巻四 本紀第四

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*唐書巻四 **本紀第四 **則天皇后 中宗   [[則天順聖皇后武氏>武則天]]は、諱を曌といい、并州文水の人である。父の[[武士]]は、官が工部尚書・荊州都督にいたり、応国公に封ぜられた。   [[后>武則天]]は年十四のとき、[[太宗]]がその容色を聞いて、選ばれて才人となった。[[太宗]]が崩ずると、[[后>武則天]]は髪を切って比丘尼となり、感業寺に住持した。[[高宗]]が感業寺に幸すると、見てよろこび、再び召されて宮殿に入った。しばらくして昭儀となり、号を宸妃に進めた。永徽六年(655)、[[高宗]]が[[皇后王氏]]を廃すると、[[宸妃>武則天]]を立てて皇后とした。[[高宗]]は顕慶年間(656-661)以降、多く病に苦しみ、百官の奏上は、時々后に決裁させ、意にそわぬことはなかったため、国政に参与した。后はすでに寵をもっぱらにして政務をともにし、しばしば上書して天下の利害を申し、人心をおさめようと努めた。しかし高宗は年を経るにつれ病に苦しみ、后はますます用いられ、ついには抑えがきかなくなってしまった。高宗は悔んで密かに廃そうとしたが、謀は洩れて果たせなかった。上元元年(674)、[[高宗]]が天皇を号し、[[皇后>武則天]]もまた天后を号し、天下の人はこれを「二聖」といった。   弘道元年(683)十二月、[[高宗]]が崩じ、[[皇太子>中宗]]が皇帝の位につき、軍国大務不決者、天后に進止を兼取させるよう詔を遺された。甲子、[[皇太子>中宗]]が皇帝の位につき、[[后>武則天]]は尊せられて皇太后となり、臨朝称制した。大赦をおこない、九品以下の勲官に一級を賜った。庚午、韓王[[李元嘉]]が太尉となり、霍王[[李元軌]]が司徒となり、舒王[[李元名]]が司空となった。甲戌、[[劉仁軌]]が尚書左僕射となり、[[裴炎]]が中書令となり、[[劉斉賢]]が侍中となり、ともに同中書門下三品となった。戊寅、[[郭待挙]]・[[魏玄同]]・[[岑長倩]]が同中書門下三品となった。癸未、[[郭正一]]が宰相を退いた。   光宅元年(684)正月癸未、嗣聖と改元した。癸巳、左散騎常侍の[[韋弘敏]]が太府卿・同中書門下三品となった。   二月戊午、[[皇帝>中宗]]を廃して廬陵王とし、これを幽閉した。己未、豫王[[李旦>睿宗]]を立てて皇帝とし、妃の[[劉氏>肅明劉皇后]]を皇后とし、永平郡王[[李成器]]を立てて皇太子とした。大赦をおこない、改元して文明とした。文武の官の五品以上のものに爵一等を、九品以上のものに勲両転を賜った。老人に版して官を授け、粟帛を賜った。職官五品以上に副官一人を推挙させた。皇太后は臨朝称制した。庚申、皇太孫[[李重照]]を廃して庶人とし、庶人[[李賢]]を巴州で殺した。甲子、皇帝が群臣を率いて武成殿に尊号をたてまつった。丁卯、皇太后は皇帝に冊した。丁丑、太常卿の[[王徳真]]が侍中となり、中書侍郎の[[劉禕之]]が同中書門下三品となった。庚辰、玉清観の道士で太中大夫の[[王遠知]]に金紫光禄大夫を贈った。   三月丁亥、[[李上金]]を徙封して畢王とし、[[李素節]]を葛王とした。   四月丁巳、滕王[[李元嬰]]が薨去した。辛酉、[[李上金]]を徙封して沢王とし、[[李素節]]を許王とした。癸酉、[[廬陵王>中宗]]を房州にうつした。丁丑、また均州にうつした。   五月癸巳、大喪のため狩猟を禁じた。   閏月甲子、礼部尚書の[[武承嗣]]が太常卿・同中書門下三品となった。   七月戊午、広州の[[崑崙]]がその都督の[[路元叡]]を殺した。乙丑、突厥が朔州を寇し、左武衛大将軍の[[程務挺]]がこれを破った。辛未、彗星が西方に出現した。   八月庚寅、[[天皇大帝>高宗]]を乾陵に葬った。丙午、[[武承嗣]]が宰相を退いた。   九月甲寅、大赦をおこない、改元した。旗幟は白を尚び、内外の官服で青のものを碧にかえ、大いに官名をかえ、東都を改めて神都とした。老子の母を追尊して先天太后とした。丙辰、左威衛大将軍の[[程務挺]]が単于道安撫大使となり、突厥に備えた。己巳、武氏の五代の祖の[[武克己]]を追尊して魯国公とし、妣の裴氏を魯国夫人とした。高祖父の[[武居常]]を太尉・北平郡王とし、妣の劉氏を王妃とした。曾祖父の[[武倹]]を太尉・金城郡王とし、妣の宋氏を王妃とした。祖の[[武華]]を太尉・太原郡王とし、妣の趙氏を王妃とした。父の[[武士]]を太師・魏王とし、妣の楊氏を王妃とした。丁丑、柳州司馬の[[李敬業]]が揚州で挙兵して乱を起こした。[[韋弘敏]]を左遷して汾州刺史とした。   十月癸未、楚州司馬の[[李崇福]]が山陽・安宜・塩城の三県をもって[[李敬業]]に帰順した。甲申、左玉鈐衛大将軍の梁郡公[[李孝逸]]が揚州道行軍大総管となり、左金吾衛大将軍の[[李知十]]が副総管となり、兵三十万を率いて[[李敬業]]をはばんだ。丁亥、左肅政台御史大夫の[[騫味道]]が内史を検校し、同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣舎人の[[李景諶]]が同鳳閣鸞台平章事となった。壬辰、[[李敬業]]が潤州を落とした。丙申、[[裴炎]]を殺した。五代の祖の[[魯国公>武克己]]を追謚して靖といい、高祖父の[[北平郡王>武居常]]を恭粛といい、曾祖父の[[金城郡王>武倹]]を義康といい、祖父の[[太原郡王>武華]]を安成といい、父の[[魏王>武士]]を忠孝といった。丁酉、曲赦揚・楚二州。[[李敬業]]の姓を徐氏に復した。[[劉斉賢]]を左遷して辰州刺史とした。[[李景諶]]が宰相を退いた。右史[[沈君諒]]・著作郎[[崔]]が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。   十一月辛亥、左鷹揚衛大将軍の[[黒歯常之]]が江南道行軍大総管となった。庚申、右監門衛将軍の[[蘇孝祥]]が[[徐敬業>李敬業]]と阿谿で戦い、ここに死んだ。乙丑、[[徐敬業>李敬業]]の将の[[王那相]]が[[徐敬業>李敬業]]を殺して降った。丁卯、[[郭待挙]]が宰相を退いた。鸞台侍郎の[[韋方質]]が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。   十二月戊子、御史を遣わして風俗を監察させた。癸卯、[[程務挺]]を殺した。   