●コンテンツとコントロール
前回お話したのが科学社会学の話でしたが、私にとってあまり面白い話ではないので簡単に復習だけしておきます。
シェリングやマンハイムの中にあった、「存在拘束性」という概念を経験的な形へ取り上げたのが、ロバート・マートンでした。彼の提唱した知識社会学、その流れで科学社会学は、今まで続いているわけです。
「存在拘束性」ってなんだ、って話をもう一度しておきます。社会学のベースには、マックス・ウェーバーと、デュルケムと、ジンメルがいます。とりわけマックス・ウェーバーは、「理解」という形で、個人ベースから社会を考えると。集団的には無意識のようなものを考えて拘束性を考えたのが、デュルケムです。そういうのは抜きにして、形式的な議論でいける所まで行こうとやったのがジンメルです。
そのとき知識という概念に対して、デュルケムが言っているように、"個人には還元しきれないような何か"という制約をかけるものが「存在拘束性」です。ところがそういいながら、シェリングをマンハイムも、基本的には想いとか解釈とかそういうものを非常に重要視していて、それに対してどういうふうに存在拘束性が働くのかという話をしなければならない。解釈に対して、何らかの拘束がかかることで、知識というものの体系ができる、ということを考えてきたと。
この形で知識というものをとらえてきたのだけれど、サイエンスの中でだって同じようなことが言えます。つまり、「理論」とか「仮説」とかを、「計算」とか「実験」とかで――「観測」はちょっと微妙なところがあるので留保しておきますが――拘束していると考えれば、全く同じ構造をしているじゃないかということをいうことができるわけです。
なぜそれなのにサイエンスを知識社会学の構成と同型だと思わずに、むしろ科学についての社会学であると思ってしまったのか。なぜ吉岡さんみたいに、科学が社会学になったおかげで、サル山のサルの構造解析のように科学を解析することができるようになった、という言い方ができるようになってしまったのか。
こういう話をするときに、「実在」のベースをどうするかという問題がでてくるわけです。社会学においては、結局「人間」という単位しかないのだという立場があります。個人というものがあるのは分かっているけれども、基本的には人間であると。
マックス・ウェーバーやタルドは個人から出発しました。デュルケムは人間ベースなんだけれども人間の中から、ある種の組み立てられた集合的な無意識のようなもので、人間ベースの実在に関係するようなものがある、というように考える。
同じような構造を持つのがマルクスです。社会学者のような言い方をすると、マルクスは個人に発生するところの労働力、それが総和となって、社会の生産力となる。この生産力が、デュルケムにおける集団的な無意識のように、個人の思惑を超えたところである種の実体性を持つ。だから経済活動というものは、人間の関係だったはずのものが、まさしく生産物であるところの商品のように、「もの」のように見える。その限りで、自然科学と同じ意味での、実在性条件を満たすような探求ができる。これが唯物史観の議論です。
結局この実在のベースをどこにとるかということですね。僕が大好きなバシュラールは、科学的精神ということを言っていますけれど、これは必ずしも人間、個人もしくは科学者集団とイコールである必要はないと解釈します。ユングの影響があったりして、バシュラール本人にもこういう傾向はあります。ただ僕はもっと極端に、ア・プリオリにイコールでなくてもいいと思います。最初からイコールでなくてはならないとか、考える必要があるんだろうか。むしろそうではなくて、科学的精神というのは――正しい言葉がなくていろいろ誤解を招いてしまうかもしれないのですが、「〈情報〉システムの多様体のある形態」ではないかと僕は考えます。
「情報」という言い方は非常にいい加減なんですよね。シャノン流の、0と1だけで構成されている情報というのは、あれは情報の量の雑音を排除する話なのでひとまず置いておくとして、解釈とか意味とかいう部分も含めて非常に広い意味として、漠然と使っている情報という言葉を統制しているシステム、そのシステムは複雑にからみあっているものなのですが、その中のある形態であると。サイエンスがすべての統制するシステムなわけではありませんから、「ある形態」なのですね。ここで存在拘束性というものがどういうものかと考えると、〈情報〉システムへの介入・干渉と考えることができます。
そうすると、知識という概念は、特に知識社会学や分析哲学において「命題知(knowledge)」あるいは「ノウハウ」などの内容(contents)としてとらえられてきたわけです。が、そうではなくて、知識とは〈情報〉システムへの介入・干渉を行う「動作」「制御(control)」であるとして、動作の可能性として、機能的に評価する。
