第13回 2009年12月21日 > 02

●世界観という機能モジュール
 前も言いましたけど、科学と言った所で工学という所と、技術というのがあるとします。この二つがあった時に、一般性ということを今もって考えると、つまりこれの文化は何か。こちらの方向は機能モジュールの純化なんですね。純化って言葉はあんまり良くないけど、まあ抽出ですね。こちら側は何かって言うと、コントロールの多重化なんですよ。まあここはちょっとね、この位置に置いているのは微妙なんだけどね。本当は科学と技術で取るべきで、工学はこの両方からの側面が入っています。
 この2つなんですよ。つまり機能モジュールとして何が出てくるか、という問うことで機能モジュールを純化する。機能モジュールというのは決して空間内部、空間とか時空の内部での局所性じゃなくて、ある機能、働き。逆に言うと、可能性の間の世界の繋がりと言ったらいいかな。潜在性の間の世界の繋がりと言った方が。そういうものとしての単位に近づこうとするのが、通常の意味でのサイエンスなんですね。つまり機能モジュールの純化っていうことは何かって言うと、これは機能の、これは僕の言い方ですけど、機能スキームなんです。スキーム、つまり図式。どこでも適応できるっていうか、どこでもっていう言い方自体が今言った時空っていう形でのInteractionを、世界についてのInteractionだから、Interactionの場からそれを抽象化、純化していくっていうことを持ってるから、スキームとしての性格を持つんですよ、サイエンス行くっていうことは。そして逆に技術に行くっていうことは、このスキームの間にInteraction、さっき言ったコントロールの多重化、相互作用ね、Interactionする鍵を発見していくことなんですよ。だから単純に数式をプラモデルのように繋いでいくっていうことは技術にならないんですよ。厳密に言えば。あれは一番簡単な、一番単純な積み上げっていうタイプの、最も自然なタイプの一つのInteractionの、一番単純な形を言っているだけなんですよ。ただこれが向こうに渡りますっていうタイプのInteractionの形式を出しているだけなんですよ。
 ところが、不思議なことにさっき言ったみたいに、この抽象化のスキームっていうのはゲーデルの話じゃないけれども、何重にでもどんどん上に上がるわけですね、やっていけば。だから出来てしまった結果に対しては、いつでもそれをスキームと見做してしまうことは我々は出来るわけです。だから結果としてそこにあるものは、何だって我々は記述できるわけ。あるものは。これから作ろうとしているものとかこれから生み出そうとしているもの、それこそ機能っていうことの問題なんだけど、それは書けるものじゃないんですよ。当たり前でしょ、だって無いものは書けないんだから。だから無いものじゃなくて、でもそれを、今あるものと無いものを繋ぐようなものとして考えるのが機能っていう発想な訳です。で、それが一般性だし法則なんですよ。逆に言うとこれこそが、この機能ということはそういう意味で言うとそれこそが、僕の言い方だと[生成層]っていう言い方をしてるんですけど、もしくは時間ということを、必ずしも時間は重要ないんですけど、もう少し言うと微分なんですよね。だから何かを作ろうとしていく所の動き。
 で、なぜこれが大事だっていうことに関して昔、最初の頃の講義で、世界観という議論をした時に、世界観というのは結果としての世界の話じゃなくて、どのようにその世界観という内容を作っていくかというのが大事だ、と言う時の生成層がこれなんです。
 だから世界観というのは人間の一つの思考の機能モジュールなんですよ。かなりベーシックな部分の。という話にここは繋がってくるわけ。世界観というのは、見えてしまっているという結果の形をやる機能モジュールなんだけど、それ自身は今機能なんだからコントロールを受ける訳です。だから世界観の間の対立とか抗争っていうこと自身は、まさにここの技術の問題な訳です。
 で、これが、実を言うとこの間本学哲学会で、京大の磯田君が言ったと言われている、モード1、モード2という…。ある本がありまして、翻訳の題名は『現代社会と知の創造』で、原題は『The new production of knowledge』と、こういう本があります。
 モード論というのは何かというと、様態論なんですけど、ここが言っている「モード」というのは、モード論の生産タイプ、モード2の生産タイプというのを言います。モード1というのは従来の科学です。従来の科学というのは何かというと要するに学者が集まって、ある専門の領域に分化していって、そこの所でジャーナルを発行してそのジャーナルに投稿して、そうするとジャーナルにどんどんどんどん積み上がっていくと。だから海外で言っている知識というのはやっぱりコンテンツレベルの知識なんですよね。ジャーナルによって集約されているという形の知識。やっぱり「知識」って言葉はコンテンツの意味で取るからね、普通は。だからこれはある意味で、the journal of knowledge――まあもう少し広げれば、そこにおける物体とかなんだけど。