垂拱元年(685)正月丁未、大赦をおこない、改元した。庚戌、[[騫味道]]が内史を代行した。戊辰、[[劉仁軌]]が薨去した。   二月乙巳、春官尚書の[[武承嗣]]・秋官尚書の[[裴居道]]・右肅政台御史大夫の[[韋思謙]]が、ともに同鳳閣鸞台三品となった。突厥が辺境を寇し、左玉鈐衛中郎将の[[淳于処平]]が陽曲道行軍総管となってこれを攻撃した。[[沈君諒]]が宰相を退いた。   三月、[[崔]]が宰相を退いた。丙辰、[[廬陵王>中宗]]が房州にうつされた。辛酉、[[武承嗣]]が宰相を退いた。辛未、頒垂拱格。   四月丙子、[[騫味道]]を左遷して青州刺史とした。癸未、[[淳于処平]]が突厥と忻州で戦い、敗れた。   五月丙午、[[裴居道]]が納言となった。丁未、[[王徳真]]が象州に流された。己酉、冬官尚書の[[蘇良嗣]]が納言を代行した。皇帝の子の[[李成義]]を封じて恒王とした。壬戌、旱魃のため囚人の再審を行った。壬申、[[韋方質]]が同鳳閣鸞台三品となった。   六月、天官尚書の[[韋待價]]が同鳳閣鸞台三品となった。   九月丁卯、揚州で地から毛が生えた。   十一月癸卯、[[韋待價]]が燕然道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。   二年(686)正月辛酉、大赦をおこない、宴を賜うこと三日、内外官に勲一階をあげた。   二月辛未朔、日食があった。   三月戊申、銅を鋳造して匭(祭器)を造らせた。   四月庚辰、[[岑長倩]]が内史となった。   五月丙午、[[裴居道]]が内史となった。   六月辛未、[[蘇良嗣]]が同鳳閣鸞台三品となった。己卯、[[韋思謙]]が納言を代行した。   十月己巳、新豊県で山が突然盛り上がって出現し、新豊県を改め慶山とし、囚を赦して、一年税の減免を行い、民間に三日の宴会を賜った。   十二月、并州の百姓の庸・調を免除し、その終身におよんだ。   この冬、雪がなかった。   三年(687)閏正月丁卯、皇帝の子の[[李隆基>玄宗]]を封じて楚王とし、[[李隆範]]を衛王とし、[[李隆業]]を趙王とした。   二月己亥、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。丙辰、突厥が昌平を寇し、[[黒歯常之]]がこれを攻撃した。   三月乙丑、[[韋思謙]]が宰相を退いた。   四月辛丑、孝敬皇帝の妃の裴氏を追号して哀皇后といい、恭陵に葬った。癸丑、旱魃のため囚人の再審を行い、京官の九品以上に命じて言事させた。壬戌、[[裴居道]]が納言となった。   五月丙寅、夏官侍郎の[[張光輔]]が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、[[劉禕之]]を殺した。   七月丁卯、冀州の雌の鶏が雄と化した。乙亥、京師で地震があり、広州で金の雨が降った。   八月壬子、[[魏玄同]]が検校納言を兼ねた。交趾の人の[[李嗣仙]]が安南都護の[[劉延祐]]を殺し、交州に拠ったので、桂州司馬の[[曹玄静]]がこれを破った。この月、突厥が朔州を寇し、燕然道行軍大総管の[[黒歯常之]]がこれを破った。   九月己卯、虢州の人の[[楊初成]]が郎将を自称し、州人を募って[[廬陵王>中宗]]を房州で迎えようとしたが、果たせず、殺された。   十月庚子、右監門衛中郎将の[[爨宝璧]]が突厥と戦い、敗れた。   十二月壬辰、[[韋待價]]が安息道行軍大総管となり、安西大都護の[[閻温古]]が副総管となって、吐蕃を攻撃した。   この年、大飢饉があった。   四年(688)正月甲子、七廟を増やし、[[高祖]]・[[太宗]]・[[高宗]]の廟を神都に立てた。庚午、乾元殿を壊し、明堂を作った。   三月壬戌、麟台少監の[[周思茂]]を殺した。   四月戊戌、太子通事舎人の[[郝象賢]]を殺した。   五月庚申、「宝図」を洛水で得た。乙亥、尊号を加えて聖母神皇とした。   六月丁亥朔、日食があった。汜水で瑞石を得た。   七月丁巳、大赦をおこない、「宝図」を改めて「天授聖図」とし、洛水を永昌洛水とし、その神を封じて顕聖侯とし、特進を加え、漁や釣りを禁じた。嵩山を改めて神岳とし、その神を封じて天中王・太師・使持節・大都督とした。賜酺五日。戊午、京師で地震があった。   八月戊戌、神都で地震があった。丙午、博州刺史の琅邪郡王[[李沖]]が乱を討つ名目で挙兵したので、左金吾衛大将軍の丘神勣を派遣してこれをはばませた。戊申、[[李沖]]がここに死んだ。庚戌、越王[[李貞]]が乱を討つ名目で豫州で挙兵した。辛亥、曲赦博州。   九月丙辰、左豹韜衛大将軍の[[麴崇裕]]が中軍大総管となり、[[岑長倩]]が後軍大総管となり、越王[[李貞]]をはばんだ。[[張光輔]]が諸軍節度となった。越王[[李貞]]および琅邪郡王[[李沖]]の属籍を削って、その姓を改めて虺氏とした。[[李貞]]はここに死んだ。丙寅、豫州で赦した。韓王[[李元嘉]]・魯王[[李靈]]・范陽郡王[[李靄]]・黄国公[[李譔]]・東莞郡公[[李融]]および[[常楽公主]]を殺し、みなその姓を改めて虺氏とした。丁卯、左肅政台御史大夫の[[騫味道]]と夏官侍郎の[[王本立]]が同鳳閣鸞台平章事となった。   十月辛亥、大風で木が抜けた。   十一月辛酉、済州刺史の[[薛顗]]およびその弟の駙馬都尉の[[薛紹]]を殺した。   十二月乙酉、霍王[[李元軌]]・江都郡王[[李緒]]および殿中監の[[裴承光]]を殺した。唐の宗室を大いに殺し、その幼い者を嶺南に流した。己亥、[[騫味道]]を殺した。己酉、拜洛受図。辛亥、明堂を改めて万象神宮とし、大赦をおこなった。   永昌元年(689)正月乙卯、万象神宮で享し、大赦をおこない、改元し、賜酺七日。丁巳、舒王[[李元名]]を司徒とした。戊午、布政于万象神宮、頒九條以訓百官。己未、朗州の雌の鶏が雄と化した。   二月丁酉、父の太師[[魏忠孝王>武士]]を尊んで周忠孝太皇といった。崇先府官を置いた。戊戌、妣の[[楊氏]]を追謚して周忠孝太后といった。[[太原郡王>武華]]を周安成王といい、妃の[[趙氏]]を王妃とした。[[金城郡王>武倹]]を魏義康王といい、妃の[[宋氏]]を王妃とした。[[北平郡王>武居常]]を趙肅恭王といい、妃の[[劉氏]]を王妃とした。五代の祖の[[魯国公>武克己]]を太原靖王といい、夫人の[[裴氏]]を王妃とした。   三月甲子、[[張光輔]]が納言を代行した。