昭和48年(1973年)、埼玉県上尾市にある高崎線上尾駅で起きた乗客による暴動事件。

前兆となった遵法闘争

 昭和48年(1973年)4月1日、山手線のバイパス路線である武蔵野線府中本町~新松戸間が開業した。武蔵野線は当時の最新技術が多く投入された路線で、自動改札機などがその顕著な例である。

 しかし開業前、国鉄労働組合(国労)は「武蔵野線合理化反対」を掲げており、昭和48年2月、3度にわたる闘争を展開。そのとばっちりを受けた利用客には不満が蓄積されていった。
 1回目は2月1~2日の2日間に渡って貨物部門が遵法闘争を行う。遵法闘争とは規則で定められたことを徹底的に遵守し、結果列車を遅延させて損害を与えるという労働争議の戦術の一つである。当時は法律によってストライキは認められていなかった。
 2回目は2月8~10日の3日間で、今度は旅客部門も遵法闘争を決行。さらに10日にはストライキ権の奪回を訴え、4時間のストライキを行う。
 そして2月28日から3月2日までの間にも遵法闘争が行われた。

 政府は遵法闘争をサボタージュだと断定し、以後行わないように指導してきた。しかし、国鉄の体制そのものにも問題があった。当時の列車ダイヤはある程度規則違反を犯さなければ維持できないものだった。つまり、当時は速度超過や信号冒進をしても、ダイヤが乱れていた時は黙認されていたのである。
 遵法闘争はその問題点をつついた戦術で、列車が遅れた際に無理な回復運転を行わず、列車は遅れっぱなしだった。それだけでも経営陣にとっては大きな損害だった。

 3月に入ると、今度は国鉄動力車労働組合(動労)が「運転保安・合理化反対」を訴えて遵法闘争を開始する。この組合には機関士や運転士といった乗務員が多数加入しているのが特徴。要求の内容はすべての踏切に警報機と遮断機を設けることと、長大トンネルや深夜時間帯には運転助士や機関助士との2人乗務の2点を求めるものだった。
 国鉄側は前者には工事を鋭意進めると言う回答を出したが、後者に関しては完全に拒絶。交渉は決裂し、状況は泥沼化した。

不満の募る利用客、暴動寸前状態だった事件前日

 遵法闘争の最大の被害者は国鉄経営陣ではなく利用客である。特に毎日通勤や通学の足として利用している人々にとっては、1ヶ月に半分もダイヤが大幅に乱れてしまってはたまったものではない。しかも当時の国鉄職員の接客態度も酷く、利用客に不満が日ごと増してゆくのも当然だった。

 3月12日の18時ごろ、上野駅の出札窓口が破壊されるという事件が発生する。当駅始発の東北本線下り普通列車が大宮始発に変更されたことに乗客が怒ったのが原因である。当時の上野駅では始発列車の行先が度々変更されていた。
 同日の22時50分ごろ、大宮駅の8番線に入線した高崎線下り普通列車の運転士と乗客の間で小競り合いが発生。この時期、東北本線の列車本数が少なく、高崎線の列車ばかりだったことがその原因で、およそ200人もの乗客が運転室に詰め寄り、運転士を線路に突き落とした。またその時、電車の標識灯などが破壊された。
 ちなみに当時の高崎線沿線は急速にベッドタウン化がされていた地域で、利用客も急速に進んでいたため、高崎線の列車が増発傾向にあったと思われる。
 この騒ぎで警察と機動隊が出動し、騒ぎはひとまず収まる。電車は応急修理の後、23時43分、53分遅れで大宮駅を発車している。

 読売新聞は3月13日付の朝刊でこの一連の騒動を報道。「忍の客"暴動寸前"」との見出しが付けられたが、まさにこの日のための予言となってしまう。

乗車率400%以上!!不満爆発で遂に起こった上尾事件

 3月13日、早朝の上尾駅。動労による遵法闘争も既に8回目となっており、乗客は遅れを見越して早めに駅に来るようになっていた。

 7時20分ごろ、3000人の乗客で溢れかえった1番線に籠原発上野行きの普通列車が定刻より約20分遅れで到着する。しかしこの列車は途中駅からの乗客で既に超満員。
 しかもこの列車は普通列車用に使用される3ドアの115系ではなく、デッキ付き2ドアの急行用169系が使用されていた。この列車は上野到着後、折り返し、急行妙高2号直江津行きになる運用が組まれており、グリーン車2両とビュッフェ車まで付いた堂々たる12両の急行列車編成だった。
 定員が840名ほどの列車に乗車率350%を超える3000人が乗車しており、そこに更に乗客が乗ろうとしても大多数の人間は乗ることが出来ず、なかなか発車できない状態にあった。