 実はモード2というのは何かと言えばこれは、広く社会に貢献するプロジェクト形式の知能なんですね。で、これもいろんなタイプがあるように、こないだ言った要するに環境に対する取組みもそうだとすれば、逆にいわゆる巨大プロジェクトとしての科学の実験装置を作るというのもモード2に入ります。だってでっかい所の加速器を作るとしたら土地の取得から電力の配分をどうするかが予算の話から全部入ってくるからね。その意味では科学の機械が現物である限りではこちらの問題になることもあるわけですね。で、この2つを対比させている議論もあるんですが、これってよく考えるとこっちとこっちのバランスはどこの所に要るんだろうねって話とあんまり変わらないんだよね。で、実はその磯田くんの発表に対して木原さんというまさに科学社会学というか知識社会学の人が怒った。磯田くんはモード2が科学だと言っちゃったわけね。そうしたら「あの本では科学とは書いていないはずだ、知識と書いているはずだ」「かつ、これに対して産業の話が入ってこないというのは何をやっとるんだお前は」と言って怒ったんですよ。つまり産業というのはもう一つ別の、産業企業ですね。企業というのはもう一つ別の情報処理形態な訳です。
 つまり情報処理の形態というのはさっき言ったみたいに「何が情報か」ということは漠然としていたけども、ある意味で何でも情報として使える訳ですよ。我々が言っている「意味」も情報です。で、この意味というのは非常に分からないから哲学はずーっと長い間やってるわけね。「意味というのはイデア界にありましてみんながこれを理解してます」という直感的なものから、そうではなくて人間である限りは、まあこれイデア論の焼き直しなんだけど、「現象学的還元によって誰でもじーっと見ていれば意味が浮かんできます」という人から、「そうではなくて意味というのは文法ですと、言語がどう使われているか、そういうものが意味なんです」というのもあるかと思えば、「いやあ脳味噌が計算している内容そのものですよ」と。ですから意味もごちゃごちゃ。で、それ以上に情報というものになれば典型的にはお金が情報です。お金ということとして計ることが自体が情報です。政治の世界では力、畏れが情報になります。どういうインパクトを受けるか、という形で計る。情報の絡みということはひと通りの形態を持たない訳です。
 だからサイエンスというのはその限りで言った時にどこまで限られるかと言ったら、原理的に限りが無いんですよ。つまり何がサイエンスでサイエンティフィックなものかということに対して、今現行のサイエンスのシステムに対しては限界があります。でも原理として、これは僕の意見ですけど、サイエンスと言ったものはそれを広げていく訳です。ここはもうサイエンスの先じゃありませんよと言って諦めるというのは、今現状においてそれは扱う種類の道具がありません、ということはあるけれども、これは絶対サイエンスが触れてはいけないもです、ということを具体的なものとして指し示せるものは多分どこにもありません。ただ、じゃあサイエンスは全てかって言うとそうではない。いつでもイタチごっこになる訳ね。この形で行く限りは、必ずこれが入ってくるから、必ず何か落ちこぼれざるを得ないんですよ。あるモードを選ぶから。落ちこぼれた部分を、しかし落ちこぼれた部分がそこに現にあったっていう事実として、データとしてあった場合には落ちこぼれをカバーするようにもう一つ作ることができる訳ね。落ちこぼれをカバーするように、カバーするように概念を拡張していくことはできる。でも既に落ちこぼれが生じるということからは抜けられない。
 この一番数学的な形式っていうのはまさにあれなんですよ、ゲーデルの不完全性定理。それ自身の正当性の証明はできない。それ自身の正当性の証明をしようとするとそのシステムが証明できない命題が出来てしまう。でも、じゃあその命題を取り込むことはできる訳ですよ。でもそしたらまた違うものが出来てくる。で、どんどんどんどんそういう風にシステムを動的に改変していくことができる。サイエンスというのはそういう意味で動的に改変することができるということがさっき言った異質なものがあった時に、異質なものを異質なものとしてきちんと受け止める、かつその異質なものを突き放すのでもなければ、強引に入れるのでもなくて、自分のこの機能モジュールの循環という形に従って中に入れていくということをする訳です。で、問題は、そういう風にやっているサイエンスというのは人間がやってるっていう風に想定する必要が無いわけですよ。情報ということがお互いにどうInteractionしてますかというのは我々の体の中でもあって、化学物質がやってる部分もあるし、さっき言った意味の議論をやった時に、計算をしてますっていう脳味噌の話もあるし、いろんな部分があるわけ。だから実体っていう問題がさっきあったけど、問題になる実体の事例をでかい方で出したけど、逆にいくと今ここにいる彼は“考えて”いないかもしれない。彼は単なるタンパク質のかたまりであって、いろんなシステムのInteractionがあるだけで、ここで彼が「自分だ」と言ってること自体が、一つのそういうものの結果かもしれない、ということが出てきます。
