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鄭玄

鄭玄 じょうげん

127-200
後漢の経学者。「ていげん」とも。北海・高密(山東省高密県南西)の人。字は康成。若いとき仕えて郷嗇夫となったが、生来、学を好み、吏となるのを楽しまず、ついに太学にいたり京兆の第五元に師事して、『京氏易』『公羊伝』『三統暦』『九章算術』を学び、また東郡の張恭祖より、『周官』『礼記』『左氏伝』『韓詩』『古文尚書』を受けた。さらに扶風の馬融に7年間師事して郷里に帰った。そのときすでに40才をすぎていた。家が貧しく、小作農を営むかたわら諸生に教授し、したがう学徒は1,000人にも達した。たまたま黄巾の乱が起こり、10余年禁錮に処せられ、ついに隠遁して経学を修め、門を閉じて出なかった。この間に、公羊学者の何休は、公羊学の価値を誇って、『公羊墨守』(公羊は墨子の守城のごとく難攻不落であるの意)という書を著わし、また左氏学と穀梁学は、 廃人にもひとしい無用の邪説であるというので、『左氏膏育』(不治の病)、『穀梁廃疾』という2書を作った。しかし鄭玄は、何休のそれらの主張をいちいち反論して、公羊については、何休の難攻不落とするところを攻略し、左氏や穀梁については、その非難を弁護して書を作り、それぞれ、何休の3書を論詰したものという意味で、『発墨守』(墨守を開発するの意)、『鍼膏肓』(不治の病を治すの意)、『起廃疾』(廃疾者を再起せしめるの意)と名づけた。当時経学界では、今文学と古文学との対立論争があったが、鄭玄において古文学が確立されるにおよび、漢代経学は、統一的に集大成されるにいたった。黄巾の侵略を避けて、一時徐州に移ったこともあるが、196(建安元)年にはふたたび高密に帰った。弟子らの遠方から集まる者数千人、黄巾の賊も彼の徳望に服して、その県境はあえて侵さなかった。左中郎将、博士、趙相、侍中、大司農等の官に徴されたが、みな辞してつかなかった。『周易』『尚書』『毛詩』『儀礼』『周礼』『礼記』『論語』『尚書大伝』『中候』『乾象暦』に注し、また『天文七政』『論魯礼禘祫義』『大芸論』『毛詩譜』『駁許慎五経異議答臨孝存周礼難』を著わした。なかでも三礼の注は、礼学の宗として今日行なわれる。『鄭志』8編は門弟らの録したものである。

参考文献

『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』鄭玄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E7%8E%84

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最終更新:2026年02月04日 23:30
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