《09年度講義を振り返って》
●哲学をするとはどういうことか、どんな変なことなのか―「ワザ」と「ゴウ」
去年は僕がやったことは、「考えるということを行為として捉えたい」ということでした。でもそれは言葉で言っただけで、中身を何にも示さなかった。だからもう少し中身を足そうと思いました。去年のシラバスにちょっと手を入れて、理解という概念を入れようと思ったんですよ。
ところがですね、去年の学期末に、「哲学するってどういうことだと思う?」というレポートを皆さんに書いてもらいました。なかなか面白かったんですが、基本的に、やっぱり自分っていうことに対してものすごくこだわる方が多かった。どういうふうに自分を知りたいとか、自分っていうことをどうやって理解するかってことを主題にして書く人が多くいました。
去年の授業も科学哲学だから「科学に対してどうやって接するか?」という話をやっていたのですけれど、まずその前の前提として、「〈自分〉ということについてどう考えるか」ということと、「〈科学〉ということについてどう考えるか」ということとの間の、関係の作り方についてまず踏まえないと、ただ単に科学哲学にはこういう話がありますね、こういう考え方がありますね、という話で終わってしまう。
去年の最初にも言ったんですけど、普通、「授業」は「ワザをサズける」ですよね。「業」は、「ワザ」ですよね。ワザだから、技術なんですよ。大学では知的なワザを勉強せよ、というわけです。
ところが、それは学問の制度を考えたときに、例えばドイツだとSchuleといわれているものに対応している。Schuleの中にもいくつかあって、日本だと高専に対応している、Hochschuleというものがあります。これはものすごく程度高いんですよ。日本で言うと、工科大学どころじゃないレベルも持っているわけ。
これに対して、Universitätというのは、全く別ものなんですよ。大学もいろいろ違っていて、どう違うかって言うと、それらは神学をベースとして作ったという経緯があるわけね。中世に有名な大学が幾つかあります。つまり、フランスのパリ大学(12世紀前半)、イタリアのパドヴァ大学(1222年)、スペインのサラマンカ大学(1218年)などがあるんだけれど、それぞれ得意分野が違います。例えば、現代フランス思想で有名なパリ大学のもともとの得意分野は法学です。法律なんだよね。じつはもともと哲学が一番強かったのは、イタリアなんですよ。パドヴァ大学なんです。ちなみに当時のドイツに大学は無かった。ドイツに大学らしい形のものが出てきたのは、フリードリヒ2世(1712-1786)のあたり、つまり、絶対王政ができる頃にです。そのUniversitätって言うのは、ある一つの場所にみんなが集まって議論する場所、と言うことなんです。だから、ワザをサズけることがもともとではない。
……というのは言い訳で、単純に私には、伝えられる技が無いだけです。大雑把にざっと解説することはできるかもしれないけれど、いまどき、毎週九〇分間かけて、人から話を聞くこたあない。本読んだりネットで調べたりするよりは早いかもしれないけど、間違った知識を得ちゃったら返って害になる。
だから私が授けるのは、「ワザ」ではなく「ゴウ」です。
正確な哲学的概念の内容、歴史的経緯を知りたい、いま標準的な見解を聞きたい、という方がいるとしたら、たぶん僕の授業からそれらの答えは出てきません。
哲学をするとはどういうことか、どんな変なことなのか。そして科学とは、どういうことか、どう変なことなのか。……を、お見せできたらいいと思います。
見せるってほどのものじゃないですね。哲学って言葉を僕は簡単に使っているけれど、はっきり言って、何が哲学かって僕もよく知らないんで。だいたい、日本における哲学科とヨーロッパ圏における哲学科の位置は違うから。哲学って向こうだと凄く偉いんですよ。日本ではそんなに偉くない。最近みんな就職が無くて困っちゃう。哲学科というカテゴリーは、もう元帝国大学にはないからね。全部つぶしちゃったから。同じ哲学なのかと。
僕自身もいい加減な日本のなかで、哲学に転向して二十数年、やってきたときに、僕はこういう風にしかできないよ、いまこういうことに関心があって、こういう風に思うんだけど、みんなはどう思う? と問いかけることしかできません。
ですから、シラバスの順番と変わることもあると思います。自分自身がものすごく悩んでいる部分なので、前もって半年の計画を出せるほどしっかりしていません。申し訳ありませんが、出たとこ勝負にお付き合いできるようでしたら、半年お付き合いください。
