第11回 2009年12月07日 > 01

●理解の所与性
 今回は我々の立場から、科学社会学との関係を論じなきゃいけないなと思っています。
 ただ難しいのは、私はどちらもほとんど素人で皆さんと同じかそれ以下の知識しか無く、どこまで話しが出来るかが怪しいんですよね。このあいだの科学哲学会で、ちょっと科学社会学的な方向で、小林伝司さんとか、京大哲学科の辺りで議論になった所もあるので、そちらにも関わるように考えて行こうと思います。
 前回、僕自身の話として、歴史というのは基本的に、昔からあったものを描くという知識の形を取るというよりは、何かがそこで起こることができる、接続が可能になるということを考える、ものだというふうに言ったと思います。
 そのタイプの議論というのは、例えば東北大学の野家啓一さんが言うような物語論――どういう物語やお話が、科学や歴史の中で可能になるかという枠組で考えることが出来ます。物語だからといってみんな嘘っぱちであるというわけでは無いですよね。むしろ、物語が実在を描くべきかどうか。実在は所与なんですね。
 この状況を表しているのが構造主義で、レヴィ=ストロースが出した話です。つまり神話のなかで神話の構造がどんどん社会的なレベルで現れる、所与性を呈してしまう。そして我々の現実での行動を規制してしまう。この実例として特にインパクトがあったのが、レヴィ=ストロースの『野生の思考』における、結婚の構造。あれ自体はお話なんですよ。奇妙なことに、物語を求めていった先に構造という概念を見いだすと、その概念である種の所与性を解釈することができる。我々に与えられたものを我々が理解できる方法で、受け止めるときに、物語という装置を利用するのが物語論である。哲学的な文脈で物語と言ったらそういう風に考えたらいいということです。
 科学社会学をやらなきゃいけないと思いながら、ネタも無いのでいろいろ本を探してたら、『科学を考える』って本がありました。戸田山さんが編者になってるから送ってもらったんだけど、この中である人が、カルチュラル・スタディーズ・オブ・サイエンス(CSS)というのを紹介しております。これに対してソシオロジー・オブ・サイエンスってのがあったんですね。これが科学社会学です。
 さらにこれに対して、戸田山さんや小林さんもやっていたような最近流行した分野がSTSです。サイエンス、テクノロジー、ソサイエティの略です。これはアセスメントや、アメリカの巨大科学における予算問題に絡んだ話です。この論者たちが、またものすごく色々面倒くさい。まずソシオロジーの中に必ず入ってくるのが、政治学の問題です。権力プラス経済、って言っちゃうと広すぎるので、財政学としたほうがいいかな。要は、資源配分なんですけどね。
 特に有名なのが、科学社会学のマートンが取り組んだりSTSの議論の元にもなったりした、ビッグ・サイエンスの問題です。ほとんどギガント・サイエンスと言いたいんだけど、いわゆる素粒子物理学を調べるために作った巨大加速器のサイズなどの問題です。どこまででっかくするか。維持経費これで何兆円とかいう話に対して、現在このお金の厳しい世の中で、そんなことをする意味があるのかという議論が科学に対してあったわけです。
 こういう繋がりのグラデーションがどんどん変わっていくわけですよ。「理解する」という話が、だんだん「理解自身が(社会や文化という)所与性を呈してしまう」という話になり、それがどこで起こるかという話から、現実の社会文化っていう話題まで、右から左へものすごく幅がある。
 理解には個人的なレベルもあれば社会的なレベルもあります。微妙なのはそれが間主観的なのか―あるいは社会学的現実なのかどうかということです。この間隙をエピステモロジーの問題として繋げていきたい。

●社会学のたどってきた物語
 まず、なぜ社会学においてこういうことが問題になるか。そもそも社会学の出発というのは哲人政治まで遡るわけだけど、大澤真幸さんの議論によると、まず人間とは何かという哲学の問いがある。そして、人間にはこういう本質があるんだよ、という事が前提となり、社会が論じられる。
