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第09回 2009年11月23日 > 02

●実験
 ふつう実験は、ある理論に対する実験だって言ったんだけど、デュエム=クワイン・テーゼはそれがこの理論の決定的な実験にはならないと。実験はいろんな解釈の仕方があると。つまり私がこれを「見てる」ということは、僕がこれを見てるっていうのは普通物理の言葉でいえば刺激が入ってきてこうなってるって説明になるけれども、そうじゃなくて、僕が「見た」っていうのは僕がこの表から入ってきてこうなって……その状況に関していろんな説明があるわけです。
 同じように、刺激意味のところに対しても、刺激意味を固定することは物理的な「何か」を語ってるんだけど、言語的な理論としてそれをキチンと語るってことは結構難しい。どう言うかは難しい。あ、難しいっていうふうに言ってないんだよね。だからクワインはそこのところある意味でプラグマティズムっていう概念を非常に広くとってます。
 でも、その意味で少なくともこの中核的な部分の方である物理性、物理主義、そちらの方に近づけていくということはクワインは常に考えてる。だからそれが彼が言ってる「認識論の不全化」。だから実はこの二つに分けてるように見えるけど、この部分は言語と物理の二本立てになってるからきれいに分かれるんであって物理自身を分けたいと思ったらこの中からまたそういうことが出てきちゃう。だからなかなか大変なの。
 でもそれにも関らず何かこういう確定した場所じゃないんだけど何かそういう核的な要素があるんだってことを考える方に持ってきたい彼は、認識論自体をこの枠で後に認識論の自然化――「自然化された認識論(Epistemology Naturalized)」というやつを唱えるようになります、晩年の頃に。
 これは非常に微妙なんですよ、今言った通りクワインが言ってる「物理的」ってことは今ある物理学理論とは一致しないわけ。今ある物理学理論ってのは、さっきのチョムスキーのタイプのレベルで、言語の翻訳不確定性と同じように、この部分を含むことになるから。
 だからそこのところで昔は理論語と、それから観察語って形で分かれると思ったわけね、その言語性の中で。それは論理実証主義の人達がやったと。
 でもそれ自身をクワインは攻撃してるわけだ。そんな分け方はないですよ、両方に絡まっちゃってますよってことを言ってるから、実は非常にこの自然化された認識論っていう形は、例えば今、脳科学が進んでって、脳の中における議論をやってね、我々の理解とか何とかってのはここのところでニューロンどうのこうのって議論でやってて、そちらで説明がつくんだというふうに考えて、そちらに近づけるという立場の一つと一致するんじゃないかってここで見てる人もいっぱいいるわけですよ、哲学者の中には。
 でも、今言ったような構造から、具体的にそれを確定するような理論であるという保証はむしろないわけ。つまり物理が何か知らないけど支えてる、物理学者はよくローバストネスって言いますけども、我々がどうこうしようと自然は自然としてあるんだ、どうこうしても安定してるってところとしてこういう核がある、何かそういうものがあることには違いないんだけども、それが言語とかそういう配置にしたときにどこに定着するかってことに対する保証はないわけ。だからこれはその限りでこの安定的な部分――物理だったらローバストネス=頑固さ、そこの部分に対して触れてるんで、すごく正しいように思うんだけど、具体的にそれを展開しようとすると、非常によくわからなくなっちゃう。
 でもこちらの方向があるんだからどうするの、ってクワインが我々に突きつけて、そのままになってる問いです、ずっと。で、これに対してデイヴィッドソン。今言ったのは、理解と言う概念が入ってないわけですね。つまり逆にローバストネスって理解っていう概念からは来ないわけですよ。安定してるテストからしか出てこない。クワイン的な立場から見たらね。
 それに対してデイヴィッドソンは理解なんですね、あくまでも。対応じゃ嫌だと。理解を通してわかってるんだと。で、この理解をすると言った場合に、これはもちろん意味と言う概念を書かなきゃいけないですね。向こうも刺激意味と言ったけど。