だから存在拘束性というのは、異なってレベルの情報システムの間でどのようなコントロールができるか、行われるか、という概念だということができます。
それでコントロールという概念について考えると、正しいコントロールというものがありうるのかという話になってきます。吉岡さんのように、正しいコントロールを想定しないと、コントロールという概念が成立しないと考える人もいます。ところがそれはコントロールを、あくまでも結果、内容から評価するという立場です。だから、この問いは、機能的にコントロールを評価するためにはどうすればよいか、という問題になります。
情報システムという言い方をした時に、前も言ったけれど、「実在」という言い方自身が、ヨーロッパの「もの」を第一の典型として想定しているわけです。もう一つの典型は、「もの」に性格づけを与える術語という形をとっている「イデア」です。この二つの典型をとっているわけですね。
で、これは形式的に書くとイデア、これは述語だからFっていう風に書くと、Fと「もの」っていうのをAって書くと、こういう形のしたもの、つまり命題、コンテンツとしての命題知、これの内部で例えば同じAがGという風にも書けるとか、同じFがEという風にも書けるという、普遍化する繋がりの機能を持つものとして取り出している訳です。
このベースには、周りが変わろうともそれ自身は同一であり続ける、というものがある。それ自身に(同一性らしき)何かを持っている。中世の、自分自身のみに依存し、自分自身によって完全であるっていう「存在」の概念の応用としてこういう風に読まれちゃうわけだよね。
でもこれすでにコンテントのレベルなんですよ。そうではなくて、我々がものの実在を一番強く感じるときはいつか。
例えば自分が喧嘩している相手がいる。しかし、俺と関係なく相手が立っているというのが実在ではない。そいつにぶん殴りかかったら手が当たって痛いとか、あいつが俺を殴ってくるから痛いとか、Interaction――殴られる、殴るっていう力を出会わせる所がむしろ我々が実在を実感する所でしょう。
この「実在を実感する」というのは問題があるんだけどね、英語だとexistenceね、外に立つ、あるいはその実感という――この実在には「現に在る」ということの意味で、もう一つactualっていう言い方があるんですけど、これドイツ語だとWirklichって言うんです。Wirklichって言葉は実感なんですよ、我々の。我々が感じる。我々に与えられるっていうことが無ければまず意味が無い。だからどんなに実在していても我々と没交渉なものは何にしたって意味が無い。
この実感というものを今まで西洋の連中は動物的なものと考えたのね。動物的だということは魂とアニマっていうレベルなんですよね。生物にはみんなそれがあるから。で、人間には、本能じゃなくて思考がある。精神なんですよね、意味合いは。だから必ずこちら側に神様がいるわけ。前も言ったように被造物であると同時に、こちら側が神様との共同体を作るって意味でも、参画できる。この部分を知と考えたんですよね。
ところがこれ自身が前も解釈ということと必ず関わってくる。解釈抜きの知ではない。で、ここを支配しているものの方が、むしろクレバーって言っている意味での、こういう構造を持っている。だからこの間の変な形での独立性というものを考えて良いのだろうか。
そうじゃなくてもっと素直に考えましょうと。つまりこの実感、神様はもうここの世界を作ったわけですから、神様の場合は実はここの区別は無いです。神様の場合これがまったく一致するっていうのが定義です。思ったことイコール作ること。神様は思念するだけで作らないことは不可能です。だから行為と思考が完全に一致するんです。
ここを分けてしまうと、人間の人間性という形はできないわけだね。だから、むしろこの実在という概念を対象的な実在として考えます。もちろん神様も実在するんだけど神様の実在は意味が違う。被造物の実在とは違う。日本人は哲学書を読むと「実在」という風に書かれているから、区別せずに考えちゃう人もいるかもれしれないけど、ヨーロッパで言った場合は全く意味が違います。だからそこは区別して考えなきゃいけない。
でもその定義の中で、にもかかわらず、それ自身においてのみ支えられてそれ自身を立たせているっていうことがあるとき、それは両方に適合しているように見えるってる。その意味で言うと、本当は、完全な神様しかいないんですよ。スピノザなんかは、本当は実在しているのは神様だけであとは全部神様の仮象だと言っていますから、こちら側に実在を適用するっていうことがある意味で議論としてはおかしいわけです。
