第06回 2012年10月19日

  • 前回のくり返しになるけれど、カッシーラーが批判しようとしていた20世紀初頭のアリストテレス像と、現在のアリストテレス像は異なっている。カッシーラーは、議論するための方法論としての「オルガノン」を、議論する対象(ネタ)として(「自然学」や「形而上学」と同じものとして)読んでいる。
  • アリストテレスにおいて論理学は、オルガノン。つまり、“述べ方”の方法論であり、論理学の10のカテゴリーもまた、“議論するときに独立に言及すべきと思われるもの”のリスト。だから、じつのところ、アリストテレスの論理学には、カッシーラーの言う「概念形成」という発想がそもそもない。
  • つまり、カッシーラーは、概念が下からつみあがるようにして「構築」(construction)されていくという発想を持っているけれど、アリストテレスは、あらかじめ個物(例えば、ウニや鶏卵)の分析がなされたあとで、そこに向けて概念を「構成」(constisution)する。
  • 図で描くとこう→http://twitpic.com/ax9o49。カッシーラーは、アリストテレスは論理学のなかで概念を「構築」しようとしている、と解釈しているため、アリストテレスの試みは「何の役にもたたない空疎な言葉のつながりを手にするだけでしかない」(8頁)と批判している。
  • アリストテレスの論理学では、「諸対象の任意の集団のなかからわれわれが選び出す〈共通〉の徴標(merkmal)が、その集団の項の全体的構造を支配し規定している真の特性を含むということは、まったく保証されていない」(7頁)という批判は、実質的なものの取り扱い方を実質的なものと混同。
※つまり、カッシーラーは、ヒュームで言うところの、『人間本性論』(実質的なものの取り扱い方)を、『イングランド史』(実質的なもの)と同じような読み方で読んでしまっている。

  • …ただ、カッシーラーの時代(『実体概念と関数概念』の刊行は1910年)の研究の限界をあげつらっていても仕方がないので、彼が何を構想していたのか、そこから現在、どういう考えるヒントが得られかに焦点をあてる。
  • 下位概念が上位概念へと構築されていく過程は、やがて「実在的な本質概念(Wesensbegriff)」(8頁)にたどり着き、その「本質概念」は下位概念を規定を与える。…というのがカッシーラーの構想だけれど、これはアリストテレス(現在研究でわかっている限りの)とどうつながるのか。
  • この問いを考えるうえで、カントの認識論が参考になる。『純粋理性批判』のなかで、カントはすでに与えられている現実(=アプリオリな総合判断)からスタートして、「すでに与えられている現実→分析→総合→再び現実」という過程を示している。
  • このカントの示す認識の過程を、アリストテレスの目的手段連関と重ねてみる。すると、「分析」は「目的→手段」、「総合」は「手段→目的」として表せる。(目的から手段を分析する、手段から目的を総合する、…というプロセスとして)。
  • 「目的→手段」の分析は、例えば、「何か飲みたい→お茶を手に取る→右腕をあげる→上腕二頭筋を収縮させて…」と進んでいくけれど、分析はやがて、これ以上手段が下がらないような(言語で言い表すことができないような)“底”にたどり着くことになる。 この、分析がたどり着く“底”については、例えばヴィトゲンシュタインがザラザラした大地、「生活世界」として言及している。(千葉大での講義も参照。→http://siotani.net/?p=337
  • これ以上、手段を分析しきれないような“底”を打ったところから、「手段→目的」の「総合」が始まる。

  • さて、アリストテレスの場合、「実質的なものの取り扱い方:オルガノン、論理学」と、「実質的なもの:自然学、形而上学」は異なるものだった。さきほどの図式でいうと、「目的→手段」の分析はオルガノン、「手段→目的」の総合は自然学(四原因説)で、それぞれ説明される。
  • それでは、「目的→手段」の分析と、「手段→目的」総合の、それぞれの過程が進んでいく力は何か。分析は、要求(より細かい手段を得るための探索)。総合は、実現(自動的に起こる)。 ※ここでの実現は、物として現れること。
  • このとき、分析の要求(実質的なものの取り扱い方)が、総合の実現(実質的なもの)の側に受け渡される“底”とは何か、という問いが得られる。例えば、数学において“底”は証明問題においてクリティカルに表れる。「ポアンカレ予想」を解いたのはペレルマン、彼は証明という分析の“底”を打った。
  • けれど、ペレルマンが証明を終える前にも、ポアンカレ予想について「ここまでは証明できてます」という仕事は数多くあった。ペレルマンは、サーストンの「完全ではないですがここまでは証明できてますという“底”」から総合された物を使って、さらに“底”を打つことができた。
  • つまり、分析が総合へと受け渡される“底”はいくつもありうるわけで、矛盾しなければ、どういう“底”でもありうる。では、この“底”では、どういうことが行われているといえるのか?

