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第09回 2009年11月23日 > 01

●言語の外に出ていくイメージ
 今回は、クワインとデイヴィッドソンの関係を論じつつ、できればエピステモロジーの話まで行きたい。
 前回確認したのは、クワインの言った3つの否定的な言辞でした。「翻訳の不確定性」「指示の不可測性」「理論の決定不全性」です。で、「指示の不可測性」が、イメージとしてはわかるが内容的にはいちばん分かりにくいということだった。単位という概念をどう取るかを問題にしているからです。
 実はノーム・チョムスキーが「翻訳の不確定性」と「理論の決定不全性」は独立ではなくてバリエーションだと、論文で主張しています。これは、クワインが強く反論せず「そうかもしれないな」という態度を取ったことで話はついています。(チョムスキーは日本だと生成文法の話でばかり出てきますが、彼はむしろプラグマティズムに属する社会哲学もずいぶんやっているんです。)ともあれ、これとこれは似たようなものだ、っていう話は結構あるんですよね。
 翻訳の不確定性とは、データが与えられて、そのデータを我々の知っている言語に移すことまではできたというときに、どこまでそれが確実なのか、そして確実にできる手続きがあるのかということを問題にしています。理論の決定不全性も似たようなものです。たとえば言葉が通じない現地人の場合。「イエス」「ノー」というような反応は分かる。でも言語はこういう直接的なこと以上の、もっと色々なことも言えるわけです。だから解釈をしなきゃいけない。
 たとえば僕がこうやったとする。これは「手を挙げた」とも「手が上がった」とも見えるわけですが、このとき僕が「※◆△*▼○」とみんなに言ったとする。これは一体どっちの説明をしたんだろう、というのが問題になるわけです。それが実はわからない、決定する手段がないということを言ってるわけです。
 しかし、記述は必ず意味なり解釈なりというものを含みますから、いずれかに決定がなされてしまう。そういう点から言うと、理論とは、観察事象があったときにそれを我々がどのように解釈するか、ということだと考えることができる。
 たとえば、ここから一つものが落ちたとする。アリストテレスだったらこう説明する。「物は(自分の能力で)下へ行こうとする」。これはパルメニデスも言っていることです。斜面の場合、直下には落ちないので斜めに落ちていく。こういう影響関係は昔「クリナーゼ」と言われたこともありました。これに対してニュートンは「そうじゃない。これが落ちていくのは万有引力という力が引っ張っているからだ」と説明するわけね。さらに現代の重力理論だと、万有引力の円環操作で引っ張ってるんではなくて、ここに質量があることによって重力場が歪み、重力場の中でいちばん距離が短いところを通っている、と違う説明をするわけです。――事象だけを見たとき、どれが決定的なのかはわからないよね。どれだって説明がついてしまう。
 もうひとつ簡単な例は天動説ですね。太陽が上がって、沈む。これは我々から見れば、地球が真ん中にいて太陽が上がっていく、とも説明できる。コペルニクスが出てくる前に、ティコ・ブラーエが大量に惑星軌道を調べましたが、彼はそれでも相変わらずプトレマイオスの周転円で解説をした。地球も太陽も個別に小さく回転しながら、太陽が地球の周りを回っているように見える、という解説です。周転円を十何個か重ねると、観測できる惑星の概念はほぼ全部説明できる。惑星の数が有限個だったら間違いなく説明できてしまうんですよ。
 このように、理論の決定不全性とは、等価だけれども意味合いが違う理論がたくさんできる、ということです。そしてその点で、翻訳の問題と本質的には同じだと言うわけです。
 問題になってくるのは、これを今決まっているサイズ[等価]の外に持ちこんだらどうなりますかということを考えるときです。それよりも大きいところへ拡大しようとしたときに、どちら側に寄っていったらきちんといくんでしょうか。言語の場合、その言語の外に出ていくっていうことのイメージをどう取(れ)るか。現地人の言語を観察するという立場だったら、偶然(のこと)しか起こらない。どうやったって、自分の言語じゃないんだから、広がってくしかない。
