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第04回 2009年10月12日(後編)

●情報が足りない。情報がある。
 でもここで大きな問題が起こってくるわけです。足りない情報って一体何でしょう。どうして私たちは足りない情報ということをいうことができるんでしょう。誰が、それが足りないと決めるんでしょう。世界に情報が足りないという概念とは一体どこにあるのでしょう。それが問題となる。この問題は先程言ったドイツ観念論とつながってきます。河本さんはそこを強調して、システム論とはドイツ観念論の発展形態だというのだけれども。
 そもそも情報があるという概念はどういう概念なのでしょうか。これが実は誰もよくわかっていないのです。日本人では、河本さんがオートポイエシスというところで、触れています。また、西垣透さんが『基礎情報学』を書いています。情報という概念に依拠すると言った時に、その状態を幾つも理解する方法があるわけですよ。とりあえず一番ベーシックの方法は「実在」に対応させるわけですね。これがドイツ観念論とシステム論をつなぐものでもあるわけです。ある意味では質量といってもいい。「思惟」に対応するものとして、情報を考えるわけです。情報が実在に覆いかぶさっていると。そして実在の世界というものはよくわからない。そしてここのところを「物自身(das Ding)」と言い、ここのところを「現象(phenomenon)」「表象(Vorstellung)」と言うのがカントであるわけです。カントは言いました。「物自身はわからない。私たちは、現象や表象のことしかわからない」と。でもカントはこうも言っている。「これは認識のレベルでの話である」。つまり「見る」のレベルの話である。そしてカントは、これに対してもう一段上のレベルを言っている。これが、カントの場合も、「行為」だったんですよ。実践理性批判における理性の事実というもの、私たちが世界に関与するという事実、だから前も言ったけれども行為ということは、何かが変わるとうことと結びついています。前回はまず物理的な行為というもの考えましたよね。そのときに見るという行為は、外見上は、それがない。私が変わるのだから。そこからスタートして議論を始めたわけですよね。ところが今言ってレベルまで考えてくると、世界という事と私ということのレベルをまず分けて、物理的に世界の諸々を動かす行為と、心の内容として、認識的に私が動く行為と、考えるのだろうか。つまり、完全に世界と私が分離するという前提のなかで議論するような事なのだろうか。そうではなくてある情報が正しいとか、うまくいくとかいう時は、世界と私がインタラクションを起こしている、つまりつながりこそがベースにあっていい。先程の、西田の発想というのはそこにつながっていくわけですよ。
 つまり行為というものは世界に結果を残すということだけではない。行為の中で、私も変わるんです。そのなかで、インタラクションというものをどう考えるかをもまた問題になってくるわけです。つまりあるものとあるものがぶつかったときにそれを僕らは見ることができる。でも問題なのは、ぶつかったものにおけるインタラクションなんだよね。それが、フィヒテが「事行」と言ったことです。そういうレベルでものを作っていきましょうと。
 けれどそういうレベルを私たちはよくわからないわけですよ。行為をしているということは非常に個別的なことですから。そして、個別的なことに関して、私たちはコミュニケーションすることができません。正確に言えば、個別的な事柄は、コミュニケーションの内容になりません。今コミュニケーションが成立しているということは、僕と君たちの間で何かが起こっているわけだよね。でもそうした時はコミュニケーションの内容とか、それが反復されたり、継続されたりすることに関して、考えることは難しくなってしまう。物理還元主義においてはそれがうまくできてしまうわけですよ。物理学においては物が移動するから。物が移動して配置の問題として考えることができるようになるから。ものを移送するという運動のイメージが非常に有効なんですよ。だからぼくらがコミュニケーションをするときも、内容を伝えるというイメージが非常に整理するのに有効なんですよ。その内容というものは、本に書かれたり、録音されたり、噂話として、だんだんと伝わっていく。そのように考えることが、先程から行っているシステムという一つのまとまりを作り出すかのようにイメージするのが私たちにとっては非常にわかりやすいわけですよ。でも本当にそうなのでしょうか?
