●科学社会学と知識社会学
この問題はどこからもともと起こったかというと、じつは知識社会学からなんです。
科学社会学はソシオロジーのサイエンスという英語表記が一般的なんだけど、知識社会学はwissenssoziologie。これドイツ語ね。wissenが知識とか知とかいう意味だから。要するに知識の社会学というかたちで、マックス・シェーラーとカール・マンハイムの2人が大体元になっています。知識社会学は、知識とか何かを規定する社会的存在、知識と、もちろん実証性に基づくんだけど、この場合の「知識」とは、意識とか思念、文化的な上部構造というものを含んだ非常に広義の概念です。「知識」とそのあり方を規定すると考えられる、社会的存在の関係について、知識社会学は論じます。知識が何であるか、という本質論ではないんですよ。一応知識というものを想定している。でも「知識を規定する知識のありよう」を制限している。――制限だからね。構成しているとは言っていない。
「構成している」と、「制限している」は異なります。両者の区別をなくしちゃったのは、20世紀の論理学なんですよ。何かがあったときに、プラモデルとして組み立てている論理的説明と、それしかない、というかたちで説明するという説明と、記号にしたとき区別がつかなくなっちゃう。
例えば(安藤さんの授業出てる人はわかると思うけど)、「ヨxF(x)」というかたちがあるとする。これ読み方あるわけね。「Fがあるxがある」という読み方が当然ある。もう一つは、「Fは実際に何かを規定している」。どっちでもいいんです、これ。つまり、証明するときはこの上に、実際にこのFという性質を満たすTを作るわけです。証明は、Fを手がかりにして作るわけです。だからFというのはTの内在的な性質のように考えるわけ、つまりプラモデルを作った原因にしちゃう。ところが「Fは実際に何かを規定している」という読み方においては、これは実例なんですね。Fということは実際に規定しているという実例を言っているわけです。最初、公理のところで述べられたのは何かというところは、公理のところでこういう規定があったとすると、これ最初から両方なんですよ。「SにとってAというのは本質的である」というふうに読むのか、「この考え方のもとではAというのはSという事例に対して、それを規定している」というふうに組み合わせだと読むのか。これ両方、自由なんです。どちらでも読める。
ところが、公理主義といっているところの危険性が出てきて、公理はだから存在論的に読んでしまったときに「そういうようなSがある」とやっちゃうわけ。数学はそれでもいいんだけどね。実体主義的な意味ではそうではなくて、「何かわからないものがあって、それはこのAというかたちを通して表現されている」ということができる。だから表現がされているということが、理解をすると言っていること(解釈学で前回言った、理解をするということ)と関わるわけです。それを存在論と読み替えるとこう読んでしまうことができる。そうすると、その在り処を規定するという言葉の読み方が結構問題になるんですよ。
シェーラーという人が、彼らは知識学と言った場合に非常に広い範囲を指していて、この時にこの学問の中で、今言った、エクスターナリズム・インターナリズムというのが入ってきます。要するに、「知識の自律的な発展があるという立場」(内在)と、それから「知識の自律的な発展は全く無い」(外在)という二分法があります。二分法を非常に強く出して、外在主義を取ったのが、知識社会学なんです。つまり、知識の自律的な発展というものが無い、だから「知識」を、より実在的とされる、思想外的な領域に帰属させる。
このとき「知識」の広義性、曖昧さが、深刻な問題になります。何が「知識」だ。ドイツ語でwissen(知識)と言ったときに、それはノウハウじゃないんです。英語で賢さを指す語句は、cleverとwiseの2つがありますね。Wissenはwiseに近いんですけど、cleverとは違うわけね。Cleverな機械、Cleverな虫という言い方はされるわけ。でも、Wiseな機械とは言いません。なぜなら、理解している、自分を算出する理解をしているということが、wiseとかwissenということの内部にあるからです。テクニカルに精妙だということはwissenと言われる言葉の内容じゃないんですね。そうすると、wissenssoziologieと言ったときの「知識」の中には、すでに解釈された意味内容がどうなっているか、という話が入っているわけです。つまり、「意味内容としての知識が、私たちの解釈が、何に依存しているか」ということになるわけです。