癸酉、天官尚書の[[武承嗣]]が納言となり、[[張光輔]]が内史を代行した。   四月甲辰、汝南郡王[[李瑋]]・鄱陽郡公[[李諲]]・広漢郡公[[李謐]]・汶山郡公[[李蓁]]・零陵郡王[[李俊]]・広都郡公[[李]]を殺し、その家を巂州にうつした。己酉、天官侍郎の[[鄧玄挺]]を殺した。   五月丙辰、[[韋待價]]が吐蕃と寅識迦河で戦い、敗れた。己巳、白馬寺の僧の[[薛懐義]]が新平道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。   七月丁巳、紀王[[李慎]]を巴州に流し、その姓を虺氏に改めた。丙子、[[韋待價]]を繡州に流し、[[閻温古]]を殺した。戊寅、[[王本立]]が同鳳閣鸞台三品となった。   八月癸未、[[薛懐義]]が新平道中軍大総管となり、突厥を攻撃した。甲申、[[張光輔]]・洛州司馬の[[弓嗣業]]・洛陽令の[[弓嗣明]]・陜州参軍の[[弓嗣古]]・流人の[[徐敬真]]を殺した。乙未、松州の雌の鶏が雄と化した。辛丑、陜州刺史の[[郭正一]]を殺した。丁未、相州刺史の[[弓志元]]・蒲州刺史の[[弓彭祖]]・尚方監の[[王令基]]を殺した。   九月庚戌、恒山郡王[[李承乾]]の子の[[李厥]]を殺した。   閏月甲午、[[魏玄同]]と夏官侍郎[[崔]]を殺した。戊申、彭州長史の[[劉易従]]を殺した。   十月癸丑、涼州都督の[[李光誼]]を殺した。丁巳、陜州刺史の[[劉延景]]を殺した。戊午、右武威衛大将軍[[黒歯常之]]と右鷹揚衛将軍[[趙懐節]]を殺した。己未、嗣鄭王[[李璥]]を殺した。丁卯、春官尚書の[[范履冰]]と鳳閣侍郎の[[邢文偉]]が同鳳閣鸞台平章事となった。   天授元年(690)正月庚辰、大赦をおこない、改元して載初といい、十一月を正月とし、十二月を臘月とし、来る年の正月を一月とした。周・漢の後裔を二王後とし、舜・禹・湯の後裔を封じて三恪とし、周・隋の後裔を同列国とし、その嗣を封じた。乙未、唐の宗室の属籍を除いた。   臘月丙寅、[[劉斉賢]]を殺した。   一月戊子、[[王本立]]が宰相を退いた。[[邢文偉]]が内史となり、[[岑長倩]]・[[武承嗣]]が同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣侍郎[[武攸寧]]が納言となった。甲午、[[韋方質]]を儋州に流した。   二月丁卯、地官尚書の[[王本立]]を殺した。   三月乙酉、旱害のため膳を減らした。丁亥、[[蘇良嗣]]が薨去した。   五月戊子、范履冰を殺した。己亥、梁郡公[[李孝逸]]を殺した。   六月戊申、汴州刺史の[[柳明肅]]を殺した。   七月辛巳、舒王[[李元名]]を和州に流した。大雲経を天下に頒布した。壬午、豫章郡王[[李亶]]を殺した。丁亥、沢王[[李上金]]・許王[[李素節]]を殺した。甲午、永昌県で赦した。癸卯、太常丞の[[蘇踐言]]を殺した。   八月辛亥、許王[[李素節]]の子の[[李璟]]と曾江県令の[[白令言]]を殺した。甲寅、[[裴居道]]を殺した。壬戌、将軍の[[阿史那恵]]と右司郎中の[[喬知之]]を殺した。癸亥、尚書右丞の[[張行廉]]と太州刺史の[[杜儒童]]を殺した。甲子、流人の[[張楚金]]を殺した。戊辰、流人の[[元万頃]]と[[苗神客]]を殺した。辛未、南安郡王[[李潁]]・鄅国公[[李昭]]および諸宗室の[[李直]]・[[李敞]]・[[李然]]・[[李勲]]・[[李策]]・[[李越]]・[[李黯]]・[[李玄]]・[[李英]]・[[李志業]]・[[李知言]]・[[李玄貞]]を殺した。   九月乙亥、鉅鹿郡公[[李晃]]と麟台郎の[[裴望]]およびその弟の司膳丞の[[裴璉]]を殺した。壬午、国号を周と改めた。大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。乙酉、尊号を加えて聖神皇帝といい、[[皇帝>睿宗]]を降格して皇嗣とし、武氏の姓を賜り、皇太子を皇孫とした。丙戌、武氏の七廟を神都に立てた。周の[[文王]]を追尊して始祖文皇帝といい、妣の[[姒氏]]を文定皇后といった。四十代の祖にあたる[[平王]]の少子の[[武]]を睿祖康皇帝といい、妣の[[姜氏]]を康恵皇后といった。[[太原靖王>武克己]]を厳祖成皇帝といい、妣を成荘皇后といった。[[趙肅恭王>武居常]]を肅祖章敬皇帝といい、妣を章敬皇后といった。[[魏義康王>武倹]]を烈祖昭安皇帝といい、妣を昭安皇后といった。[[周安成王>武華]]を顕祖文穆皇帝といい、妣を文穆皇后といった。[[忠孝太皇>武士]]を太祖孝明高皇帝といい、妣を孝明高皇后といった。伯父および兄弟の子を追封して王とし、堂兄を郡王とし、諸姑姉を長公主とし、堂姉妹を郡主とした。司賓卿の[[史務滋]]が納言を代行し、鳳閣侍郎の[[宗秦客]]が内史を検校し、給事中の[[傅游芸]]が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。   十月丁巳、并州武興県の百姓に税の減免を行い、子孫が相承すること漢の高祖が豊・沛で行ったようにさせた。甲子、[[宗秦客]]を左遷して遵化尉とした。丁卯、流人の[[韋方質]]を殺した。己巳、許王[[李素節]]の子の[[李瑛]]・[[李琪]]・[[李琬]]・[[李瓚]]・[[李瑒]]・[[李瑗]]・[[李琛]]・[[李唐臣]]を殺した。辛未、[[邢文偉]]を左遷して珍州刺史とした。大雲寺を置いた。[[周公]]を封じて褒徳王とし、[[孔子]]を隆道公とした。唐の太廟を改めて享徳廟とし、武氏の七廟を太廟とした。   二年(691)正月甲戌、改めて社稷を置き、旗幟は赤を尚んだ。戊寅、雅州刺史の[[劉行実]]とその弟の渠州刺史の[[劉行瑜]]・尚衣奉御の[[劉行感]]・兄の子の左鷹揚衛将軍の[[劉虔通]]を殺した。戊子、[[武承嗣]]が文昌左相となった。庚寅、宴を賜った。乙未、[[丘神勣]]・左豹韜衛将軍の[[衛蒲山]]を殺した。庚子、[[史務滋]]を殺した。   臘月己未、始めて周臘を用いた。   四月壬寅朔、日食があった。丙午、大赦をおこなった。   五月丁亥、大風で木が折れた。[[岑長倩]]が武威道行軍大総管となり、吐蕃を攻撃した。   六月庚戌、左肅政台御史大夫の[[格輔元]]が地官尚書となり、鸞台侍郎の[[楽思晦]]、鳳閣侍郎の[[任知古]]、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。   