 だからこれがある意味でクオリア論の元になったチャーマーズ氏が言ってるような意味での、(自己)意識とは何か、ってう問題になる訳ですね。だけど、気をつけなければいけないのは、「だから自己意識がベーシックにあるんだ」って想定するということには何の権利も無いんですよ、それに。たしかに「あるだろう」とう思いはある。実際にそれがいろんなことに有用であることもある。でもその有用性っていうのは、前も言ったように構造主義でレヴィ=ストロースが出したように幻想なのかもしれないんです。でも幻想は幻想という情報として現実に社会のコントロールに関わるわけですね。だって神話のシステムによって親族関係のシステムを作ってそれがそれなりにちゃんとした機能システムがあるっていうのが前紹介したレヴィ=ストロースの議論なんだから。ということは「私」というシステムもそういうものかもしれない。だからそういう意味では「私」というのは機能モジュールとしてどういう意味を持つだろうか、という問いをした時に、実在のじゃなくて機能モジュールとしてどれだけの特異性を持つか、安定性をどう持つか、という問いとして考え直した方が実在問題というのは分かりやすいというか取っ掛かりがしやすいと思うんですね。

●時間というメタレベルの機能
 そういうことで考えると、最初に言った話。サイエンスというのは抽象的にこういった枠だけじゃないわけね、これは「サイエンスをどう見るか」と言った抽象的な枠です、全部。それが現実では山のようにやられてきている、かつ今現在も進んでいる何百万という単位の人たちが携わっている、さらに企業の技術とかも含めれば多分億単位の人間が絡んでいるものに対してそれの細かいこの非斉一性を考えて、しかもそれによって切りだされている具体的な機能モジュールということが、あなたがたの中にどれだけ入り込んでいるか、ということを考えたらどれだけサイエンスということが指しているものが、我々に浸透しているか。
 もともと我々の外にあったというイメージじゃなくて、サイエンスということによって明かされることになったものが「私」を支えていることの元々だったのかもしれないという風に思ったらどうだ、というのが僕の最初の問題意識なんですよ。最初からサイエンスというものが無かった時代に何かがあった、という話じゃない。で、まあここの所でさらに歴史の問題を本当はやらなくちゃいけなくて、じゃあ我々は無知だったから気付かなかったっていう話なのか? という問題になるんですけど、実は僕はそういう見方はしていないと。
 でもそれをやるには実は時間の話を本当はきちんとやらなくちゃいけなくて、時間と起源の問題っていうのを、この機能モジュールとそれの構成っていう問題からどう捉えるかっていう話からしなきゃいけないから、ちょっと今回はできない。ただヒントだけ言っていくと、普通じゃない「時間」とか「起源」って言っているってことは、さっきも言った「モノのレベルでの実在の容れもの」として作っているわけだ。つまりいつ何が始まったっていうことは時間という概念の枠の中に入っている。時間という枠そのものを機能として見ていない見方、というか「メタレベルの機能」として見ている見方です。そうじゃなくてダイレクトに思考の枠だよっていう風なことをはっきり言ったのがカントなわけね。つまり内観の形式です、内観の超越論的形式ですという風に言ったのがカントですから、それが機能モジュールとしてはどういう意味だったのかと。だから我々が通常言っていることの「時間」という意味では、何重にも意味が重なっています。今言った枠として使うという意味、それからカントが言っている意味での私が現に今時間を感じている、それから時間が流れてくるって言っているのはこの生成層のイメージを流れのイメージでその瞬間に持っているもの、山のようにいろんなものが絡んでいる。だからこういう風な見方をした時にどういうタイプの時間の議論のどの部分というのが効いてくるのか、で、それが他の見方に対してどう絡んでくるのかっていうのがそれぞれの人が考えなきゃいけないし、それぞれの立場で議論しなきゃいけない。だから単純にこれがあるからと言ってそこに全然別の時間の話を持ってきてはいけない。こっちがこうなっているからどうですっていう問題を立てるというのは、それは問題を立てるのは自由だけど、どうしてそういう問題を立てようと思ったかっていうのをもう一度考える必要があるわけ。形而上学の問題は常にそれが伴うわけです。

 たいがいの場合は非常に素朴な、ベーシックなものに対する素朴な直感っていうものがある。その素朴な直感を、現代のすごく機能的に高いレベルがあるものに、吸収する――じゃなくて逆なんだよね、素朴な直感を保ちたいがためにどうにかしてその先端的なものを吸収してやろうっていう発想が形而上学の問いに多いわけです。だから素朴な感覚っていうことを捨てたくないわけ。でもやっていくと合理的にやっていくから、どんどんどんどん素朴な考えというのは消えていく訳ですよ。だから形而上学の話をやっていくと、進展していくとだんだんまともな判断じゃないという感じがしてくる。素朴な直感というものに対して、「どういう直感なんだろう」ということに対する反省が足りないからです。
