●オートポイエーシス
最初の授業で、この授業では業(わざ)は授けません、業(ごう)を授けると言いました。今日は少し業(ごう)に近い話をしたいと思います。
全体で何をやりたかったか。うまくできたとは自分でも思わないけれど、科学というものが私たちに対して、はっきりとはわからない形で、私たちが物を考えることにどれほど関わっているか。それを考えようとしてきました。
よく哲学者が哲学を持ち出して、科学に対して偉そうな発言をしているけれども、哲学自体がだいたい2000年前に、ユーラシアの片隅でできた非常に特殊な思考の形態であるということと、キリスト教におよぼした影響の一部分を話したつもりです。
その後、システム論の話をしました。システム論といってもいろいろなタイプがあるし、システムという言葉の意味もひとつにはできない。どのシステム論が正しいという議論もできません。心理学をやっている人は心理学のシステムを考えているだろうし、物理学をやっている人は物理学のシステム、政治学をやっている人は政治学のシステムを考えることでしょう。
システムというからには、個を統合するという視点が必ず入る。しかし、どうやって統合するか。それが行っている分野ごとに全く違う。前回の私の授業ではオートポイエーシスを議論しました。オート(自己)をポイエティック(生成)するということ、自己生成系というものです。
オートポイエーシス自体は、神経生理学をやっていたマトゥラーナと、しばらく前に亡くなったバレーラが数学モデルとして、提唱しました。で、数学モデルのほうを置いておいて、ニクラス・ルーマンを取り上げたのでした。
オートポイエーシスでいちばん面白いのは、「システムの外部」という概念はシステムに認知されない、ということです。システムは機能的に閉じている。これは特に脳科学の方でマトゥラーナが出した議論です。自己とはどういうものか、という問いにおいて、精神を神経生理学と結びつけるために、機能論上のものとして考えた。「私」には閉鎖性がある。「私」は「あなた」ではない。ということを意味づけようとしたところがあるわけです。
その一方で、河本英夫さんなんかは、オートポイエーシスを別様に引き取った。彼は現象学者なんだよね。現象学というのは意味の学問です。意識とは何ものかについての意識である、とはフッサールの先生であるブレンターノの言葉です。志向というものには方向がありますので、ある意味では方向性の先に対象があって、その対象をさし示す仕方が意味である。だからフランス語では「意味」と「方向」が、同じsensという言葉で言われます。
現象学にオートポイエーシスを利用するということは、それを意味の次元に閉じ込めることになります。意味がどういうふうに生成されるのか、河本さんは身体論を、意味に対する身体論として考えていて、そのためにオートポイエーシスを応用しようとしている。
僕が疑問なのは、科学ってそういうものだろうか、ということです。むしろ開かれたシステムなのではないか。
ただ、閉じている部分もある。常に問題となるのは方向=意味なんだけど、意味というものはもともと、「眺める」「見る」と関係していました。「見る」と心理が重なっていたんです。
キリスト教においては、これは神様が持っている創造の設計図・プランなんですよ。キリスト教、あるいはライプニッツを生半可にかじった人がよくする間違いとして、神様がプランを立ててから世界を作ったという勘違いがあります。そうではありません。キリスト教的に言えば神様がプランを考えた瞬間に世界ができてしまう。それが思考と行為、思考と感性が一致しているということです。
だから時間の概念を神様まで広げて考えるのは、実はキリスト教的ではない。
いくつもキリスト教の概念はあるのだけれど、トマス・アクィナスをベースとするような理神論があります。この神論においては、神様は時間のなかにないんですよ。それはライプニッツがモナドロジーのなかで、時間をモナドの間の現象間の関係として説明しました。お互いを映し合う、どれだけたくさん映すかという関係として考える。そこからカントはヒントをもらったわけです。そういうごちゃごちゃした話をいっぱいしました。
●科学において意味が絶対なのではない
重要なのは、科学において意味が絶対なのではないということです。そこで着目したかったのが、いわゆるフランスのエピステモロジーです。バシュラールを主として、カンギレム、ミシェル・フーコー、そしてアルチュセールがいます。
彼らは科学的精神という発想をするわけです。科学的精神は決して個人のなかにはないし、意味の次元からも決定されない、と考えられている。正確にいえば、言語的な意味で、個人が個の対象と関わるとき、自己とそれをつなぐために意味を考える。ドゥルーズが表象のシステムとしてそういうことを言っていますね。
こういう次元で働いている意味が先立っているのではない。そうではなく、むしろ時代精神とか、ヘーゲルのいう世界精神のようなもの、そういうものがあって、それが私たちと出会う。そういう見方をしていた人たちがいます。
