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第11回 2009年12月07日 > 02

●シュライエルマッハー
 さて、哲学の中で(さっき野家さん出てきたけど)解釈学っていうものがありますよね。これがどういうものとしていま受け取られているか。例えば、科学をどう解釈するかという問題は、科学解釈学という分野が行われていまして、野家さんはそのタイプの解釈学をやっています。
 でも、そもそも解釈学というのは何なのか。一番古く、歴史的に解釈「学」の対象としてあったのは、固定された表現、つまりテキストです。それは何のテキストかって言うと、古代の法律、法解釈、それから聖書、それから色んな文書とか遺跡とか言った文化資産、そういうものを技法的に理解していく「技法」の集まりとしての特殊解釈学というのが、最初にありました。
 それに対して特殊解釈学を、一般解釈学にしようと(一般というのはいかにも科学が好きそうな言葉ですが)拡大するという試みが、17世紀に現れます。では、一般解釈学とは何かって言うと、要するに、一般的な技法の原則や規則を整理しようとする試みです。特殊解釈学が行っていたのは、個々のテキストの解釈でしたが。そこで用いられる技法の一般的なものを一般解釈学は研究します。これは言い換えれば、理解の一般原則を考えるということと、つながるわけですよね。
 解釈というのはもともと、理解できるようにする、我々が分かるようにするという話です。それを技法という立場からやっていたということは、我々の理解を、技法のレベルにおいて一般化することによって成立させようという流れが一般解釈学の背景にはあったわけです。
 この一般解釈学の理論を提唱したのが、フリードリヒ・ダニエル・シュライエルマッハーという長ったらしい名前の人なのですが、彼がそれを行ったのは、19世紀初めです。では、18世紀に解釈学はどういう位置づけだったのかというと、文献学、神学、それから法学、そういうものの予備学として考えられていました。訓練課程として、技法の側面が強かった。そんな解釈学を、もう一度、哲学的なコノテーションの中で考えたのがシュライエルマッハーです。シュライエルマッハーは神学者ですが、神学でも絶対精神ということを考えているようなタイプでした。彼は、理性とは別の所にある感情という独特の精神領域を考えるのが神学だと考えて、そこにおける絶対依存の感覚、感情というものを、宗教的なファクターとして考えた。まあ日本で言えばあれだよ。浄土信仰系の絶対他力、その全部丸投げという話を感情レベルで考える、ということに近いんですが、これを言ったのがシュライエルマッハーです。そしてシュライエルマッハーは、解釈学的循環というものを、神学の立場から必要性があると記しています。解釈とは、部分と全体が、お互いを追いかけっこする形で進むしかない、お互いに絡み合うことが解釈の原則だと言っています。
 ……あの、シュライエルマッハーちゃんと読んだことが無いのはっきり分からないんですけど、このタイプの循環の神学的な一番の典型は、じつはキリストなんですよね。作られた子だけども神様であり、これがスタートになって世間が全部作られるという、よく分からない三位一体の理論というのが、(更に言うと、プロテスタントのタイプではキリストが中心になりますんで、部分から全体というその推測の形、要するに父なる神とその子キリストをスタートにした循環の形というのが)神学に対して影響を与えるんですけど、それと多分パラレルな関係にあったと思います。この話は後にカール・バルトなんかが問題にする話でもあります。

●ディルタイ、ハイデガー、ガダマー
 で、これに対して、哲学の方でこの解釈学を受け継いだ3人が、ヴィルヘルム・ディルタイ、マルティン・ハイデガー、ゲオルグ・ガダマーですね。この3人が、哲学的解釈学の元になりました。前も言いましたけど、ディルタイは精神科学という議論をやって、さっき言ったコントが言った社会科学が対応しているものの解釈という部分を精神という領域をベースにして考えた。そして、そこにおける精神科学の一般的方法を、どう取ろうかと考えた時に、解釈という手法を考えたんですよ。だから、ディルタイにおいては解釈学とは何かと言うと、精神科学の方法論なんです。ディルタイはそう考える。だから、理解をするうえで我々の精神というものをどう取るかということが問題になる。それから他者に対する理解の仕方をどうするかと言った時に、ディルタイは、感情移入という話を基礎に置くという形で、シュライエルマッハーの解釈学的循環の構想の影響を強く受けて行きます。
