物にとっちゃあいいもんなんだよお、お前。馬鹿馬鹿しい、帰るぞ!」
「いやそんなこと言ったら骨董品屋の存在意義が……。まだ即日競売終わってないですよ?」
有頂天だった私の心に、彼等の台詞が引っ掛かった。
私はまた骨董品屋の棚に並んだ。私は二百万の値が付けられたが為に、売れることはなかった。
「てんちょーう、この銅賞ナイフ、全然売れないですよー? こんなにぴっかぴっかなのにーなんでなんです?」
「そりゃ骨董品にしては古さがないからだ。ボロさじゃないぞ、色んな人の愛がこもった骨董品はどんだけ高くとも人々の心を打つんだよ。綺麗かは関係ないんだ。」
「だから店長は結婚できなかったんですね! ぼろいし、愛されたこともないし、綺麗かばっかり気にするし。」
「どういう意味だい!」
私の鉄の心は次第に溶けていった。あのおっちゃんとりんごを剥きたくなった。しかし名前も場所も分からぬ古びた骨董品屋、上野のホームレスと巡り合う可能性は極めて低かった。
大会から二か月近く経った日、店に小太りと細身の二人組のおじさんが入って来た。どう見ても上野のホームレスだった。
「この壺とかどうだい? 高そうじゃないか…?」
「あほ、三千円て書いてあるだろ。」
小太りは盗みのときは子分だった。店員は「神田祭」のポスターを貼っつけるのに忙しい。
「あれえ、ぬー、じゃあこの包丁は? あれこの包丁……」
「あほ、こんなもん二百万にしかならんわって高っ!」
細身から出た太い声が店内に響いた。
「あれ、いらっしゃいませー! ぇえ!?」
身なりの汚いおじさん達が包丁を持って店から走り去ろうとしていた。店員の女の子は勇敢にもおじさん達に挑むようである。
「お客さん、お金を払わないで持ってくならおっかねーことしますよ!」
小太りは威勢良く怒鳴る。
「なに馬鹿んこと言ってんだてめえ! 神童と言われた俺のかけっこの実力を見せてやるよ!」
三人は走り出した、上野の裏路地を。坂を登り、橋を越え、走り走る。一様に咲く紫陽花や、似たスーツを着たサラリーマン達を横切って。走り、走り、歩き始める。高架下に辿り着くまでに、夏の太陽はおじさん達をばてさせた。
「お前、やるじゃないか……でももう近づけねえぜ。俺はサツを相手にしたことがあるんだ、お前なんかくうしてけいしてぶっ殺してやる!」
私としてはホームレス達が私を奪えれば、おっちゃんに取り返されてもらえる確率が高くなるわけで良いのだが、私を使って人殺しをするとなると困る。警察に捕まることはものにとって地獄へ行くようなものだ。もう誰に使われることもないし、いい思い出として残ることもない。まあここは穏便に済ませるが吉。あらよあらよと刺しあぐねている内に小太りも、加勢した細身も疲れてきたようで。ただ店員の子も、ギャグセンス以外は普通の女の子だ。いつかのお巡りさんのように短刀を放り投げる芸当は難しかった。緊迫した雰囲気の中数分が過ぎ、パトカーに乗せられた店長がこらー! と怒鳴りながら近づいてくる。
小太りは行動した。包丁を持って店員の子に向かっていった。
「やめろ!」
鋭い声がして、小太りは足を止めた。まだ使えそうなノートパソコンを抱えたおっちゃんの、初めて聞く怒鳴り声だった。
小太りは少し驚いておっちゃんの方を振り向きながら、怒鳴る。
「お前だって分かるだろ! こんな生活もうたくさんだ! この包丁を売れば酒も、服も、家だって買えるんだ! あああ!」
やけになった小太りを、おっちゃんは止めに行く。店員の子と私は数秒遅ければ一体化していた。
おっちゃんは小太りの手を抑えながら言う。
「俺だってお前と同じホームレスだ! 酒だって飲みたいし家だって欲しい。だからこうして毎日努力している。だがお前は何をしている? ろくに働かず、毎日朝から晩まで麻雀をしているだけじゃないか!」
小太りは今にも泣きそうな顔で返す。
「もう無理だ……、もう俺は働けない。貰い癖がついちまったらもう、この世界からは脱け出せないんだ……」
おっちゃんは小太りから私を取った。小太りは崩れかけながら、細身とともに警察の車に乗せられた。おっちゃんはしばし考えた後私に目をやって、一言、久しぶりと声をかけた。
その後、事情聴取なんかを済ませた店員は何度もありがとうと繰り返した。おっちゃんは「いいんです、それと、これ。」と言って私を差し出した。
「ひや! あ、あの、店長、銅賞ナイフこれからも売るんですか? 私ちょっとおっかねーです。」
「ああ、いや。もう決めてあるんだ。お客さん、これはお客さんのものでしょう?」
おっちゃんは驚きの表情を浮かべた。
「このナイフへの愛、お客さんの目から感じます。きっと大切なものなのでしょう。どうぞ、うちの者を助けて頂いたお礼です。こんなもの、うちにはたくさんありますので。」
明らかに店員は「ないない、こんな高いのない。」と否定の顔をしていたが、おっちゃんの目の輝きを見て黙って微笑んだ。
「いや、でも、これは五十万はするいいナイフです。そのまま受け取るっていうのは……今度はあなたがホームレスになってしまいますよ?」
店員は、「ん? じゃあ二百万ってぼったくり?」と困惑顔をしていたが、店長は笑ってお構いなく。
「いやあホームレスになるのは嫌だなあ、じゃあうちで働きます? 丁度首にしてもいい人材がここに。」
店員は頬を膨らませていた。
「いやいや、でも主人、ああは言いましたけど私はそれなりに今の生活を気に入っているんですよ。別に家も服も、今あるもので十分なんです。ですから私には不要な貯金が五十万円あります。私はこのナイフに、五十万の価値をつけてやりたいんです。」
店長も、こう言われては仕方なく。次の日、五十万円と引き換えに私をおっちゃんに渡した。
おっちゃんの段ボールの寝床は懐かしい匂いがした。おっちゃんの買うしゅかしゅかとした感触のりんごも、懐かしかった。
おっちゃんは五十万円を支払ってから、苦しみから解放されたような、もしくは何かを諦めたような、清々しさに溢れていた。それは慣れ親しんでいた昔の家だろうか。鑑定士として腕を振るっていた骨董品屋のことだろうか。刑務所に入った数年間だろうか。犯人を取り押さえた武勇伝だろうか。どんな懐かしさも、五十万の私に封印して、いや、五十万や、私という骨董品さえ私の刃に封印して。
私の刃は右側面と左側面で、違う顔を写しながら、今はただ、りんごの皮をむく喜びと安堵に身を委ねるのみ。
最終更新:2015年08月24日 13:10