 もの=内容が移っていくと言った時にそのもの=内容は一体どこにあるのでしょうか? 物理学の場合は、ものがあるように見えるわけです。けれどシステム論の立場から言えば、そのものは、分子の集団であるわけで、分子の集団が移っていくということはいえるけれどもその形が移っていくということに関しては、どういうことなんでしょうか? 変形しながら移っていっても、いいじゃないか。例えばここで僕が、「idea」と書く。ここにあるのは、 i,d,e,aという四つのもの=文字だよね。これが、順番が入れ替わりながら、移動した時に意味をなすかい? なさないよね。だからもの=内容が伝わっていくと言ったときに、単純にものの単位がはっきりしているという条件がなければよくわからないわけですよ。
 じゃあ、ものの単位、形というものは一体何なの? といった時にまた問題となってしまう。そのときに一番ベーシックな原型として、何か生み出すという概念が、実は形成と言っていることの話なんです。河本さんのオートポイエシスはそこに焦点を当てている。もちろんいろいろなコノテーションとかがあって一言でいいにくいのだけれども、そういうことができます。

●システム論のなかでの「単位」―①オートポイエシス
 だから今言ったような形を形成するという行為、世界とのインタラクション――この「世界」という言葉もいい加減だよね。完全な情報がないというのに何が世界なんだという。だからインタラクションだけでいいわけです。カントは、「相互作用(Interaktion)」と言ってこれがベースだと考えていました。――そういう行為や、インタラクションが複数あった場合に、複数となるときに、どう絡み合うか、そしてどういう戦略を取るか。そういうこと考えることが、システム論の中で今一番気になっているところです。オートポイエシスの場合に、河本さんは、彼はもともと現象学者なので、「経験を拡大するのだ」というすごいことを言っています。カントは、あるものの形成作用というものを言っています。
 オートポイエシスということについて、もう一度確認しておくと、「システムが自動的に自分を作る」ということです。オートポイエシスで作られるのは、システムなんですよ。つまり循環的な定義にしかなっていないのね。河本さんの場合は、いくつかの前史があって、しかもシステムがバラバラにあるから―例えば、肝細胞や受精卵とかを想定しているのですが―解析しにくいところがあったんだけれども、それをオートポイエシスという概念で考えてみたら、ということ出しています。マトゥーラとヴァレラにおいては、生成されるのは、脳における自己だったわけですよ。どのような制御のもとで、自己が生成されるのか。マトゥーラはすごく物を作るのがうまい頭のいい人で、十年ぐらい前に彼の本を読んだのだけれど、言葉がめちゃくちゃで何を言っているのかよくわからない。ヴァレラも『身体化した自己』という本を出しています。彼らが問題としていたのは、やはり自己で、それは脳科学における中心問題となるわけです。
 形成作用というのは、先程言った単位の形成の話ということになるわけです。ところがシステムの場合は、この単位というものは必ずしも塗りつぶしされた単位ではないわけです。普通単位というものは塗りつぶされている。だから、関係は外延的関係であるということになる。ところがシステム論の場合は、単位がこうなっていて、要素が幾つもあって、それらの要素がお互いに関連しあって、かつ表と関連しているということになっているから、「単位」の意味が変わってしまう。ですから単位をどのように容認するかというところで話が変わってきてしまう。複数をとるということは、同時に単位を考えなければならないということでもある。しかし、非常に厄介なのは、システムの内部の単位という可変的なものが、システム自体が単位となったときにどうなるかという問題なんですよ。この時にさきほどの移送のモデルでないものを考えるとすると、めちゃくちゃ難しい。オートポイエシスの議論ではカップリングという言葉を使っているけれども、正直なところよくわからない。

