●なぜシステム論を導入しなければならないのか
前回は世界観というお話をして、「見る」ということが哲学の大きなベースであるということを確認しました。「見る」ということを、何かがあることの確認としてではなく、行為として考えたい。言い方を変えると、世界観というのは、「見た」内容の集合体ではなくて、集合体の作り方が各自のなかにどのように入っているかということであり、その生み出し方という部分に行為性を見出すことはできないか、ということを言ったつもりです。
世界観というものを取り上げた人として、ディルタイ(Wilhelm Dilthey, 1833-1911)の『世界観学(Weltanschauungslehre)』に書いてあった三つの契機、三つのモチーフを、それぞれを概観しました。つまり、宗教、芸術、形而上学です。このときに、問題は二つあります。一つは「誰が見ているのか」ということ、もう一つは、「これらのモチーフはどのように行為に関わるのか」ということです。
「私がそれぞれの道具を使って私の世界観を生み出す」。これが一般的な世界観に関する考え方だと思います。つまり「私」が先にある。けれど、宗教をやっている人は、「私が宗教を使っている」と思っているでしょうか? そうではなくて宗教というシステムのなかにみずからを預けて、信仰に即したかたちで、私というものを作っていきますよね。芸術、文芸の場合はどうでしょう? 私が芸術なり文芸なりというものを使って作品を書いているんだ、と言う作家は大抵二流の作家です。よく神様が降りてきてなんたらという言い方を一流の作家はするじゃないですか。それから技法、スタイルということが問題になりますね。この場合、文芸という何事かが、私を通して何かを生み出している、という見方ができると思います。学問の場合はどうでしょうか? 私が学問を使って何かをしようとするのでしょうか。もちろんそういうことも言えるでしょう。しかし真理や、普遍的妥当性を要求しない学問は学問といえるでしょうか。そして真理や普遍妥当性というものは、私がどうこうできるものでしょうか。
こういうことを考えていったとき、「私」というものを先に立ててはいけないことがわかるわけです。なぜかといえば、私が神様の位置に収まってしまうから。一番強い[=あることを疑われない]神様として、私ができてしまう。果たしてそれでいいんだろうか。世界観を考えていくときに、「私」というものを先に立てないために、媒介項としてシステムというものを考えたらどうだろうか。それが前回の最後に言ったことでした。
それではシステムというものは一体何なのでしょうか。システムという言葉を聞くと、なんとなくわかった気になるよね。今はそのまま横文字で書くことが多いけれど、「システム」という言葉の訳語にはいろいろあって、昔は「体系」と訳したんです。物理学においては、「系」と訳しました。それぞれニュアンスが全く違う。システムとは何か、というふうに問いかけられた時に、それぞれの分野の人たちがシステムについて説明する内容は全く違う。「体系」という言葉を使うのは、前回もご紹介したドイツ観念論です。「系」は物理学。「システム」は工学、経済学、心理学、中には『システム哲学入門』なんていう本もあります。あと最近は、オートポイエシスということも言われます。皆さんはそれぞれ一体どういう使い方をされているのかと。それぞれの「システム」の共通項は一体何なのかと。よくわからないわけですよ。
前回お話したドイツ観念論の三人、フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte, 1762-1814)、シェリング(Friedrich Schelling, 1775-1854)、ヘーゲル(Georg Hegel, 1770-1831)は、普遍的妥当性というものを考えるために、もう一度「見る」ということを、ただし観念論のシステムの中において、記述するということを試みました。三人で異なるのは、システム同士の結合概念、システム間を結びつける契機です。です。フィヒテはかなり単独のものとしての「行為」、「事行」、シェリングは「自然」、ヘーゲルは「歴史」を、それぞれ考えだしました。ただしドイツ観念論と言った時に彼らは、観念のレベルで考えていたんですね。そのときに「見る」ということが、主体が見るということではなくて、見られるシステムというところに重点を置くわけですよ。ではそのシステムを見るのは誰なのか、という問いかけが起こったときに、これはヘーゲルが典型的なのですが、「世界精神が見る」ということをいうわけですよ。歴史は世界の自己展開であると。「世界精神の自己了解」としてのヘーゲル流の弁証法(先程の三人はみんな弁証法を使うのですが)を作るのですね。そうすると問題が起こってきます。システムを見る世界精神のなかにいる私たちは一体何なんだろうか。そもそも世界精神って一体何なんだろうと。