 そして、精神科学は普遍性を帯びるんだけど、そこには、世界感覚の話、万人に対する統一をどうするかという問いと、これに対して社会の個別性という問題があった。これがずーっと壊れたままだった。何とかこれを一致させようという形で、その一致を、生成という形で考えようとしたのが、ディルタイの世界観という議論だったというのが前回した話です。
 このディルタイの解釈学に対してハイデガーは、解釈とは、解釈内容の問題じゃない。解釈とは「解釈する」という行為である、と言った。解釈という行為においてハイデガーが着目するのが、先ほど述べた解釈のタイプの1番目です。つまり、解釈とは「あらかじめ分かっているものを、ちゃんともっと分かるようにする」ことであると。これを人間自身の構造に対して考えるのがハイデガーです。(1927年の、つまり『存在と時間』を書いたときのハイデガーとして考えてください。)このハイデガーが考えていることは、先行している理解、漠然と先行している理解を、もっとはっきりしたものに変えていくということ、人間存在というものだ。だからダーザイン(現存在)は、漠然と考えていることをもっとはっきりやっていく。漠然とっていうことを、分かっているっていうことを、本当に正しいことにするにはどうしたら良いかと。いま漠然と理解しているという状況に対して、体験に即した形で、そこにある事象に即した形で、その「漠然と」を作り変えていく。意味の知恵とか理解知恵とか言われているものを作り変えていくんですね。そういう形で、自分自身を解釈によって改変していくというのが、ハイデガーの言っている現存在の、その哲学的営みだと言うことです。
 ですから、ハイデガーの場合は解釈という行為は、漠然とした理解、先理解とか、先視とか先入見とか、前もって投企されているときの理解に対して行われます。要するに我々自身が世界にくっついた時に、それによって自分自身を改変していくということが積極的な、本来の人間のあり方だと考えるのが、ハイデガーの存在論的解釈学という立場です。
 この話は現象学年報に載っていたんですけど、ハイデガーは他からの余計な話が入らないそこにある根本的な経験そのものの、持っている構造から来る先理解・先入見を、フッサールの言っていた自然的理解と同一視した訳ね。前提に立てた存在的前提を抜きにして、そこに行こうという現象学との繋がりを考えたから、これを現象学的解釈学とも言います。
 ところが、ハイデガー自身は、ある意味で解釈という、現象学自身は一つの方法論的な色合いが強かった。解釈という行動をする時の、一番底にある事象自体へ向かう方法です。しかし、フッサールは、現象学を方法論とすることは大嫌いだった。方法論じゃない。現象学という営みそのものが、一つの問題なのだと。だから人間の根本存在じゃなくて、世界の意味自体をきれいに綴ったのが現象学であるとフッサールは言う。ハイデガーは意味ということ自身を、人間がそこに存在しているという(ハイデガーには、存在者と存在の区別とか、めんどくさい話がいっぱいあるわけですが)、そういう形で現存在に限定した。その部分に、意味の生成という一般的な形での現象学を受け継いだ。そういう経緯で、ハイデガーとフッサールの間でケンカが起こったという話があります。
 そして、さらにそれを受け継いだのがガダマーですね。ガダマーは、ハイデガーにほぼ依拠しているんですが、存在論的というコノテーションを無くします。ハイデガーの場合、理解が、現存在と存在要件っていう話になっちゃったわけだ。それをガダマーは、あくまでも経験というレベルにおける理解、つまり人間の存在様態の基本的なものだと考えるんだけど、人間の世界経験と、生活実践の様態というふうに読み換えます。だから、ハイデガーの言うところの、根本、存在、主体というレベルじゃなくて、いまここに漂っているレベルでの実践、経験と生活実践(フッサールが後期に生活実践に関心を移したように、ハイデガーもやはり後期に、根源へ根源へというのは無茶だと思って、詩的世界に入って行くのですが)、いまここで動いているという形の実践の方に行くのが、ガダマーの態度なんですね。ですからガダマーの態度の中では、解釈学はあくまでも現実的な経験の理論――つまり経験とは何かといった時に、そもそも経験っていうのは理解されないといけない、我々にとって、解釈されないと経験にならない。そこにあるものそれ自体が経験ではないのだ、という形で、始まっていくわけです。
 この段階で、解釈という言葉が、サイエンスの場合とどう対応するんだろうという問題が起こるわけですね。

●科学者は科学の「イメージ」と「規則」に閉じている?
