アットウィキロゴ

第01回 2010年09月20日(中編)

《システムと直接性》

●上から教える師と、下を這いずり回る師

 今日はまず大雑把に哲学の全般的な感覚から、ちょっと話してみようかと思います。
 哲学はご存知の通り、ギリシャを源流にすると言われています。哲学は、西洋人の考えたものです。ヨーロッパの人間が、しかも先ほど言ったように中世イタリアが中心となって展開してきた。現代イタリア哲学については最近、アガンベンやエスポジトなどの翻訳が出はじめたけれど、ほとんどが専門家くらいしか知らない人ばかりで、日本において哲学というのは、大概、アルプスの北の方ばかりだったんですよ。
 フランス哲学がもてはやされるようになったのは、60年代、特に69年の学生運動のときの哲学者のアンガージュマンといわれている運動があった以降の話で、それまではドイツ哲学でした。「哲学」という語は、西周(1829-1897)が翻訳したのだけど、明治の頃に留学した連中は、皆、ドイツに行きました。理由は簡単で、その頃ドイツが強かったからですよ。普仏戦争に勝って、1871年にドイツ帝国が成立して、その当時のヨーロッパで一番強い国だったからです。それまでは、実はフランスに行っていたんですね。西郷隆盛のいとこで軍人の大山巌(1842-1916)の留学先はフランスです。彼が留学したのは、普仏戦争の前だったから。新興国って、その当時、一番強い国に行くんですよ。で、そこから何かもらってくるわけです。で、そこのものを崇めるわけですよ。最近で言えば、アメリカの国力は低下しているから、やっぱりEUのほうがいいんじゃないかということで、EUのほうが留学先として人気が出てきた。あと二十年もすると、皆、中国に行くんじゃないでしょうか。
 話がそれましたが、哲学は、基本的に、ヨーロッパの人々が作ったものです。ヨーロッパの人々の言語で語られ、ヨーロッパの人々の発想に基づいています。つまり、自分の意見を主張する。主張ができないやつは頭が悪い。まともな人間なら意見を主張する。主張をするには根拠がいる。根拠がきちんと明示できないようなやつは、やはり頭が足りない。……戯画的に言えば、こういう発想に基づいています。だからディベートが盛んだし、それはもともとギリシアの哲学が、弁論術、ソフィストたちの論争からスタートしたということに、端を発しているわけです。
 さらに、その潮流はキリスト教と合体する。キリスト教はもちろん、ヨーロッパ起源ではありません。中東イスラエル北部の乾いて暑い町、ナザレで生まれたイエスという人の言行に、ワーっと熱狂的になった人たちが、私たちは殺されても構いませんとか言って、浸透させた。その一方で、知的な側面ではものすごい葛藤がありました。だから、キリスト教徒たちも、ものすごく議論したんですよ。ものすごい議論をするなかで、ギリシアの哲学とも闘争しながら、お互いに位置づけを調整して、しかも伝統の違いというのをぐちゃぐちゃに絡めながら、個々の問題に関して出来上がってきたものが、現在、哲学と言われているものです。
 哲学の歴史の黎明期には、ですから大きく二人の〈師〉がいます。
 一人は、ソクラテス。ソクラテスは、人生の教師だっていう言い方があります。有名な産婆術を使って、みんなが分かっている話をして、それに対してそうじゃないそうじゃないというふうにしていく。もう一人はイエスです。イエスを人間扱いすると、神学者に怒られるかもしれませんけどね、神様になんてことを! って。
 さて、日本において〈師〉のイメージは、中国の諸子百家のイメージを強く継いでいます。例えば、孔子、孟子、荘子、韓非子、…皆、「子」が付きますね。つまり先生方なんですよ。偉い先生方がいて、弟子は先生方に教えを請うわけです。論争するときは弟子が先生を言い負かすのではなく、ある先生が他の先生を言い負かすという形になっています。弟子に対して先生はいつも優位に立っているわけです。
 ところがヨーロッパにおける、師というのは、違うんですよ。
 十字架は、いまではペンダントで飾ったりイヤリングで飾ったり、ピアスにつけたり、するでしょ? でもあれは、元来はものすごく忌まわしいものですよね。あれは磔柱ですよ。日本でも十字架は磔柱です。キリストが磔柱で殺されて、一番最低のところに落っこちたということが、全人類の救済になった、というひねりとして位置づけられているんです。十字架はあくまで、人がここで刺し殺されて磔られたということを、常に思いながら見なければならないんです。
 ではソクラテスは尊敬されていたのか。ソクラテスの弟子は、先生を尊敬していたのか。それは、怪しい。プラトンが書いている対話編にも、先生が言うことは、なんなんだろう、わかんなくなっちゃいました、困りました、という話が多いじゃないですか。いじめられて困っちゃいましたという話ばかりです。ソクラテスは言い伝えのなかでしか語られませんが、猪首で、顔は醜男だし、奥様は悪い人だった、と散々です。ヨーロッパにおける二人の師、ソクラテスとキリストは非常に下を這いずり回った人たちだった。彼らには上から何かを教えるだけではなく、自分が苦しんでいるところを見せる。それは哲学の原型の一つの側面です。


