第14回 2010年01月18日 > 02

●日本で科学を理解する
 そういう個というものを先に意味として確保するということができるでしょうか。今まではそれができるというのが哲学における大前提だったんです。人間が持っている精神というものを動物は持っていない。これは中世ヨーロッパにおいては常識でした。被造物であるから動物の一種であると、無限性に到達することができないものである。でも精神性(ガイスト)を持っているからその部分では神様と恊働できる、そう考えていたわけです。
 でも今はそういう神学に直接的な支えを求めるわけにはいかない。でもヨーロッパ人は心のどこか奥底でそういう構造に親しんできている。僕たちはそうではないわけですよね。大体、仏様という言い方だって、禅宗の人は仏という言い方は嘘だぜと言うわけでしょう。そのものはないんだと。
 しかもその一方で日本というのは、技術については大変進んでいます。(基礎科学は怪しいんだけどね。最近はノ—ベル賞が連続したのでそう見えるのですが。)しかもその技術は医療にしろ環境にしろ問題を起こしているとして、やっぱり基本こっちからくるわけ。我々はどういうふうにそれに接するか。そこに答えはないんですよ。ただそれが問題だと思うかどうかだけで。
 ある学会のシンポジウムで現代哲学というテーマで話したんですが、僕以外のパネリスト2人とも、フッサールとベルグソンを出してきて議論していたわけです。僕が言ったのは、時間的に見れば確かにそれは現代哲学である。2000年のうちの1割にも満たない時代のものだから。でも誰の現代なのか。ヨーロッパ人にとっては間違いなく現代です。でも日本人にとって我々の現代でしょうか。フッサール、ベルグソン、ドゥルーズ、デリダ、アルチュセール……彼らはどういう意味で、我々の現代なのでしょうか。ただ時間を共有しているだけじゃないのか。さっき言ったように、いまここに私がいるという意味での「いま・ここ」をどのようにそこに持ってくるか。それと同じような問題として私たちの現代とは一体何なのか。それが分からないから、現代哲学という時に私たちはハンディキャップを持っているわけです。
 すでにヨーロッパ人にとっては、現代哲学は当たり前なんです。どんなに古典を勉強している人でも、彼らにとっては現代哲学なんです。それが彼らの一部だから。彼らがそれに参加するから。彼らはそのシステムに参加するような個として働いているから。同じように参加する仲間として私たちは認められるでしょうか。それを僕がずーっと思っている疑問なんですね。
 日本人はすごく精緻に本を読む。結構有名なアメリカの現象学者とフッサールについて話していたときに、こいつは本当にドイツ語で読んだことがあるのか、と思ったことがあるのね。英語の翻訳は日本語訳よりひどいのではないかと。それぐらいいい加減な読み方をしていた。でもなぜそれなのに彼らの本は翻訳されて日本でも売られるのに、日本で一生懸命研究している人の著作がアメリカで翻訳されたり、ドイツ語で翻訳されて一般に売られることはないのか。
 もちろん留学した人で、あっちで現地語で論文を書いたり、雑誌に投稿したりする人はいるけれども、決してそれが一般の書店に並ぶことはない。ないと言ったら言い過ぎだけれど、普通はない。日本の書店みたいに、30歳そこそこの学者の書いた研究書が翻訳されて売られる、ということはない。
 だから私たちの現代哲学だと言うことはどういうことなのか。こういうことは若い人たちだからいえるんですよ。ある程度研究すると、頭では考えていても、口が裂けてもこういうことが言えなくなる。そんなこと言い出したら大学で授業ができなくなってしまうから。授業ではこういう歴史に寄生しながら、こういう知識がありますね、ということしかできないんだもの。2000年の歴史に1人で戦いを挑むことになるんだから。敗北するのが目に見えてます。でもそれが一つの課題でもあるわけです。
 そういうことを考える人は(やっぱり)他にもいましてね。リオタールの『非人間的なもの』がそれです。現代の状況は人間化されていない。人間を復権させるにはダイレクトに戦いを挑んでも無理だ。だからシステム同士を戦わせる。人間はどうするか。その漁父の利を占める。両方が疲弊したところをえへへと狙う。そこからうまいことが生まれるかもしれないということを期待する。ものすごく単純に言ってしまうとそういう話です。それは一つの戦略ですよね。
 科学を理解すると言った場合(大体この理解という言葉が何なのかは問題なんですが)、システムにとらえこまれるということではなくて、個ということをどう考えるか。今まではいつでもシステムが個を規定=拘束すると考えていたわけです。でもそうではなくて、個がシステムを使うとか参加するとかが重要です。
 さっきいった、意味というのはいまここではなく別のところに持っていくということでした。他から意味を与えられたらそうです。でも自分が意味を発するのであったら、「いま・ここ」が広がるわけです。意味として、意味という形で影響を与えようとする。システムというのは影響を与える形なんです。