 ガダマーが解釈について言った話と、バシュラールが科学的精神について言った話、構造的に似ているでしょ。バシュラールが言う、科学的精神が世界と接続する仕方、これをガダマーは解釈、理解という言い方をしている。バシュラールとガダマーの、そのベースは何が違うのか。まあこれ僕の意見ですけどね、ガダマーにおいては、解釈という言葉より理解っていう言葉の方が非常に日常的なわけですね。理解っていうのは我々が目で見て取れる、見て取れるということを通して私が変わっていくという風に思っている。だから解釈というのは物語。理解できるというのはぱっと理解できる、「見て」理解できる。
 ところが、サイエンスの場合に理解は「見る」ではなくて、はっきりと「行う」なんですよね。だから操作的理解とか、規則的理解とか、そういう語句が入ってくる。そうした時にバシュラールの場合は、ベルクソンのイマージュの概念とつなげるんです。イマージュっていうのは、「見る」と「行う」のどちらにも使える概念です。イマージュっていうのはイメージだから、我々が見て取れる概念ね。でもベルクソンのイマージュの概念には、存在論的コノテーションが入っていて(入っているという読み方ができて)、我々が見てとれなくとも、イマージュという一つのシステムはあるという風に考えることができる。だから、科学的、認識論というかエピステモロジーは、やっぱり世界を理解するものなんだけど、その理解ということの根本のイメージが違う可能性がある。
 例えば、数学者が抽象的な数学を考える時に、昔は幾何を持ってきたのが基礎だったのね。幾何っていうのは絵に書いて見ることができるんですよ。文章にする以上にたくさん情報が入ると思って、幾何が一番のベースになった。ところが代数学が発展して、それでは当然抑えきれない所が出て来る。抑えきれないんだけども、それを進めなきゃいけない。新しいものは、いま書いてあるものから機械的に出て来るものじゃないから、先理解みたいなものを、つなげる形で作んなきゃいけない。そのつなげ方のなかの分からない所を科学的精神という言い方をしている可能性が高い。
 だからあくまでもこの「科学的精神が世界と接続する」という議論は、我々が個人に戻った時に分かるというのが前提になっているんですよ。だから、意味が中心になっている。しかしこの意味というのは、この解釈学における意味なのかと。つまりイメージ、視覚化できる、ぱっと被せて捉えられる、という理解における意味なのかと考えると、問題が起こるんですよね。
 「一望のもとに」という言い方があるように、理解を「見る」とするといろんなファクターがいっぱい入って一つのイメージになるんです。ライプニッツが、理解に対する根源についての議論の中で言っていたはずなんだけど、基本的には「見る」じゃない理解というのは混雑した理解と言われていて、下までいっぺんに届かないとダメなのね。最後まで神様が出て来る。
 ところが「この一望のもとに」は、イメージの形で出る場合と、規則に出る場合があるんですよ。規則においては、例えば文の抽象的な論理という形で。イメージと規則の二つは、「この一望のもとに」の両極で、バシュラールが言っている科学的精神は、このどちらでもあるしどちらでもない。我々が科学的精神を理解するということよりも、そこにおいていろんなものがつながるということ、しかもそのつながりが、事実としてそこにあるからつながっているという現実のレベルじゃなくて、可能性とか物語と言われているレベルで繋がることとして、あるんではないかと。
 そういうようなコノテーションから考えると、ハイデガーが後に現象学存在から、詩学とか訳の分からないような話に移っていったような感覚というのももしかすると(ハイデガーの細かい所よく分からないんだけど)、可能性とか物語と言われているレベルで繋がることにあるんじゃなかろうかと。現代において「理解」という問題に対して、イメージと規則のどちらでもないものは、例えば、身体的理解とかです。ここでの身体とは、肉体としての科学のレベルで解釈されて、科学を通して理解されるものではなくて、身体そのものが理解されるという(よく分かんない概念ですけど)精神の身体性みたいなものです。
 問題なのは、「解釈」を科学に適用する場合、科学の解釈学と言われる場合にとられるのが、「この一望のもとに」という次元での「イメージする」という態度なんですよ。もしくは、「ある規則に従う」というなんですよ。