●哲学をシステムとして徹底させること

 キリスト教は論争という過程を経て、使徒パウロによってシステム化され、非常に高度な文化として発達していきます。神学というと皆さんはばかにするかもしれませんが、思考の内部の議論の重ね合わせによって、とてもじゃないけれども近代科学程度では及びもつかない密度の高い議論が幾つもあります。
 しかし、システムとして構造化されていくために犠牲を払わなければなりません。ある問題に対して深く深く突き詰めていくことと、ある問題を構造化して、つまり難しい側面を忘れて解ける問題に直していくということは、そのぶんだけ実感や、さきほどの直接性から離れうるということになります。システムがどんどん構築されていくと、そのなかで生きている人たちは、それでもそのシステムのなかに直接性というものをどうにか取り込もうとする。哲学はそういう二つの分裂する方向を持っているんです。行為としての哲学は分裂した方向の総体です。
 そしてシステムとして徹底的に構造化するというのを目指したのがUniversitätです。大学の本態として、Wissenschaft(学問)を掲げられるわけですが、このWissenschaftを分解すれば「Wissen-; 知る」と「-schaft; 幹」です。テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855-1936)がゲマインシャフトGemeinschaftとゲゼルシャフトGesellschaftという語で社会形態を表わしていますね。ゲマインシャフトは構成員がお互いを思い会うかたちで幹(schaft)を形成する部族社会とかそういうものを指していますし、ゲゼルシャフトは親方から徒弟が技術を身につけていく、そして一人前の職人としてギルドに参加する、というかたちで幹(schaft)を形成する、そういう人の集まりです。つまり、Wissenschaftには参加が求められる。そしてそれが哲学の手法の分化を生んできたんです。ドイツ観念論だの、イギリス経験論だの、現象学だの解釈学だの、いろんな手法が山のようにあるじゃないですか。そのなかで、例えば、「私はカントの勉強をしてます」と言ったとする。「何やってるの?」と聞かれる。「超越論的演繹をやっています」と答える。でも、相手の聞きたいのはそういうことではなくて、「カントの言っていることに対してあなたの意見は何なの?」ということです。システムのなかでの位置づけに関する問いかけです。
 よく科学と哲学の違いとして、前者には積み重ねがあるけど、後者には積み重ねが無いと言われますが、それは半面当たっていて半面当たっていない。Wissenschaftにおいて積み重ねはあります。しかし、一番へりくだって、這いずり回っているそのただなかにおいて、積み重ねはありえません。もどかしさを積み重ねる、ということができないように。どのような問いかけをなすかということについて、システムに拠るのであれば、先人の仕事を参照する必要があります。しかし先人がやったこと、という積み重ねは、どういう意味で積み重ねなのか。
 いつも人間が哲学をしたいしたいという気分になるのは、せめて自らが自らの師としてありたいためではないでしょうか。他人にとっての師ではなく、自らにとっての師としてありたいために、直接性に向かっていく、ということがあるから哲学という営為があるのではないでしょうか。だから、システムとしてのWissenschaftと、ぶつかることがあるわけですよ。哲学には積み重ねがあるとかないとかね。でも、そんなに簡単な話じゃない。システムのただなかにいて、このシステムに埋もれて、そこで直接性を見出す人たちもまたいるわけですよ。