●機能の評価
で、どこから議論が脱線したかって言うと、コンテンツとコントロールというものを考えた時に、コントロールは実在という概念をベースにしていないということです。つまりコントロールは何かに対しての作用ですから。これは動きとか力とか、広く言ってしまえば機能(function)ね。
だから何かをコントロールすると言った時に、具体的には動きをコントロールするわけですよ。それから、例えば誰かが建築物を作るとき、建築物をコントロールするという言い方はできないかもしれないと。それに対してある何かを考えるって言った時に、出来上がっている建築物に対してもう一回手を加えたとしたらそれは改造であって、コントロールと言わないでしょ。建築物を作っているということに対して介入するという形なわけ、いつでも。だからコントロールというのはそこに在る物に対して作用することじゃないんですよ。在る物というのは、そこで何かしている動作を表現しているものとして、そこのInteractionの接点として現れているもの以上では無いわけ。だからその流れなり何なりを変える、その流れの方向を変える時に、たまたま、ちょうどそこの所の流れのポイントとしてそこを掴むと流れをうまく変えることができる、その鍵になるところのものをいじることを見ているわけですよ。物そのものを触っているわけじゃない。
さっき言ったように、成功するコントロールがある成功しないコントロールがあるという言い方をしたときには、何が「成功している」かって言ったら、コントロールされているもの自体がもう既にこれなわけね、動作が動く形態なのね。これをどうやって評価するか。物だったら分かるでしょ、その場所にあるんだから。これは物じゃないから、この物が上手くいくっていうことの意味がダイレクトに分からない。だからこれをもう一度評価するために、入力と出力とかね、それから状態と、こういうものを使って評価するんですよ。で、さらにこれはやっぱりこの関係を、この形で評価しなければいけないわけ。つまり我々は基本的に評価するとき、しかもその評価を人との間でやり取りする時っていうのは、何かものの形にして出さなければいけない。これも実は問題があって、そこも批判したいんですが(笑)、とりあえず通常はそういう形でものを記録に落とすわけですよ。
だから評価するものと評価されるものの次元に対して、これをさらに移動させている、一つ上のものを評価する時に。ここで評価しなければいけない、ここまで落とさなければいけないんです、下まで。で、これをやっている構造が、まさしくゲーデルのコーディングと同じなのね。
ゲーデルのコーディングで算術っていうのがありますね、1,2,3……で、これに対してゲーデルナンバーっていうのを振っていくっわけね、つまり数字・数値です。そうするといろんな機能に対して、例えば算術のレベルで書いてる命題、例えばxプラス…なんていうやつを、これを全部こういうこの記号の体系の中に置き換えるんですよね。つまりこれ自身は、この数字の中に入っていないから、この数字になるように、……5の二乗の、3の二乗×……だから、これは適当で良いですから、……こんな風にコードしていくっていうのがあるでしょ。で、こちらのシステムとして書いている時に、これ単なる「数詞」なのね。でも「数詞」を「数字」として読むことによって、実はこれじゃないものとしても読める訳よ。
つまり評価するものと評価されるものをもう一回潰して、これの場合は上のステップに上がっているわけではないですけども、ここのと所で「数詞」という表現をしている所であった時に、「数字」と、数学の対象、数学的対象、これは「数」というレベルがあって、この「数」に対するファンクションというレベルがあった時に、普通はファンクションというのはここで評価するときには、例えばこれ関数。関数そのものって抽象的なものだから、ここの所はこれは入出力の表で、関数のグラフで書く。ところが、グラフというのは数学的な対象だから、それは「数詞」で書かなければいけない。数詞という、字で書かなければいけないわけ。絵で描かないで。絵は数学の対象じゃないんですよ。グラフだから分かりにくいけど、表だったらいいでしょ。表自体は数学のレベルで表なんだけど、文字だとしたらもう一回ここ戻さなきゃいけないわけね。で、そうすると実はこの間に循環が生じてきて、つまり数詞自身も数字だと読み込んでしまうことができるから。そうするとあるシステムでここまで落としたものを数として読み込むと全然違うものが対応する。で、そうした時にちゃんと元に戻せますかと言った時に、再帰的、自己言及的な能力があるようなシステムだったら、一個に定まりませんよというのは消えています。