七月庚午、徙関内七州戸以實神都。   八月戊申、[[武攸寧]]が宰相を退いた。夏官尚書の[[欧陽通]]が司礼卿となり判納言事を兼ねた。庚申、右玉鈐衛大将軍の[[張虔勗]]を殺した。   九月乙亥、岐州刺史の[[雲弘嗣]]を殺した。壬辰、[[傅游芸]]を殺した。癸巳、左羽林衛大将軍の[[武攸寧]]が納言を代行し、冬官侍郎の[[裴行本]]、洛州司馬の[[狄仁傑]]が地官侍郎となり、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。   十月己酉、[[岑長倩]]・[[欧陽通]]・[[格輔元]]を殺した。壬戌、[[楽思晦]]・左衛将軍の[[李安静]]を殺した。   長寿元年(692)一月戊辰、夏官尚書の[[楊執柔]]が同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、[[任知古]]を左遷して江夏令とし、[[狄仁傑]]を彭沢令とした。[[裴行本]]を嶺南に左遷した。乙亥、右衛大将軍[[泉献誠]]を殺した。庚辰、司刑卿の[[李遊道]]が冬官尚書・同鳳閣鸞台平章事となった。   二月戊午、秋官尚書の[[袁智弘]]が同鳳閣鸞台平章事となった。   四月丙申朔、日食があった。大赦をおこない、如意と改元した。   五月、洛水が氾濫した。七月、また氾濫した。   八月甲戌、黄河が氾濫し、河陽県を破壊した。戊寅、[[武承嗣]]・[[武攸寧]]・[[楊執柔]]が宰相を退いた。秋官侍郎の[[崔元綜]]が鸞台侍郎となり、夏官侍郎の[[李昭徳]]が鳳閣侍郎となり、権検校天官侍郎の[[姚]]が文昌左丞となり、検校地官侍郎の[[李元素]]が文昌右丞となり、営繕大匠の[[王璿]]が夏官尚書となり、そして司賓卿の[[崔神基]]、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。   九月戊戌、大霧。庚子、大赦をおこない、改元した。改用九月社、七日間の宴会を賜った。癸卯、并州を北都とした。癸丑、[[李遊道]]・[[袁智弘]]・[[王璿]]・[[崔神基]]・[[李元素]]を嶺南に流した。   十月丙戌、武威道行軍総管の[[王孝傑]]が吐蕃を破り、四鎮に勝利した。   二年(693)臘月癸亥、皇嗣の妃の[[劉氏]]と[[徳妃竇氏]]を殺した。丁卯、皇孫[[李成器]]を降封して寿春郡王とし、恒王[[李成義]]を衡陽郡王とし、楚王[[李隆基>玄宗]]を臨淄郡王とし、衛王[[李隆範]]を巴陵郡王とし、趙王[[李隆業]]を彭城郡王とした。   一月庚子、夏官侍郎の[[婁師徳]]が同鳳閣鸞台平章事となった。甲寅、尚方監の[[裴匪躬]]と内常侍の[[范雲仙]]を殺した。   三月己卯、左衛員外大将軍の[[阿史那元慶]]と白潤府果毅の[[薛大信]]を殺した。   五月乙未、冬官尚書の[[蘇幹]]と相州刺史の[[来同敏]]を殺した。癸丑、黄河が棣州で氾濫した。   九月丁亥朔、日食があった。乙未、金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、賜酺七日、七宝を作った。庚子、[[烈祖昭安皇帝>武倹]]を追尊して渾元昭安皇帝といい、[[顕祖文穆皇帝>武華]]を立極文穆皇帝といい、[[太祖孝明高皇帝>武士]]を無上孝明高皇帝といった。辛丑、[[姚]]が宰相を退いた。文昌右丞の[[韋巨源]]が同鳳閣鸞台平章事となり、秋官侍郎の[[陸元方]]が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、司賓卿の[[豆盧欽望]]が内史を代行した。   延載元年(694)臘月甲戌、[[突厥>巻二百一十五上 列伝第一百四十上]]の[[默啜]]が霊州を寇した。右鷹揚衛大将軍の[[李多祚]]がこれを破った。   一月甲午、[[婁師徳]]が河源・積石・懐遠等軍営田大使となった。   二月庚午、[[薛懐義]]が伐逆道行軍大総管となり、十八将軍を領して[[默啜]]を攻撃した。乙亥、旱魃のため囚人の再審を行った。己卯、武威道大総管の[[王孝傑]]が吐蕃と冷泉で戦い、これを破った。   三月甲申、鳳閣舎人の[[蘇味道]]が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、[[李昭徳]]が内史を検校した。[[薛懐義]]が朔方道行軍大総管となり、[[默啜]]を攻撃した。李昭徳]]が朔方道行軍長史となり、[[蘇味道]]が司馬となった。   四月壬戌、常州で地震があった。   五月甲午、越古金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。   七月癸未、嵩嶽山の人の[[武什方]]が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。   八月、[[武什方]]が宰相を退いた。戊辰、[[王孝傑]]が瀚海道行軍総管となった。己巳、司賓少卿の[[姚]]が納言を代行した。左肅政台御史大夫の[[楊再思]]が鸞台侍郎となり、洛州司馬の[[杜景佺]]が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。戊寅、[[崔元綜]]を振州に流した。   九月壬午朔、日食があった。壬寅、[[李昭徳]]を左遷して南賓尉とした。   十月壬申、文昌右丞の[[李元素]]が鳳閣侍郎となり、右肅政台御史中丞の[[周允元]]が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。嶺南の獠が辺境を寇し、容州都督の[[張玄遇]]が桂・永等州経略大使となった。癸酉、雨で木が凍った。   天冊万歳元年(695)正月辛巳、慈氏越古金輪聖神皇帝の号を加え、証聖と改元した。大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。戊子、豆盧欽望を左遷して趙州刺史とし、[[韋巨源]]を鄜州刺史とし、杜景佺を溱州刺史とし、[[蘇味道]]を集州刺史とし、[[陸元方]]を綏州刺史とした。丙申、万象神宮で火事があった。丙午、[[王孝傑]]が朔方行軍総管となり、突厥を攻撃した。   二月己酉朔、日食があった。壬子、[[薛懐義]]を殺した。甲子、「慈氏越古」の号をやめた。   三月丙辰、[[周允元]]が薨去した。   四月戊寅、大周万国頌徳天枢の碑柱を建てた。   七月辛酉、吐蕃が臨洮を寇し、[[王孝傑]]が肅辺道行軍大総管となってこれを攻撃した。   九月甲寅、南郊を祀った。天冊金輪大聖皇帝の号を加えた。大赦をおこない、改元し、九日間の宴会を賜った。先廟を崇んで崇尊廟とした。 →[[巻四 本紀第四つづき]]