 例えば、ホッブズが言った。人間は他人に対して狼だ。まず人間というのはそういう野蛮な本性を持った動物である。それを契約という形で抑えねばならない。そういう感じで社会というものは、人間の本性から流出するものとして考えられてきたはずで、そういう発生論的なものとして社会学を見ると、ある一つの物語になるはずですよ。
 そういうわけで、社会学のベースになるものは、むしろ個人を理解する哲学だという話があるんです。ところが、哲学自身が発展していくと、例のドイツ観念論の系統みたいなでかい理論がいっぱい出てくる。それでは何が何だかぜんぜん分からない。――という話につながるのが、前も言いました、社会学の近代的なベースになったコントの実証主義です。大澤さんの言い方をすると、コント以前の社会学にはいま言ったような、哲学が独断的に決めた人間の本性とか、党派的なものがあったんですね。独立的な社会学としての関心、というか問題意識が成立したのが、コントの実証主義だけではないかと。
 自然科学は、ルネッサンスの後期から、今まで人間の本性とか哲学から離れていると思われていた技術とか観察という手仕事を結合することで、世界に直に触れる部分との知的融合を果たした。しかもそれは大成功してきた。ここからコントは、人間の世界との関わりを確実にやっていくもの、モデルケースとして考えた上で実証主義を取り出して、それを、我々の一番身近な問題というか切実な問題としての「社会」というレベルに応用しようとした。これがスタートだという話みたいです。
 ところが、これは、昔フランシス・ベーコンが言ったことですけれど、社会学と科学の中身を全然言わずに、やっぱり科学的にはこういうものが良いんだよ、というアジテーションと変わらない訳です。つまり、具体的に社会をどうしていくか、という問題はコント以降もずっと残ったわけです。
 19世紀と20世紀の移り目は社会学の多産期と呼ばれています。マックス・ウェーバー、エミール・デュルケム、それからゲオルグ・ジンメルという3人の有名人がいました。社会学の古典といったらこの3人でもあるわけですが、それ以前の人でいまだに影響があるのはマルクスですよね。だが、この3人とマルクスは、ちょっと感じが違う。マルクスはもともとヘーゲル左派と言われていて、ヘーゲルの言っている人間の本性という哲学の話を、「社会において働いている力動性としての何か」という所、人間の経済活動に見た訳ですよね。飯を食う、金を払う、交換をする、モノを作る、というところに社会の力動性の基礎を見たのがマルクスです。
 それに対してこの3人は、むしろマルクスのそういう話を除いている。社会学の問題というのは、大澤さんの言い方では、「社会秩序というのはどうやったら可能なのか」ということです。社会秩序とは、まず個人v.s.個人、もう少し細かくすると行為v.s.行為の間の秩序、つまり自由の問題です。もう一つの問題が、「個人および行為をとりまく全体性や規範性とは何か」。まあ、こういう問いだと考えてください。
 たとえば社会ダーウィニズムは、人間というより生物の本性を対象にして、それがどこに現れるのかということを、社会という単位を想定して考える訳です。それに対して、最初にやっぱり個人というのを認めようという立場がある。この立場では、個人という単位から、どうやって社会というレベルが発生するかという問題と、それが発生した際にどういうような影響関係を持つかということの問いを立てて、この社会秩序ということを考えるんです。
 昔は、個人にすべてを還元するか、社会の実態を想定してそちらにすべてを還元しようという話でしたが、20世紀初頭になると、「個人と社会のどっちかに押し付けるって無理じゃないか」となった。そうした時にウェーバーの理解社会学が出てきた。これは、社会的行為を、解釈という方法で理解することによって、社会現象の過程と結果を、因果的に説明するという試みです。
 でもこれ、「因果」が解釈のレベルに入っているので、物理学の通常の「因果」と同じ意味ではないんですね。