 カントは非常にそこを一生懸命やろうとした、その試みは私は買います。しかしその時に彼が使った、こういうものとして考えた時のInteractionとか何とかの具体的な「如何に」ということを示してくれるものとして彼が知ってたものは3つしかなかった。三段論法、ユークリッド幾何学しかも作図のレベルの。そして3つ目はニュートン物理学。しかもカントはニュートン物理学のエネルギーの概念は分からなかった(笑)。ライプニッツより後なのにライプニッツのあの発想も分からなかった。デカルトのレベルの発想をしていた。と、いう3つしかなかったから、彼はそういう所までは思考は進まなかったんですね、残念ながら。
 だから逆に彼の場合は芸術論、まあ美学の方もあの人はあんまり趣味が良くないんだけどね、芸術論とか実践論の方でむしろその部分には良型を見るものがあると思います。ただ認識の部分では今言ったように、こういうものを実際にどういうものとしてHowというものを取り出すものに対しては彼はあまりにも知識が少なかったから彼はロクなことが出来なかった。
 だから逆に今の我々の段階では批判哲学っていうのをやるとしたらば、こういうこと自身を勉強しなきゃだめですよ。こういうこと自身が全部ある意味で人間の精神活動なんだから。まあ人間の精神活動ってことは別に人間が主体っていう意味じゃなくて、人間「において現れている」精神活動だから。そういうものに対する感覚とかを部分的にでも取り込まなければ、この手の議論は逆に言うと素朴なレベルでのさっき言った感情、直感に従うというレベルでの話になってしまう。で、昔はそれを形而上学と言ったのね。
 これは僕の意見だけど、今はそれを「政治」と呼びます。政治というのは、生きてる力の間の、力のInteractionの間の関係ですから、一番素朴な実在直感なんですよ。だからそれに対して異なるシステムの間の闘争という形で位置づけて議論してくというのが政治の要諦です。だから今何かって言うと、「政治的な」っていうのが哲学の文脈で大量に入ってくる。それは今言ったその素朴な直感のレベルを保持してるものなんですよ。このシステムのレベル。だから政治っていうのは別に今の所で言って民主党の鳩山さんがああいうことをやっているっていうことじゃないわけ。特にフランスとかでそういう問題、フーコーなんかがそういう問題を起こしているところでは、さっきのナチスの問題っていうのは今現在フーコーの言葉でbio-politics、生の政治、生きる政治っていう問題なんだけど、それはまさに今言った生(なま)の話なんですよ。で、だから逆にナチスのような、生の話から最も離れてるけど生物学っていうものが一番ぶつかったわけ。やってるものは同じなんだと。その次元が全く違ってるから。

 ということで、だいたいそのスキームとしてのサイエンスはこのレベルでの単位として考えましょうということが一つのヒントです。ただこう言った時に具体性の問題っていうのが常に挙がってきて、今ここの所で延ばしてる話が二つあるんですよね。さっき言ったこのスキームで捉える、という話がありました。でもこのスキームの時に、見るとか行うっていうのは「人」っていう概念を一応僕は入れたよね、評価の部分はさっきの双対で抽象化してあちらにもって行けるんですが、今この二つをちょっと考えてみます。
 つまり機能モジュールというか〈情報〉システムの多様体もある形態っていう言い方をしましたけど、これはいかなる意味で個物でしょうか。いかなる意味でタイプなのでしょうか。という問いがある。例えばサイエンスの説明でよくあるのがD-Nモデルっていうやつね、真ん中ぐらいで話したけど、カール・ヘンペルたちが使ったやつね。科学での説明は何ですかって言った時に、要するに法則、ノモロジックのようなものと、法則っていうのは初期条件ね、この二つによって当てはまるものがあれば、これで現象が出て来るっていう形になればサイエンスの説明です。
 さて、ここで考えてみる。初期条件っていうのは通常、これは個別ですね。個別の状況を表すものだ、適用される状況を。法則っていうのはその意味で一般ですよね。一般じゃないと法則じゃない。だから同じこのD-Nモデルの形で説明できますかというのが社会学に対する問題だった訳ですね。社会学って一回しか無いんだから、社会学で言う一般性って何。だからさっき言ったパターンとか実在性を持ってきて何とかこれでなります、という議論をした訳ですよ。