*唐書巻四 **本紀第四 **則天皇后 中宗   [[則天順聖皇后武氏>武則天]]は、諱を曌といい、并州文水の人である。父の[[武士]]は、官が工部尚書・荊州都督にいたり、応国公に封ぜられた。   [[后>武則天]]は年十四のとき、[[太宗]]がその容色を聞いて、選ばれて才人となった。[[太宗]]が崩ずると、[[后>武則天]]は髪を切って比丘尼となり、感業寺に住持した。[[高宗]]が感業寺に幸すると、見てよろこび、再び召されて宮殿に入った。しばらくして昭儀となり、号を宸妃に進めた。永徽六年(655)、[[高宗]]が[[皇后王氏]]を廃すると、[[宸妃>武則天]]を立てて皇后とした。[[高宗]]は顕慶年間(656-661)以降、多く病に苦しみ、百官の奏上は、時々后に決裁させ、意にそわぬことはなかったため、国政に参与した。后はすでに寵をもっぱらにして政務をともにし、しばしば上書して天下の利害を申し、人心をおさめようと努めた。しかし高宗は年を経るにつれ病に苦しみ、后はますます用いられ、ついには抑えがきかなくなってしまった。高宗は悔んで密かに廃そうとしたが、謀は洩れて果たせなかった。上元元年(674)、[[高宗]]が天皇を号し、[[皇后>武則天]]もまた天后を号し、天下の人はこれを「二聖」といった。   弘道元年(683)十二月、[[高宗]]が崩じ、[[皇太子>中宗]]が皇帝の位につき、軍国大務不決者、天后に進止を兼取させるよう詔を遺された。甲子、[[皇太子>中宗]]が皇帝の位につき、[[后>武則天]]は尊せられて皇太后となり、臨朝称制した。大赦をおこない、九品以下の勲官に一級を賜った。庚午、韓王[[李元嘉]]が太尉となり、霍王[[李元軌]]が司徒となり、舒王[[李元名]]が司空となった。甲戌、[[劉仁軌]]が尚書左僕射となり、[[裴炎]]が中書令となり、[[劉斉賢]]が侍中となり、ともに同中書門下三品となった。戊寅、[[郭待挙]]・[[魏玄同]]・[[岑長倩]]が同中書門下三品となった。癸未、[[郭正一]]が宰相を退いた。   光宅元年(684)正月癸未、嗣聖と改元した。癸巳、左散騎常侍の[[韋弘敏]]が太府卿・同中書門下三品となった。   二月戊午、[[皇帝>中宗]]を廃して廬陵王とし、これを幽閉した。己未、豫王[[李旦>睿宗]]を立てて皇帝とし、妃の[[劉氏>肅明劉皇后]]を皇后とし、永平郡王[[李成器>李憲]]を立てて皇太子とした。大赦をおこない、改元して文明とした。文武の官の五品以上のものに爵一等を、九品以上のものに勲両転を賜った。老人に版して官を授け、粟帛を賜った。職官五品以上に副官一人を推挙させた。皇太后は臨朝称制した。庚申、皇太孫[[李重照>李重潤]]を廃して庶人とし、庶人[[李賢]]を巴州で殺した。甲子、皇帝が群臣を率いて武成殿に尊号をたてまつった。丁卯、皇太后は皇帝に冊した。丁丑、太常卿の[[王徳真]]が侍中となり、中書侍郎の[[劉禕之]]が同中書門下三品となった。庚辰、玉清観の道士で太中大夫の[[王遠知]]に金紫光禄大夫を贈った。   三月丁亥、[[李上金]]を徙封して畢王とし、[[李素節]]を葛王とした。   四月丁巳、滕王[[李元嬰]]が薨去した。辛酉、[[李上金]]を徙封して沢王とし、[[李素節]]を許王とした。癸酉、[[廬陵王>中宗]]を房州にうつした。丁丑、また均州にうつした。   五月癸巳、大喪のため狩猟を禁じた。   閏月甲子、礼部尚書の[[武承嗣]]が太常卿・同中書門下三品となった。   七月戊午、広州の[[崑崙]]がその都督の[[路元叡]]を殺した。乙丑、突厥が朔州を寇し、左武衛大将軍の[[程務挺]]がこれを破った。辛未、彗星が西方に出現した。   八月庚寅、[[天皇大帝>高宗]]を乾陵に葬った。丙午、[[武承嗣]]が宰相を退いた。   九月甲寅、大赦をおこない、改元した。旗幟は白を尚び、内外の官服で青のものを碧にかえ、大いに官名をかえ、東都を改めて神都とした。老子の母を追尊して先天太后とした。丙辰、左威衛大将軍の[[程務挺]]が単于道安撫大使となり、突厥に備えた。己巳、武氏の五代の祖の[[武克己]]を追尊して魯国公とし、妣の裴氏を魯国夫人とした。高祖父の[[武居常]]を太尉・北平郡王とし、妣の劉氏を王妃とした。曾祖父の[[武倹]]を太尉・金城郡王とし、妣の宋氏を王妃とした。祖の[[武華]]を太尉・太原郡王とし、妣の趙氏を王妃とした。父の[[武士彠]]を太師・魏王とし、妣の楊氏を王妃とした。丁丑、柳州司馬の[[李敬業>徐敬業]]が揚州で挙兵して乱を起こした。[[韋弘敏]]を左遷して汾州刺史とした。   十月癸未、楚州司馬の[[李崇福]]が山陽・安宜・塩城の三県をもって[[李敬業>徐敬業]]に帰順した。甲申、左玉鈐衛大将軍の梁郡公[[李孝逸]]が揚州道行軍大総管となり、左金吾衛大将軍の[[李知十]]が副総管となり、兵三十万を率いて李敬業をはばんだ。丁亥、左肅政台御史大夫の[[騫味道]]が内史を検校し、同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣舎人の[[李景諶]]が同鳳閣鸞台平章事となった。壬辰、李敬業が潤州を落とした。丙申、[[裴炎]]を殺した。五代の祖の[[魯国公>武克己]]を追謚して靖といい、高祖父の[[北平郡王>武居常]]を恭粛といい、曾祖父の[[金城郡王>武倹]]を義康といい、祖父の[[太原郡王>武華]]を安成といい、父の[[魏王>武士彠]]を忠孝といった。丁酉、揚・楚の二州に曲赦を行った。[[李敬業>徐敬業]]の姓を徐氏に復した。[[劉斉賢]]を左遷して辰州刺史とした。[[李景諶]]が宰相を退いた。右史[[沈君諒]]・著作郎[[崔詧]]が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。   十一月辛亥、左鷹揚衛大将軍の[[黒歯常之]]が江南道行軍大総管となった。庚申、右監門衛将軍の[[蘇孝祥]]が[[徐敬業]]と阿谿で戦い、ここに死んだ。乙丑、徐敬業の将の[[王那相]]が徐敬業を殺して降った。丁卯、[[郭待挙]]が宰相を退いた。鸞台侍郎の[[韋方質]]が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。   