 この解釈は行為のレベルです。ウェーバーにおいては個人に属する概念で、これはウェーバーが個人を社会より大きいと考えていたからですね。それに対して、デュルケムは集合的意識を問題にする。時代の空気とか雰囲気といえば分かりやすい。個人に外在し、かつ個人の行動を拘束してしまう社会学的事実と言われているものが社会学の対象だというのが、大雑把にデュルケムの考えている話です。ちなみに、心理学的社会学に属するガブリエル・タルドはデュルケムにものすごく反対しています。また、集合的無意識って言葉は時代的に言ってフロイトやユングと関係がありそうだし、神話学の議論もあったわけです。そういう流れの中で、社会的文化的所与のようなものをまず立てようとしたのがデュルケムの発想なんです。
 そして、ゲオルグ・ジンメル。彼は、集合的意識や社会的事実とかいう話をしないで、相互作用論の中で社会的秩序っていうのは可能になるだろう。だから残っているものは、形式的になるという話をします。だいたいこの3人が、20世紀における社会学の3つの派で、いろんな意味で対極的なファクターだと思って良いです。
 これ以降どうなったか。前も出ましたけど、新カント学派の西南学派が倫理的な話を中心に添えて社会を考えた。加えて、批判という態度が現れてきます。社会に対する批判理論。これはハーバーマスなどが出てくるフランクフルト学派の話です。

●世界大戦への反省
 この時期に、社会の参照枠として、さっき言ったように、この個人、行為を、全体に行かないでどこまで「社会」に持っていくかって議論があります。
 20世紀初頭、マルクスは経済にしかふれず、しかもエンゲルスとの関係が強く影響していた。それがロシア革命に至るなかで、マルクス・レーニン主義と言われている「ブルジョア対労働者」という図式ですごく党派的な議論が出てきたわけです。
 それに対して20世紀後半、社会学は非常に政治に近づいた方向で展開した。でも、もともと社会学者の連中は、「いや、もう少し学問的に」という感じだったので、準拠枠を政治的な党派じゃなくて、全体社会で考えなきゃいけないという態度だった。
 ところが問題が起こりましてね。第一次世界大戦のときです。これは総力戦という発想で行われたわけですね。それまで戦争っていうのは基本的に軍隊がやるもんだった。しかもその軍隊がローマとかでは市民軍だった。軍人であることが市民の義務だったんです。でも、だんだん特権にあぐらかいて仕事をしなくなってきた。そこで「傭兵」が出て来る。カネで動く軍隊は古代ローマの軍人皇帝の時代からありますけれども、最も有名なのは中世、それからルネッサンス期です。
 例えば、前にNHKでやっていたけど、ルネッサンスの有名なある小都市国家などは、国全体が傭兵の国です。小さい都市国家が全員傭兵になって、君主まで傭兵将軍として働いて金を稼いでいた。それでルネッサンス文化を成立させたという流れがあります。そのプロの軍隊をぶっ潰したのが市民軍で、こういうシビリアンの軍隊というものを制度的に動員したのはフランス革命です。フランス革命は、要するに「我々の自由を守れ」とみんなを煽って、みんなを戦場に持って行ったわけです。だいたい傭兵っていうのは金を払ってくれる人にしか付かないから、コロコロどこにでも付く訳ですよ。そんなの信用できない、ということで、市民を徴兵して、加わらない奴はフランスという国家に対して裏切り者であるって言って、処刑までして、みんなを動員した訳です。それだからものすごい大量の軍隊が集まった。その上に、ナポレオンのヨーロッパ侵攻があった。
 そして一次大戦のとき、初めて長期戦が起こった。それまでの軍隊の決戦って、すごい短かったんですよ。最も有名な会戦としてケーニヒグレーツの戦いというのがありまして、これは普仏戦争の前にあったプロシアとオーストリアの戦争です。十万以上の大軍が戦って、決着が付くまで6時間程度。すごく短いんですね、戦争の期間が。つまり今所有しているものがドーンとやって終わっちゃえばそれっきり。で、このパターンの最後は日露戦争です。日露戦争は、要するに用意していた軍隊が、どこまで戦い尽くせるか、消耗したら負け、という話。つまり、資源を使い尽くしたらおしまい。ところが、一次大戦はそうならなかった。どんどん兵器を生産して、次々に徴兵していって、それだけ資源を投入して破壊・再生産しながら戦争をやるという。ですから、国家の全てが戦力だ、という議論が出て来るんだよね。その戦力の元を破壊するって意味で、市民攻撃が起こった。これはまあ二次大戦で本格的に発揮されるわけだけど。