 7時40分ごろ、2番線に後続列車となる前橋発上野行きが到着するが、やはりこちらも既に超満員状態だった。こちらも急行用の165系の12両編成が用いられていた。こちらは定員940人ほどで、420%を超える4000人の乗客が乗っていたという。
 実はこの2列車の前に6本の列車が発車してなければならなかったのだが、遵法闘争の影響で、1本が発車した後、1時間ほど列車が来ない状況であった。

 上尾駅の利用客はどちらの列車にも乗れないまま時間が過ぎる。そこに後続の方の列車を先に発車させるという案内放送の後、両列車とも大宮で運転を打ち切るという案内がされた。
 これがきっかけとなり、ホームの乗客が運転室に進入。数人は線路に降りて投石などの暴力行為を開始。運転室の窓ガラスは叩き割られ、また多くの駅長室に向かう利用客も多くいた。
 運転士や車掌、駅員などは持ち場から離れ逃亡し、上尾駅構内は混乱状態になった。9時を過ぎると機動隊員50名、さらに警察官50名が駆けつけるが、その程度の人数で騒動が治まるはずもなく、10時過ぎには駅長と助役の2名が暴行で負傷し、病院に搬送される。
 さらに11時過ぎ、駅や施設の破壊行動が行われ、約300m手前でストップしていた新潟行きの特急とき2号にも被害が及んだ。

 また、乗客の中には動かない列車を諦めて約8km先の大宮駅まで歩き出す者もいた。途中の宮原駅で助役を人質に取り一緒に歩かせ、大宮駅に着いてからも助役室の占拠や列車への投石が行われ、収集がつかない状態になる。

 埼玉県警は最終的に500人以上の警官を出動させた。この騒動で高崎線大宮~高崎間全線が不通となった。このため騒動が桶川や鴻巣などにも飛び火した。結局沈静化したのは15時30分過ぎ、高崎線の全線運転再開は17時30分過ぎとなった。この時、混乱が再発しないように、国鉄はバス70台を手配し利用客の足を確保した。

 これだけの騒動が起きたにもかかわらず、逮捕者は窃盗で4名、公務執行妨害で1名、朝日新聞の記者への暴行で2名の計7名だけであった。

 この日を境に首都圏での遵法闘争は中止され、翌日14日からは平常通りの運転がなされた。他の地区ではまだ遵法闘争が続いたが、関西地区や名古屋地区で同様の騒動が発生し、
遵法闘争そのものが消えた。

人は同じ過ちを繰り返し、再び暴動事件発生

 上尾事件からわずかに1ヶ月、国鉄経営陣は定期昇給込みで約1万円(今の2万5千円くらい)の賃金引上げを発表する。金額まで回答したのは7年ぶりで、ストライキを予定していた国労と動労のうち、国労はストライキを回避しようとする。しかし、動労は7年もの間に回答がでなかったことを問題視し、4月24日から再び遵法闘争を開始した。
 この結果、再び騒動が起こったのである。

 4月24日20時30分ごろの東北本線赤羽駅。停車中の上り上野行き普通列車に対し乗客およそ1500人が折り返して下り列車にするよう要求、騒ぎを起こす。その10分後、今度は停車中の高崎行き下り普通列車の運転室を破壊。さらにその時ちょうど入線してきた青森行き下り急行津軽1号の客車の窓ガラスを破壊した。

 利用客は列車をあきらめ、線路上を歩き出し、東北本線・高崎線は全面的にストップし、乗り入れている山手線・京浜東北線・常磐線も列車の運転ができなくなった。
 混乱はどんどん拡大し、首都圏の38駅で騒動が発生。首都圏の国鉄列車網は麻痺し、次の日25日の夕方まで運転再開ができなかった。

 国労・動労はさらに4月27日からストライキに突入。国鉄経営陣の約1万4800円(今の3万6300円くらい)の賃金引上げの回答と引き換えに翌28日に収拾した。
 4月24から27日までの間に旅客列車2万5千本以上、貨物列車1万4千本以上が運休し、利用客約2500万人に影響を与えた。国鉄の減収額は約67億円(今の164億円くらい)にも達した。


当時の映像

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最終更新:2008年09月23日 19:42