●知識社会学の歴史
知識社会学の歴史的背景を見ていきましょう。シェーラーとマンハイムは、それぞれやり方が違っていますが、「知識は自律的発展をしない」という彼らのベースに共通しているのはマルキシズムです。正確には、マルキシズムというより、マルクスからマルキシズムへ移る途中のそれです(当時はまだソビエトが成立途中ですからね)。
また、シェーラーの敵は誰かというと、コントなんです。コントは、実証の話をするときに「実証は歴史的に進む」と言うわけです。最初に神話がある。神話の世界から次に形而上学へ行く。それで科学によって実証の世界に行く。これは三段階説と言われています。
コントの三段階説に対して、シェーラーは、それは歴史段階ではない、と反論します。それらは同時に起こるファクターだと言っているんです。同時に異なるタイプのものが規定するファクターとして、つまりこの中で解釈が進むという意味での内部での自律、知識が、神話・形而上学・実証というそれぞれの形態になって、それぞれの形態のあいだでお互いに影響を与えあい、干渉しあうものとして考えているわけです、シェーラーは。これにさらにマルキシズムの上部構造・下部構造が入ってくる。有り体に言っちゃえば上部構造・下部構造の下部構造ってこれですよ。金目のもの。要するに交換が一番簡単なあり方ですよね。交換を通して、これらの三つの形態のあいだの相互関係がどうなるかといったことをシェーラーは考えた。
何が異質だったかというと、シェーラーは、知的因子と衝動の二元論を唱えたんですよ。知識を衝動に還元したんじゃない。知識を、何か行動主義のようなものに還元したのではなくて、存在的により外部な要因に影響されると見て、知識的な要因と、衝動というもの(下部構造はこの衝動にも依拠するんだけど)に分けた。シェーラーのなかには、美学とかそれから感情論というのがあります。昔、私の先生だった廣松渉さんが、本郷でシェーラーを講義したのは、芸術論に関する話でした。(シェーラーって、シェリングと名前似てるでしょ。名前だけでなく考え方もシェーラーと似てるんだよね。シェリングは知識ではなくて、自然というかたち、自然と衝動。知的因子とエネルギー因子の話をしていました)
それに対してマンハイムは、歴史なんですよ。マンハイムは、シェーラーの議論は非歴史的だ、と言って歴史的因子ということを重視します。つまりまた歴史主義が出てくるんです。この歴史的なものに対して、今度はマルクスの上部構造・下部構造というよりも、むしろイデオロギーが採用されるんですよね。つまり、「イデオロギーというのは知識の自律性を外から見えずに支えている見えざる制度である」と考えたわけですね。マルクスの場合は歴史的発展段階を通って、要するに階級イデオロギーだったわけね。マンハイムは、歴史主義に対してイデオロギーの相対化をして――つまり自分自身の道具としてのイデオロギー、自分自身の評定としてのイデオロギーというものがあるんだ、というかたちで積極的に認めていく。
それまでマルクス主義の革命理論というのは、相手に対してイデオロギーを攻撃して相手を潰していました。つまり、イデオロギーは攻撃対象だった。でもそうじゃなくて、自分自身も歴史的な制度としてのイデオロギーに入るかたちで、「知識」というものは成立しているんだ、という意味での知識の相対性をマンハイムは主張しました。
シェーラーもマンハイムも、明らかに2人とも、どう解釈するか(さっき言ったwissenですから)という話が中心に入ってます。解釈が入らないと話にならない。
●同質性ではなく、異質性を見出す