●システム論のなかでの「単位」―②量子力学
 もう一つ同じような例ですけれども、量子力学があります。量子力学的の視点は、私たちの常識にかなり合わないところがある。その理由を単純に言ってしまうと、古典物理学においては、今見えているものは完全な情報を私たちに与えるということを前提としています。つまり今見えているものが、情報としても完全であると考えるわけです。それが物理還元主義のベースにもなっているわけです。ところが量子力学においては、見えているものは、情報として不完全です。それが、「確率」や「波動関数」、「状態」として語られることなのですが、すべては見えていない、見えているものは情報の一部分でしかない、と考えるわけです。だから見えていない情報を完全なシステムにしようとすると、いろいろ定式化があるはずなんだけれども、とりあえず今公式なものとなっているのは、フォン・ノイマンが定式化したヒルベルト空間のシステムを使って書きます。何が問題のかというとまさにこれなんですよ。つまりシステムとして一つの単位の中で、情報を整理することは量子力学ではほとんど完璧にできている。しかし、二つのシステムの結合をどうするか。これがわからない。二つの量子系というものがあったときに、二つの単位の結合というものをどうするか。二つ並べておいてもだめですよね。インタラクションを見えない部分で作らなければならない。だから最初から一つの単位を用意しなければならない。それではシステムが無限個あったらどうするんでしょうか。そのように考えていくと量子力学というのは、ハイゼンベルク(Werner Heisenberg、1901-1976)が考えたように、どんどん範囲を広げていくことになるわけです。ハイゼンベルクは行列力学で、フォン・ノイマンの定式のベースとなるものを作った人ですけれども、彼はベクトルの行列で書いたんですよ。それはある意味で情報を捨てる操作であり、情報のうまい捨て方を表現したと言ってもいいんだけれども。
 あとシュレーディンガー(Erwin Schrödinger, 1887-1961)という人は、数学的には等価なのだけれども、波の概念でやりました。これが波動関数です。モデルにすると、水面にものが落下したときに波が立ちますよね。厳密にはあの波ではないんです。そうではなくてずーっとなり続けている波です。位相波と集団波というんですけれど。不完全情報の例としては、「シュレーディンガーの猫」が有名です。一つのシステムのなかで分割するということについての問題です。ご存知の人も多いかと思いますけれども、説明しておきます。ある箱の中に放射線物質を用意しておきます。放射性物質は、一時間の間に1/2の確率で分裂します。分裂すると、ガイガーカウンターがそれを検出し、青酸ガスを箱のなかに撒きます。一時間たったときに箱の中の猫は死んでいるでしょうか生きているでしょうか。量子力学においては答えがない。情報が完全ではないわけです。つまり両方が重ね合わせという状態である情報としてあるんだけれども、確定する情報がない。規制する情報と、材料である情報がずれている。箱を開ければわかるよ、という人もいるでしょうが、その人もまた、箱の中にいるとしたらどうなるんでしょうか。そうなるとどんどん広がっていってしまうわけです。そういうわけで皆困っているわけです。もう一方の、物理的な単位を完全に塗りつぶした、点とした単位をものすごく厳密な解析にかけているのが相対性理論です。全く違うものをくっつけようとしてみんな頑張っているわけです。量子力学の欠点というのは、どうしても見えないところで可能な情報をすべて用意してしまうというところです。これは数学的な話です。本当の物理はそこの間にあるはずだ。そう考える人もいます。でも量子力学の数学化は便利だから、何とかこいつからしか動かすことができない。全く同じことが、私たちが単位を作ろうとしたときに、ものを移動させる、なにかを受け取るという、物理学においてものが動くというわかりやすいモデルにも言えるわけです。だからその中間点でない場所を考える。