十二月戊子、御史を遣わして風俗を監察させた。癸卯、[[程務挺]]を殺した。   垂拱元年(685)正月丁未、大赦をおこない、改元した。庚戌、[[騫味道]]が内史を代行した。戊辰、[[劉仁軌]]が薨去した。   二月乙巳、春官尚書の[[武承嗣]]・秋官尚書の[[裴居道]]・右肅政台御史大夫の[[韋思謙]]が、ともに同鳳閣鸞台三品となった。突厥が辺境を寇し、左玉鈐衛中郎将の[[淳于処平]]が陽曲道行軍総管となってこれを攻撃した。[[沈君諒]]が宰相を退いた。   三月、[[崔詧]]が宰相を退いた。丙辰、[[廬陵王>中宗]]が房州にうつされた。辛酉、[[武承嗣]]が宰相を退いた。辛未、頒垂拱格。   四月丙子、[[騫味道]]を左遷して青州刺史とした。癸未、[[淳于処平]]が突厥と忻州で戦い、敗れた。   五月丙午、[[裴居道]]が納言となった。丁未、[[王徳真]]が象州に流された。己酉、冬官尚書の[[蘇良嗣]]が納言を代行した。皇帝の子の[[李成義>李撝]]を封じて恒王とした。壬戌、旱魃のため囚人の再審を行った。壬申、[[韋方質]]が同鳳閣鸞台三品となった。   六月、天官尚書の[[韋待價]]が同鳳閣鸞台三品となった。   九月丁卯、揚州で地から毛が生えた。   十一月癸卯、[[韋待価]]が燕然道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。   二年(686)正月辛酉、大赦をおこない、宴を賜うこと三日、内外官に勲一階をあげた。   二月辛未朔、日食があった。   三月戊申、銅を鋳造して匭(祭器)を造らせた。   四月庚辰、[[岑長倩]]が内史となった。   五月丙午、[[裴居道]]が内史となった。   六月辛未、[[蘇良嗣]]が同鳳閣鸞台三品となった。己卯、[[韋思謙]]が納言を代行した。   十月己巳、新豊県で山が突然盛り上がって出現し、新豊県を改め慶山とし、囚を赦して、一年税の減免を行い、民間に三日の宴会を賜った。   十二月、并州の百姓の庸・調を免除し、その終身におよんだ。   この冬、雪がなかった。   三年(687)閏正月丁卯、皇帝の子の[[李隆基>玄宗]]を封じて楚王とし、[[李隆範>李範]]を衛王とし、[[李隆業>李業]]を趙王とした。   二月己亥、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。丙辰、突厥が昌平を寇し、[[黒歯常之]]がこれを攻撃した。   三月乙丑、[[韋思謙]]が宰相を退いた。   四月辛丑、孝敬皇帝の妃の裴氏を追号して哀皇后といい、恭陵に葬った。癸丑、旱魃のため囚人の再審を行い、京官の九品以上に命じて言事させた。壬戌、[[裴居道]]が納言となった。   五月丙寅、夏官侍郎の[[張光輔]]が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、[[劉禕之]]を殺した。   七月丁卯、冀州の雌の鶏が雄と化した。乙亥、京師で地震があり、広州で金の雨が降った。   八月壬子、[[魏玄同]]が検校納言を兼ねた。交趾の人の[[李嗣仙]]が安南都護の[[劉延祐]]を殺し、交州に拠ったので、桂州司馬の[[曹玄静]]がこれを破った。この月、突厥が朔州を寇し、燕然道行軍大総管の[[黒歯常之]]がこれを破った。   九月己卯、虢州の人の[[楊初成]]が郎将を自称し、州人を募って[[廬陵王>中宗]]を房州で迎えようとしたが、果たせず、殺された。   十月庚子、右監門衛中郎将の[[爨宝璧]]が突厥と戦い、敗れた。   十二月壬辰、[[韋待価]]が安息道行軍大総管となり、安西大都護の[[閻温古]]が副総管となって、吐蕃を攻撃した。   この年、大飢饉があった。   四年(688)正月甲子、七廟を増やし、[[高祖]]・[[太宗]]・[[高宗]]の廟を神都に立てた。庚午、乾元殿を壊し、明堂を作った。   三月壬戌、麟台少監の[[周思茂]]を殺した。   四月戊戌、太子通事舎人の[[郝象賢]]を殺した。   五月庚申、「宝図」を洛水で得た。乙亥、尊号を加えて聖母神皇とした。   六月丁亥朔、日食があった。汜水で瑞石を得た。   七月丁巳、大赦をおこない、「宝図」を改めて「天授聖図」とし、洛水を永昌洛水とし、その神を封じて顕聖侯とし、特進を加え、漁や釣りを禁じた。嵩山を改めて神岳とし、その神を封じて天中王・太師・使持節・大都督とした。賜酺五日。戊午、京師で地震があった。   八月戊戌、神都で地震があった。丙午、博州刺史の琅邪郡王[[李沖]]が乱を討つ名目で挙兵したので、左金吾衛大将軍の[[丘神勣]]を派遣してこれをはばませた。戊申、[[李沖]]がここに死んだ。庚戌、越王[[李貞]]が乱を討つ名目で豫州で挙兵した。辛亥、曲赦博州。   九月丙辰、左豹韜衛大将軍の[[麴崇裕]]が中軍大総管となり、[[岑長倩]]が後軍大総管となり、越王[[李貞]]をはばんだ。[[張光輔]]が諸軍節度となった。越王[[李貞]]および琅邪郡王[[李沖]]の属籍を削って、その姓を改めて虺氏とした。[[李貞]]はここに死んだ。丙寅、豫州で赦した。韓王[[李元嘉]]・魯王[[李霊夔]]・范陽郡王[[李靄]]・黄国公[[李譔]]・東莞郡公[[李融]]および[[常楽公主]]を殺し、みなその姓を改めて虺氏とした。丁卯、左肅政台御史大夫の[[騫味道]]と夏官侍郎の[[王本立]]が同鳳閣鸞台平章事となった。   十月辛亥、大風で木が抜けた。   十一月辛酉、済州刺史の[[薛顗]]およびその弟の駙馬都尉の[[薛紹]]を殺した。   十二月乙酉、霍王[[李元軌]]・江都郡王[[李緒]]および殿中監の[[裴承光]]を殺した。唐の宗室を大いに殺し、その幼い者を嶺南に流した。己亥、[[騫味道]]を殺した。己酉、洛受図を拝した。辛亥、明堂を改めて万象神宮とし、大赦をおこなった。   永昌元年(689)正月乙卯、万象神宮で享し、大赦をおこない、改元し、賜酺七日。丁巳、舒王[[李元名]]を司徒とした。戊午、万象神宮で政務を行い、九条にわかって百官に読み上げた。己未、朗州の雌の鶏が雄と化した。   二月丁酉、父の太師[[魏忠孝王>武士彠]]を尊んで周忠孝太皇といった。崇先府官を置いた。戊戌、妣の[[楊氏]]を追謚して周忠孝太后といった。[[太原郡王>武華]]を周安成王といい、妃の[[趙氏]]を王妃とした。[[金城郡王>武倹]]を魏義康王といい、妃の宋氏を王妃とした。[[北平郡王>武居常]]を趙粛恭王といい、妃の劉氏を王妃とした。