 でもデイヴィッドソンが「意味」として何を想定してるかっていうと、彼は、実は「意味」としては真偽上で意味をとります。ある文章で意味というのは、文章が真か偽かを決める決め方が「意味」なんだと。このチョークが白いというのが真であるのは、このチョークが白いときだけだってのは、いわゆるタルスキーが言いだした「T」という言い方ですけど、つまり「文Sが真ということ=P(Sの表す命題)」。これ、ただ書いたら成立してるんだけど。いろんな書き方があります。命題が出てる場合。これは文Sじゃなくて命題とすると「命題Pが真であるのはPであるとき」と、こういう図式になります。これをタルスキーはT公準と言います。で、このTというのは述語だと思って述語の文章を入れると途端に矛盾が起こります。嘘つきのパラドクスでも書かれてます。だから、そういう形ではTってのは述語としては想定できないから、実際に個々の場合の真理条件というもの、例えば「雪が白いのは雪が白いそのとき」――だから「雪」っていうファクターと「白い」っていうファクターに分けて、そのファクターをチェックすればわかる。雪が緑だったら真は偽だと。
 ところが書いてある通り「現代のフランス王」っていう問題はどっちだっていうのが、立てることができないから、そもそも。困っちゃいます。という話になる。だから、そのとき無意味っていう概念が――真理条件が立たない文章は無意味だと。
 非常に微妙なのは、この全体が立っているってことが大事なのか、これが成立してこれが成立してこれが立っているかで全然違うわけ。つまり、無意味な文のうちの、両方ともIf and Ifは可能だから。無意味な文同士は常にT文として無意味である、意味がある、ってことができちゃいます。まあそこはちょっと今細かい議論はやりませんけども。
 彼は「文というのは我々が合成的に作っている」という。単純な「雪が白い」の文から「雪が白いときに何々だ」とかいろんな形で文というのを組み上げてる。だから組み上げた内容の中で、この真理条件を出してるってことは、文の証明図を作るってことなんだと。だからその「証明図をつくる」っていうことをやることが「文を理解する」と同質の概念だととらえるわけです。
 こういう立場に立っているから、最初「AはAである」、それから我々が非常に妥当だと見ている論理学の定義だとか、それから、途中に経験的に決めていくという意味での、この文章の形になるやつ――彼の場合、演繹しなきゃだめだから――をgivenだと見るんだけど、常にこの論理学的なものでさえ仮定として挙げるしかないんですね。だから刺激意味を全く認めないです。こういう意味での形としては使えないから。演繹の内容の分節性を持ってないから。ある状況に対してそうです、という物理的なものを指すことしかしてないから、これを見ることはしません。
 で、そうしておいて、その代わりじゃあどうするか。これを拡大してるんですね。principle of charity。向こうは論理学にしか適用しなかったやつを、「多分基礎的にこういう言語だろう、こういう行為だろう」――最初のところで「雪は白いだろう」とか「善人というのは何なんだろう」とかいくつか基本的なものがありますが、その基本的なものに対しては同じ理解をしてるだろう――と想定する。というのでprinciple of charityという原理を全面的に拡大して使用して理解できるように、その証明ができる体系をどんどん作っていると。
 だから新しいことが入ってきたらどんどん体系として書き換えないと(いけない)。安定的な部分ってのはああいう風な、この証明の図式に対して、証明とは違って物理的なものとして核にあるけど、デイヴィッドソンの場合はその証明をするっていうシステムなんだから。で、しかもどこに新しいものを入れるかと言ったら、システムの途中は論理しか入らないから、論理的仮定――例えば数学だったらば数学的帰納法ってのは論理かどうか微妙なんですけどね、帰納法っていう仮定を入れるとか、それからある種の公理を入れる。論理に加えて、例えば群の公理ってやつを入れて、それに当てはまってるやつを群の対象として入れていくと。公理のレベルで入れていくから、基礎のところで変わっちゃうわけ、全部。だから意味の概念自体が、新しい刺激があって変形されると、この立場からするとまるごと全部システムを変えると。
 もちろん、ただすっかり上手くいく場合もあるけど、ベーシックなところは変わるんだってことは言えない。クワインは刺激意味だったから、刺激意味は物理的な安定性があるから、そうではない。だからこちらの場合、クワイン以上にはっきりと、デイヴィッドソンはこのレベルで、全体性――ホーリスティックな概念っていうのが出てきます。