さてそういうところからシステム論という話に持っていこうとしたときに、困ってしまうわけです。皆さん、システムという言葉を通して言うことが全く違うから。
ここ三回ほどシステム論の話をするんですが、あらかじめ言っておくと、非常にきついところがあって、うまく整理できるかわかりません。それでもシステム論をやるのは、科学がどのように哲学に影響してくるか、そのコントラストを、科学哲学を概観することを通してみていこうと思っているからです。科学には、社会体制という含意もあるし、知性の体系という意味もあるということから、やはりシステムだという観点からみたい。
●システム論とは何か
さてそう考えた時にいくつか重要なポイントがあります。ドイツ観念論はイデア、つまり観念のレベルで我々が自由に要素として指定できるものを考える。もちろん基礎として何を取るかといった時には一番妥当なものか考えるわけですけれども。
例えばフィヒテは「事行(Tathandlung)」を考えます。これは行為をするということなのですけれども、行為というのは、行動+意思という、分節されたものが組み合わされる形で表されることが多いです。特に現在の分析哲学においては。ところがフィヒテは、行為ということは世界の中にあることであると同時に、世界を作っていくものの現われであるとします。つまり行為を、分節できない一つのものであるとみなします。二つのものの組み合わせではなくて、一つのものの異なる二つの側面であると考えるわけです。同じようなことを言っているように思えるかもしれませんが違うんですよね。つまり体系に何を用意して問うているかが違うわけです。
最初に文節が入っているのか、そうでないのか。ヘーゲルの弁証法だったら前者ですね。お互いに相手を排除しあうテーゼとアンチテーゼが同時にあることで、新しいジンテーゼが生まれるという図式を書こうとしているわけですから。
わかれている二つがあって、それが組み合わさって体系を作っていくというイメージと、そうではなくて一つのものがあって別れていくというイメージはそこだけ見ると同じように思えるけれども、その周辺に何があるか、何を同じものであると考えるかが全く異なってきます。これは哲学というもっと一般的な思考の問題なんだけれども、A+B=Cという書き方をしたときに、 A+B→CとC→A+Bでは、やっていることが違うわけですよ。A+B=Cを抽象的に読む。これはもちろん重要なことです。けれど、A+B→Cという理解の仕方と、C→A+Bという理解の仕方は、それぞれの後ろに何が隠れているかが違うわけです。ふつう科学という場合には、背景が同じであるということを前提として話すわけです。でも本当にそれでいいのか、ということが特にフィヒテの場合には問題になるわけです。最初から分節されているわけではなくて、最初は一つなのだから合わせていこうと。
そういうフィヒテのような考え方は、例えば日本においては、西田幾多郎(1870-1945)1にみられるわけです。西田幾多郎はドイツに留学したことがありまして、特にマーブルグの現象学をやっている人たちと、一緒に勉強したことがあります。彼の思想を非常にわかりにくいんだけれども、最後は、いまでは言葉だけがよく流通している「絶対矛盾の自己同一性」という概念にたどり着きます。僕も西田の方はちょっと読んだことがあるんだけれど、よくわからなくて、岩波哲学小事典を読んだら、何のことはない、最初に分けられないものがあって、それを彼は「媒介者M」2と呼ぶんだよね。何だかよくわからないけれどもまとまっているもの。この「媒介」という概念は、中央大学にいる新田さんが『媒体性の現象学』3といって現象学の方から考えていますけれども、やはり現象学の系統から派生したものと考えられます。つまり「媒介」というのは、「見る」の構造化であると考えられるわけです。何かを見るときには距離が必要なわけです。例えば、彼がここから僕を見ているよね。でもそのあいだには距離があるわけです。見ていることは、あいだに依存するわけね。でもこの間自体は見えないわけ。でもこのあいだがないと見るという事が成立しない。だから彼と僕がいて見るという事が成立するのではなくて、彼と僕のあいだがあってみるということが成立する。これが「媒介」の発想なんです。「媒介」は見えない。けれど主観と客観の二つの極に分かれたとき、「媒介」そのものが二つを決めていくと。それを西田は「限定」というんですよ。この「限定」を非常に単純に考えると、これが自己限定なんですよ。「媒介」が世界の全体ですと言った時に、見えているのにそのものとしては絶対に見えないわけだから、世界のスタートが絶対矛盾なんですよ。「媒介」というのは自分自身が見えないのに、他者を見せるという意味で――これは差異の構造と一緒なんだけれども――「矛盾」と呼ばれているわけです。 A≠Aの矛盾を言っているわけではないんですよ。
ただこういうふうに説明したときに、この体系もまた、ひとつのシステムですよね。