こういうことをやって落としていくということ自体は、決してこいつの本体を一時的に決定するということじゃないわけです。我々が勝手にそこのところに介入しなきゃいけない。で、その介入をするっていうレベルを見ている所でこのレベルに落ちた所に止めているのが、つまりあれは人間におけるコミュニケーションにおいて必要だから、という形でサイエンスの持っているこういうコントロール、つまりサイエンスの情報システム内のコントロールシステムなんかを、全部一様なシステムに落とした所っていうのが、社会学が使っている人間が理解しているっていうレベルなわけです。
興味がある方には、例えばこういう本があります。岩波の新書で『逆システム学』という金子勝さんという社会学者と、児玉龍彦さんという医者の人が対談していて、彼らはこういった高次システム学というのが、実は――あの生物とかね、それから彼は医薬品をやっている人だから、医薬品というのは中っていうのは、単純にバラしてこうなったらこうなりますというのは無い訳だよね。こうやったらこのコントロール自身をさらにコントロールする、というようなことが遺伝子とか体内物質の中で大量に行われていると。だからこの高次のこれをちゃんと評価するというレベルの発見法みたいなのを考えなきゃダメじゃないかというのを出している訳です。ただまあ問題があってね、それを社会学に持っていく時にかなりダイレクトにセーフティネットの議論に繋げている所があって、そうなるとかなり眉唾というかほとんど嘘だと思っていますけど、ただそういう発想があるっていう意味で言っていることとか、代謝に対する高次のコントロールシステムがあるっていう発想が面白いかもしれない。2004年の1月に出た本だから、まあまあまだそれほど古くないのかもしれないけど、ちょうど金融ビッグバンの頃に対して文句を言っている所がいっぱいあって、そこいらに対しては半分まゆつばにしながら読んでください(笑)ひそれともう一つ、僕は二人ともよく知らないので、東大の僕のかかっている医者の同級生に聞いて、児玉さんってどういう人? って聞いたら、うん、昔の共産党員だよって言っていたから結構そういう意味では社会学の方に繋げる所で短絡的なことをやっている部分はあります。
●斉一性/非斉一性
でも今言ったような形で高次のコントロールっていうレベルを考えようとした時に、科学的精神ってバシュラールが前言ったような言い方をした時に、これは斉一的には発展していないと。つまり科学のレベルごとに全部違ったことを言うべきだ。一準の所で同じような知的水準として科学精神という能力があるんじゃなくて、さまざまなコントロールのレベル、違ったコントロールのレベルが違った形で適用できるっていう所が、彼の言っている「発展の再帰性」がないと。
むしろそれの方が面白いんですよ。だからこういうようなものとして、情報処理系という広い意味で見た時の、一つの処理の形態つまり高次システムの間のやり取りをしている、ということとしてサイエンスという概念を見る方がはるかに面白いのではないか、というのが前回半分言ったような話ですよね。
で、細かい所の議論をしだすといくらでもやらなきゃいけない話があるんですが、この時に実在の保証があるかっていう問題、それからどういう風にお互いのコントロールを的確に調べているかという問題が出てきます。いきなりこの話をするとなかなかびっくりするかもしれないけど、新科学哲学が出て来たとき、それからカント、存在の枠を広げて理解のサイズを広げようとしてフィヒテとシェリングとヘーゲルを出した時にね、要するに個人のレベルでの批判性、行為のレベルがあるのか、自然というレベルに行くか、歴史というレベルに分かれましたよね。で、基本的に歴史のレベルで見た時に、歴史っていうのはある意味でそのコントロールの結果の集積体な訳です、いろんな意味で。だから歴史において実在性を見るという話はいくつもあります。ところがそうした時に、今いったこういうタイプのシステムの実在性に対してどういう態度を取るかによって、非常に危ないことをやることはいくらでもあります。その危ないことをやったのが実はまさにこれなんで、この唯物史観、さっき言ったマルクスが唯物史観として考えたやつを、これを非常にダイレクトに因果と結びつけた形でやったのがレーニンとスターリンに続く、要するにいわゆるマイナスの意味での、……いわゆる共産主義国と言われた旧ソ連ね、あの辺での問題っていうのがずっとあったんだけど。つまり彼らの場合は歴史観と言った時に、この歴史をダイレクトに実在化した時に、しかも高次のコントロールとかレベルが違うInteractionっていう概念なしにやった訳です。自分たちの都合のいい所だけ持ってきてこれを実在だと言い張るわけ。で、それによって発展説を取って世界同時革命だ何だって言って、それに合わないやつに対しては、お前らは歴史に対してマイナスの連中だ、反動主義者だと言ってみんな粛清したわけね。つまりナチスで殺した人間多いんだから、全体でいくと。というのが一つ。