このシェーラーもマンハイムの議論を、行動主義に移しちゃったのが、科学社会学のスタートだと言われているマートンなんです。マートンは、彼ら二人の仕事に対して、経験的な仕事という方向に持っていった。つまり、シェーラーの知的因子とかマンハイムの歴史主義の話をするなら当然、「解釈学の解釈」が必要なんですよね。マートンはそれを嫌って、経験的な社会学、データを集めて統計をやってこうなるだろう、という社会学。その方向に研究を進めた。その方向がいつの間にか還元主義の方へ引き摺られてしまって、――つまり行動心理学が行動を介して、内省心理学ではカバーできない部分から取りだしたものについて、それが真理なんだ、というふうに還元してしまった失敗と同じことを、マートンの仕事において行っているのが、たぶん科学社会学の一部の連中が(全員じゃないですよ)科学に対してとっている立場だと思います。
例えばですね、マンハイムの議論において「存在拘束性」というのがありますが(言葉だけ覚えておけばいいです)、知識社会学の、この知識という語句を、wissenなんだから理解という言葉に直したらどうなります? 思想ということを解釈という言葉、もしくは理論という言葉に直したらどうなるでしょう? これ、思想外的な要因としてこの入れ替えを考えたらどうする? 実験、それから観測、さらに言うと記号操作。これはまさにサイエンスでやっていることではないでしょうか。知識社会学は科学を批判するレベルがあると同時に、科学自体が知識社会学の、あの構想を実践しているじゃない。その間の関係はどうなっているのか。
学問と言ったとき、何か実体として一つ「学」を私たちが学問論でたてられるのでしょうか。学問というのは基本的に、ある種の理念タイプを、哲学的な言い方で理解のために提出することはできるけれども、これが学問です、という決定はしないんですよ。その逆方向はまた問題なんだけどね。何が学問か決定しないんだから、「はい、私哲学やってまーす。」って手を挙げたら皆哲学者だ、という話。同様に、「はい、私哲学者です。」「はい、私科学者です。」って集まったら「はい、ここに哲学者の集団がいますね。集団がいるから社会的実体がありますね。」という話になりかねないわけです。でも、そういうもんじゃないでしょ。そんなに簡単に社会的実体なんて言えないでしょ。つまりそこに実体があるかのように、まず何かを想定して言うんじゃない。まず効果がある。そこで今日初めに紹介した、バシュラールの「事実の科学ではなくてむしろ効果の科学である」という言葉(あれは現代の物理化学、特にバシュラールの場合は化学を念頭に置いてることが多いんですけれども)が入ってくるわけです。つまり、実証性というのは効果として何が行われているか、というレベルである。
そして、その効果として何が行われるかということを言ったときに効果を測る測り方は、いろんなものがある。つまり、今までそのいろんなものがあると言ったときに、何が問題になるか、測り方が食い違う場面、異質なものが出会う場面ということが、今言ったことをはっきり出すわけですね。どこに異質性というものを見出すのか。同質性じゃなくて。
大事なのは、どこに同一性を見出すかじゃないわけです。どこに異質性を見出すか、事実として。で、じつを言うと社会は異質性を一番見出しやすいんですよ。特にネット社会は。例えば、個人と社会。私と科学。――これ程見出しやすい異質性はないでしょう。
●異質なものと出会う場所としての実験
でも「それだけなの?」という問題がある。もちろん個人と社会という異質性は確かにあるし、これが私たちに原初的に効いてるのは事実です。でもね、いままでシステムとしてとかいう話をしてきたときと科学と言うとき、異質性って、そのレベルの異質性に回収する話なの? そうじゃないだろ、と。これを科学の読み方で読み替えるとね、思想を解釈、それから理論と言った場合も理念とかイメージ、と置き換えといてください。置き換えた場合、実験、観測、記号操作、こいつらは私たちの思ったようにならないわけですよ。思ったようになるんだったら、実験をやる必要はどこにもないんですよ。〈サイエンスが、なぜ実験が大事だと言うかといえば、異質なものと出会う場所を自分で作ったからなんですよ。〉歴史的というか階級的にもそうだよね。さっきルネサンスの話をしましたけれども、ルネサンス期には紙面的なものをやっている学者階級と、手で動かしている職人階級という異質のプリンシプルが出会う場所として科学が起こったわけです。