 だから意味を問うということは、何かを感受するということ、何かを書き写すことであると言えるようになります。フッサールは完全に記述だと考えていました。記述をするということが世界に働きかける行為であると、そういうふうに考えたらどうだろうか。

●思考は常に制御するもの
 そういう意味での行為の形而上学な話をしようとしたのですが、あまり時間がなかったのでできませんでした。でも私もそこには問題を持っているので、課題としてだけあげておきます。
 「考える」「哲学する」「見る」、そういうものを行為として見るにはどうすればいいのか。その一つの手がかりとして認知科学が使えます。特に、「見る」に関しては。
 一番わかりやすいのはアフォーダンスですね。アフォーダンスは、世界に資源があって、それを見てとるというんです。でもやはり「見て・とる」と言ってしまうんだよね。あるものをもらう。相互に見るように世界を作りますと、世界を規定します、ということは言わないんですよ。そういっちゃうと、創造の話に、自分が神様になるのかという話になってしまうのでヨーロッパ人は嫌がるんですよね。
 でも逆に考えるとなぜ我々は神様であってはいけないのか。スピノザとライプニッツは非常によく似た思考を持っています。ただ全く違う点が1ヶ所あって、スピノザの神様は1人だけです。というかスピノザにとっては、世界や神様という存在の本体があって、それの様態モードゥス、あり方としてのバラエティでしかない。
 ライプニッツは逆なんですよ。本当に超越的な神というのはあるんだけれども、神をモナドのひとつであると言ってしまうんだよね。ある意味で分散してるんですよ。多として神がいる。しかも存在しているということはそれを映しているペルセプチオ、他のモナドを見ている見方がある。これが存在なんですね。
 後のシステムはほとんど同型なんですよ。けれど一番根っこの部分が違うので、あれだけ哲学のシステムとして異なっている。
 この二つの対比はちょっとどうしようもない。どちらかを我々は前提にせざるを得ないわけですが、どちらに重点を置くか、どちらに基礎をおくかで全く見方が変わります。
 今までは、個に対してシステム、一般、意味、普遍性といったものに重点をおいてきました。でも、近代になってきたときに、実験の個別性、社会生活における個々の生産(生産というのは、個別的にしかあり得ないから)という概念、そういうものができていくに従って、個のほうの意味が重要性を増していったわけです。
 科学技術と言ったときに、科学と技術はイコールではないのですよね。技術は科学の応用でしょうと言うと、技術論をやっている人はたいがい怒るんだけど、そんことはない。技術を一つの理論の応用としてみるとき、それは一つの理論の断面として見ているだけで、二つの全く異なる理論が出会うということは、技術における物の創造なくしてはありえないことです。
 例えば軍艦を作るときに、どれだけ強いかを求めるなら、厚くすればいい。しかし、速さを求めるなら軽くしなければならない。さあどうしたらいいか。バランスを取るということは、個々の科学の理論の中にはどこにも書いていないわけですよ。現実にそれが出会う時にどうするか。
 科学はそういう外装的なパラメータを決定するということは科学の理論の中では全くできない。いま、物質のいちばん底にある科学の目標として言われ続けていることは、パラメータを全部、理論的に決定するということです。重力定数にしろ、プランク定数にしろ、全部恣意性がない形にしたい。でも多分それは無理だと思う。なぜなら数学自体がそのようになっていないから。何かを忘れる形でしか科学の完全性というものは出て来ないわけです。
 逆に言うと、忘れている部分には何らかの意味での個別性が入っています。その個別性というものは時空間というものを、いつでもあるようなものとして、こうだとイメージされるものではないです。
 それはさっきも言ったように、何かをしていく、使う、行為をする(さらに言えばこれは何かを作る=生成する)ということをどのように押さえるかということにベースがある。
 世界観をいくつか紹介した通り、それは今そこにあるものの見方のテンプレートではないんですよ。哲学的に言うと、世界観はテンプレートをどのように作るかという書法です。書法というとテンプレートみたいに聞こえるんだけれども、生成のための要素です。僕は生成素と呼んでいるけれど、これを自分のものとして感じられるか。どのようにして持つか。
 広く言うと、現代哲学を私のものとするときに、自分の思考の生成素をどのようにとらえるか。これをニーチェは力と読んだわけです。それが面白いところ。
 しかしそれは決してシステムという形で安定性を持ちません。さっきもいってたみたいにいわゆるホメオスタシスとは、あるところにいって戻ってくることです。シェーンハイマーが行っていますが、細胞がエネルギーを取り込むときには、細胞自身を不安定にするから、生き残るように排出しなければならない。そのためにシステムとオートポイエーシスというものを使っている。そもそもそいつが生き残るためには自分自身からはみ出さなければならないんですよ。