●ベルタランフィとルーマン
 そうした時にいくつかのやり方というものがありまして、19世紀後半から20世紀にかけまして、生物学や、社会学、これは企業集団や官僚なんですよね、そういうものに対して、表現のテクニックを応用しようとした人たちがいます。前者はオーストリアの生物学者ベルタランフィ、『一般システム理論』(1945)が翻訳されています。後者はニコラス・ルーマン、彼はオートポイエシスについても触れています。僕が持ってきたのは『目的概念とシステム合理性』という本です。この2人が行為の方につながる方向で書いています。ベルタランフィは政治現象を現象として記述する仕方を模索しています。その中でベースにしていくのが、自分の経験の中から、生物の動き方―動き方といっても形だけではなくて、化学的反応や、成長率なども含めて数学的に表現することができるといったところの現象論としてシステムという概念を考え、そうとらえ直しました。だからベルタランフィをはっきりこう書いています。システムは「作業仮説」であると。
 脳科学でワーキングメモリという言葉を聞いたことがあるでしょうか。物理的にあるものではなく、動作を行っているときに、機能的にメモリがあると考えるといろいろうまく説明することができるというものです。「作業仮説」というのはそういうもので、説明のための仮説です。ベルタランフィは科学をやりたい。科学というものは世界を説明するものである。世界を説明するための途中で想定する。経験科学のベースで科学というものを言った上で、こういうものを用意してきている。
 ニコラス・ルーマンもあくまで社会科学者です。この本のあとに出版された『社会システム理論』でオートポイエシスに触れていますが、その萌芽は『目的意識と…』にあるようです。彼はこの本の中で、システムをあくまでも作業仮説であるけれども、ニコラス・ルーマンはシステムというものの最もゆるい定義として、次のように述べています。
 「システムは差し当たって形式的に述べるなら、それは同一性である。複雑で、変動する環境の中で、内と外の差異を安定化させることにより自己を維持しようとする同一性である」。
 しかしこれでも問題が出てきてしまう。つまりシステムの範囲って何なの? 誰から見て同一なの? という問題です。ニコラス・ルーマンは社会科学者なので、企業集団や官僚組織、ボランティアなど人間が集合してやっているものを対象とするわけです。例えば、皆さんは大学組織の成員であると同時に、個人でもあるという意味でシステムではない。しかし、私たちの大学という意味で組織=システムと私のつながりというものをどこかで知っているわけです。単純に学生だからという役割もあるんだけれども、学生という役割に限定されない個人というものもあるよね。人間が社会をなすということは、私たちが、そこに参加しているということを説明するための役割ということと同時に、「私たち」という概念を説明を必要とする課題として受け取っているわけですよ。私たちという言葉は二重なんですよ。この私たちということにもとづいてニコラス・ルーマンは、社会システムの議論をするから、システムに視線を移すということを極めてナイーブというか曖昧な形で行うわけです。だからシステムに視点を移すということはなにかと考えることが本当に難しい。河本さんは形態を形成するという言い方をする。西垣さんとの対談で『システムの思想』という本があるんですけれども、その中で、視点を動かして説明していくという言い方もするわけですよ。しかし誰の視点が動いているのでしょうか?