 そういう話になった時にさて、全体社会っていう枠組みは、どう使われると思います? ――つまり社会学っていうのは、まさに学問自身が一つの理解の仕方を定義することによって社会を変えていく。しかもこの時、ナショナリズムが強く出てくる。ウィルソンの民族自決主義っていうやつですね。これは僕の主観なんだけど、民族自決主義の話から、全体社会という議論は、全体主義の方向へ行く。ナチズムっていうのは単なる蛮行ではなく、社会学の理論から出てくるんですよ。ナチスの理論ってもともとオーストリアにあった社会学理論なんです。国家社会主義という社会主義の一つの、全体を国家に求めるというタイプの理論から成立した学問的立場を基礎にしながら、ああいう運動になった。だからそういう事態に対しての反省が、二次大戦以降に当然起こるんです。

●構造機能主義、エスノメソドロジー
 二次大戦の前にもう一つの新しい流派が現れます。これが、タルコット・パーソンズという人が出した、ストラクチュラル・ファンクショナリズム、構造機能主義っていうやつです。この構造機能主義っていうのは、今言っている構造主義、我々がよく耳にしている広い意味での機能主義ではありません。
 社会というのはある構造を持つ、構造が社会の本体である、しかも機能というのはその構造を維持するための(構造をどういうふうに維持するかというのを構造要求と言いますけども、それを満たすための)貢献を機能ということ、つまりオートポイエーシスの元になる議論の一つなんですね。今ある資源に対して、ある構造を維持するように働くということ、構造に対して貢献することを「機能」という。
 パーソンズは非常に数理的な方法を取ります。その数理的方法とは、あるシステムの維持と安定ということを目指した、大戦中に開発された技法であるオペレーションズ・リサーチ(OR)です。
 オペレーションズ・リサーチのもともとの発想は何か。第二次世界大戦中、アメリカからイギリスへ物資を運ばなきゃいけなくなった。ヨーロッパが全部ドイツに占拠されちゃったから。その時に船団をいかに安全に持っていくかということの統計学的研究が、この手法の一つのもとです。だから輸送するときに船団をどれぐらいのサイズにして、どれくらいの間隔で出して、どういう護衛を付けるかということを、大戦の初期(コンピューターはまだ使い物にならなかったんだけど、器械式の計算機はあったんだよね)、社会学者からいろんな統計を動員して、研究を始めた。オペレーションとは、作戦の遂行という意味ですね。それともう一つがサイバネティクス。これももともとは、飛行機を撃ち落とすための放散射撃とかの議論でした。
 そういうものから出てきた数理解析の技法を、いろいろと取り集めて、パーソンズは、さらに細かい分析ができるものとして構造機能主義を作った訳です。これに対して文句を言ったのが批判主義、つまりフランクフルト学派とかですね。こちらはむしろ、主観性がどうして社会に影響するか、ウェーバーから発祥するその「解釈」という部分が、社会にどういうふうに影響してきたかということを研究している連中が批判を行った。
 ところが大澤さんの意見だと、70年代になると構造機能主義もフランクフルト学派もあんまり力が無くなった。それがさっき言った構造主義の概念と、それからエスノメソドロジーとか、現象学的社会学です、相互作用論と言われている、要するに意味の次元をもう一度考えなおすという議論が行われるようになった。