 ちょっと古いですが、新世紀エヴァンゲリオンの中で、ホメオスタシスに対してトランジスタシスという新しい用語が作られたようです。状況を渡るということですね。むしろ僕は状況を逸脱すると言いたい。逸脱するということが、これの形態にあった。そのレベルをどのようにして思考対象にするか。それが制御という問題です。
 ですから制御という議論を本当は踏まえなければいけない。制御という次元で、思考はメタレベルのものとなるわけです。思考というものは常に制御するのだから、何かに対して常に部分的なんですよ。神様のようにはつくれないんです。部分性というものをところから招来するか、ということが問題だと思います。

 私という概念、自分が哲学するという概念を考えた時に、やはりホメオスタシス的な、生物的なモデルを考えると思うんですよ。自己言及というのがまさにそれです。ひどいので、インド哲学を研究している人が言っていたのが、自己というのは抽象的にいって自己参照だよということでした。これは世界とは無関係だと。ハイデガーが現存在を、そこにいる存在―世界内存在―としたことを話していたときに、自己は閉じているから世界外存在だ、と言い出したの。どうして世界外存在が世界と関係するのか僕には全然わからなかった。
 そういうような自己と言われているものが、世界とどのように関わっていますか。それがいわゆる哲学なんです。それを考えたときに、どの部分の自分が思考で作られていますか。もちろん、僕が朝食べてきたコーンフレークが僕の体を作っていることは間違いないわけですよ。でもコーンフレークが私の思考を作っているかどうかはよくわからない。微妙なんだけれどねこれは。生産物が文化的なものを作るという議論はマルクスが唯物論でやっていることです。下部構造が上部構造を決定するという言い方ね。ただ決定するというのは創造するということでは無いんだよね。決定するというのは制御だから、条件にはなるんですよ。後知恵としてそれを説明することもできる。でもそれとして生み出すかどうかはわからない。
 そうしたときに生成素という概念、自己という概念、そして同時に、存在するという概念。この辺が哲学でずーっと昔から考えられてきたものです。ということは、結局哲学は、問いに対して何も進歩してないっていうことなんですけどね。

●意味からどれだけ自由になれるか
 これだけ話しても、全然科学なんてなくていいじゃないかと言われればそうです。この話の中に科学はひとつも入ってこなかったけど議論できちゃった。でもなぜ科学を通してこういう発想することができるようになったのか。それを自分で反省してみると、結局、「意味」が大きいんですよ。意味からどれだけ自由になれるか。科学においては、人は必ず意味を求めたくなります。科学の解説を読みたくなるとは意味を見たくなるということなんです。
 でも、科学が我々の理解や他の哲学と出会うときに、意味は非常に重要なファクターではあるけれども、科学そのものを構成しているベースではないんですよ。
 ここで誤解してはいけないのは、科学と科学者はイコールではないということです。科学者は専門に見えるかもしれないけれども、科学精神というものが発展していく時に科学もまだ発展していくとしたら、科学は科学自身を超えることで人間という別のシステムを科学者という形で使っているのに過ぎないんですよ。
 ひどい言い方をすると、本当に何も分かっていないバカな科学者っているのね。そうではないともいっぱいいるけれど。でも、自分がやっている仕事が何かよく分かっていないけれども、もの凄く重要な科学的成果を出すということはいくらでもあるんです。それから、そのときの研究の素地の中で、何十年か経ったらびっくりするぐらいリニューアルされて、本質的には同じものなのに、新しい科学の礎となることもいっぱいあります。
 前者のひどい例はプランク定数のプランクですよね。プランク定数を発見したときに、大学院生と議論していて、こうやったらうまくいくよね。と言っただけなんだよね。だからなぜ一生、なんでこれが必要なのかわからなかったと言うんですよ。後者の例ではエーテルの概念です。場の概念というのはエーテルの概念と非常に近いです。昔あった話がもう一回くり返されるされると言うことはいくらでもあります。
 でも科学者は人間なんだから、人間として世界に向かっていくときに、意味という形で考えたくなるわけですよ。思考だから。ただし、それは科学の全部ではない。
 同じように、哲学もまた哲学者ではないんです。ここがいちばん誤解されるところ。ある読書会でエヴァンスを読んでいまして、彼は実在論者なんですけれども、英語において英語を説明するのに、ある理論に文句を言っているんです。(彼が直接、敵にしているのはドネラなんですけれども。)言語に対して説明しやすい簡単な理論があるといって。