●私たちの問いをつくるもの
 「視点を動かして説明する」という言い方は二重なんです。世界を作るわけではないけれども、そこに近づきたい、理解したい私―ギリシャにおいて運命を理解したがっていたような私ですね。世界を作ってしまおうとするのはドイツ観念論です。けれど私たちはよくわからない世界に投げ出されているから――ハイデッガーなら、せめて知りたい。明日は何か起こるかわからない。でもせめて知っておきたいという希求と言うことでしょう。それに対して、私たちの視点というもの考えたときに、その視点の位地はどうなるか。その問いはそれに依拠し、仮託するかたちでなされます。
 自己というものを理解できるのは、私が自己だから理解できるんです。この辺の議論は、永井均さんが「私なんて存在しない」という言い方をしたりするわけですよね。確かに私というものは対象としては存在しないかもしれません。しかし私たちの問いのきっかけとしては常にあるわけです。最初に哲学は問いたい問題が沢山ある、といいましたが、哲学は形而上学としてたいてい三つのものに収斂するわけです。つまり、存在と時間と自己です。なぜその三つに収斂するかと言ったら、それらが私たちの理解の内容のもとを作る、というよりも、私たちの問いを作るからです。それらはまだ問いの内容、問いそのものにはまだなっていないわけです。「自己とは何か」と書くことは問いを放棄していることでもあるわけです。システムとは何かといったときに「部分の総和<全体」と書きましたが、この程度のシステム理解と同じレベルでしか言ってないわけですよ。ある特定のものに着目して、ルーマンはこういうことを言っているけれど、これを拡張することができるかどれだけこれが説明の道具として使えるか。
 見るという事が行為となるという意味は、そういう意味で、今ここでインタラクションを作るということと同時に、それを広げていくということがある。広げていくということを見られた内容に関して広げていくということが、先程言った、普遍的妥当性の要求なんですよ。だから面白いことがあって、カントという人はやはり頭が良いわけですが、いろいろところでそういう場面をピックアップしてきてね、それに合った言葉を使うのがうまいんです。普遍的妥当性を知性の問題、つまり形の問題として扱う。
 形というのは、今まで行ったすべての事柄に共通していますね。何でも使えるから、普遍的妥当性というものを哲学では言いたくなる。しかし芸術というものがあったときにどうするか。芸術は自己を製作しますからね。
 オートポイエシスに関しては、「複雑で変動する環境の中で、内外の差異および自分に属するものと属さないものを動的に形成する」という定義を前に与えておきました。
 このオートポイエシスの前に、プリゴジン(Ilya Prigogine, 1917-2003)の散逸構造論10がありました。この散逸構造論では、システムの構成要素がプロセスだったんですよ。だから群がこっちに動いていくという時の計測に関しても、いくつかのプロセスがあって、それが集まってシステムを形成していくと考えます。

●内容という資源について
 オートポイエシスの話を、河本さんの場合は細胞の話から始めます。マトゥーラとヴァレラの場合は脳だったから記憶の問題があるんですけれども。細胞だからプロセスとものになってしまうわけですね。プレコジンの散逸構造ではものはプロセスの副産物だったんです。そうではなくてものがプロセスをうまい具合に活性化させるというタイプで一般化したのがオートポイエシスです。けれど実はルーマンの言葉では、内外の差異を安定化させるという言葉で書いてある部分は、どうやって安定させるかに関してはわからないわけですが――静的か動的かもわからないわけですから――そこでは人間が考えられている。人間を考えているということで意味というシステムを利用することができた。マトゥーラとヴァレラは、脳を考えていたから記憶を用意ことができた。河本さんを生物というところで物質を使います。これらはすべてある意味で内容です。先程いったように、受け渡すことができる、移動させることができる、結合を作ることができるなにものかである。見るということを考えるときに、なぜ内容が大事なのか、という問いかけにつながります。内容というものは、言い換えるとすれば資源なんですよ。内容とは資源を貯めることなんです。記憶は典型的な情報資源ですよね。これらは僕の解釈ですけど、哲学において、見るということと、知識を蓄えるということ、これらは二つとも資源に関することなんです。それではなにに対する資源なのでしょうか。ギリシャにおける運命に対する資源なんですよ。行為とは資源を使う場面なんです。認識は資源を貯める場面なんです。当然、資源を貯めること自身も行為ですから、入れ子構造になっているわけです。でも資源という概念を使って見るということ考えることが重要なんです。

●プラグマティズムのほうへ