だから、前にも言った、科学のrobustness、頑固さね。頑固さ、というのは異質性に発するんですよ。何に対して異質か。〈私たちの思い通りにならない異質性なんですよ。〉ところが大体皆そう思わない。だいたい科学というのは私の自由になるものだ、と。自由にならないところは切り捨てて、いいところを摘まんでくればいい。これはある種の科学の道具主義的な理解です。
道具主義的な理解というのは、ホルクハイマーのところにその問題点は現代的にはあるんですけれどもそれは置いといて、逆に言うと、道具をとっかえひっかえやっていいというのは、道具を使っている職人の自由になるんですよね。製作者。その原形は何かというと、やっぱり神様なんですよ。神様の場合無駄がないんだけどね。ライプニッツが言った「神様は全くの無駄をしない。最も効果的に作った。だから神の作品というのは見事である。だから世界のシステムの精妙さを見ることによって、神の存在を感得しよう」。これは神を存在証明の一つの形態なんですよね。存在論的証明という。
けれど、じつはそうではない、ということを科学は私たちに提示してきたんですよ。逆に言うと、それをそう感じなくさせるくらい、私たちが科学に飼い慣らされてきたんですよ。ちょっと前まで、数学なんて、みんな「なんだそれは!?」と言ったわけですよ。数学なんてやっているのは精神にちょっと異常のある方であるとか、それから数学をやっているのは普通の社会人ではないとか。あなた方は知らないかもしれないけど、僕らよりもちょっと上の世代だと、純粋科学者というのは、マッドサイエンティストというイメージを皆持ったわけですよ。マッドサイエンティストといえば機械を作るんじゃなくて、むしろ純粋な理論の中に没頭しているというイメージで、それはもうほとんど人間じゃないように思われていた。今はそうじゃない。今は技術を通して、それを私たちが自然だと思うようになったわけです。昔は「∃」という量化記号が出てくると「何それ」と言っていた。「何そのEがひっくり返ったの」って。今はプログラミングとして誰だってわかる。
つまり、私たちが科学に飼い慣らされてきているんですよ。だから、異質性を今取り戻すために、科学に対抗するという意味で、戦略的にこの「私」という次元を持ち出すということはありえます。でもまず科学というのはそういう対抗ができるくらい大雑把なものだったか。大雑把ではない、もっと細かいわけです。
●科学が飼いならす
これを前から言っていた、「行為をする」ということの問題に繋げて考えたいんですが、「見る」ことによって私たちが変えられてしまっているんだ、ということが、まさにこの科学の持つ教育効果なわけです。科学教育というのは決して学校で理論を教えることではありません。[科学は、]実験、記号操作、装置の組み合わせ、そういうものに引き付けるように私たちを飼い慣らしていくんです。どんどん、細かいところから。ただ、それに対して飼い慣らされない部分も残っているので、私たちは分裂してしまう。さっき言ったビッグ・サイエンスは、この技術を通して私たちを飼い慣らす部分をもの凄く拡大しているから、これに従事している人はある意味で技術に取りこまれるわけですよね。
これは批判されてしかるべきです。でもそれだけじゃなくて、私たちが現に私たちが科学に飼い慣らされて変わってきてしまっている、という前提のもとで、何が有効か、ということを考えなきゃいけない。
科学を通して、何かを見る、真理を見るという見方が、私を変えているんです。この一番いい比喩は食いものなんだよね。シェーマッハという人の有名な実験がありまして、ネズミに餌を食わせたときに、その餌の分子がどこにいきますか、というのを観察するわけね。ネズミの炭素のいくつかにアイソトープで標識をつけておいて。ネズミが食べた餌は、体中をまわるんですよ。そして、前に体の中で作ったやつを排出するわけ。だから食べたものは単なるエネルギーの運搬役ではなくて、自分の体に取り込まれるんですよ。要するに、燃料と機械、エンジンとガソリン、という比喩は生物には成立しない、ということをシェーンハイマーは言ったわけ。