 可能世界意味論といって、言語を必然だ偶然だと説明することができる、クリプキが出した概念があります。ア・プリオリとア・ポステリオリ。それと必然性と偶然性。普通はこれらは重なると思っている。ところがクリプキは、ア・ポステリオリな必然性と、ア・プリオリな偶然性を、パズルで考えてしまった。
 それに対してエヴァンスは、普通はこれを可能世界意味論としてとるんですけれども、俺の方が正しいぞと言うわけです。なぜか。それは俺の方が簡単に説明できるからだ。なんでそれなのに意味に関する哲学者たちはそれを理解してくれないのだと文句を言っているわけです。
 この間それは議論になりましてね。なぜエヴァンスの文句は聞き入れられないのかと考えた時に、実は言語哲学で意味を考えている人は、目の前に言葉がありますよ。意味という現象が現在ありますよ、というふうには考えてないんです。そうではなくて、俺たちが哲学的に考えているのが正しい意味、正しい言語なんだ。我々がダイレクトに言語を作っているんだ、と言っちゃう。それはある意味正しいんだけど、それ以外は間違っているというわけです。
 差異があって生成がある。それが確かに大事なんですけれども、現実というのは常に外れている、そのキャップの表れなんです。それをだんだんどうやってか回収していこうか。そういう説明できないギャップに対しては、哲学も科学も多くの理論を与えるわけです。
 ただし哲学は、意味という装置を非常によく使ってきた。手段がものすごく貧弱だったんです。その一方で科学というのはそれぞれの部分システムはものすごく厳密です。あるものに対して応答できないんだったら、新しいシステムを無理やりにでも作り出すんですよ。苦労して苦労して作る。しかもその中ではちゃんとホメオスタシスのレベルでシステムの硬さを要求する。そういう科学の活動性というのは常にあるわけです。それは単純に科学者の思いつきではありません。だから、科学を意味として解釈するということは出てこないんです。

●外れていく勇気
 結論じみたいい方をすると、科学に対するイメージをどれだけ人から教えられてあまり自分で点検しないで「ああそうか」と思い込んでいるかがいちばん問題なんですよ。哲学のイメージ、自分が理解しているようなイメージも同様です。
 そのイメージが変わったからといって何かが起こるというわけではありません。それで何か市民運動に参加して、すぐに変えられるということにもない。でもまともにものを考える――という言い方も変だな。ものを考えるということはそういうことのではないか。それが必要ではないか。それがどういうものなのか、僕もよくわからないまま、やってみたと言うのが、後期の授業でした。ほとんど漫談の世界でしたが。

 ひとつ言っておきますね。哲学で飯は食いたいと思ったら、すぐにこういう話をしてはダメですよ。すでにある体系に順応していかないと論文は書けないし、なかなか議論にはならない。ただ、多分、この中で哲学者で食っていける人はそうはいないと思う。悪いけど。不通には食えないから。ただでさえ、哲学は食っていくというのはほとんど不可能になりつつあります。
 法政大学の古い先生だった内田百閒が言っていますが、大学が役に立つことを教えるようになったらそれは大学の堕落だ。こういう話が役に立つんだったら動物だってやるわけです。役に立たないからこそ、何が次に来るかわからないからこそ、考えることが面白いんですよ。それこそが研究ということの大きな動機なんだけれどもね
 この手の話は知識としては使えない。バックグラウンドにとどめておけば、少しだけものを考える自由度が上がるというようなものです。僕は異端なのでそうではないんですが、研究生活の中に入っていくと、ヨーロッパの誰それの第1次文献に対する誰それさんのコメントに対する私のコメンタールするみたいな感じで、凄く固くなっていくわけ。学会にはこういう言葉の使い方があります。意味概念の規定性があります。それに対して若造が「俺はこう思う」って言ったって誰もうんとは言ってくれないわけ。「そうは誰も言ってないだろ」「そうはテキストには書いていないだろ」。「お前の言っていることなんて誰も聞いていない」なんてひどいことを言うやつもいるのね。
 そういう意味で、プロの、現にある哲学の世界というのは、自由度がありません。でも誰かがどこかで哲学をするということ自体は自由です。こういうこと考えているのは別に哲学者には限りません。科学者だってこういうことを根幹では考えているかもしれない。Wikipediaを編集している人も考えているかもしれない。誰がそれを表現するかは自由な時代になりました。昔みたいに学位を持っていて論文を書かないと認められない世界ではありません。
 あなたがたがどれだけ新しいものを自分の中で考えていけるかということの自由度。外れていくことへの気持ちや知的な意味での勇気。それを持つためにこういうふうに考えることもできるという、一つのおもちゃのディスプレイのようなものだと思ってくれればいいです。
最終更新:2012年10月03日 14:23
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