●システムの内部において、直接性は必要ない

 自然科学の教科書を読むと、そこには揺るがないような知識と説明が整然と並んでいます。しかし、実際の研究現場はぐっちゃぐちゃです。
 例えば今月号の日経サイエンスで、茂木君がスーパーカミオカンデの訪問記を書いていますけれども、しばらく前にニュートリノの質量が観測された。ニュートリノに質量がある以上はそれまで使っていた標準理論はもう使えないと。それはもう分かっているんですよ。でもどう直したらいいかをまだ誰も知らない。(笑)今現在までのわかっている理論と、今現在わかっている事柄というのは、全然整合していないんですよ。そういう事例はいくらでもあります。例えば量子力学が成立する際の話。マックス・プランクが作ったんですけれども、エネルギーの値が飛び飛びであること、そう仮定すれば計算がうまくできるんだよ、という話でわーっと進みました。でも、プランク自身は、なぜエネルギーが飛び飛びであるのか一生分からなかったらしいんです。確信に基づいて、うん、世界はこういうものなのか、とは全然思わなかったらしい。ただこう仮定するとうまく計算できてしまう。困ったなあ、と。それに対して、アインシュタインは、世界はこういうものなんだと積極的に世界像を示しています。ハイゼンベルクやボーアとかも、そうですね。
 つまりシステムの一部になるということは、必ずしも直接性を得なくてもできる。私たちが生きているなかで、この時代のなかで、この知的状況のなかで、この情報化社会のなかで、直接性がなくても他人にとっては痛くもかゆくもない。あなたがそこで何かをするということが、相手に反応することに充分な材料を与えてくれるのだったら。だから、社会や他人のためではなくて、この直接性ということが、本当に何なのか、ということを必要とするのは自分しかいないんですよ。だから、哲学の教師というのは、自分の教師にしかなれないんですよ。他人の教師になんてなりようがない。だから、哲学は教えられないんですよ。哲学の内容は。
 哲学を教えるということは、「これが哲学です」と渡すことではない。これは荘子の喩えですが、ほら、あそこに建物があるでしょう? ――みんな見たね? なにを見て、建物のほうに目を向けました? 僕の指だよね。でも、僕の指は、あの建物を指しているとは決まっていない。ここに指があるだけじゃない。じつはここのところで神経の一部がぴっと誤作動を起こして指が立っただけかもしれない。なのに、みんな、指の方向に目を向けたよね。ちなみに、オリジナルでは、指が指しているのは月です。月を指しているのは指だけれど、指は月ではない。だから言葉の内だけで考えていてはだめだ、というのが中国の言い方なんです。月を知らなければならない。指は言葉なんです。言葉は指しているだけ。言葉は代理している。でも、どうやって代理することができるの。僕の指はあのでっかい建物をどうやって代理することができるのか。どういう意味で代理しているのか。不思議でしょう? これはあとで議論しますけれど、ヴィトゲンシュタインが青色本で言っている直示定義というものです。とはいえ、そう簡単に言ってはいけない。分析哲学の授業だったら、「これは直示定義です」と言って、そうですね、と言って、そこから始めるんですけれど、それはもう、分析哲学というシステムの内側での議論なんですよ。だから、分析哲学をやりたい人は、そこから始めてくたさい。分析哲学、それは一つの分野です。そしてその前提を問うてはいけないんです。
 でも、本当にそこで止まることができるでしょうか? そこで止まることがあるとしたら、「それはそうなんだ、仕方がない!」と腹の底から納得するときでしょう。「そう言われたんで、だからそうします」。これが哲学において私たちが訓練、調教されるということ内実です。技を伝えられるというときの本態はこれです。とくに後期のヴィトゲンシュタインは、言語を学ぶということは、動物の調教と同じだ、という見解をとっているけれど、それは言葉に限りません。私たちがあるシステムの内部で考えるということそのものが、考えるときに採用する前提の虜となっているわけです。ヴィトゲンシュタインは「生活形式」と、フッサールは「生活世界」と、そういうふうに私たち哲学者が意味のありそうなこととして言っているそれは、何のことはない、それは私たちが動物のように、あるいは機械のように飼い慣らされている、この世界のことです。その世界の一部として哲学の形態というものはあるわけです。
 そういう意味での直接性だけで納得することができるか?
 そうだとしたら、動物になったほうが良いよね。動物がその場その場で生きて、思い煩うこともなく、生き物を食い、敵に食われ、死んでいく。――これを理想の生き方だと考える哲学者もたくさんいるわけですよ。そこにおいて人間の変な葛藤だとか、神様に近づこうだとか、そういうことによって心の平安を乱されることはない、と。でも、それは彼らが、神様と被造物との対比という前提のうえで、人間の不幸な状況に対して行った解釈なんですよ。ああ今日は疲れたなあ、家に帰って猫のように寝ていたいなあ、とかその程度の気持ちかもしれません。野良猫だったら、明日も飯が食えるとは限らない、車に轢かれるかもしれない、子供に苛められて死ぬかもしれない、……そういった不安が常にあるはずですが、そういう不安をすべて忘れて平安になれるか。それで自分を納得させることができるか、といったらそんな簡単にはいかないわけですよ。
 私が私であるということを知ろう、というのが去年のレポートにたくさんあった「哲学とは何か」の答えですが、ではどのようにして私が私であるということを問うか、「私」のなににこだわりたいのか、ということを、もう一度自身で省みなければならない。そうでなければ、なんとなく調教されて、こうだね、うん安心した、で終わってしまいかねない。哲学をやるなら、それがどういう意味であなたにとって直接性としてあるんですか、と問いかけないと。そして納得しないと。
 というか僕自身にとって、直接性は常に欲しいものなんですよね。そんなものは要らないよ、という人もいるでしょう。それはそれで構いません。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2012年04月24日 08:32
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。