 以上のように行為というものを考えたときに、次につながってくるという話が、多分に恣意的なつなげ方ですけれども、プラグマティズムです。プラグマティズムには3人で有名な人がいます。パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)、ジェイムズ(William James, 1842-1910)、デューイ(John Dewey, 1859-1952)です。心理学科の人は、デューイの名前を聞いたことがあるかもしれません。彼は心理学が、内省心理学と実験心理学のあいだみたいなところから20世紀初頭に心理学に関して非常に重要な仕事しています。
 プラグマティズムは「道具主義」と日本では訳されていますが、もともとプラグマは言葉の意味としては、実践・行為なんですよ。11
 説明をするということについての視点を彼ら三人はそれぞれ別々に持っています。
 パースはもともと科学者です。アカデミーの会になったりしているんだけれども、なぜか哲学をはじめました。彼のベースとなっているのは論理学と記号なんですね。
 ジェイムズは心理学者で、無意識ではなくて―アンコンシャスではなくて―サブコンシャンスを考えます。つまり心の社会というイメージを考える。先程言ってシステム論の議論に近いことを心の中にいろいろなエージェントがいるというイメージで語ったのがジェイムズです。デューイは教育論なんかに人気があるんですけれども、彼がいわゆる道具主義に一番近い考え方をしています。デューイはここであまり扱うことはありません。ジェイムズは非常に面白いんだけれども、最後は神懸かりみたいになっちゃって問題がある。パースに関して少し触れておきたいところがある。
 パースは実は常に主流ではない人なんですよ。非常に有名だったのに哲学科の先生になれないまま終わってしまったんです。例えば、パースは、論理学においてパースの相手となったのがフレーゲ、記号学においてパースの相手となったのがソシュールで、どちらもパースの相手のほうが主流とみなされていますよね。「プラグマティズム」という言葉ももともとパースが考案したのですが、ジェイムズが紹介したことで有名になったものですし。しかもそれが実用主義的に取られて、俺のはそうではないよと、「プラグマティシズム」といったりして形而上学的な議論であることを強調して、晩年ずっと一人で、研究を続けました。
 パースに関しては、京都大学の伊藤邦武さんが専門家で、『パースの宇宙論』12や『連続性の哲学』の翻訳などを行っています。パースの記号システムという問題が、先程言った説明の問題を哲学の場面から行ったときに、どのようなことが前提とされやすいかということとの関係の中で、少し触れてみたいと思います。これがうまくいくかを僕自身も自信がないのですが、というのもパースにはまとまった著作が一冊もなくて、とくに哲学系は断片ばかりです。
 予告しておきますと、ディダクション(演繹; deduction)、インダクション(帰納; induction)、アブダクション(仮説的推論; abduction)ということを扱います。宇宙人が、家畜の内臓を抜き取っていくキャトルミューティレーションもアブダクション(=誘拐)と言われますが、それとは違って、論理学の方法です。ディダクションは、アリストテレス(Ἀριστοτέλης、前384年 - 前322年)によって、インダクションはJ・S・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)によって、それぞれ定式化されていますが、アブダクションを定式化したのはパースが最初です。一性、二性、三性という非常に面白いカテゴリ論も扱います。
 ニコラス・ルーマンだったら完全に社会学のシステムであった。ベルタランフィは、生物をベースとしながら、そこに適合する数学のモデルを典型とし、拡張しながら、一般システムという概念を構想した。パースの場合システムとなるのは、記号です。彼はさらに人間もまた記号のシステムであるということを言っています。そのときに、概念というものがどこの次元にあるのかという問題があります。
 今日の話を復習しておきますと、システムという話を私たちが行為するということから考えようとしたときに、システムということを分かったような気になってはいないかということの確認でした。つまり、外からシステムを見て、勝手にいろいろ言及することはできる。でもシステム論のうまみというのは、「私がシステムの一員である。私がシステムであるということを理解するのはどういうことであるか?」です。それにはいろいろな方法が提案されている最中である。しかもどれかが決定打という話ではない。それぞれの文脈でそれぞれ改良を加えているから、それぞれに欠陥がある。だから「答」はありません。でも、この見方は情報処理や資源化という観点から、かつ私たちが哲学者であり、哲学をやるという組織が社会の中に埋め込まれ、科学というものと出会うという時に、かなり大事な焦点になると私は思います。そういうことを気にしていただければ結構です。
最終更新:2012年10月03日 13:51
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