問題はその次。ちょっと話が横にそれちゃって申し訳ないんだけど、担い手が独立していてエネルギーを受け手に受け渡す。これが普通よくある機械のイメージですよね。エネルギーの受け手は変わってない。でも生物はそうではない。食いものに対して、組み換えを行う。この組み換えの原動力は、どこから発するか。機械の場合は行き来しているエネルギーであると言えるから、わかりやすい。でも生物の場合はそうじゃない。もともとあった自分自身に対して異質になったところ、何かを余分に取りこんで変わったことが、原動力になるんですよ。この繰り返しです。――あまりここまで話を進める人はいません。「生物は機械じゃないですよ」という話はするけれど。
だから、生物がエネルギーを取り出しているということの本質に何があるか、といったら、自分自身を逸脱させることが、エネルギーを取り出す一つの原理なんですよね。逸脱させなきゃダメ。逸脱ということがなかにある。この逸脱は、先ほど言った異質性、差異ということと同質に捉えられるもののではなくて、「逸脱から正常化」というサイクルを回すためにある。このサイクルは、例えば社会においては、組織とか社会組織とかインフラとかで現れます。
このサイクルを最も極端なかたちで示したのがヘーゲルです。矛盾とは、「逸脱」を論理学の言葉で言ったものです。でも問題はね、「どっち正常で、どっちが逸脱なの?」ということにある。しかも正常化というルートは幾つもあるわけね。科学における正常化、社会における正常化、経済における正常化、イデオロギーにおける正常化、それらは全て違う。科学の中だって、科学のシステムごとに違うかもしれない。だから、こういうものがお互いに絡み合っていく中で、何かが起こる。絡み合っていくところの逸脱の焦点にあるもの。
つまりこれ[逸脱・矛盾?]は、同一的なものとして捉えられないんですよ。でもそれがあるからこそ、サイクルが動いていく。そこで、――これは僕の言い方ですけど、「規定する」という言葉の意味は「逸脱と正常化の動的な関係を考えること」なんだ、と考えるわけです。動的な関係を「規定する」という言葉に読み込むんです。一般に、「規定する」ということについて、私たちはスタティックな、止まっている空間上のイメージで考えているわけですよ。何かが何かを、空間上の位置かもしくは、永続的な形態を決めているわけです。だからフッサールが現象学をやるときに、最初に「時間は大事なんだけど、難しくてわかんないからとりあえず止めます」とやったのね。それがフッサールの最大の失敗だと僕は思っているんだけど。
つまり私たちは、動態的な世界にいて、動態的な理解をしながら、動態的に生きている(動態的に生きているって当たり前だけどね。静態的に生きていたら死んでいるもんね)、つまり行為をする。ここのところちょっと問いに繋いでいます。それの今言った部分を切り離すかたちで、資源を加えたわけです。
動態的な行為から見た、静態的資源ということね。でも静態的と言っても止まっているんじゃなくて、資源というかたちでものに深く関わっていくわけです。動態性と資源、このリンケージがどうなっているか。資源は「使う」というだけの話じゃない。私が外にいて、資源を使う、というのを見ているんじゃなくて、私自身が行為をする・見るの間のリンケージを結んでいるということはどういうことか、ということと相関的に資源は動いているはずなんですよ。
例えば一番わかりやすいのは、生物学において、ある現象を生物のなかだったら説明はできるということ。ドリーシュが言っている、生気論の説明は、生物のなかだったらできるわけです。ところが、それを異質なものとしての化学と組み合わせたらうまくいかない。他にも、フロギストンの議論というのがありますが、燃えるという現象を説明するのに、もののなかの燃素(フロギストン)が出ていくときにそのものが燃える、という説明はできるわけです。でも、異質な測定である、重さを量るという操作をすると、逆だったわけね。燃えると酸化するから、重くなっちゃう。この異質なものとの間の結合の仕方を見るということを、科学は実験というかたちで、世界の動態の中で行ってきたわけですよ。