もう一つ、これは最近僕も勉強したんですが、生物学の実態をダイレクトに人種のレベルに持って行ったのがナチズムなんです。つまりナチスっていうのは、これは前も言ったけどロベルト・エスポジトの本の中でいくつか紹介されているけど、ハンナ・アーレントっていう人たちは実は共産主義の内部から――というのは、社会主義の内部から共産主義を批判した人たちはこの独裁とかね、全体主義という形でこちらを批判したわけです。つまり歴史の全体ということの実在性を、全体という形で一個の斉一なものとして捉えたという形で批判した。
で、それと同じ枠でナチズムをやろうとした時にそうじゃないと言った人たちがいる。ナチズムは全体主義と言った時に、歴史的な意味での、これ歴史っていうことが出て来るってことは西洋の哲学の伝統に則ってる訳ですよ。だから西洋の哲学の伝統の中から現れた、ある意味での奇形な訳ね、それに由来する。ところがある意味でナチズムは西洋の哲学の伝統から切れているっていう考え方。だからこの立場の人たちはナチズムは何だって言うと、応用生物学だって言うんですよ。で、この時の何がナチズムにおいて応用生物学の実態だったのかと。つまりドイツ人とか、優良な人間。人間なんですよ、やっぱり。でも人間というのは、類型が、個々の人間集団が集まったことによって人間があるんじゃないわけ。理想判型としての人間がある。だからそれを堕落させるやつは要するにガン細胞、ウイルス、細菌と同じだと。まさにその比喩が、全部ユダヤ人たちに対して使われたわけだ。だからナチスでやっていた医学者たち、医学者がものすごく貢献してるわけ、非常に優秀な伝染病学者、疫学者、それからもともとは遺伝学のフィッシャーとかの発想っていうのを受け取っている。ナチスは実は人を殺したかったんじゃなくて、人を生かしたかった。ただその「人」が何だったかが問題なの。何を人の実体として取ったか、という風に見た時にこのナチズムの問題が、この実体、実在というレベルをどこに設定するかということに対するある種のネガな注意するべき方向として出る訳です。だからプロジェクトの議論、実体ということは、人間からという形でこんど締め付けすぎると問題になる。ところが「人間」ということでさえこういう問題がいっぱい出てしまうわけですね。人間という言い方をやった時に、ナチスとかの人種、要するにこれは優良なアーリア人種だった訳ですよ。だからあるよね、ナチズムでSSの、親衛隊の非常に最も理想的な骨格と顔をした兵士の骨格を出して、これこそアーリア人の顔だっていうそういうイデアルティプス、理想形態を写真にしてみんなに見せたりしているけども。実際にそれが動的に作ってくるんじゃなくて、固定した形で一つの実在として実在化することによってこれを正当化した所があるんですよ。
だからサイエンスというのは、むしろこの非斉一であることが非常に大事なのよ。非斉一であることによって、斉一的に発生しないことによって、お互いの違いを見ることによって、お互いの異質である所ということを照らし合わせるということは非常に大事だと。全部が同じように進むんだとしたら、それは単なる一つの空想の議論でも全然構わない。だから合理性といのは、「理にかなう」ということはつまり合理性に対して敵対するものに必ず出会うようにしないといけない。合理性というのは異質なものを許容するんですよ。異質なものを許容する態度の上にはじめて築かれるものであって、異質なものを排除する態度が合理性ではないんです。
●双対性[不明点多し]
で、こういうことをどうやって説明するというか定式化するかが問題なんだよね。で、それが前も言ったみたいに、つまり物を見る、それから物=プラモデル、というタイプの考え方、僕はプラモデル主義と呼んでいますけど、つまりこれはイコール、……うーん、これは微妙なんだけどなあ。「見る」ということ、これは人に対しては見るということ。実在に対してはこういうこと。そしてここの所は、それのあり方ですね。こういう見方が今まで西洋でずっと伝統だった。これでは多分ダメなんだ。だからこれ見るじゃなくて行為、「行う」にしろと何度も言いました。どう行うか、行うということは何が入っていようと同一に、これの間を繋ぐ、これを行うのに一番良いのはこれなんです。評価するということなんです。評価されるというのは何かというとコトなんです、必ず。
