蘇定方 そていほう
592-667
中国、唐の武将。名は烈。字は定方。諡は荘。冀州・武邑(河北省衡水県)の人。「驍勇多力、胆気絶倫」といわれ、父の蘇邕が大業(605-615)末、郷閭のもの数千人を率いて賊を討ったとき、わずか10才でこれにしたがった。父の死後、郡守の命をうけて
張金称・
楊公卿らの賊を討ち、郷党の間に名をはせた。その後、
竇憲徳に仕え、さらに貞観(627-649)の初め、
李靖にしたがって突厥の頡利可汗を討ち、功によって左武侯中郎将を授けられた。ついで高句麗遠征にしたがい、さらに永徽(650-656)中、
程知節にしたがって西突厥の逆将阿史那賀魯の討伐におもむいたが、諸将間の意見不一致のため失敗した。657(顕慶2)年、行軍大総管としてふたたび阿史那賀魯を討ち、ついに彼を捕えて西域全土を安泰にした。功をもって左驍衛大将軍にうつされ、邢国公に封ぜられた。その後、西域の叛酋思結闕俟斤都曼(シケツユルイルキントマン)の反乱を平定し、また660(顕慶5)年には、水陸10万の兵を率いて百済を討ち、国王の義慈らを捕虜にして東都に献じた。その後、遼東道行軍大総官として高句麗を攻め、また涼州安集大使として吐蕃・吐谷渾を討った。死後、左驍衛大将軍幽州都督を贈られた。
参考文献
『アジア歴史事典5』(平凡社、1960年)
外部リンク
最終更新:2024年08月15日 11:22