 ところがですね、こういう見方をした時に、「これどっち?」って聞かれたどう答える? 特に、多重コントロールのシステム、多重の階層がある、しかも多重の階層が例えばコンピューターが入ってる場合分かりやすいんだけど、コンピューターっていわゆる抽象的な記号計算をしてるけど、その記号の内部に今まさにそのコンピューターが作動していますということを表す文章を書ける訳ですよね。だからコンピューターは自分で電源を切れるし、時計が入っていればある時自動的に立ち上げることができるよね。それはコンピューターの中にあるプログラム、抽象的なルールの中に、まさにそのコンピューター自身というそれを支えている個物、具体的なものを指すものを書けている訳ですよね。でもコンピューター自身が扱っていること自身は、記号計算としてはそれはそこ繋がってるものじゃないんだよね。偶然たまたまそこのコンピューターに、だから同じものを別のコンピューターに入れたって動かないことは当然あるわけ。じゃあそれはそこじゃないと動かないかっていうとそんなことはない。文法としては正しいんだから、それはコンピューターの内部の記号を操作して正しい、ある意味で正しい競争なわけ。ただし初期の目的は達さないけど。だからさっき言ったコントロールっていうレベルで言った時に、何をコントロールの成功と見なすかとか、評価込みになってる場合があるんだけど、評価ということを常にFIXしてしまうと、非常にこれは硬直したシステムになってしまう。だから評価システム、この評価っていう概念は僕はこのレベルにおいてそれぞれ動かせるようなむしろ動的なものにしたいと思っているので、今言ったことは問題になっちゃいます。逆に。
 そうすると実は、この「個と一般」、この対比をどうするかっていうことが問題になる訳ですよ。彼は今あの意味での情報システムのかたまりなんですよ。で、情報システムっていうのは別に物理で、物理に全部を還元できるなら物理の意味で個物だってことを言えるけど、斉一的じゃないって言ってるんだからいろいろ絡んでる訳でしょ。するとここにいる彼の、それを支えている、そういう束になっている情報システムが「どっちの意味で個物なの?」、「個物それともパターンなの?」って聞かれたらどうする。で、そこから仮にエマージェンスとしてここにいる彼がね、私って言葉になってきたとしたら、その私って個物なんだろうか、それとも一般なんだろうか、分かんないや。で、全く同じ議論かどうか微妙だけどこれはやっぱり一番基礎の話をした時にカントが、超越論的自我っていう概念を言った時に、超越論的自我って誰?っていう問題なのね。〈私〉は経験的自我ですから。じゃあ超越論的自我ってこの辺にいるんですか、それともみんなにいるんですか。中島義道さんに言わせると「超越論的自我は私なんです」、って言うわけ。で、「中島さん僕は?」って言ったら「あなたは私の表象です」って言うわけ(笑)。「だって僕はあなたの言う通りにしません」って言ったら「いや、私に逆らう私の表象もあるんです」という言い方をする。彼はだから超越論的独我論と言ってますよ。
 これがある意味で一番正しい解釈の一つです。つまりそれが分離できないっていうある種のギリギリのポイントを指すっていうやり方だから。で、存在論的には推移をする神様の装置と同じことをやっています。

 こういう話をした時そこをどこへ持っていくか。つまり個と一般とかね、普通は個と一般って言うとこれは断絶的なんですよ。それの理由はこういうようなイメージを、個と一般に対する数学単科の表現を我々が持っちゃってるから。これって断絶しているでしょ。これと違うよね、これだったら断絶と感じ無いよね。だって要素が連続的だったら、集合で「含む」だったら。でも「属する」ってそうじゃなくて、断絶的な感じがあるでしょ。レベルが違いますから。レベルが違うっていう形でやると今言った問題が先鋭化しちゃうんですよ。

●スタティックではない「個と一般」
 だから、これは僕は最近考え始めてまだ答えは無いんですが、この「個と一般」っていうことを実はここに見たいんですよ。「行為をする」ということに。何故か。行為というのは今ここで、誰かがやる。誰かが、まああのシステムで何かをやる訳です。でもまだ出来てないわけ、これから起こるんだから。起こってしまったんだったら、それは「行為だった」んであって、行為ではない。「行う」っていう「行った」になるんだ。行おうとしていることっていうのはまだ決まってないんですよ。一般的なもの。でも、それが行うということにおいてここにあるんですよ。で、これを行うっていうことが常に動詞であるっていうことに関わっていて、動詞であるっていうことは時間が経過するってことと関わっているわけ。まあこれ僕自身の時間感覚の話になっちゃうから分かりにくいことになると思うんだけど、今まではこういうスタティックなレベルで個と一般と考えた。普通こう思うわけだよね。でも、そうではない。スタティックじゃないレベルで個と一般を考えたらどうなるか。つまりそれは行為が多分鍵なんですよ。そうすると例えば、つまりプロジェクトの議論なんていうのは、何かのプロジェクトをしましょう、プロジェクトの問題っていうのは行為の発端ですから個なんですよね、基本的には。でもプロジェクトそのものがどういうものとして成立していくかということを考えた時は、まだオープンですから、それは一般に関わる議論になるわけ。ある意味で。でもその一般はこの意味での一般ではないわけね、つまりシンギュラーなものがジェネラルなものになっていく、まあ個と一般で考えているけど、