 構造機能主義では、意味ということは多く言及されていました。ただし、構造を維持するための機能として。また、批判理論の方も意味に対しては、合理的な批判しかしない。物事を良く知らないんだよね。ここで、意味の復活、意味という次元をもう一度考えなおすということを、社会学でやりはじめたのが、アルフレッド・シュッツなんかの現象学的社会学です。じつは、シュッツはもっと前の時代の人なんですけど、彼はアメリカでかなり批判されちゃったんですよね、パーソンズに。そこでパーソンズに対する批判として、シュッツをシンボリックに使ったという経緯があります。
 それから、今からだいたい20年くらい前に非常に盛んだったエスノメソドロジー。要するに意味解釈というのは文化的な相対性が非常に高い。意味解釈も文化的相対性があったり、それぞれにおいて知識とか、結合ということに対する見方が違う。だからそれぞれのフィールドに応じて、そいつらの実態を見なきゃいけない。エスノメソドロジーは方法論として哲学に代わるぞ! とまで言っていたんですけれどね。もう今は、エスノメソドロジーという話もあんまり聴きませんね。
 そこからさっきのカルチュラル・スタディーズという話に移ってきた。「エスノ」という、民族とか、実際にそこにいる人間集団のレベルでやっていた話が、「カルチャー」という、もう少し抽象的なレベルで薄く漂うようになった。でも、そもそも「エスノ」と「カルチャー」は違っているんだというふうに意識が変わったのではないか。例えば、オタクの社会学とかね。東浩紀とかが議論しているようなタイプは、エスノメソドロジーのポリシー(それぞれのフィールドに応じて意味解釈のありようを見なければならない)を適応させる対象を変化させたんじゃなかろうか、と私は思う訳です。

 まあだいたいこういう流れで、いま社会学はその「意味」うんぬんっていう話に来ている訳ですけど、「意味」うんぬんって話しであれば、もともと哲学は意味に対する議論であったと。だから哲学が、何かしら社会学に対して言うことができるんじゃないか、という期待はみんなあるわけです。というか哲学者はそういう期待というか幻想を持ちたいんですよ。
 つまり、資源配分のレベルにおいて資源というのはいろんなものがあるんですよ。カネもあれば、次の時代を担う人間を学生として弟子として、要するに後継者として獲得してくるというのも資源です。こういう資源で、哲学って今やっぱり危機的な状況にあるから、哲学者自身が夢を抱いて、そういうものを確保したいという、極めて社会学的な発想があるわけです。じつは社会学のスタートの所で、個々の党派的な関心というものから独立であるために学を作ろうという話が、根っこの所で党派性――それこそ今、学問の党派性そのものに対して関わる問題として現れているのかもしれない。
 ちなみに、同じことは科学に対しても実は起こっているんです。科学において資源として一番重要なのは、人的資源です。でも、今は科学離れと言われている。つまり人的資源が科学に寄ってこないんですよ。例えば、工学系の大学院でドクターまで行って、仕事が無くてしょうがなくてコンビニの店員を契約でやっていて、来月からの仕事がありませんという人が山のようにいるっていう話を聞くと、そんな所に誰が行くもんかと(笑) そういう話があるから、じつは科学も哲学も同じような状況なんです。
 こういうような状況全体が、社会学および特に科学に対して科学社会学という所で問題になるんですが、ご覧のように何が軸になって理解したらいいのかこれが全然分からない。
 とにかく社会というものは複雑だ、科学というものは複雑だ、この世の中そんな簡単に行かないよ、という話以上のことをまとめて言うことがいったいどこまで意味があるのかということがよく分からん、というのが僕の本当の感想です。
 ただそう言ってもしょうがないので、いくつかの状況を見ながら、むしろそこから哲学本来の(本来のと言うと何か哲学に特権的なものがあるような感じがするから嫌なんだけけど)、哲学における、興味を引く問題を引き出せると良いなあ、というぐらいしか僕には言うことはできません。まあ、いま大雑把に科学社会学の話しをしましたけど、とにかくこうなった以上、まず哲学上の議論としてはこの「解釈」という概念ね、これが何だかおさえておかないとまずい。

●「解釈」とは何か?