 で、こういう形でこの二人が、非常に似た概念・似た状況をどう解釈するかという形で、全く違う二つの概念――「根源的翻訳」と「根源的解釈」というものを立てています。面白いのは、こちら側(解釈)で、現代の分析哲学系で、非常にいろいろやる人は多いよね。(でも)こっち(翻訳)は評判あんまり良くないよね。なぜなら、今言ったようにここの物理的な安定的部分ってことが、言語的システムとして対応するかっていう保証がないということが、理論の決定不全性を、物理からも決定するやつが存在してるから、そこに行っちゃうわけ。で、逆にこの形は非常にフレーゲとかそういう立場の人たち 真理条件議論と接してるので、論理実証主義の流れをひいている分析哲学のほうで、こちらの方を主軸にしていっています。
 ところが、二人とも、こんな話でホンマにいいんかい、っちゅう問題があるわけね。こんなこと本当にやってんのかよ我々は。そんないちいち証明なんかしとんのかよ本当は。
 で、そうしたときに、実は微妙な問題があってね、デイヴィッドソンがこういう言い方をしたときの「証明」と言ってる概念の個別性が何であるかの部分が問題なんです。これは僕の問題意識です。一般的に流布してるものではありません。
 さっき、一番最初にも言ったよね、種の概念といって、チョムスキーの「理論の決定不全性」と「翻訳の不確定性」の話のところで、そこにある所与を超えて、範囲は明示されてはないけど、それを超えて進んでく。それを行為として考えるという概念だとする。その場合進んでくとき我々は必ず個別的にしか進めないはずです。これに対して一般的というのは何をとってもいいということですが、その中でも安定した具体的なものを足場にしないと進むことはできないわけです。個別性の支えが必要です。実はデイヴィッドソンはもともとタルコット=パーソンズがやっているような社会学の意思決定理論にもコミットしていました。
 発話の理解っていうのはタイプ/トークンの議論でいうと、基本的に個別性に分類されます。ところが問題は、真理条件意味論って一般の話なのか個別の話なのかよくわからないことです。発話は個別だけど、文として書かれちゃうとシステムの中では差異としてしか個別性が存在していない。真理条件意味論は発話の個別性をなんにも保証していないんです。論理学を習うときにいちばん問題になるのは、それが個別の証明なのかルール一般なのか分からないということです。
 それは意味という概念が一般的であることとパラレルです。意味というのは時間の中にあるのではなくて、ある種のプラトニスティックな世界の中にある構造だという見方はある。でも理解は我々の個別のレベルでやっているんだから、俺がいまこうしているんだという証明しか書けないわけよ。
 だからホーリズムが言っているのは、個別が書きかわるには全体が書き変わらないとならないということです。これまで我々は個別が全体を変えるなんてことは考えてこなかった。量子力学が出てくると違ってきますが、通常の理解ではそうはならないわけです。分化した議論はモジュール、部品なんです。
 モジュラリティの強さを体現しているのは物理ですが、物理も理論なんだから自分自身に適用されない限り分からない。そしてローバストネスっていうのはまさにそのときにしか現れないんです。そして、この一般性は個別性をもとにしたものであって、単純でプラトニスティックな一般性ではないんです。
 こういうことはあまり強調されませんが、科学哲学らしい問題なので知っていて欲しいと思います。科学が単に技術として我々の生活に影響を与えているということだけでなく、それを通して我々の認識をどう変えているかが問題だということです。長々と話してきましたが、ここまでが、論理実証主義へのポパーの批判があり、ネオ・プラグマティズムとしてのクワインの批判があり、新科学哲学と呼ばれるハンソン、クーン、ファイヤーアーベント、トゥールミンなんかの議論があるという話でした。

●クワイン以降
 ところで、物理学の理論をもとにしているクワインって実は宙ぶらりんなところがあります。だって、私たちは一般的なものじゃなくて、個別的なものの中に、それに携わって生きてきたじゃないかというところがあるからです。それが歴史です。(ここにも論争があって、歴史を科学化する、法則的な説明ができる、という歴史法則の話が19世紀から20世紀にかけてありました。社会学が科学の科学をやろうとしたときの対象として歴史学があったんです。因果の問題が入ってくるため、科学哲学とも関係があります。というのも因果概念は物理学の基本だから。)
 僕の好きな言い方をすれば、歴史とは行為の連なりだと言えます。というところへ入っていったのが新科学哲学の連中です。歴史に対する認識。
