青の居ぬ間に神託 When the Blue Is Away
やはり、信号に捕まった。
目的地である骨董品屋は、信号を渡って右折すればすぐ。もう視界には入っている。徒歩で、十字路を渡るところだったので、上から見たイメージとしては、右からやってくる車を止めて、その前を横切る感じだ。デカルト座標で表現すれば、第Ⅳ象限からx軸を越えて、第Ⅰ象限へ。
ここの信号は、地元では長いと有名らしい。この土地に住んでいるわけではないので、噂に聞いただけだ。家から、電車に十七分揺られ、骨董品屋の最寄り駅から歩いて五分程度、遂にこの信号にたどり着いた。
別に、骨董品に興味があるわけではない。アパートで隣の部屋に住んでいる丹羽という男が、「このぐい呑みを修理に出してくれ」と頼んできたのだ。奴によると、「桃山は行く」代物だというが、そんなレア物アンティークが、あんなに適当な男の元へ転がり込むわけがない。そもそも、修理をしてくれるという店は、アパートから片道三十分弱。彼女と遊びに行く、などという些細な用事でその時間を惜しみ、人に桃山時代のぐい呑みをほいっ、と渡すとは、呆れた奴だ。
しかし、確かに長い。裏道から幹線道路に出るような車両用信号ではあるまいし、そろそろ二分は経つんじゃないか。まさか押しボタン式? とポールを見てみるが、何も設置されていない。ふむ、噂に違わない歩行者信号だ。
春を感じさせる柔らかな空気と、雲が出るのを躊躇うほどの日本晴。例の店先に置いてある、縁起物のたぬき。さっき通過した公園から聞こえる、近所の子供たちの喚声。イヤホンから流れる「オブラディ・オブラダ」の軽快なメロディ。それらと交わることを一切知らない風に、信号は振る舞う。ついぞ周囲を意に介したことがない。きっとこれからもこの信号は、誰ともよしみを通じず、何とも融和せず、立ち続けるのだろう。
そう考えると、横断歩道を越えたところに佇む信号機に、急に愛着がわいてきた。手を伸ばせば、触れることができる気がする。自分が、あの信号の世界に干渉する、「はじめて」になりたい。あの子とセットになって横断歩道を挟んでいる、自分と同じ側に立ったこの信号機ではなく、他でもないあの子とクロスオーヴァしたい。君は、世界から無視されているわけじゃない。なかなか青を見せない君を、こんなにも思っている人間がここにいるんだ。
はっ、いけない。信号機なんぞに、対人間でも抱いたことのない妙な感情を。どれもこれも、大抵の即席カップめんができあがるほど待たせる、あの信号機が悪い。車は、縦も横もどんどん通っていくし、歩行者だって、俺以外はどんどん通っていくし……。
待てよ? おかしいだろう。
どうして、十字路の四方向から同時に車が入ってくるんだ。どうして、俺の前に横たわっている以外の三つの横断歩道は、同時に人を運んでいるんだ。どうして、ここで待っているのが俺だけなんだ。慌てて、信号を確認する。
それは、青だった。
四つの車両用信号と、七つの歩行者信号が、同時に青を示していた。
赤なのは、俺が常に捉えていた、あいつだけだった。
それに気付いた瞬間、足もとが覚束無くなる。目眩がして、眼鏡を外した。その場に座り込む。
「おい」
急に声がした。右腕がぴくん、と跳ね上がる。
「オラクルだ」
周囲の地面を静かに抉るような、色のない声だ。黒ですらない、もっと、何もかもを巻き込んで、何もかもを無に還元するような、色。そんな色で。少なくとも信号機には無い色だ、と考えた。言いようのない力に強いられて、頭が右上を向く。パチンコ店のけばけばしい電光掲示板と目が合った。ああ、そうか、あの掲示板には、色があるんだな。
『丹羽が、彼女に捨てられたらしい』
そんな文字が流れていった。世界一どうでもいい。ギネスに載せてもいいくらい、無価値な情報だ。
首が元通りになり、目線も戻った。車が猛スピードで交差点に突っ込んでいくのが見える。その中のトラックに、こう書いてあった。
『明日はお前の母親の誕生日だ』
そうだったか、すっかり忘れていた。お袋が好きなアロマキャンドルでも見繕ってみるか。いや待て、どんな香りが適当なのだろう。第一、アロマの店に入ると、鼻がやられて話にならない。プレゼントは和菓子にしよう。
「おい」
まだいたのか。お前の声は、好みじゃない。
「揺れるから、気を付けろよ」
――ぷつん。
カンダタの掴んでいた蜘蛛の糸が切れたように、感覚が活気を取り戻した。眼鏡をかけ直す。急に視界がはっきりすると、人間はどうやら、多少の恐怖を覚えるらしい。幾つか瞬きをしたあと、手をついて、立ち上がろうとした。
だがバランスを崩し、またも倒れてしまう。地面が揺れているのだ。建物も、電線も、たぬきも、信号も、揺れている。子供たちの、ひときわ大きな喚き声が聞こえた。
行き交う車は止まった。見ると、骨董品屋の主人が歩道へ出てきて、そこへへたり込んでいる。焼き物の割れる音が、響いた。けたたましく、品のない音だ。素朴で味のある骨董品が、一斉に散るとなるとこんなに喧しいとは。幻滅だ。
思う。人が絶望している姿を目の当たりにするのは、面白いものではないと。あの骨董品屋の主人に、これから仕事を頼みたいのだ。客がここにいるという事実は、ほとんどの商品を失ったあの主人にとって、救いとなるのだろうか。
あの信号機を一瞥すると、未だに赤を示していた。
最終更新:2013年09月23日 01:03