 つまり、「意味」という概念にあわせて「解釈」という概念は当然変わりますから、まず解釈とは何ぞやという話が出ます。で、基本的に解釈っていうのはもともとギリシャ語では――あの、英語だと解釈ってこれはinterpretationですよね、ドイツ語だとAuslegeng、という話しがありまして、ギリシャ語では元々解釈するってhermeneiaだったんですけど、元々何かって言うと、わけのわからないものをわけのわかるようにするという話。簡単に言うと、わけのわからないものは処理できないので、わけのわかる形に押し込めて、それで対処しますというのが構文解釈という概念です。
 このとき、解釈を表現する、もしくは表現して伝達するというときに出てくるのが「因果」です。例えば、前も言ったかもしれないけど、ニクラス・ルーマンの言っている因果概念、複雑性を縮減・中和して、我々の手に入るものにするというのは、それ自体一つの解釈なんですよ。つまりルーマンにとっては因果という装置は解釈装置なんです。(ただしウェーバーが言っている「因果」にルーマンがいう意味合いがあるって言うのはかなり問題がある。ウェーバーはむしろ「因果」を決定論的な意味として考えているんじゃなかろうか、ということがあります。)
 ところが現代はもう少し余計な話が入って、あらかじめ分かっているものをより詳しく分析する、っという意味合いが「解釈」に加えられます。explicattio、表に言い出すってやつですけど、explicationの元の言葉の意味で、このニュアンスです。
 さらにもう一つ、要するに理解とは相対的になされるので(文化相対的だとか、人間相対的だとか)、それぞれの立場、それぞれの条件によって、ある対象に対して理解が変わっていくと。だから解釈はその関係性そのものに対してどうなっているかっていう話も考えなければならないと。
 つまりもともと「解釈」っていうものは、分からんものを分かるようにするという意味ではだいたい理解と同義語なんですけれども、「理解」を解釈と考える立場と、「メタレベルの理解(どのような理解の仕方をしているのかの理解)」を解釈と考える立場があります。
 これは例えば、神話学なんかで表れます。神話は、その世界においてその世界を解釈(=理解)するものですが、神話学は、ある神話がどういう構造を持っているか、どういう変化をするか、という解釈(=メタレベルの理解)を行います。後者の解釈(=メタレベルの理解)は、じつは構造主義における構造という概念や、数学で言っている変換普遍性という概念と繋がっています。ちなみに、さらにもう一つ上のレベルの解釈(〈どのような理解の仕方をしているのかの理解〉についての理解)には、これはあんまり我々には関係が無いんだけれど、聖書解釈学があります。聖書解釈学は、解釈の理論の中でもっとも進んでいるものの一つで、コンピューターを使い、文体解析をし、古いテキストのある語句がどこに分類されてするのか、という形で解釈する。
 で、4つ目が、これは論理学なんだけど、記号に意味を与えるのを解釈と言います。だから「解釈された体系」という言い方は論理学のものです。ところが、これも非常に微妙でね、例えば、ディヴィッドソンのところで、ラディカル・インタープリテーションっていう話をしたよね。あれは理解する人同士の立場が違っているときの言語理解って話しをしているわけ。それではインタープリテーションというのは理解する人の立場と、そのメタレベルの理解をやっている解釈者の立場っていうのは一致するのかというと、ラディカル・インタープリテーションにおいては、「もちろん一致していない」。だから、メタと言いながら共通性がないことを前提にしている。相手がまったく外在的に記号の世界だと思っちゃったら、やっていることはメタレベルでない理解とあんまり変わんなくなるんですよね。
最終更新:2012年10月03日 14:19
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