現象学でも、数学の現象学をやろうとしたカヴァイエスという人がいました。カヴァイエスは数学のそのものが発展していくという発想をしました。僕が気になっているのは、哲学がごちゃごちゃしていてわからないように、科学もまたごちゃごちゃしていてわからない。科学史のなかにはいろいろ面白い話がありまして、昔あった骨相学や、生物学のなかでも非常に不思議なドリーシュの議論などいっぱいありますけど、科学もまた一通りの意味では説明することができない。だから、科学とは何かという意味を考えるのではなく、私たちに対して科学はどのように影響しているか、科学にどのように働かされているか。それを考える必要があります。
逆に、意味の次元そのものが、先入見あるいはイデオロギーの影響下にある、支配されているという考え方もできます。イデオロギーというのは政治的な意味でもちろん使いますけれど、もともとこれはイデアのロジックです。理想とする形式的な観念の学なんです。こういうものをベースとして私たちは生かされている。
だから明確に対象になるようなもの、見てとれるようなものが全てを指示しているわけではない。むしろエピステモロジーにおいて精神と言われたものがあって、それに私たちがどう出会うかの方を考えたい。
そうすると、哲学にだって、キリストやユダヤ教の伝統もありますね。ギリシャの伝統もある。ポリスという政治のシステム、弁論術。それから19世紀の無意識の議論。無意識において私たちの欲望がどうなっているか。私たちに影響するということももちろんある。たとえばフロイトは、欲望を病気として考えましたが、フロイトの精神分析を記号論として読み直したのがラカンです。
一概にいうのはまずいんだけど、ラカンは最後まで臨床医だったこともあり、個々の患者さんの単位でものを考えていました。ラカンのセミネールに出ていた、ガタリという元気のいい共産主義のお兄ちゃんが、ドゥルーズと一緒になって、精神分析を制度分析というレベルにまでした。エディプス・コンプレックスというものがあるけれども、それを家庭内の父親殺しという神話から資本主義社会の基礎となっている構造だというふうに考えた。
するとこの科学的精神というやつも独立にイデアの世界があってそこからやってきて私たちと出会うという話ではない。数学なんかそう見えるかもしれないけどね。
科学には理論があり、それが精神と関わるものだと考えられがちです。でも理論だけでは科学にはならない。中世の神学のシステムは、下手な科学よりもよっぽど細かい議論をしている。有名なのはピンの上に天使が何人立てるかという議論です。確か正解は4人だったと思うのですが、非常にいろいろな文献を引用するんですよ。聖書だけではなく、キリスト教の聖典と呼ばれている文献やら、論争に対する記録、そういうものを全部引用してきて、はい結局4人でした、という論証をやるんですよ。
神学の論証は誰かが書いたものを引き合いに出して「ここにこう書いてある」ということでやるわけですが、近代科学はそうではない。近代科学には実験及び観察がある。この二つが入っているのが違う。中世だってちゃんと世界を見ているし、それで世界を説明できるといっている。だから理論を説明するということには強い。ところが実験及び観察によって理論を問い直し、それを変えてしまうということがない。パラダイムシフトが起こるということはなかったわけです。
この転換点を誰が受け持つのか。システム自己閉鎖的であるならば、パラダイムの転換はどうやって生じるか。オートポイエーシスというシステムは、自分を変容させるのだけれども、自分を殺すことはないんです。
オートポイエーシスというシステムにはいろいろ定義がありますけれども、自分と自分以外のものの差異を保存することによって、自分を存続させる。存続させるということがオートポイエーシスの定義の一つです。
だからそれが壊れてしまうということはオートポイエーシスの議論の中では書きようがない。それは外から来るしかない。閉鎖系のシステムを機能性から見たときには、新しいことが起こるという概念がどういうものになるかわからないわけです。
それにもかかわらず我々は、新しいことが起こるということよりも安定を利用したがる。基本的には生物学がそうです。ある安定している水準に戻る、ある固定した構造があってそれを利用する、そういう話を基本的にしたがる。
それを例として出しているのが生物学者のシェーンハイマーです。うさぎのえさの中に放射性マーカーをつけておくと、放射性マーカーがどこにいくかがわかります。それをずっと追っておくと、体の中にどんどん入っていく。つまり何が起こっているかというと、食べた物を、化学反応を利用してエネルギーを取り出して残り捨ててしまう、ということはないわけです。ぐちゃぐちゃに組み替えられて、食べるものは体の一部となると同時に、別の体の一部が排泄物になる。それは単純に車があって車にガソリンを入れると、車がガソリンを消費して走るという図式で生物と食物を語ることはできないということです。ガソリンの分子が車の分子と置き換わるということはありませんから。でも生物はそういうものだということです。すなわち閉鎖しているということの意味が、システムということの意味が、非常に抽象的なんです。
●内部観測