それを、「神様の設計図という見方が根本にあるサイエンス」という一つの文化的解釈をしたことで、サイエンスに対するいろんな違った見方ができてしまっている。もちろん、それぞれの局面で正しい事実はあります。人間が関わっている以上、個々の人間がそういう発言をしているということはいっぱいある。でも、僕がエピステモロジーを見て、非常に感銘を受けた部分というのは、科学的精神といっているものは、私の自由になる、私の所有物の話じゃない、という点です。私が科学的精神によって規定されている。だから科学的精神を人間が担っている必要は必ずしも無いんです。そういうふうに見たときに、科学社会学というのは、いま言った異質性を、個人と社会というレベル、それから、お金や権力というレベルから測定する、一つのサイエンスなんです。
科学社会学のもとなった社会学、コントの夢であった社会学が全ての学知の学知である、という夢はどこにあったか。それは、それが異質なものとして取りだす、個人と社会、私と他者、私とそれ以外の区別が最も基本的だという前提があるわけです。でも、脳科学とか生物学においては、そもそも異質性が何なのかが最大の問題なわけですよ。異質性をどういうふうに組み込んでいくかによって、サイエンスの見方は凄く変わってきます。
●精神自身のインフラストラクチャー
もう一つ。プロフェッショナルについての議論があります。[成果に対して]どうやってお金を払ってもらいましょうか、と。つまり、個人と社会というレベル、しかも資本主義型の要するに報酬交換型の社会において、プロフェッショナルはどうしてお金を払ってもらえるのか。同じものとして、新興宗教の教祖様についての議論があります。教祖様はどうしてお金が貰えるんでしょうか。
だから科学者に対しては、さっき言った科学のオートノミーを奉じていた何人かの人たちは、科学の世俗革命だと言い表すんです。宗教者と科学者を並べて考えたわけね。オートノミーとしていたわけだから、科学というシステムが。かつて、科学という自律的なシステムに私たちは金を貢いでいた。いまは、金を貢がれることに対して正当化しろ、という議論してもいいわけ。
神社があります。神社に対してお賽銭を払います。お賽銭に対して正当性な理由を述べよ。おみくじを出した。おみくじが当たらなかったならば、その分金返せ。――そういう議論を宗教者に対してする人はいますかね。科学が金じゃない、とは言いません。例えば宗教が肥大してしまった、という事例はいくらでもあります。宗教が肥大することによって社会が歪んだ事例は、歴史上たくさんあります。同じようなかたちで、科学が肥大化していることで今、社会が歪んでいるということは当然ありえます。
でも宗教と科学が違うのは、宗教の場合は、異質性というかたちで自分の内部に取り込んで、自分自身を多層化していくという構造が、じつは非常に薄いんですね。だから暴力的な能力を持つことが非常に強い。科学はそうではなくて、異質性を自分の内部に留めようとします。
システムとしての宗教、システムとしての科学を概念操作のレベルで比べたとき(つまり文章化できるレベルで比べたとき)、論証形態だけを見たら、宗教と科学はほとんど変わらないと思われる箇所がいっぱいあります。しかも論証形態によって、例えばこういう立場です、と書いたものに対してどうしてこれで喧嘩するんだろう、と。わからないこといっぱいあります。
つまり、宗教はその論証形態にかかわるものではない次元に対して、異質性を認めなかったんですよ。それが異端という考えなんです。中世のキリスト教は、無意識のところまで統制するために、もの凄く組織化したんです。とんでもないくらい論証もやった。その論証の精密さは全く現在の論理学者がやっていることに遜色が無い。逆に現代の論理学者が、古代中世の論理学をヒントにして作った新しいモデルはいくらでもあります。中世のキリスト教は、形式的要因を充足するために、それに対する本質的な異質性としての、測ることができない異質性、逸脱を認めない。これが異端に対する態度です。そこは一歩も宗教者は譲らない。さもないと、特に一神教の神ということに対して矛盾しちゃうから。