 で、さらにこれを繋いでいるっていう所の問題なんだよね。だんだん接続していくと。で、これは一番良い例が行為論なんですけど、フォークリフトの話でね。手を上げるとタクシーが止まる。で、タクシーを止めることによって実は運ちゃんをからかおうと思ったと、いろんなことが出て来る。それからここの所で指を下げる。指を下げることによって、この黒いボッチが下がる。電気が消える。みんなの目をくらまそうとする。という繋がりがありますね。こういう繋がりがずっと繋がっていくということがありますね。そうすると実は基礎行為の議論というのは、ここの位置に基礎行為を置いて、ここから先の所は一般のパターンの連接を適用という形で繋ぐ訳です。だから、どこで切るかって言った時にここだけにシンギュラーを認めてこっち側をジェネラルに認めようというのは通常の議論なんだけど、そうではなくて行為ということはこれ全体がさっき言ったこういうタイプのものがあったと、それが次の段階に移った時に実はこれがこういう形の一つのシンギュラーになって次に移る。つまり、個と一般というのが、時間と関わる形でずれていく。というイメージを持つ必要があるんじゃないか、こういうタイプのシステムを考える時には。だからこれがさっき言った斉一性が違った時に、どういう風にその時間という概念が動いていくかということと関わるんですよ。こういうものとして考えると。
 で、そうした時にこの我々の行為の場合にこの一般性を示すものは何かって言ったらば、それは解釈内容なんですよ。で、微妙なんだけど、ここの所でさっきのその相対の話が絡むんですが、ある一つの解釈を固定するということは――解釈Aを固定するということは、ある段階で別の解釈B、解釈Cということから特殊なものを選ぶわけです。ところが解釈のコンテントによって解釈を膨らますということはこのことで一般という形を繋ぐことになる訳です。つまり前も言ったけど存在論的拘束性という話で、理論と解釈ということで言うとしたらば、実は理論というのはこのレベルを言ってる訳です。解釈をして、こういう風に一般していくと。
 で、これに対して存在拘束性としては何かって言ったら他のものがこのジェネラリティに対してこのように絡んだ時にこれがうまい具合に辿り着くかですよ。さらに全体が、次のステップでこれ全体がシンギュラーなものとなってさらに一般、というこういう図式が作れると。個と一般という概念を行為的な感じから見た時に安定的にする、というものが何かっていうのが多分これなんですね。ローバストネス・オブ・サイエンス。科学の堅固さ。でもそれはものがそこで固くて壊れないという概念の意味じゃないわけ。個と一般ということにたいしてこの制御システムの間でそれがどう成り立っているかということ。
 で、しかもこの制御システムの考え方っていうのはこれがこう斉一的に一つの層になっているわけでは必ずしもないから、いろいろ大変絡み合ってしまってるから非常によく訳が分からない。だからそれを何かの形で分離して我々は、サイエンスというレベルでのさっき言った機能モジュール、あるモジュールという所に落とす形でもう一回考えていくということをする。
 でも逆にそれはサイエンスだけである必要はもしかしたらないかもしれない。サイエンスがこの形態で解釈を取るんだったらこちらは身体で取っても構わない。さっき言ったように権力で取っても構わない。こういう形で実は個と一般という問題を介する形で、プロジェクトの問題っていうのはどういう風に成立しているかという風に考え直すとモード論の問題っていうのはもっとたぶん哲学的に面白くなる。
 例えばあれね、普天間基地に移設した時にそこの所の海洋生物に対するアセスメントがありますからって言って、そのプロジェクトにおいて科学の新しい知識が出来た、って言い方をするけど、それは考えてみたら今までそこの所で誰も海洋調査やりませんでしたっていうだけの話じゃない。金が無かったからたまたま新しい素材に対して研究しなかっただけでしょう。別の例で霞ヶ浦の湖沼再生プログラムであった時にね、ある水草の研究をしている人がいて、でもその人が研究している水草っていうのはある環境があって、流れがある所だけで、外に防波堤がある所は研究してないから分かりませんと。だからそれだったらここで新しい知識が出来たって、それは別にそのプロジェクトは機会を与えただけであって、プロジェクト自身がその概念の意味とか知識のイメージを変えたんじゃないよね。単純に機会を新しくしただけです。
 それからさらにそこに対してローカル・ナレッジって言われていて、今のところサイエンスに対してはそんなもん知識じゃないと言ったんだけど、例えば漁師さんがね、「いやあそこの所は水の高さがこうなると水草が急に枯れるんだよ」というような知識があると。そうするとサイエンスの方でそれに対するデータがないから、補完的に知識を使うということはある。だからそういう意味でローカル・ナレッジを認めている一派が居るんだけど、「いや何のことはない、サイエンスでやってみろ」と。手が足りない所は猫の手も借りたいのに過ぎないわけであって、ローカル・ナレッジがサイエンスと同じ意味で何か知の体系に入ったんじゃなくて、プロジェクトをやる時にサイエンスというものじゃ足りないから猫の手を借りてきた。だからそこからサイエンスの研究になったら初めて魔法になったっていうことになるし、その知識が正しいかどうか、その知識を信頼するかどうかはサイエンスの検証が要るって考えた訳ですよ。全然新しい知の形態なんかやってないわけ、知を得る機会の形態ではあるけど。