五代の祖の魯国公(武克己)を太原靖王といい、夫人の裴氏を王妃とした。   三月甲子、[[張光輔]]が納言を代行した。癸酉、天官尚書の[[武承嗣]]が納言となり、[[張光輔]]が内史を代行した。   四月甲辰、汝南郡王[[李瑋]]・鄱陽郡公[[李諲]]・広漢郡公[[李謐]]・汶山郡公[[李蓁]]・零陵郡王[[李俊]]・広都郡公[[李璹]]を殺し、その家を巂州にうつした。己酉、天官侍郎の[[鄧玄挺]]を殺した。   五月丙辰、[[韋待価]]が吐蕃と寅識迦河で戦い、敗れた。己巳、白馬寺の僧の[[薛懐義]]が新平道行軍大総管となり、突厥を攻撃した。   七月丁巳、紀王[[李慎]]を巴州に流し、その姓を虺氏に改めた。丙子、[[韋待価]]を繡州に流し、[[閻温古]]を殺した。戊寅、[[王本立]]が同鳳閣鸞台三品となった。   八月癸未、[[薛懐義]]が新平道中軍大総管となり、突厥を攻撃した。甲申、[[張光輔]]・洛州司馬の[[弓嗣業]]・洛陽令の[[弓嗣明]]・陜州参軍の[[弓嗣古]]・流人の[[徐敬真]]を殺した。乙未、松州の雌の鶏が雄と化した。辛丑、陜州刺史の[[郭正一]]を殺した。丁未、相州刺史の[[弓志元]]・蒲州刺史の[[弓彭祖]]・尚方監の[[王令基]]を殺した。   九月庚戌、恒山郡王[[李承乾]]の子の[[李厥]]を殺した。   閏月甲午、[[魏玄同]]と夏官侍郎[[崔詧]]を殺した。戊申、彭州長史の[[劉易従]]を殺した。   十月癸丑、涼州都督の[[李光誼]]を殺した。丁巳、陜州刺史の[[劉延景]]を殺した。戊午、右武威衛大将軍[[黒歯常之]]と右鷹揚衛将軍[[趙懐節]]を殺した。己未、嗣鄭王[[李璥]]を殺した。丁卯、春官尚書の[[范履冰]]と鳳閣侍郎の[[邢文偉]]が同鳳閣鸞台平章事となった。   天授元年(690)正月庚辰、大赦をおこない、改元して載初といい、十一月を正月とし、十二月を臘月とし、来る年の正月を一月とした。周・漢の後裔を二王後とし、舜・禹・湯の後裔を封じて三恪とし、周・隋の後裔を同列国とし、その嗣を封じた。乙未、唐の宗室の属籍を除いた。   臘月丙寅、[[劉斉賢]]を殺した。   一月戊子、[[王本立]]が宰相を退いた。[[邢文偉]]が内史となり、[[岑長倩]]・[[武承嗣]]が同鳳閣鸞台三品となり、鳳閣侍郎[[武攸寧]]が納言となった。甲午、[[韋方質]]を儋州に流した。   二月丁卯、地官尚書の[[王本立]]を殺した。   三月乙酉、旱害のため膳を減らした。丁亥、[[蘇良嗣]]が薨去した。   五月戊子、范履冰を殺した。己亥、梁郡公[[李孝逸]]を殺した。   六月戊申、汴州刺史の[[柳明肅]]を殺した。   七月辛巳、舒王[[李元名]]を和州に流した。大雲経を天下に頒布した。壬午、豫章郡王[[李亶]]を殺した。丁亥、沢王[[李上金]]・許王[[李素節]]を殺した。甲午、永昌県で赦した。癸卯、太常丞の[[蘇踐言]]を殺した。   八月辛亥、許王[[李素節]]の子の[[李璟]]と曾江県令の[[白令言]]を殺した。甲寅、[[裴居道]]を殺した。壬戌、将軍の[[阿史那恵]]と右司郎中の[[喬知之]]を殺した。癸亥、尚書右丞の[[張行廉]]と太州刺史の[[杜儒童]]を殺した。甲子、流人の[[張楚金]]を殺した。戊辰、流人の[[元万頃]]と[[苗神客]]を殺した。辛未、南安郡王[[李潁]]・鄅国公[[李昭]]および諸宗室の[[李直]]・[[李敞]]・[[李然]]・[[李勲]]・[[李策]]・[[李越]]・[[李黯]]・[[李玄]]・[[李英]]・[[李志業]]・[[李知言]]・[[李玄貞]]を殺した。   九月乙亥、鉅鹿郡公[[李晃]]と麟台郎の[[裴望]]およびその弟の司膳丞の[[裴璉]]を殺した。壬午、国号を周と改めた。大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。乙酉、尊号を加えて聖神皇帝といい、[[皇帝>睿宗]]を降格して皇嗣とし、武氏の姓を賜り、皇太子を皇孫とした。丙戌、武氏の七廟を神都に立てた。周の文王を追尊して始祖文皇帝といい、妣の姒氏を文定皇后といった。四十代の祖にあたる平王の少子の武を睿祖康皇帝といい、妣の姜氏を康恵皇后といった。太原靖王(武克己)を厳祖成皇帝といい、妣を成荘皇后といった。趙粛恭王(武居常)を粛祖章敬皇帝といい、妣を章敬皇后といった。[[魏義康王>武倹]]を烈祖昭安皇帝といい、妣を昭安皇后といった。[[周安成王>武華]]を顕祖文穆皇帝といい、妣を文穆皇后といった。[[忠孝太皇>武士彠]]を太祖孝明高皇帝といい、妣を孝明高皇后といった。伯父および兄弟の子を追封して王とし、堂兄を郡王とし、諸姑姉を長公主とし、堂姉妹を郡主とした。司賓卿の[[史務滋]]が納言を代行し、鳳閣侍郎の[[宗秦客]]が内史を検校し、給事中の[[傅游芸]]が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。   十月丁巳、并州武興県の百姓に税の減免を行い、子孫が相承すること漢の高祖が豊・沛で行ったようにさせた。甲子、[[宗秦客]]を左遷して遵化尉とした。丁卯、流人の[[韋方質]]を殺した。己巳、許王[[李素節]]の子の[[李瑛]]・[[李琪]]・[[李琬]]・[[李瓚]]・[[李瑒]]・[[李瑗]]・[[李琛]]・[[李唐臣]]を殺した。辛未、[[邢文偉]]を左遷して珍州刺史とした。大雲寺を置いた。周公を封じて褒徳王とし、孔子を隆道公とした。唐の太廟を改めて享徳廟とし、武氏の七廟を太廟とした。   二年(691)正月甲戌、改めて社稷を置き、旗幟は赤を尚んだ。戊寅、雅州刺史の[[劉行実]]とその弟の渠州刺史の[[劉行瑜]]・尚衣奉御の[[劉行感]]・兄の子の左鷹揚衛将軍の[[劉虔通]]を殺した。戊子、[[武承嗣]]が文昌左相となった。庚寅、宴を賜った。乙未、[[丘神勣]]・左豹韜衛将軍の[[衛蒲山]]を殺した。庚子、[[史務滋]]を殺した。   臘月己未、始めて周臘を用いた。   四月壬寅朔、日食があった。丙午、大赦をおこなった。   五月丁亥、大風で木が折れた。[[岑長倩]]が武威道行軍大総管となり、吐蕃を攻撃した。   六月庚戌、左肅政台御史大夫の[[格輔元]]が地官尚書となり、鸞台侍郎の[[楽思晦]]、鳳閣侍郎の[[任知古]]、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。   七月庚午、徙関内七州戸以實神都。   