 それに対して、例えば私の先輩にあたる吉岡斉さんは『科学社会学の構想』という本で、世界を変えていく、社会を動かしていく、という動きのなかで科学者は自らのイメージ・規則の中に閉じているということを社会科学で考えている。つまり、科学者のもつ閉鎖性への批判です。科学というのはきちんとそれなりの費用対効果があるのか、それだけの費用をかける価値があるのか、そもそも費用を要求する科学者の動機というのは何なのか。ノーベル賞が欲しいからかもしれない、大学でポストが欲しいからかもしれない、論文を書くために資料が欲しいからお金が要るのかもしれない。そういういろんなことを絡める形で、科学を社会現象として見ていく。アプローチとしては自由なんで、それが悪いとは言いませんが、それが科学の全部だと言われると、「何だコノヤロー」という感じです。

●解釈学的循環
 解釈学的循環の話でちょっともう一回触れておきますね。それはシュライエルマッハーの用語で言うと「部分と全体の絡み合い」なんですけど、単純に言っちゃうとディルタイの場合は、もちろんストレートにシュライエルマッハーを受け継ぐ訳です。この「部分と全体の絡み合い」について、彼は二つの系統を提起します。一つは、もう解釈学は限界だと。部分と全体というのはどうしても常に絡まってしまう。どうしようもありません、という系統。もう一つは再直的な循環です。さっきの感情移入の問題において、私の理解と他者の理解がある。この他者の理解を私に持ってくると言っている(私の方が常に他者の理解というのを私に持ってくる)。絡み合いを私という部分に落とすという形式。この垂直的な循環という形式は、そのまま世界観という話につながります。垂直的な循環に関しては、ディルタイは断片的な事しか書いていないんだけど、そこにおいてこそ、意味の創造・生成って事があり得ると。だからそれが世界観という概念につながっていく。――というのがデュルタイにおける、とりあえず教科書的な解釈学的循環の話です。
 ハイデガーの場合は、さっき言った「あらかじめ分かっているものをより詳しく分析する」ことが解釈ですから、あらかじめ何かが分かっていないといけない。漠然とでもいいから理解しないといけない。つまり、理解というものはゼロから組み立てられない。これがハイデガーの言う意味での、解釈学的循環です。だからその先行的理解を、ハイデガーは解釈学的状況という言い方をしています。
 ガダマーの場合は、前も言ったけど、すべての我々の理解というのは、何らかの今言った解釈学的状況、先行理解の地平の中に囚われているとします。つまり文化的、社会的、歴史的相対性の中にある。だから先入見というのが無ければ、我々は解釈というのをそもそもやることができない。だから先入見自身は、ただ経験を通して更新されていくと。つねに経験によってそれ変換されていくと。そういう意味で、「先入見自身の中に入っていく先入見を作りなおす」という形をとるのがガダマーの言っている解釈学的循環の話です。この解釈的地平という理解の維持という話は、パーソンズが言っている構造機能主義における構造の維持という話と、まあ形式的には合う訳ですよね。そういう所を、解釈という形の内容という形を取り込もうとして、オートポイエーシスとかはやっているわけです。
 まあだいたいこういう所が、解釈学のベースというか、解釈という形の問題なんです。

●「一望のもとに見る」理解と、それを壊しうる解釈
 今言った解釈で僕が言ったことをもう一回まとめて考えてみますね。まず解釈学においてもっとも重要になるのは、開放性っていう概念をどういうふうに解釈に対して関係させるかなんですよね。つまり、あるものがあってこれが事実ですよと。これらは二つ違うものですよと。この二つをどう考えるかっていうことなんですよね。
 真理っていうことがもう世界にそのままあると。内容まで含めて完全にあるんであれば、それをただ発見するだけです。つまり、オープンだって事は、我々が無知である、ということでしかあり得ません。でもそうなのか、そもそも解釈をしていくということが持っていくということは、我々が有限の立場でしかできないですよね。さっき言った先入見とか、それからもっと広い意味での解釈学的状況、社会的、文化的影響というものに囚らえられてしか世界に接することができない。逆にそういう制限があるからこそ、それがさっき言った解釈における、社会的、文化的な所与性っていうのが出て来た時に、この所与性をもとにして我々は、自分の経験を構成するし、経験という形を構成して、それによって解釈を変えていくわけですよね。この経験を構成することのなかに当然、探究ということが含まれるわけです。客観的事実の探求ということは、この経験の構成のなか以外にありません。「それを超えた客観的事実がある」と言うことは自由です。でも「ある」という主張自体は、経験の構成の中でやっている話です。だからそう言うことは誰にでもできる、それをスローガンにしても構わない。ただそれをスローガンにしたって、それが実体的な何かを我々に与えるわけじゃないですよね。神様という言葉を言ったところで、神様を創造できるわけじゃないです。同じように、解釈ということを通して、経験の有限性とか局所性を超えていくという「開放性」ということが当然出て来る。そこを目指すということが、解釈を能動化させる。解釈をする、ということの問題になるわけです。