 ハンソンはクワイン同様に裸の観察なんてないのだということを言っています。また、物理学からの引用でカバリング・ロー・モデルということを言っています。初期条件+法則。これだけあれば結果は出る、という考え方。これが科学的だということなんですね。
 ではカバリング・ロー・モデルで歴史が説明できますか? これが問題なんです。
 ウィトゲンシュタインの弟子のフォン・ウリクトが『説明と理解』っていう本で、あまり話題にならないけど非常に基礎的な因果法則と歴史法則の議論をしていて面白いです。彼はウィトゲンシュタインの最後の弟子で、ケンブリッジで後任になったほどです。彼自体はそれに加えて論理実証主義の流れを組んでいるところもあるので、クワインの議論にはそこまで関係してきません。が分析哲学をやりたい人には批判的に一読お勧めします。
 ハンソンからクワインに戻ります。ローバストネスということを事実として固定化することは難しい。事実は分節化されたものだからです。そこを排したら事実ではないが、そこだけでも事実にはならない。だから、全体のパターンという議論が出てくる。そこから理解が生じる。デイヴィッドソンにとって理解は真理条件意味論上のものですが、クワインはごろっと素朴に「理解」ということが出てきてしまう。両者は凄く違うんですね。さらに言えば、ウリクトが理解というならそれは解釈です。基礎的な概念なのにみんな使い方が違うんですね。プラグマティズムだったらノウハウが理解の内容になっちゃうし。
 ただややこしいのは、ハンソン自身が、クワインとは異なって、経験主義を保持しているというところです。経験という言葉の範囲の取り方の問題ですね。クワインの場合は、どこか神様の視点から見ているところがあるんですよ。個人が入っているという発想が少ない。理論全体が対象だからです。ハンソンたちは個を残すという発想が強いんですね。
 歴史についても、クワインだったら(時間の)大きな流れが常に変形していくというイメージを取りますが、ハンソンはそのさらに外に経験・歴史っていう軸を立てるんです。この流れにおいて構築されたのがクーンのパラダイム論です。(ところがこの曖昧さは当初から問題視されていて、クーンは途中で言い方を変えてしまいます。)
 論理実証主義って、操作される側との関係かがなかったんですよ。人間がやろうが神様がやろうが全部いっしょなんです。でも、外と中の区別はそんなにきっぱり分かれてないよ、というのがクワイン以降の発想でした。なぜクーンが「科学者共同体の理解」ということを言ったかも、そういう考えからのものです。

 この流れを逆方向から捉えた連中がいました。英米系は対象をどう(分析)するかを問題にしました。理解する精神が中心にあるんじゃないか。そう僕は整理していいと思うんですが、そういう発想をした人たちがエピステモロジー(科学認識論)です。訳さないほうがいいね。フランスの科学哲学の流れです。デュエム、ポアンカレ、カンギレム、バシュラール、カヴァイエス、ジュール・ヴィユマン、ガストン・グランジェはまだ存命ですね、が代表的人物。
 基本的に主知主義・合理主義。英米系は科学を体系、文の集積だと思っています。しかしこの人たちは生々しい精神活動と考える。しかしこれは非常に微妙で、主知主義なのに精神現象学的なヘーゲルの匂いがします。精神といってもむしろ時代精神のようなものなわけです。この人たちの流れも実証主義のコントがスタートにあるわけですが、コントが「科学の科学」として社会学を位置づけ、社会を挟むことによって全体や科学を捉えようとしたのに対し、この人たちは初めから「科学」のレベルでやっているんです。
 彼らにとって問題になるのは「科学的精神」です。これは単に個々の科学者が合理的に振る舞うとかそういう話ではない。歴史精神とかに近いわけです。
 たとえばバシュラールの本にはよく「精神分析」と名がついていますが、これは病理分析としてのふつうの精神分析ではなくて、――バシュラールは科学的多元主義という立場を取っています。科学は、それぞれの科学的精神の活動なんだから、新しいものが生まれるということは精神と精神が出会って新しい精神が開発されると考えます。先に斉一的な世界や精神があるんではないんです。だから、バシュラールにおいては説明という概念が(普通と)違うんですね。
最終更新:2012年10月03日 14:16
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