科学はそうじゃない。異質性を認めるんです。それは科学の本体というか、科学が動くためには異質性がいるからなんです。異質性は、科学者を通して表現されるんだけど、その異質性は科学者のものではありません。科学のものです。だから科学と科学者はイコールではない。これが異質性とか動態性ということを考えたときの科学の見方です。差異を、科学が許容することによってどんどん増やしていって、しかもそれをもう一度共通項に戻すことによってさらに異質性を獲得していくようにした――という動態性を考えたときに、科学は一般的に思われているよりずっと広い概念だ、と言えます。
じゃあ戻りましょう。つまりそういうような科学は、社会というものに対してどういう良さを持っているか。つまり、どういう資源を与えてくれるか。科学の場合、資源といっても、物を、幸福になる道具を、具体的な交換されるものを与えてくれるんじゃないわけですよ。そうではなくて、私たち自身がものを考える考え方の一つの形態を、私たちに提供するわけです。つまり、〈教育効果〉です。
さっき言ったように、学校で習う知識の集積は科学の教育効果の主たるものではないわけです。〈科学は、いくつもの様々なレベルが絡んでいるということを、そのレベルごとの繋がりを正確に考えるように見るという見方を、私たちに教えるんです。〉その中身が何になるか、ということはそれぞれの場面で違うし、人間の能力も限られているから、どっかで切り捨てて考えなきゃならないんだけど、切り捨てる前にそういうものの考え方があるということを考える。つまり精神における内容というよりも、精神自身のインフラストラクチャーに影響していくのが科学なわけです。
もう一つ言うと、だからこそ、カルチュラル・スタディーズと科学の問題というのは今言った観点から影響するわけです。精神のインフラストラクチャーのレベルにおいて、何が影響したかということを考えるのが、本来の文化研究としてのカルチュラル・スタディーズだったはずです。権力、経済というのは、本質的に「切り捨て方」の戦略です。切り捨て戦略とどう絡んでいるかというところが、カルチュラル・スタディーズの次の課題のはずだったんだけど。例えば今現在でもオタクの哲学とかああいう話になったときに、むしろそこを切って、まず状態を見ようというタイプに変わってきた。カルチュラル・スタディーズもそういう意味では、スタディという方向に移ってきたなあと僕は思っています。
精神自身のインフラストラクチャーに影響していくのが科学である、という言い方で、あんまり問題解決したと思ってないんだけどね。目の前で人が飢えて苦しんでいるときに、精神のインフラという言い方で表していいんだろうかと。そんなのは、食うに困ってない日本に住んでいるやつが言っているだけじゃないか、という批判は当然あるはずで、それに対して自分の正当性を主張することが、自分を守ることになるんだろうか。できるとは僕はとても思えないです。そもそも、そんな免罪符はどこにも無いと思うんです。喧嘩を売られたら、どうやって真面目にその喧嘩を受けとめるか、――それは自己の正当性を主張して戦うゲームに勝利することではなくて、私がどういう人間として生きるか、ということのなかで答を見つけるしかないと思っています。まあそれは自分でもまだわかりません。今回はこれぐらいにしておこうと思います。
来週とあともう一回の予定なんですが、来週はシステム論の話に少し戻りながら、形式的要因と異質性の話をもう少し考えたいと思います。同時に今日あった技術の関係ですね、技術と科学、学と技というところの連関と理解というところの連関がどうなっているかというところを話題にしたいと思います。ということで、今日はここまでで終わりとします。前も言いましたけど一応レポート課題を出しましたんで、単位が欲しい人はレポート課題の紙がありますので取りに来て下さい。
最終更新:2012年10月03日 14:20