この各々の「事行」の関係が、システムいうものを考える一つの発想になります。これは河本さんの本を読んで、うろ覚えなんだけれども、システムと言った時にまず私たちが目にするのは、いろんなものが沢山あるということ。沢山のものが関係しているということです。このとき関係の内実がどういうものかは言わないわけです。一般的な意味で関係をしている。その関係があるために一つのまとまった全体は、要素となっている個々の部分をただ集めただけのもの以上のもののようにとらえられる。というのが一応、一番ゆるいシステムの共通了解らしいのですよね。でもね、こう言って、何かを言ったことになるでしょうか。確かにそう見えるよねということはわかる。じゃあその実態は何ですか。そう言われた時に、何でもアリなんですよね。逆にいうと、一つ一つの要素をただ足し合わせただけということがもうよくわからないわけですよ。極端な話を持ち出すと、数学の集合論において、1+1=2と、1 1 1 1 1 1…と並んでいることは違う、ということを言って、数のシステムとかいうことをいうわけですよ。でも、後者のように、ただ1が並んでいるなんということを、私たちは考えるでしょうか。システムは「部分の総和<全体」という不当式で表せるわけね。でも「部分の総和」って何でしょう? 「全体」と言った時にどこまでが全体なのでしょう? そういうことを真面目に考えだそうとするとわからなくなるわけですよ。だからみんなそれぞれシステムに内実を与えようとして、いろいろ考えるわけですね。
ところが、システムというものは数学的、集合論的なやり方以外、、でも考えられるのではないかと考えられるようになります。システムには、私たちが対象として目につきやすい二つの例があるわけですよ。つまり、「社会」と「生命」です。社会システム、これは非常にわかりやすい。生命、これもそこら辺に転がっている。例えばゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832)は植物に「形成力」があるという議論をしているところで、生命のシステムの話をしています。
物理系のシステムというのはなにか。例えば、私の知り合いで脳科学をやっている人なんですけれども、もともとは石油プラントの技師で、配管されているパイプの中でいろいろ流量を調整して石油同士がぶつかって波をおこすのを防ぎ、故障を避けるという仕事をしていた人がいます。それでもある日、事故が起こってしまったんだって。あちらこちらでどかんどかんと故障が起こっているときに、「これが脳の発火なのではないか」と思って脳科学を始めたという変な人がいるんですけれども、そういう工学的なタイプのシステムがあげられます。また、物理的なものはシステムであるという言い方をしたときに、私たちは物理学還元主義と言われるものを思い浮かべる。これはニュートン(Sir Isaac Newton, 1643-1727)及びカント(Immanuel Kant, 1724-1804)の影響です。
また、デカルト(René Descartes, 1596-1650)は、私たちの心と外を二分したときに、外にあるのは、延長の性質しかないというわけです。延長の性質ということは、時間と位置さえ決めればわかる。デカルトは、時間がどのように成立するか。位置がどのように成立するかということに関して、「充満説」4というものとっていて、先に枠があるのではなく、充満したものから作られていくという立場をとっているのですけれども。とにかく時間と位置というものが決まればそいつを知ることはできるんだと、そう考えます。それを使ってシステムというものを考えようと、手段としてとらえる限りは、どちらも大して差がありません。つまり「延長(extension)」を考えるわけです。「延長」は物体の主要な属性であり、外部であるわけですよ。「思惟(cogitation)」、これは精神の主要な属性であり、私たちの心ですね。前々回にあったコギト・エルゴ・スムのコギトの実体と考えるわけです。心は自分には見えないし、感じるだけですから――どのように感じるかは、また問題なのですが――、ほうっておきましょう。このように外側=「延長」だけでやりましょうというのが、デカルトの発想なわけです。そしてそれをそのまま受け継いでいるのが、近代科学の枠組みでもあるわけです。外側がわかれば、それが形而上学的基礎なのだからいいだろうという。それ以外は余分なもの、見かけだけのものである、と。
ところが、だんだんそうじゃないような気がしてくる。それはちゃんと科学史でやらなければいけないんですけれども、例えば電気という現象への着目があげられます。電気はもともと生気論として考えられてきました。現代においても、電気というのは独特の力なんですよね。統一場理論5でも、四つの力うちの三つの統合が目指されていますけれども、やっぱり電力は重力とは違うものと見なされていますから。実験的には、電気の検証というものは、フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790)もやっていますから、18世紀にすでに行われている。あれは静電気でしたけれども。そしてマックスウェル(James Clerk Maxwell, 1831-1879)が現代の形にまとめたわけですね。