  • ちょっと細かいけれど、「現代においてカッシーラーが考えようとしていたことを理解するためにカントの認識論とアリストテレスの目的手段連関を重ね合わせる」という第6回の図を描きました。
  • この図の下のほうに「数学の証明」を説明しているところがあるけれど、これは『実体概念と…』の刊行後の話。数学というジャンルにも分析がこれ以上下がれない「底」があるのか、という問いを出したのは、ジャン・カヴァイエス(1903-1944)。
  • 分析した概念と、総合された個物とが、完全に一致しているもっとも身近な例は、コンピュータのプログラム。プログラムの記述(=概念)が、そのまま具体的な作業(=個物)になる。
  • コンピュータのプログラムのように、概念から個物へと理想的な受け渡しがなされる「底」であるとは限らないけれど、数学・理学における「底」は、工学の方から必要とされることによって作られることがある。例えば、数理学の研究を工学へ受け渡すことを重視した、カイザー・ヴィルヘルム研究所。
  • 数学、理学は、http://twitpic.com/b5sjck における、「分析」という探索・欲求サイドの運動なので、“底なし”に研究を続ける。一方、工学は組み立てるゴールをあらかじめ設定する(使えるものを作らなくては意味がない)、「総合」サイドの運動。
  • このように、数学・理学と工学の受け渡しを「底」と見なすこともできる。
  • ここで新しく問題になるのは、では、「分析:目的→手段の分析」が、きちんとより下位の概念、「底」に近づいている概念に向けて分析されていることを保証するものは何か、という問い。端的に言えば、これがカッシーラーの言うところの、「関数概念」。「形式」と言ってもよい。
  • 「分析:目的→手段の分析」が、きちんとより下位の概念への分析であることを保証する「関数概念:形式」。それは、神様が与えてくれたものではない。いくつもの「底」のつながりによって作られる。一つの「底」が規定するのではない。いくつもの「底」のつながりが、「関数概念:形式」を規定する。
  • …カッシーラーが「関数概念」という言葉で言おうとしていたこと(「きちんと下位の概念を形成するための分析の形式」を設定する)がひとまずわかったところで、あらためて、カントの認識論に準じて「(分析的判断がたどり着く)底」と呼んできたものは何なのか、を考える。
  • 「底」では、概念の分析から個物の総合へと受け渡しがなされる。このとき、何かがコンテナのように受け渡されているのではない。そうではなく、概念と個物とがお互いを評価し合っている。「概念と個物がお互いを評価し合う」典型的な例が、実験。実験とは、概念と個物を連関させる「底」作りのこと。
  • 「底」における「概念と個物との相互評価」について、しかしカッシーラーはそれがすでに起こった過去の記録として考えている節がある。(※なぜそういえるのかについては、理解できず) カッシーラーは、ある種、棋譜の記録のように、言語における「概念と個物との相互評価」の連なりを考える。
※「棋譜の記録のように、言語における「概念と個物との相互評価」の連なりを考える」とはどういうことか? ひとまず、(彼はもちろんそうは言っていないけれど)カッシーラーが考える対象とする言語を、[[「言語ゲーム」>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0、ゲームとして、イメージしてみる。
※ゲームは、次の2つのものが混ざり合っている。ルールと、プレイ。どちらが欠けてもゲームにはならない。2つのものはお互いに影響を与え合う。ルールはプレイに枠を与えるし、プレイはルールを変更させる。(プレイは新しいゲームを生み出しさえする。例:サッカーから生まれたラグビー)
※プレイはdialogue、ルールはmonologueだと言ってもいいかもしれない。そう考えると、さらに、「プレイ(dialogue)をルール(monologue)のように見る」ということもなされうる。その代表例が、棋譜。例えば、羽生vs渡辺戦。両者の対局(プレイ:dialogue)を、棋譜は一つのmonologueとしてまとめる。monologueにすることにより、安定性が生まれ、dialogueの場所とは別の場所で、資源として使うことができるようになる。(棋譜の通りに駒を並べて感動したり)
  • カッシーラーが、言語における「概念と個物との相互評価」というdialogueを、棋譜のようにmonologueとしてみなすことで、どういうことになるのか。たぶん続きはまた次回。
最終更新:2013年01月26日 19:57
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