ここがシステム論でいつも問題になる点です。一般システム論を提唱するベルタランフィは、システムには二つがあって、見方としてのシステムと、存在としてのシステムがある、と書いています。ベルタランフィの一般システム論は見方なんです。生物学を数学的に見たならばどのように見えるか、どのように見えやすくなるか。新しいものを見分けられるか。ところがオートポイエーシスの議論でよく、存在論をしてしまうんですね。決してそういうわけではない。
ルーマンは、そこをはっきり言っています。何を機能単位として受け取るかということはシステムが決定する。ただし機能単位を作り出すとは一言も言っていない。だからあるものを利用するだけです。
そういったって単位という概念がないと。そもそも我々の存在を考えることができません。単位の底が抜けているのに存在するというと、ゼノンのパラドックスなど、古来いっぱいある話に抵触しちゃうから、考えないようにしている。長いキリスト教の伝統の中でもこういう話をいっぱいありました。
ところがそう考えるとシステム論はうまくいかないんですよ。単位を構成しているものという質量、それがどこから来るかわからない。
だから「私」というものをオートポイエーシス的なシステムだと考えた時に、それを支えているものは何ですかと問うと、そこには答えがないんですよ。オートポイエーシスはそもそも誰が見ているのかという話をしないわけです。そもそも誰が見ているのかという話を問題となったときに内部観測という議論が出ます。
日本では神戸大の郡司ペギオ幸夫さんや、松野孝一郎さんが議論しています。発想は面白いんですが、誰それの説と言っているのはかなり怪しいので信用しないほうがいいです。内部観測というのは、その中に存在しているものが自分を見ることで自分を作るという、オートポイエーシスの中でも存在論的なコノテーションを増やした形として見ることができます。
ここが面白くて、フランスの科学思想家はこっちへ行きたくていきたくてうずうずしている。その一方でルーマンは社会学者なのでこっちから始める。こっちへ引きつける。それは社会学を持っているもともとの問題点でもある。社会学というのはシステム論的な発想に対して、全部の学問を統合する、統合の学として始められた。
問題になったのは、社会学の中に実在するリアリティというのはどこにあるんだ、ということです。社会学におけるリアリティは、すべて人間に関わります。集団として個人をベースに置く、これはウェーバーの発想ですね。そうではなくて集団の無意識をベースに置く。これはデュルケムの発想です。基本的には人間集団なんですよ。それはなぜかと言ったら、私たちが社会で生きているからです。社会学がなぜベースかと言ったら、我々がここに生きているベースが社会だからです。
さて戻ろう。科学のベースは何でしょうか。
科学において我々が依拠しているものは一体何か。社会学のように私たちは科学を知っているわけではない。科学の専門家しかわからないことはいっぱいあります。数学なんて全然わかんないよね。リーマン予想をどうのこうのとかいろいろやっているけれども、それがなんですかと言われたら全然わからない。そもそも数って一体何? いまだに定義がないんだから、数の定義もないのに、なぜリーマン予想が云々かんぬん素数が云々かんぬんといえるのか。そしてわかった気になれるのか。そんな話はよく分からん。
でも、少なくとも実験と観察があることは間違いない。だからここの部分を今までをものすごく強くとらえていたわけですよ。中世とは違うように、実験と観察が理論を変えてしまうということがありうる。実験と観察が、ものの見方を変えてしまうこと。私たちが考えようもないものが、何か力を持っている。
ところが最近はだんだんそうじゃない方向に行っている。それは情報科学あるいはコンピューターサイエンスが膨らんできたからです。こういうものたちもそれ独自の関係を持っている。単に個別的なものがあって、個別的なものが情報を引き出すというのではなくて、こういうもの自体がある種の連関・システムをなしているんではなかろうか。それを理解するために実験や観察に対する理論負荷性というものが、新科学哲学から出て来たんですよ。
いくらでもこういう話はできるのですが、結局システムということがよくわからない。何だかよくわからないけれども、そいつらが関連しているということは我々の身の回りにいっぱいある。科学にしろ、思考にしろ、そういうものが絡んでいるわけですよ。そういったものはそこらへんでも起こっているわけですよ。しゃべっている僕のここでも起こっているわけですよ。僕は、実験の材料みたいに一つでてきて、そしてこうやってしゃべっているのかもしれない。もしかしたら僕は、実験対象、実験装置に過ぎないのかもしれない。それを通してシステムが出会うために、ここにあるのかもしれない。システムの出会いという概念はオートポイエーシスのシステム論の理論では書けないわけですよ。だって自分じゃないものが書くんだもの。
●ここにいる私の個別性
