崔群 さいぐん
772-832
中唐の宰相(在任817-819)。字は敦詩。貝州武城県の人である。進士・賢良方正科に及第し、秘書省校書郎、右補闕・翰林学士・中書舎人、戸部侍郎となる。元和十二年(817)中書侍郎同中書門下平章事(宰相)となる。
皇甫鎛と対立し、元和十四年(819)十二月に罷免されて、湖南観察使となった。かつて中書舎人であったとき、憲宗の制書をつくるよう命じられた際に遂王(後の穆宗)が嫡子であって太子とすべきであると主張し、そのため穆宗が即位すると、厚遇されて吏部侍郎、御史大夫、検校兵部尚書、武寧節度使となった。節度副使の
王智興によって追放され、左遷されて秘書監、分司東都、華州刺史、宣歙池観察使、兵部尚書、荊南節度使、吏部尚書を歴任した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2024年03月19日 01:29