●私たちが話すとき、先に意味があって、それを表現しているのではない。
いま何を問題視しているか、ということをまずあげますと、去年授業をやってみて、これで何とか行けるな、と、そういう気がしたんです。よくよく考えたらそれが一番の間違いだった。なぜか。
哲学は、日本だと偉くないのに偉そうな顔をするんですよ。この間、雑誌の週間東洋経済で哲学の特集が組まれました。そのなかで「哲学カフェ」の記事がありました。高い授業料払わなくても、お茶を飲みながら町で議論できる。大学の先生が出てきて話してくれる。非常に知的な雰囲気があってうれしい。という内容です。出版社からも、今のうちだから、翻訳を出しましょう、そうすれば少しは儲かります、という話が来る。で、そういう雰囲気のなかで、哲学から何かが言えると思ったのが、大間違い。ということにもう一回、気付かされました。
理由は幾つかあります。一つはですね、私の専門ではないんですけど、二・三の人に誘われて、ジャック・ラカン(Jacques Lacan, 1901-1981)の勉強会というものに出させてもらっています。ジャック・ラカンという名前を聞いたことがある人はいるかもしれませんね。フランスの精神分析におけるフロイト派の異端児と言っていいと思う。日本では信奉者が多い。内田樹さんみたいな本も売れている。その人の本を読んでいるときに、意味ということに対して非常に微妙なことが書いてありました。「シニフィアンの連鎖」です。
シニフィアンという概念は、もともと言語学者のフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)が始めた言語学の分類です。シニフィアン(signifiant;動詞signifier(意味する)の現在分詞で「意味しているもの」「表しているもの」)とシニフィエ(signifié; 過去分詞で「意味されているもの」「表されているもの」)の二つが結びつくことで、なぜかはわからないけれど意味が生成される、という議論があります。通常は、シニフィアンが言葉で、シニフィエが物で、シニフィアンがシニフィエの代理をしている、という話をします。最近ではジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben, 1942年-)が彼の著作のなかで、よく取りあげています。『言葉と死』が有名ですが、これは面白い本で、簡単に読めます。興味があればどうぞ。
さて、ラカンは、徹底してシニフィアンにこだわります。彼の立場は次のようなものです。私たちが話すとき、先に意味があって、それを表現しているのではない。こういうふうに言葉が並び、こういうふうに喋ってしまい、こういうふうに聞いてしまい、こういうふうにやり取りしてしまい、こういうふうに音がつながってきてしまうから、こういうふうな会話が成立した……という見方を徹底してやっています。
僕はもともと出身が数学なのですが、数学的対象ってなんだろうっていうことを、気にしたときに、形式的なあり方を最初に考えるわけです。つまり、イデアの世界に何かが“あって”、それを数学という記法にすると。しかし次のことを考えてみましょう。フェルマーの最終定理は証明されてしまいましたが、いまだに証明されていない未解決問題のなかにゴールドバッハ予想があります。「4以上の全ての偶数は、二つの素数の和で表すことができる。6以上の全ての偶数は、二つの奇素数の和で表すことができる」というものです。これはまだ証明されていません。さて、このゴールドバッハ予想が証明される前に、「ゴールドバッハ予想は否定される」、「ゴールドバッハ予想は肯定される」、「ゴールドバッハ予想はいつ証明される」と言うことはできるか。もうすでに数学的対象が“ある”のだとしたら、私たちがそれについて知らないだけだ、と言うことができる。しかし決定可能性から考えると、おかしい。だとすると、その場その場で何かが適当に制作されているのか、という話になるけど、それでは納得できない。……という問題に、ラカンのシニフィアン連鎖という考え方が非常に似ていたんですよね。
ラカンの徹底さにびっくりしたんですよ。もう一度、改めて。というのは、授業で話すときに、科学哲学の流れや、僕自身がこれはこういうもんだというイメージしていることを、僕は先に持っているわけですよ。それでいいのか、と。それで本当にいいのだろうか、ということがとても気になりました。答えはないんですけど。
●何かについて考えるということは、どういう意味で直接的なのか