 そういうことを考えると、そういうレベルでいつも何かの問題解決ということを社会学のレベルだけでさっきも言った一番下でキャッシュアウト、要するに現金化される所だけで評価していただけでは、概念的なレベルでの変遷は無いわけです。そうじゃなくて、概念的なレベルがどう変わっていくかっていうことに対してまさにああいうサイエンスという仕組みがどういう影響を持っているか、で、しかもそれが具体的に今居る僕達のレベルにおいてどういう風に頭の中に影響しているか、という風に考えるのがたぶん僕は科学に対する認識論の問題だと思ったんです、本質的には。
 で、さっき言ったこの個の問題というのは僕自身も本当に最近考え出した所で、本当にまじめに考えると時間論とそれから数学の基本の議論とか、あとそれから言語に対する議論をしなければいけないのね、これは。この場合行為に対応するのが実は僕はこれの個と一般の行為の基本枠でのレベルで、これの典型がパロールだと思います。エクリチュールじゃなくて。エクリチュールとパロールの差異ってまずこれとここの分断っていう形になるんだってちょっと思っています。
 まあそんなようなこんなようなで、いろいろとごちゃごちゃとした話になってしまいましたが、このInteractionの話が現実にHowとしてどうなるかということで大事な話がもう一つあります。何かって言うとね、これが情報――情報ってこの意味での〈情報〉じゃなくて、今情報化って言われている意味でのリアルタイムのことだよね。これは非常に大事なんですよ。実を言うとそうは言っても、ああは言ってもあの通りに我々が今すぐに発想を変えるということは非常に難しい。
 でもこれに対してシンパシーを持てるようになっていると思うんです、今から15年前に比べて。何故か。それは実は、さっき言った、容れ物としての空間の概念が変わっているんですよ。それは何かっていうと、今の容れ物としての空間は、高度情報化社会と言われている意味での、情報の空間なんですよ。物理的な容れ物じゃないわけ。つまりリアルタイムということ、時間が無いということは、それは空間からも届いている。世界中のどこでも繋がっている。
 だから隔たりっていう問題じゃないわけ、同じ枠の中に入っているっていうことの問題だったわけね、空間は。隔たりとしての空間っていうのは別の概念なんですよ。むしろ個と一般に対してのこの距離を取る方がむしろ隔たりの空間の概念なんだよね。隔たりの空間じゃなくて、今そこに一緒にあるっていうことで一つのシステムを組むことができるっていう感覚を取る時の、その取ってくる単位のベースが、今はそのリアルタイムの情報が重油尾になってくる。そうなった時にどこまでいくか分からないししかもそのコンテンツがやっぱり逆にコンテンツという形で出てきて人間という形が見えなくなってくるから、機能化が非常に進んでるわけですよ。だからそういう所で日常にいて、しかも昔だったらパソコンのオタクぐらいしかパソコン通信をやらなかったのに今だったらみなさんiPhone持ったりなんだりして目の前で20年前の人間が見たらこんなのどこの宇宙人だって思うようなことをやってるわけでしょう、何の不思議もなしに。そういうことを考えたらこういうことに対するシンパシーは非常に僕は上がっていると思うんですよね。だからこれに対してつまり情報のスピードのリアリティ、いやスピードじゃなくてあれは情報において空間という概念が何だった、つまり情報とかそういうものの単位を考えて空間という概念が何であるかということの観点から見なければいけないし、その限りで変わってきていると。

●機能モジュール
 で、これはサイエンスの中だって、今まで昔みたいにピュアレビューやって改めるっていうのは大概ジャーナルの世界の話なのね。ジャーナルがこうやって回っていって審査されて知識になってジャーナルがこういうシステムになりました、っていうのがモード1のだいたいの議論なんですよ。今どき先端はそんなことやってないと。実際私はサイエンスの先端はよく知らないんですが、本当にあの、号が出る最後に初稿をもらったり金をもらったりするレベルで、最後のお墨付きのレベルであって本当に研究を進展している所は今その前のレターズでもない。もうメールの段階でしかも流してやっている、という風に私は聞いているんですが。だから、古いタイプの概念で考えいてたらもうダメなんですよ、現場で見る時には。というのが一つ。