だからプラモデルではなくて、この所は、……だからそうするとプラモデルが制作で関係というのは、これは相互作用だと。やっぱりこういう方のモデルにシフトしないと、書きにくい。だから評価するという場合は必ず評価に対しては評価するものとされるもの、…本当はこういう区別は無くてね、まずは全体があるというのが正しい言い方なんだけれども、とりあえず分かりやすくする為に現代の、いまは通常のように照らし合わせるとこういう二つがあった時に、今まではこっちしか見てないわけ。こっち側っていうのは全部神様まで持っていくように全部等質化しちゃっているわけ。それと科学的精神が斉一的じゃないっていうことは、この部分が斉一的じゃないんですよ。この部分が違う評価をするものがある、これがバラバラである。しかしそれに対して同じものが評価されるものに対してあった時に、されるものに対しては、自分自身の立場をきちんと筋を通す、でもこれを介して他の評価をするものに対してはそれを尊重する、という立場で言うっていうのがさっき言った意味での合理性っていうのが異質なものの参加、異質なものの行為というのを許容する時に、それをその通りに受け取るということになる、という発想ですね。[上二段、塩谷さんらしいところだけど言語不明瞭すぎる/村]
で、この時というのは実は数学でモデルを取ると、双対性という概念になります。ここの所で、双対性という概念を使って表すと非常によく表すことができます。この立場からもしこういうことに興味があるんだったら、神戸大にいる郡司ペギオ幸夫という人がいますが、彼が現代思想で書いたり、最近は彼の本がいくつか出ています。彼はこの概念をかなりベーシックな所で考えています。だからちょっと数式とか出て来るけど、やっていることはそんなに難しくありません。
つまり、いつでも何か評価するものとされるもの――彼は全体と部分という言い方をしてちょっと分かりにくい言い方をしてる所がいくつもあるんだけど――こういうような発想から見た時に、片一方に押し付けないで、しかもこの間にさっき言った評価するものとされるものというのは、この閉じた評価するっていう言い方でも良いけど、さっき言ったゲーデルのコーディングで「表現する」っていう言い方をした時には、しかもそれがまた表現される、高次になったらズレてくるっていう話があるから、こういう枠自体が非常に動態的に動いている、そういうことを彼は本の中でずっと仕事しております。そういうようなことが全体としての感覚です。
言いたいことの感じはこれなんですよ、行うというレベルをここに持っていくということは、だからこれの両方が変わっていくということがあるからこそ、ここで言っている科学的精神のシステムと言った所の、このシステム、モジュール。モジュールという言い方はコンピュータをやっている人はよく分かるだろうけど、モジュールつまり部分として働いているもの。オープンなんだけどある種の安定した機能を持っているもの、として捉えられるものは、科学的精神の中ではそれが実現しているモノのレベルではなくてそれが実現しているモジュールは、必ず「機能モジュール」として表現するべきだと。つまりプラモデルのようにここにこれがあるね、これがあるねという風に区別するんじゃなくて、こういう機能が働いているね、こういう機能が働いているねという風に区別する。例えば自動車を考えた時に、自動車というのはふつうタイヤがあって、シャフトがあって、エンジンというのはこういう風に組み立てるでしょ。これはプラモデルだよね。ところがそうじゃなくて、機能モジュールで考えるとそういう風にならないわけ。つまり、「移動させるということができる」という機能があります。それから「燃料を消費してエネルギーを取り出す」というモジュールがあります。それから「方向性を固定する、ステアリングコントロールをする」というモジュールがあります。そういうモジュールを組み合わせて考えるわけ。そういうモジュールの組み合わせとして何が、さっき言ったお互いの絡みの所に行くか、それでどちらがどちらをコントロールするか、何かその機能モジュールが次に何かをしようとする、これは生み出すわけですよね。世界の時間の中で。その生み出すことに対して、それを介入するということは他のモジュールが行う。っていうことはどのように行われるか。そういう組み合わせとして車を考えた訳です。だから車の部品というのは基本的にそういう機能モジュールの接点として現れている。そういう風に発想する訳です。だからそこの所で実は前も言っていたプロジェクトという、科学と技術と、という話がここに掛かってくる訳です。
最終更新:2012年10月03日 14:21