 だからさっき言った、理解における「この一望の元におさめる」というイメージ・規則を持つ我々は、この開放性に対して、非常な危機感というか、不安感を感じるんですよ。一時期、ポストモダンが流行った頃に、宙吊りって言葉がありましたけど、宙吊り状況とは、我々に非常に危機感を感じさせる心理的なファクターなんだと。まあこれは、日本人にも当てはまるかどうか微妙なんですけれども、西洋人にとって宙吊りは非常に嫌な事態なんです。例えばハイデガーは、エルデ(大地)という、地に足を付けて我々がここに立っているという概念を出します。要する我々は精神的な安定性をどこに見出すかと言ったら、「一望の元に見ることができる」という視点であると。その視点が、常に我々の安心立命を立ててくれると。この安心立命の立て方として、解釈もありうるわけです。つまり、世界自身が本当に動いているのだとしたら、私の理解の仕方も動いている。私自身が変わっているということに対する危機感、常に私が壊れるかもしれないという危機感に対して、安心させる、その装置として解釈を使えということもある。けれど、解釈というのはその安心を壊すためにも使える訳です。私自身を変えていくためにする解釈。
 例えば、禅の坊さんが、悟ったときに何が変わったかという話で、悟りの瞬間は天地が裂けたような音が聞こえて、目の前が変わったように見える。でもいつもと食っているものは変わらないし、何が動いたのかも分からない。何が変わったか。見方が変わった。その見方が変わったと言うのは、条件的な見方の変わり方じゃない訳です。見方の地平そのものに対する態度が変わった。ということね。
 禅の仏教には北宗禅と、南宗禅というのがありまして、両者は宋の時代に分かれたんですが、南宗禅は頓悟を言います。ある時、パッと悟るのが頓悟です。それに対して北宗禅というのは、次第に段階を経て悟るとする。この北宗禅/南宗禅の比較は、ある意味で、理解、解釈もしくは、さっき言ったパラダイムの言語ゲーム論なんかの議論の中に入るように考えられるんですけど、そこにおける非連続性の話と、その前を飛び回っている連続性の話の両面を取っていると考えた方が良いでしょう。修行という、生活をギリギリまであるファクターに落としていった所で起こることを見ようとしているのが、禅だと考えることができます。(ガダマーなんかも生活体験って言っていたけど。)そういう限りで、能動的な解釈というものは、自己の開放性である可能性を含む。つまり、自己の危険性を持つものを常に含むんです。
 ですからハイデガーが、アングスト(不安)という話をやった時、彼は不安があるからこそ、それに対してエルデ(根本)という話を出してすわけですが、もしかするとあれは不安の解消だったのではないかと。我々は不安を不安のままで生きるしかないんじゃないか、という見方に対して、やっぱりキリスト教においては、不安をずっと引きずって生きていってというのはマイナスなんですよ。天国の話があるからね。
 でも、意外と仏教ってそうじゃなくてね、前話したかな、京都の大原の三千院に行ったんですよね。大原の三千院に阿弥陀様があるんですよ。阿弥陀仏っていうのは極楽浄土に連れて行ってくれると。だから天国の話だとみんな思っているんだよね。で、そこでたまたま夕方までずっと6時間くらいぼーっと寝てたんですけどね、お庭見ながら。帰ろうかなーと思ったら、なんか偉そうな坊さんが偉そうな社長さんみたいな人たちに解説しながら歩いてきたから着いて行った。そしたら、阿弥陀様が置いてある舟形像という所に行った時に言うわけですよ。みなさんここに阿弥陀如来様がおられました、阿弥陀如来様は我々を極楽に導いてくれますと。極楽に導かれるにはどうしたら良いか。修行しないといけない。でも、世の中で修行するのは大変だと。会社の経営もあるし、家族の問題もあるし、金の話もあるし。それから人の知らないいろいろあって、邪魔になるでしょうと。邪魔になっても良いから、出来る時に修行しましょうと。そうすれば、阿弥陀様が必ず来てくれて、そういうもののしがらみがない極楽という所で“修行を続けるために”あなたを連れて行ってくれますよと、そう言ったんですよ。極楽に行ってそこで万歳じゃないのね、極楽に行って、そこでまだ修行するんですよ。極楽とは、修行の理想的な状態を与えてくれる場所だっていう。まあこれはなかなかすごい発想だと思いましたね。