 それから「理論の決定不全性」の「理論」のどこが「決定不全」なのかと言ったら、データとなる現象に対して解説が不全なんだって言っているわけね。しかも実証主義の流れと関わるんだけれども、理論が理論として認められるためには結局常に実証という 問題が関わってくる。だから実証をさらに得るためのデータをどこからいただきますか、と議論すると、データ自身は偶然にやってくるしかないわけですね。データをつくると言っても、どういうデータが出るかわからないし、意図的に広げるということの意味もわからない。新しい実験だと思ったら全然同じものができちゃうかもしれない。だから、そこから広がっていくということの可能性を考えるってことは、そんなに簡単じゃないわけです。
 でもコペルニクスはなぜ良かったか。ジョルダーノ・ブルーノは『無限・宇宙・諸世界』で「たくさんの宇宙はもっといっぱいあります」って言ったわけです。それに合わせて「地球もいっぱいあります。太陽もいっぱいあります。キリストもいっぱいいます」と言っちゃったので火あぶりになった。

●拡大にコミットすること
 あるところへ拡大していくという原理をどうするか。我々が拡大ということに対して自分が何らかのコミットをできるということの典型は実は「行為」なんですよ。まだ遠い話なんだけど、行為っていう概念は、単純にいまここにある動作(behavier)を行為として意味しますという問いだけではないんです。「どういう行為をしようと思うか」っていう意図の問題が必ず絡む。
 実は、そうしたときにここから出て行こうっていう話で、こういうのはある意味タイプ的(一般的)な説明っていう議論があるわけです。行為に一般説明の概念が可能かということ(を考える)には、色んな場面で個別性と一般性という話の構造がかかってくる。だからこそ逆に、サイエンスのもっている哲学的な問題点の構造が、我々が通常哲学のなかで狭く考えている行為論とかそういう概念の説明構造として実は非常に似ているところがあるし、もしかしたらヒントがあるかもしれない。別の対比でフランス系のエピステモロジー(科学認識論)になったらばむしろそちらのほうを考えながら行くから、非常に違った世の中のイデオロギーでいいわけですね。
 今言った、所与(given, gegeben)を超えて進む、限定を超えてある範囲を進む、っていうときに、実は、ニュアンスの違い気をつけてほしいんです。ある範囲をボーっと描いちゃうけど、範囲を挙げるってことは範囲の内部にあるものを全部挙げるということには必ずしもならない。
 一般的にどうなりますかという議論しかできてないから、実際にこれに出会うと普通意味なんかわからないわけだ。見るって議論は何かって言うと、所与があることが前提になるんですよ。「見る」っていうのは完了動詞で、所与があるから「見てる」というふうに(なると)考えるわけ。行為っていうのは所与を与えられようとして我々が操作する話なんですよね。
 所与を得ようとする。だから行為をしてることを外から所与だっていうことはできるけど、行為をしてる最中に何が所与かってのは問題になる。givenness, gegebenheitっていうものです。
 こういうふうに書いたときに今言ったところでチョムスキーが言ったようにこの二つというのは基本的に大体似てると。同じような話だということがあります。
 それで、今、行為論の話をわざわざしたのは、本当は広い話で科学とか見るという行為性ということを言いたいんです。
 もう一つこの「翻訳の不確定性」――せっかく不安定性という名前が出てきたから、有名な話でこれを不確定だから結局、とにかく翻訳しなきゃいけないというふうに考えるわけね。不確定だから翻訳やめましたというわけにいかないと。でそういう考えのときにこれを根源的翻訳っていう言い方をすることもあるんですね。radical translationという概念なんです。とにかくやっちゃわなきゃ困るんだと。ただやっちゃうにしてもできる限りは翻訳的にやりたい。
 ところがこれに対して、同時にradicalという形容詞がつく言語的な言葉がもう一個あって、対応するものとして根源的解釈という言葉があるわけです。これがドナルド・デイヴィッドソンという、行為論におけるアメリカ分析哲学のビッグネームとして知られている――クワインのちょっと後輩にあたる人で、2003年に死んじゃったんだけどね――その人が言ってる話です。

●クワインとデイヴィッドソン(1)
 デイヴィッドソンも妙な人で、彼も論文出さないんだよね。とにかく伝説的にあの人なんか研究してるって言われるんだけど、UCBAかどっかにいたとき部屋にこもってごりごりやってて棚にバーっと論文の紙が積み上がってるんだけど全然公式の学会誌には発表しないで、その代わりにその海賊版のコピーをみんなが読んでるっていう人なんです。