八月戊申、[[武攸寧]]が宰相を退いた。夏官尚書の[[欧陽通]]が司礼卿となり判納言事を兼ねた。庚申、右玉鈐衛大将軍の[[張虔勗]]を殺した。   九月乙亥、岐州刺史の[[雲弘嗣]]を殺した。壬辰、[[傅游芸]]を殺した。癸巳、左羽林衛大将軍の[[武攸寧]]が納言を代行し、冬官侍郎の[[裴行本]]、洛州司馬の[[狄仁傑]]が地官侍郎となり、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。   十月己酉、[[岑長倩]]・[[欧陽通]]・[[格輔元]]を殺した。壬戌、[[楽思晦]]・左衛将軍の[[李安静]]を殺した。   長寿元年(692)一月戊辰、夏官尚書の[[楊執柔]]が同鳳閣鸞台平章事となった。庚午、[[任知古]]を左遷して江夏令とし、[[狄仁傑]]を彭沢令とした。[[裴行本]]を嶺南に左遷した。乙亥、右衛大将軍[[泉献誠]]を殺した。庚辰、司刑卿の[[李遊道]]が冬官尚書・同鳳閣鸞台平章事となった。   二月戊午、秋官尚書の[[袁智弘]]が同鳳閣鸞台平章事となった。   四月丙申朔、日食があった。大赦をおこない、如意と改元した。   五月、洛水が氾濫した。七月、また氾濫した。   八月甲戌、黄河が氾濫し、河陽県を破壊した。戊寅、[[武承嗣]]・[[武攸寧]]・[[楊執柔]]が宰相を退いた。秋官侍郎の[[崔元綜]]が鸞台侍郎となり、夏官侍郎の[[李昭徳]]が鳳閣侍郎となり、権検校天官侍郎の[[姚璹]]が文昌左丞となり、検校地官侍郎の[[李元素]]が文昌右丞となり、営繕大匠の[[王璿]]が夏官尚書となり、そして司賓卿の[[崔神基]]、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。   九月戊戌、大霧。庚子、大赦をおこない、改元した。改用九月社、七日間の宴会を賜った。癸卯、并州を北都とした。癸丑、[[李遊道]]・[[袁智弘]]・[[王璿]]・[[崔神基]]・[[李元素]]を嶺南に流した。   十月丙戌、武威道行軍総管の[[王孝傑]]が吐蕃を破り、四鎮に勝利した。   二年(693)臘月癸亥、皇嗣の妃の[[劉氏]]と[[徳妃竇氏]]を殺した。丁卯、皇孫[[李成器]]を降封して寿春郡王とし、恒王[[李成義]]を衡陽郡王とし、楚王[[李隆基>玄宗]]を臨淄郡王とし、衛王[[李隆範]]を巴陵郡王とし、趙王[[李隆業]]を彭城郡王とした。   一月庚子、夏官侍郎の[[婁師徳]]が同鳳閣鸞台平章事となった。甲寅、尚方監の[[裴匪躬]]と内常侍の[[范雲仙]]を殺した。   三月己卯、左衛員外大将軍の[[阿史那元慶]]と白潤府果毅の[[薛大信]]を殺した。   五月乙未、冬官尚書の[[蘇幹]]と相州刺史の[[来同敏]]を殺した。癸丑、黄河が棣州で氾濫した。   九月丁亥朔、日食があった。乙未、金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、賜酺七日、七宝を作った。庚子、[[烈祖昭安皇帝>武倹]]を追尊して渾元昭安皇帝といい、[[顕祖文穆皇帝>武華]]を立極文穆皇帝といい、[[太祖孝明高皇帝>武士]]を無上孝明高皇帝といった。辛丑、[[姚璹]]が宰相を退いた。文昌右丞の[[韋巨源]]が同鳳閣鸞台平章事となり、秋官侍郎の[[陸元方]]が鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、司賓卿の[[豆盧欽望]]が内史を代行した。   延載元年(694)臘月甲戌、[[突厥>巻二百一十五上 列伝第一百四十上]]の[[默啜]]が霊州を寇した。右鷹揚衛大将軍の[[李多祚]]がこれを破った。   一月甲午、[[婁師徳]]が河源・積石・懐遠等軍営田大使となった。   二月庚午、[[薛懐義]]が伐逆道行軍大総管となり、十八将軍を領して[[默啜]]を攻撃した。乙亥、旱魃のため囚人の再審を行った。己卯、武威道大総管の[[王孝傑]]が吐蕃と冷泉で戦い、これを破った。   三月甲申、鳳閣舎人の[[蘇味道]]が鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となり、[[李昭徳]]が内史を検校した。[[薛懐義]]が朔方道行軍大総管となり、[[默啜]]を攻撃した。李昭徳]]が朔方道行軍長史となり、[[蘇味道]]が司馬となった。   四月壬戌、常州で地震があった。   五月甲午、越古金輪聖神皇帝の号を加え、大赦をおこない、改元し、七日間の宴会を賜った。   七月癸未、嵩嶽山の人の[[武什方]]が正諫大夫・同鳳閣鸞台平章事となった。   八月、[[武什方]]が宰相を退いた。戊辰、[[王孝傑]]が瀚海道行軍総管となった。己巳、司賓少卿の[[姚璹]]が納言を代行した。左肅政台御史大夫の[[楊再思]]が鸞台侍郎となり、洛州司馬の[[杜景佺]]が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。戊寅、[[崔元綜]]を振州に流した。   九月壬午朔、日食があった。壬寅、[[李昭徳]]を左遷して南賓尉とした。   十月壬申、文昌右丞の[[李元素]]が鳳閣侍郎となり、右肅政台御史中丞の[[周允元]]が鳳閣侍郎を検校し、ともに同鳳閣鸞台平章事となった。嶺南の獠が辺境を寇し、容州都督の[[張玄遇]]が桂・永等州経略大使となった。癸酉、雨で木が凍った。   天冊万歳元年(695)正月辛巳、慈氏越古金輪聖神皇帝の号を加え、証聖と改元した。大赦をおこない、民間に三日の宴会を賜った。戊子、[[豆盧欽望]]を左遷して趙州刺史とし、[[韋巨源]]を鄜州刺史とし、[[杜景佺]]を溱州刺史とし、[[蘇味道]]を集州刺史とし、[[陸元方]]を綏州刺史とした。丙申、万象神宮で火事があった。丙午、[[王孝傑]]が朔方行軍総管となり、突厥を攻撃した。   二月己酉朔、日食があった。壬子、[[薛懐義]]を殺した。甲子、「慈氏越古」の号をやめた。   三月丙辰、[[周允元]]が薨去した。   四月戊寅、大周万国頌徳天枢の碑柱を建てた。   七月辛酉、吐蕃が臨洮を寇し、[[王孝傑]]が肅辺道行軍大総管となってこれを攻撃した。   九月甲寅、南郊を祀った。天冊金輪大聖皇帝の号を加えた。大赦をおこない、改元し、九日間の宴会を賜った。先廟を崇んで崇尊廟とした。 →[[巻四 本紀第四つづき]]

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