生命について話をすると、それまで生命というのものは、単に魂の概念だったわけです。デカルトの生命論というものもうちょっといろいろあるんだけれども、基本的には「思惟」としての人間にしかその時代の人は興味がなかったんです。生命そのものは、独特な何らかの存在である。そういう観念がいつできたのか、じつはわかりません。何しろ生物学=バイオロジーという言葉は、まだ新しい言葉ですから。今年でダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809-1882)が生誕200年、『種の起源』(1859)が執筆150年ということで、皆さんお祭り騒ぎをしていますが、ダーウィン以前にいたラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744-1829)が、バイオロジーを比較的新しい言葉として、文献の上で使い始めた。それまでは博物学だったわけです。つまり分類だったわけです。分類ということは先程言った、総和の間の関係を階層的に作るという営為なんです。博物学の分類の条件として形態の間の関連性があげられます。ダーウィンやリンネはそれに着目して大きな仕事をしました。ただ、彼らは生物学=バイオロジーとは全然違う発想でやっていたわけです。内容としては現代においても使うことができますが。
そういう状況に対して、いまお話したとおり、ゲーテが文句を言ったと。ただ分類しただけでは、生命はわからない。みずから生まれてくる力があるんだと。似たような主張が、アリストテレスの四原因説のなかにもみられます7。質量因、形相因、作用因、目的因。この四つというのは、生命も含むような動的なものを分析していたわけ。じつをいうと現代では、目的因がつぶされて、質量因と作用因が強調されている。全部じゃないですけれども、材料があって、作用が起こる、というのが現代の見方です。アリストテレスの議論をオミットしているわけね。目的因を復活させようとする人は、現代でもいます。そして生命という部分が、どこに重点を置くかといえば、やはり目的因におきたくなるんだよね。作用因は機械でしょう。機械はただ動くだけですからね。生命は生きている以上、何か目的があるのではないかと思いたくなるわけです。
生命そのものを目的といっていいのだろうか。独特の働き方として考えた方がいいのではないか。ゲーテの「形成力」もこういうことを背景としています。形を作る。延長、つまりビリヤードボールがお互いを弾きあうという運動によってだけではなく、そういう形を作るのだという、違うレベルでの原因を考えようとしたのがゲーテです。ただそうすると原因が二種類になってしまう。物理学や数学がすごく成功を収めた理由というのは、実をいうと情報を無視するからです。これは僕の議論だけれども。
皆さんは「情報」というと、モノを思い浮かべると思います。情報を組み立てて何かを作るという、プラモデルみたいなイメージがすごくあるでしょう。ところが情報にはもう一つ意味がある。与えられた情報を持っているということは、私たちを縛るんですよ。すでに与えられているある情報と矛盾するような情報を持ってはいけないという縛りが。つまり、ある情報を忘れるということはその情報から自由になるということでもあるんです。その制約によって分裂していたものが、一緒になることができる。そういう側面が忘れるということには、すごくあるんです。でもここほとんど言われていない。もちろんシステム論を議論している人の中にはそういう人もいますけれども、普通の科学哲学の流れの中から行くと、ほとんどここのところに触れる人はいません。むしろ社会システム論の中で、そういう議論をする人が多いようです。
今言った生命の話を絡めて一つの例を出してみますね。これは数学の例だけれども。皆さんは、「順序対」って言葉を知っているよね。集合論というのは、ある意味で数学のうえの物理還元主義のようなものです。つまり集合という次元ですべての情報が化けるわけですら。たまたま集合論という装置を使って考えているから、数式の両辺が同じものと考えられているだけで、どうしてそういう装置を使うのかといえば、「イコール」を出したいがために、僕らが勝手に決めているわけですよ。つまり集合論という装置で一般的に支えることができたから、これを採用しましょうということで、いろいろな議論をするわけですが、私たちはそういう経緯を忘れてしまうわけです。両辺の「イコール」を導き出すためのシステムではなく、他のシステムを導入したとしたら一体どういうことになるだろう。まあ数学の集合論の場合は、非常に強力な装置なので心配ないようにできているけれども。