さてそうすると困っちゃった。個別の「私」というのは一体何でしょう。今ここにいる私の個別性というのは一体何でしょう。個別性を支えている根っこがあるとしてそれが時間と空間であるというのは一番簡単ですが、時間と空間というものそれ自体が認知システムや、近くのシステムあるいは物理学のシステムを通して理解されるものです。今ここにいる私を時間や空間が規定しているのだとしたら、それは一体どういう意味での時間空間なんでしょうか。それが物理学や認知システムとして科学とどう絡んでいるんですか。それが問いのはずなんです。
ところがそちらに行けばいくほど、個体的な本質、つまりこのものが持っているこのものとしての本質、そういう概念が持ち出されてくるんだけれども、この本性には関係性というものはないんですよね。とにかくスコトゥスが、仕方ないから出したものなのであって。これは一般論ですよ。この段階では、しかしそれを支えているこの私は、どういう意味でこの個体性を持っているんでしょうか。
一つの答えを出したのはカントです。カントがすべての表象の世界を持ってきて、私たちが考えるものは、すべて我々の表象でしかない。そして表象にはすべて「私の」という言葉がつく。この私というものが、超越論的自我です。経験を可能にしているような自我です。個々の経験的な自我ではない。
けれどなぜそうなのかという議論を彼は一言もしないわけです。例えばあなたの超越論的な自我と私の超越論的な自我は同じですか違いますか。と問われて違いますと答えるときに、ではどのように違うんですかと言われたら、何と答えますか。経験的自我は違います。でも超越論的な自我が違うということはどういうことでしょうか。それならみんな一緒なのでしょうか。超越論的自我が同じだったら、なぜここにいる私はあなたと違うのでしょう。答えがない。
カントをやっている中島義道さんは、ヨーロッパに行くとそこら辺に超越論的自我がいっぱい歩いている、って言うんですよ。皆そう思い込んでる。日本に住む私たちには、理解しがたいかもしれない。
こうやってものを考えている私というのは一体誰なのか。どういう意味でものを考えているのか。精神分析的な記号論を持ってくれば、それだったら僕の子供の時から経験してきたことが、あるいは社会が持っていることが、そこに召集する・そこで出会うことの、実験装置として使われているだけかもしれない。聞いているあなたがたもまたシステムの実験装置として使われているだけかもしれない。
でも、それで納得できますか? 十数年前に理論心理学の集まりがあったのですけれども、そこで、ある人と話しました。創造は私たちに可能なのかという雑談をしていたときに、彼が、そんなことはない、全部組み合わせなんだ。あるものを組み合わせてできるだけだから、創造なんていうものは人間の概念には存在しないんだ。そう、非常に綺麗に割り切っていたんですね。
僕は、半分は納得したんだけれども、全然ないというのは随分ずうずうしいねと言って、喧嘩になりました。じゃあ実例を見せてみろよ、と彼がいうわけですが、システムの議論があったときに、システムの新しさというのは、現にできているシステムをもってくれば、どういうふうに他のものと連関しているかについて説明することができるわけ。後知恵はいくらでもつくんですよ。「現に」これを作り出すということは、後知恵ではないわけです。だからこの個別性という問題は、創造ということ、「現に」ということと不可分なんです。
創造というのは神様の議論あるいは本質の問題になってしまいがちなのですが、「現に」、どうなっているのか。この「現に」というのを支配しているのが、西洋の伝統では神(これ)だったわけです。
僕らはもうこんな伝統を持っていないし、今の科学では、「現に」というものをどう作るかといったときに、理論のレベルで「現に」を作るのと、製品のレベルで「現に」を作るのは違うわけです。
製品のレベルで「現に」を作るということの一番典型的な例としては芸術があります。だから哲学者の中には、芸術論と科学論の両方に対してコミットしている人がいっぱいいるわけです。
一番大きい問題は個別性をどこに位置づけるかということです。「現に」にといったときのセンス=意味は、「現に」と対置されるんですよ。意味があるかないかというのは、例えばこういうこと。昨日、阪神淡路大震災の十五年目の慰霊祭がありました。この震災の意味を十五年前から持ってきて問うているわけです。しかしそれは、あそこで死んだ人、あそこで苦しんでいた人たちの、「あのもの」ではないわけです。
だから、何かの意味を問うなどということは、常にどこかに持ち出すことなんですよ。だから記号論になってしまう。意味と「現に」が対置されている。そしてシステムということは意味側に関わるわけですよ。一つの意味じゃないかもしれない。意味は沢山あるかもしれない。複数のお互いに矛盾する意味があるかもしれない。しかしそれらがシステムをなすわけです。それらが矛盾して出会うということが問題です。
ではその個として私はどうするのでしょう。そのとき、私というのは一点一瞬の私なのか。それとも今まで何十年か生きてきてこれから何年か生きるであろう私なのか。こういうことをどういうふうにつきあわせたらいいのか。そういうのが僕は、哲学の問題だと思っています。
最終更新:2012年10月03日 14:22