 つまり、いつでもそれが発展的に伸びていくという感覚、それが自由っていうことの一つの感覚だと。解釈ということが、開放性によって次に何が繋がっていくか。次に何が繋がっていくか、といっても、「一望のもとに」という具体的な制限の中に入ってしまっていると、その一望の中にしかいられない。一望のもとを超えることができない。一望のもとを超える、もしくは一望のなかの、細かさで見えない部分をほじくって、顕微鏡で拡大してもっと見る。そういうことができるためには、具体的な何かが要るわけです。
 その具体的な何かという所に足を触れることが、いくつもパターンがあるんだけど、その第一歩というか、知という形とくっついたパターンが、じつは科学における実験と観察だったんですよね。まさに解釈というもののもとに、実験という対策が入ることで、初めて科学という形になったわけです。
 でも、さっき言ったこの「一望のもとに」のイメージ、あるいは個々の実験における理解と、数式というタイプの目で見えるメタレベルの理解が、我々の通常の理解とは違う方向へ進んでしまっているというのは科学の一つのあり方なんです。
 ふつう逆に考える、下の科学の方が、科学者は、数式とかそういうもので理解しているから、我々がそれをメタなレベルで日常につなげましょう。だから科学を社会のなかに置きましょう。――科学を理解する哲学はこう言っています。でも、逆かもしれない。我々の通常の理解ということの関係を、相関を考えてください。その相関が科学的な方向で出て来るということはあり得るわけです。そちらの方向で科学を見るという形は、どうなんだ。これは二つの見方の衝突になる訳です。
 「資源の有限性、財政の限界を、開いていこう、能動的に拡大して行こう、それは現実的にプラスの価値なんだ」。それから他者の領域を侵すという問題。生物学的に言うとニッチね。ある生物が、自分のニッチを広げていこうとする、自分の縄張りを広げていけば相手の縄張りを侵食せざるを得ないから。ということは、禅なんだろうか、という問いが当然起こる訳です。
 で、それに対してマイナスが現実に起こっていることは事実なんです。ですから、その方面ではこちら側のメタレベルに科学そのものを解釈の次元に置くという話では解決はできない訳ですよね。いや、できるかもしれない。でもそれはすごく違う見方をすることになる。
 例えば、よくあるタイプの話で、SFで未来世界に行くとコンピュータが管理していて、人間の精神じゃなくてコンピュータの合理性によって人間が管理されていると。コンピュータの代理人になっている裁判官とかエリートの人間って見ているとものすごい非人間的でね、我々にマイナスになる。だからそうじゃなくて人間の心を持ったヒーローなりヒロインが出てきて非人間的なそいつを打破して人間の自由を確保するとか。あるいはエクソダス。脱出して、新たな新転地を求めるというタイプの話があるけども、そういう(人間性と背反するような)「理解」の可能性があることは、生物学的人間に対して大丈夫なんだろうか。そういうことが実は科学社会学の本来の問題の位置だと僕は思うんです。バシュラールはそれについて、科学は斉一的な、揃った形のシステムでは進んでいないと言った。科学自身が「一望のもとに」という形を取っていないんです。でも、我々がこの世界に対して対処するためには、ある形の一望性、一望性を確保できる局所の中でしか、世界と我々は関わらない。
 次回はまた科学社会学のお話を、今言った話の方から考えながら少し議論してみたいと思います。もし興味がある人がいたら、『科学を考える―人工知能からカルチュラル・スタディーズまで14の視点』をどうぞ。いま科学社会学というのは本当にバラバラな学問なので、前の方はサイエンスというか、心理学とかの分析なんですよ。真ん中に図書館情報学とかそういうやつの話があって、最後の方に戸田山さんとか玉田さん、小林さんの話が入っています。それからもう1冊、『科学社会学の構想』という吉岡さんの本だけども、これは完全に通常の科学哲学に対して科学者の立場からケンカを売っています。つまり、実学としての科学社会学の可能性を、虚学としての哲学に対して物申すという本です。これを読みながらどうやってこのケンカに対処しようかと悩んでいたんですけども。
 もし興味がある人がいたら、こういう本を眺めていただいた方が良いかと思われます。ではまた来週。
最終更新:2012年10月03日 14:19
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