 で、それで今言ったのは実はこの機能モジュールの議論なんですけど機能モジュールというのはあくまでもモジュールとして構造を持ちます。で、それが実はさっきの実在性の問題とも関わるんだけど、この戸田山さんの本に前も言った「ジャーナル・システム」っていう部分を書いた人がいるわけ。つまりジャーナルはお互い引用しますと。で、その引用のシステムを持ってる科学社会学で、現実にアメリカで統計を出してるのもあるんですよ。で、それをどう解釈するかでジャーナル・システムっていう発想を唱えた人が日本人なんだけどいるんですよね。で、それはジャーナルがお互いに引用する。引用というのはこれが向こうに引用されることによって新しい論文を生む。引用する側は引用される側に対してadmire、賞賛を与えるとか意味を変えるという風に言うわけ。で、これは一つの引用体系として成長しているシステムだという風に言ってるわけです。で、彼らはこの解析をそれこそオートポイエーシスの概念を使ってやるんですよね。つまり作動という概念を使った。引用が作動することによってジャーナル・システムは成長していくと。でもこれ言葉として聞くとものすごく違和感を感じない? “引用が論文を産んでいく”ってここに書いてあるんだよ。(笑) だって引用が論文を生むか? 本当に。
 機能モジュールと言った時に一番問題なのがここなんです。機能モジュールを考える時にそれの動態性をどこに読み込むか。さっき言った逸脱の議論はやったと思うけど、逸脱の概念をどこに読み込むか。引用というシステムだと逸脱がかからないんですよ、実は。つまり、前にも言ったけど一般システム論だと二つの系統があって、中から作っていく場合と、ベルタランフィみたいに現象論として重ね合わせて、「これなら理解できる」という意味で見る場合がある。オートポイエーシスは重ね合わせてこれなら見える、という側面をなるべく削ぎ落とすような言い方をしている人が多い訳です。
 ところが今のジャーナル引用システム、引用によるジャーナル・システムというのはまさに機能モジュールとしてここだけをピックアップするっていう形を取って、それが作動してるっていうことの作動原理自身が持っている逸脱性の可能性ということを内部にきちんと入れてないわけ。それは人間がジャーナルを書くんだよ、という前提が当然入っているわけ。
 しかし、本当にジャーナル・システムをそういう風に書くんだったら面白いのは本人が全然思ってないのにもかかわらず、そういう形で引用という形で突き合わせてきたものが、その論文の解釈を作ってしまい誰もそんなこと考えてないのに、それを出来てしまったという所が面白いはずなんですよ。だからその意味では面白い可能性があるにもかかわらず、今言った異常性を生み出すという作動に対する異常、逸脱という部分ということをそれ自身のシステムの中では暗黙に外に置いて、結合しているっていう形で書いているように僕には思えるんです。だから生命とかの場合にはそうじゃなくて、実はダイレクトにくっついている訳ね。ヴァレリーか誰かの議論だって脳神経の部分についているから、脳神経ってのはそれ自身物理的か、化学的か、生物学的にとにかく作動はしているんだからというのが入っている。ところが特にこの情報っていうのは分化機能とかある種の表現とかいうのに持っていくと、この機能性ということが持っている中のさっき言った動態性そのものを支えているもの、それを支えている逸脱の可能性。前にシェーンハイマーの議論をしましたよね。要するにシステムとこういう風に燃料があってエネルギーのやり取りをしているのはダメで、これはウソで、中に入ってこれが膨らんでもう一回戻ると、つまりそれじゃなくなる形で戻っていく、という。この戻る所がむしろこの機能モジュールの高次コントロールとして考えるべきなんだとすれば、まずそれをコントロールに対して逸脱という概念が最初の作動性があるんだとしたら、これを動的なものとして考えるためには常にこれに対してどういう形で逸脱性、まともじゃないっていう概念を入れるかっていうことなんですよ。で、この問題がまだ解けてない。で、大概はみんな数学的に上手くいったって言っちゃうと数学は、とんでもないものは数学に書けないんですよ、はっきり言って。数学に書いたらとんでもなく「なく」なっちゃうんだから。だから、そこの所は常に問題なんです。

 で、だからここで最後に残る話になるんですが、ここで最後に実は私、個人の問題、個人というか私ですね。私とシステムなんですよ。システムと差異の問題。これは次回の最後の話題にするつもりです。で、予告しておきますと私がオートポイエーシスだというのは全く間違いだと思います。オートポイエーシスじゃないです、私は。そうじゃなくて「そこにいる何か」はオートポイエーシスの部分があるけど。私の本体は今の議論だと逸脱だと思っています。ですからこれの話。実は昨日退屈ということの議論をしていたんですが、退屈ということが起こるという理由は人間の知性の本体は逸脱にあるということにちょっと昨日気付かせてもらったのでその辺との関係の話を次回やろうと思います。
最終更新:2012年10月03日 14:21
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