 で、この二つ、「根源的翻訳(=翻訳の不確定性をポジティブに何とかしようとしたときの概念)」と「根源的解釈」は、ほとんどセッティングは同じなんだけど、語彙が異なります。「根源的翻訳」はクワイン、「根源的解釈」はデイヴィッドソン。

 二人の立場は対比的に書いていくと結構面白い。これは単なる知識の問題ですけど、さっきの「翻訳の不確定性」とは何かと議論したときクワインは何をしたかったかというと、「外部世界の理解に関する知識と経験の関係」そして、これが可能だとしたら――無関係という答えもあるからね――いかにして構成されるかです。きわめて伝統的な認識論の問題ですね。外の世界は我々から超越的なのに、どうやってそれを我々が知ることができるのでしょうか。
 デイヴィッドソンは、同じような状況でこういう問いを立てる。行為論って言ったけど彼は言語解釈の問題にするのね。さっきの「翻訳の不確定性」と「理論の不完全性」と同じだとしたら、チョムスキーの話と統一すると、これはある程度世界の理論であるってことですよね。で、理論を、他の人がある形で書いたものを翻訳する。基本的には外部世界の理解と同じでもちろん伝わるわけです。
 ところがデイヴィッドソンはそれをむしろ言語学的なセッティングで考える。難しい。(けど)これが面白いんだよ。「発話された語(=外部世界)を理解する(=経験)ためにいかなる知識または解釈(=関係)が必要か、そしてもし可能ならどう構成するか」――つまりこの二つのセッティングで考えたわけです。で、両者ともに外部世界に対する知識という言い方してるけど、外部世界そのものと一緒なんですね。
 クワインの場合は例えばセッティングとして「誰かが知識として表現したものを私の経験としてどうやって汲み取るか」という話。こっちは誰かが発話したものをどういう意味があるとして受け取るかという話。すごく似てるけど、ほんのちょっと違うという感じで、その違い方がおもしろいですね。
 だから二人とも一応問題になっている対象を言語と考えます。接触して感覚があって「痛い」とか、熱く感じるとモヤモヤという気分がする(とか)そういう話じゃないわけ。あくまでも分節化された知識の内容ということを前提として議論します。
 そうしたときにどういうセッティングをするか。もしこれが、それぞれ習得されている僕らの使ってる言語だとすると、問題がある。クワインの場合、言語は我々が世界を理解するメカニズムなんだから、もう使っちゃってると、前提になっちゃうじゃない。つまり、もうすでにこの問題に対する結論を先に与えてしまってるという部分が入っちゃうじゃない。だから習得してる言語はダメだって言う。
 デイヴィッドソンはどう言うか。自分が喋ってる言語を理解してるのは当然でしょ。わかんない言葉喋ったらそれはほとんどタモリかなんかだと。だから、習得してる言語じゃダメなんだ。じゃ未修得の言語は。つまり私の知らない言語。こいつをgivenだとする。
 じつはなんでそれを言語だってわかるのかって大問題はあるんですけど、そこは問わない。実はそれは物理学とかになると、なぜか物理が一番根底に見えるんただけど、なぜ物理が根底的になるのか、なぜ物理と言っていいのかってことが、実は前提になってるんですね、みんな。それと同じくらいのレベルで、なぜそれが言語だってわかるかのかという問いが実は問題なんですね。でもそれは置いときます。
 言語に対して私たちの立場はどうなるか。クワインが前言った「指示の不可測性」を本の中で現地人がウサギがバーって行ったやつを見て「アー、ガヴァガイ!」って叫んだっていうのはこういう設定のことなんです。
 こうしたときに、何が条件になってるかっていうと、そしてこのときに使っていいものは、――現地人って言葉はあんまり良くないか。昔の日本だったら土人とか言ってたと思いますけど。古い訳だとたしか土人って訳してたと思いますし――現地人の物理的音声。まあこれが言語だってことはわかってるとします。「音声」、それから「行動」、それから「発生時の周囲状況」を観察して客観データとして扱う。これも同じ、二人とも全く同じセッティング。というかまあ大体これに対してデイヴィッドソンが変形せずにやったんだけどね。