私たちは、すべての情報を使ったりすることはないわけですよ。部分的な情報しか使わない。そして忘れるということをする。そうすると先程言った、生命という形を新たな情報を加えるという言い方自体が、プラモデルを作られる側で言っているわけです。そしてそれを知っている私たちは、その外側にいるわけです。だからシステム論の中で、とりわけシステム行為論の場合は、システムの方に視点を移す。システムの方に視点を移したらどうなるか。私たちの目から離れる。私たちの目から離れるということはどういうことか。それは全部を知っているという、あるいは還元するという目から――還元の場合も、その中にすべての情報を収めてしまうわけですから、全部知っているということになるのですが――全部を知らない目に移行するわけですよ。すべての情報を知らないからこそ、神様の目から見れば、違っているように見えるものを一緒にすることができるわけです。そして神様の目で見ていることが本当だと思っているからこそ、そこから外れるものは幻想だ、嘘だ、影だという言葉が出てくるというわけです。もし神様がいなかったら、それらは一体どうしてそれらが間違いであるといえるのか? そして神様がいるという保証はどこにあるのか? 完全な情報があるという保証はどこにあるのか? すべての情報を知るということを理想として考えていいかもしれない。けれどその理想とは一体何か。あなたが外にいてそれを書きたい、それを見たい、それを知りたい。しかもあなたは自分自身が変わらないで、相手を作ることができる。あなたはあらかじめすべてを持っている。――そういう理想ですよね。これはかなり極端な言い方だけれども。
だからいま、システム論とかオートポイエシスとか言っている人たちは、そういうことではないものの見方をやろうとしているわけです。行為の立場にたつということはある意味で情報を忘れるということなんです。
そしてそれは表からみているわけではない。河本さんが、本の中で言っているのだけれども、何かを一生懸命やっているときに、一生懸命やっている自分を外から見ることを一瞬忘れることがあるわけですよね。例えば剣道なんかで、相手が面を打ってくるときにいくつかの動作を想定して、よしこれで大丈夫だ、と判断してから動くというモデルでは、たいてい負けてしまいますよね。これは実際に機械でプログラムしたことがあるんだけれども。つまり余分な情報処理をしているから間に合わなくなってしまうわけです。だからそうではなくてもっと反射的に動くやつの方が、はるかに効率的に動くことができる。またテレビでこの前やっていましたけれども、「ホッケ柱」というものがあります。北海道のほうで、何千匹も何万匹もホッケが海中で渦を巻いているんだって。なぜ渦をまくかというと、渦をまくことによって起こる対流で、餌となるプランクトンが海面から下の方へ落ちてくるからで、それをみんなで食う。このホッケ柱をプログラムとして外側から目的因で見ようとすると、余分な情報がすごくかかってしまう。けれどシミュレーションで解析する時はそうではない。そこにいるホッケの視点に立つ。そのことによって情報をなくすことによって、しかし多数の個体が結合することによって、何かすることができる。
ホッケ柱と似たようなものとして、京都大学の杉丸さんが出している立体交差点の例があります。例えば市ヶ谷の交差点で、授業に向かう人とか、仕事に向かう人とか、これから帰る人とかが一斉にすれ違うわけですよね。どうしてあの集団はぶつからないのでしょうか。皆さんはぶつからないように、こう動いたらいいんじゃないか、なんて考えていないよね。杉丸さんの行ったシミュレーションは、①前にいるやつにくっついていく。②自分が一番先頭になったときは、隙間のある方に進む。このような単純な変数だけで書かれたシミュレーションで、うまくすれ違うことができたわけです。
これを鳥の群に応用したものもあります――僕は専門じゃないから名前を忘れてしまったんだけれども。群れを作るときにどうするか。これは何通りもやり方があるのだけれども、①前の仲間の飛ぶ方向を見る、②その方向にあわせるようにする、③隣のやつとぶつからないようにする。これだけで形としてかなり群らしいものができるそうです。つまり情報を捨てるということで、生成型のシステムというものができるわけです。特に生命の場合にそのような議論が強くなっていく。だから最初からすべての情報を用意しておいて、その中からピックアップしてくる。という発想ではなくて――実際に私たちは完全な情報を持っているわけではないからね――最初から完全ではない情報を使って、それを持ち上げていくというタイプのシステム論が、いま工学、社会学、生物学とかの分野で非常によく応用されています。応用するという言い方はちょっとおかしいんだよね。そういうものとして考えている、と言ったほうがいいのかな。
最終更新:2012年10月03日 13:34