もう一つ。「理解する」と「考える」を、行為としてみる、ということを去年度はかなり言ったのですが、具体的にどういうふうにしたらいいのかについて言わなかった。掛け声はしたんですよ。しかし、じゃあ具体的に、どう一歩進めたらいいのか、ということができなかった。
神戸大に、郡司ペギオ幸夫、という私の友人がおりまして、彼が今年の夏に本をくれたんですよ。『生命壱号』という。中身は、この何年か、彼の弟子の人と共同研究してきた、複雑系やオートポイエーシスについての話です。彼はやっぱりこう、非常に確信的なものを持って、哲学的なことを語るわけですよ。で、当然、哲学者の中での彼の評判は悪いんです、ものすごく。まともな哲学者と日本で言われているひとたちは、郡司ペギオ幸夫は哲学づいたことを書いているけど、哲学的思考じゃないじゃないか、単なる流行を追っている思い付きじゃないか、という風に言うわけ。確かにそりゃそうなんだよ、書いたものだけ見てればね。
でも、僕は彼とずっと個人的に話をしている。個人的に話をしていると、確かに彼は哲学の知識はない、あんまりない。ないわけじゃないけど、制度的なものじゃない。でも、なぜかわからないけれど、彼が言っている話っていうのは、確かに何かがある。その何かを僕も共有していると感じている。しかし、彼はそれを本に書ける一方で、僕は喋ることしかできない。なぜ明確に文字にして、こうだと断言することができないのか――ということが、心の中にひっかかっちゃいまして、ここのところしばらくずっと鬱状態で悩んでいたんですよ。
行為をするということは、今ここで考えている、喋っている、音声を出していることである。ここまでは良いのです。しかし、いまここで〈僕〉が考えているということは、〈僕〉が考えていることを〈あなた方〉が聞き、そこで〈あなた方〉が何か考えているということはどういうことなのか。それを考えたい。そしてそれが、理解をする、ということの問題なんです。
今ここにお茶の入ったペットボトルがあります。
僕はお茶について考えています。こうやって取りあげて、こうやって飲む。このとき、僕はこのお茶を使っている。このお茶と直接的に行為をしているわけです。このお茶がなければ、僕は飲むことができない。でも、もしこのお茶が無かったとしても、僕はお茶について考えることができる。……
それでは、何かについて考えるということは、どういう意味で直接的なのか。もし何かについて考えるということが直接的でないとしたら[=間接的でしかありえないとしたら]、その間にあるものは、何なのか。
考えるということは間接的でしかありえないのか。しかし、さっきの郡司は、とても間接的にやっているようには見えないんですよ、とても。それから、数学をやっている人は数学の方程式を解く、新しい理論を立てる、などするとき、それについて考えているんじゃなくて、まさにそれをやっているんですよ。思考としてやってるんですよ。
じゃあ、考えることを本業とする哲学は、直接的に考えるということについて、何をしているんだと、そう思いませんか?
カントは「哲学を教えることはできない」と言っていますよね。「哲学をすることしか教えることはできない」、と。では、哲学をする行為って何なのか。それしか教えられないといったときに、どうやって教えたらいいのか。
哲学について何をするっていうことと哲学をするってことは、イコールなのか。つまり、それが立派な哲学者がいて、あの人はこう言いました、あの人はこういう議論をしました。その形式にのっとって、私が生きているとき、私の言葉、私が言っていること、私が感じていること、私の人生の意味は、こういうことなんです、と自分自身で解説をすることは果たして哲学をするということか? それが、去年のレポートを読んだときに、僕が一番危惧したことでした。そんな解説をするってことが、解説をして安心することが、哲学だという話で終えて良いのだろうか?
それは、僕にとっては納得できない。もちろんそういう使い方があってもいい。哲学に、解説をして安心させるという効能があっても、ぜんぜん構わない。でも仮に、哲学者になろう、もしくは哲学をしようとする人だったら、――哲学を借りてきて使うんじゃなくて、自分が哲学をしようと言うのであれば――根本的にそこのところを変えなきゃいけないんじゃないか。まずそれが第一義だと思ったんですよ。その変更のために、科学が、哲学をするということの中に、どういうふうに絡んでこざるを得ないのか、という話に今年は科学哲学をまとめたい、という思いがあります。
最終更新:2012年04月24日 08:31