 で、何をするか。この状態でこちらも翻訳を進めましょう、こちら側が理解を深めましょう、理解するよう努力しましょう、と。同じように見えますけど実は厳密に言うと違います。翻訳をするときは、理解を通して翻訳することは我々通常やるわけです。でも翻訳をするときは機械翻訳も可能です。ある部分を見出してこれがこういう風にうつるんだと言うこともできる。だから翻訳は必ずしも理解ということを前提としません。で、微妙なのは「理解は翻訳を前提とするか」っていう問題があるんだけど、これは翻訳ということにおいて何を意味しているか、今言った辞書的な対応ということを言ってるのかどうか、ということは、必ずしも確定してないです。辞書的な対応じゃなくて、その場その場において理解を切り替えることになります。

●クワインとデイヴィッドソン(2)
 デイヴィッドソンは後にRadical Interpretationの後の方の展開でその問題を非常に妙な論文の中で扱ってます。ですから実はすごく似てるし我々通常はこの両方がセットされる形で考えてるんだけど、厳密に言えばちょっとずれがある、両方とも。で、そのずれが2人の間のある意味対立点になる。
 じゃあこの翻訳をしましょうというときにクワインは何をするか。クワインは、こういう意味では非常に彼はラディカルで不確定不確定って言うんだけど、実はもう一つ顔があって、同時に彼は物理主義者なんですね。だから彼はここのところで「刺激意味(stimulas meaning)」という概念を出してます。
 現地人には物理的音声もあるし、「イエス・ノー」と言うことはわかると仮定します。それと、暗黙の仮定で、あとロジック=形式論理――もちろん形式論理という形は持ってないかもしれないけど、論理に関する言明があるとしたら論理に関する言明は一致してると。つまり論理が古典論理と直観主義論理で違ってたら翻訳できないのは当たり前だから。一応そこは大丈夫だというふうには仮定しておきます。で、この論理が同等だという仮定をクワインにおいては論理における「善意の原則(principle of charity)」という。「charity」ってチャリティーコンサートの「チャリティー」ね。つまり論理はわからない、もしかしたら違う論理を使ってる可能性があるかもしれない。
 最近――最近でもないけど――、量子論理学ってのをフォン・ノイマンが提唱して、「量子力学を理解するためには古典論理じゃダメ、量子論理じゃないとダメだ、だから論理学変えろ、人間の頭変えろっ」ていう議論があるけど、そうじゃなくて、一応は2人とも古典一階述語論理というやつを想定しています。
 ですから、論理に関しては何が論理か事象か実はほんとにわかんないわけ。論理って、現場の世界の話じゃないから。でも一応ロジックは同じだと仮定しましょう。クワインがこれをロジックに関して定義をします。principle of charityと。
 デイヴィッドソンはそうじゃなくて、徹底的にこれを拡大します。そこが2人のスイッチ。
 そのかわりクワインは刺激意味って概念。刺激意味は何を考えるかっていうと今言ったこの現地人の反応はイエス・ノー・何とかだ。そうすると我々は状況を観察してるから、物理的に・生物学的にこうやったらあいつはこういう反応をする、ということまではデータとして確定できるから。だから、刺激意味というやつは、正確に言うと、ある場面、見てる場面――場面文って言うんだな。場面文って言うのはある状況を語ってる文と思われるものなんだけど――に対して、相手(=現地人、まあクワインの場合は刺激ってことで、心理実験を考えて「被験者」)の「イエス・ノー」を促すようなものとして定義します。つまり、こういうことがあってこの場面で何か言ってる、今このところで、これが右にあるとすると、「右にある」という文だと目されたものがあると。でそれをこっちが聞くわけね。で、そうすると「イエス・ノー」っていうふうに言うと。この文がどういう意味かわからないけど、状況を観察してるから、ここから例えば今、いつもこう、今だと見えないけどポインターがあってね、こう赤い光が僕の目に来てるとするわけ。来てると僕はこれに対して現地語で「イエス」と言うと。現地語だから……「ヤ―」と言うと。そして来てないと、この赤いのは見えてないからそれに対して「ゲー」と言うと。例えばそういうふうに考える。で、「ヤー・ゲー」ってのは「イエス・ノー」だとわかってるとすると、これが刺激なんだなと思う。物理的刺激。だからそいつがこの場面の物に関して、「イエス」だ「ノー」だと言ってる。というふうに考える。これを刺激意味という概念としてます。

●クワインとデイヴィッドソン(3)
 これはそういうふうに物理的観察として与えられているから、違った被験者・違った状況においてもこいつは同じだな、と思ったものプラスさっき言ったこの論理というやつは安定してるだろうと。そして安定がわかれば物理的な刺激に対して我々の物理学の知見からの記述ができる。だからこいつは翻訳可能な核ができるんだと。この刺激意味が、要するに安定的な部分っていうのを取り出して、これが――翻訳という言葉が非常に微妙なんですけどね――翻訳可能な中核と言えるわけ。
 この場合、この翻訳の仕方では理解は前提になってないわけね。現地人がそれをどう理解してるかということはわかんないわけ。ただ、この状況に対して物理的に固定ができる、かつ相手が安定することができる。それを我々の言葉ではこういうふうに書いてるっていう対応ができるわけです。だからさっき言った通り、必ずしも現地人が我々と同じ意味で理解してるかどうかは問われてない。
 で、ここが翻訳の中核なんだけど、残りの部分がいっぱいあるわけね。言語って、使うから。そこはわかりませんというわけ。これ以外の部分――言語はもっといっぱいあるからね。刺激意味だけじゃないから――そこがどういうふうに素子化されるかはわかりません。それがクワインの翻訳の不確定性っていう概念が出てくる部分。
 この刺激意味の理論っていうのは、正確に言えばこれが出てきたから出てきたっていう感じではない。ある種の批判的な理論から出てきてるんです。で、この不確定な部分をどう決めますかってところに対しては、ネオ・プラグマティズムにおけるプラズマティックな内容を通ります。
 さらに、この「翻訳可能」だってことは我々の文において刺激の同定ってことは物理的な同定性があるわけね。物理的な同定性が何かってことはさらにもう一回クワインの問題が出てきて、物理学ってどういう単位なの?って問いが出てくるわけ。
 物理学自体は、言語のレベル。物理学で安定して書けてるってことは物理の理論に依存してるわけだから、基本的に。theory-ladennessっていう、前回言った理論負荷性ってのはクワインよりもハンソンが出てる話ですけども、クワインが同時に物理学に対して、前言ったピエール・デュエムっていうフランスのエピステモロジーの初期20世紀の頭、人が言った「物理ってのは、単純にそこにあるものとそれに対する理論に分けられない。基本的に、決定的にではなくて、理論っていうのはぐちゃぐちゃつながってるからどこが物理の対象だってことを、理論の方から勝手に、固定しないで、それが物理的givenなのです、いろんな理論がそれに対してあります、という言い方を本当はできない。一体であります。」と。
 そういう言い方ではハンソンの理論負荷性とあまり変わらない言い方になるんですが、決定実験に対してそれがはっきりできないという意味で、この翻訳可能なものに対する、それを支えてる物理学に対しても、彼はその中を階層的に勝手に固定できるとは考えてません。この部分に対してもある意味での全体としてどういう影響がありますかってことしか言えない。これはある意味でホ―リズムって言われてる。物理におけるホ―リズムです。
 ただし、言語に関しては刺激・物理と対応してる部分とそれ以上の部分――我々の理解とか、意図とか、そういうレベルの問題――が入ってくるので、そこは変動しやすさが違う、というふうに考えます。
 だからそれが中核部分と、核とそれから周りのハロウって言ってる取り巻きだという形でクワインの二重の概念を使いながら、同時に物理学も同じようなことが内部にあるわけね。だってこれ言語でやったけど、理論でやっても同じことになるわけだから。だから、物理もこの中核的な部分っていうことを実験に求めつつ、でもその中核的な部分がまた理論的になってるからって話で、実は決着がなかなかつかないっていう構造は、クワイン自身の中にも持ってます。
 つまり、「何が単位か」こういう問題が立ったときに、理論だったら外部世界に対する知識をどうやるだけど、外部世界の状況を、理論との関係はいかなるものか、で、この部分がデータだって話なんだけど、これ物理そのものを考えると、物理においてそのデータってことは実験になるわけです。実験上は中核だけど、実験がどういう実験なのかということを言うんじゃなくて、まさにこの実験はイエス・ノーの実験――何の実験なのかわかんないのね、この立場でいくと。
最終更新:2012年10月03日 14:15
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