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第05回 2010年10月25日(前編)

先週話したのが、二つなんですけど、ポイントとして思い出して欲しいのは、オートポイエーシスという見方と、ラカンを考えると、・・・やってるけどね、結局ここから、意味というのが、ということから意味という概念をどういう風に、見ているのか、というのを考えると、二つ考えられると。一つは、ある意味オートポイエーシスの・・・ですけど、の全体像。もう一つが、オートポイエーシスの、若干正確じゃないんだけど、まあいいや適当で、境界ね。境界、また別名をオートポイエーシスの用語を使うと、構造的カップリング・・・しますけど。…(板書音)…
この二つ、二つぐらいが考えられるだろうと言いました。問題は、こっちからだと、一体何を言っとるんじゃと。全部って、・・・オートポイエーシス・・・よくわからんと。実は、こちら側の方でちょっとまあ見てみたい、という発想はあったんですけどね。もう一つ、それでこちらの方から見ようとしたときに、所謂、ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの使っていた、要するに、紹介はしましたね。彼の中期・後期で使っている、イコールじゃないんだけどね、「イコール意味」ということと、関連していると言うべきかな。イコールというのは言い過ぎなので。・・・が、語の使用なんですね。こういうの図式、前話をしましたね、前回ね。今回は、このウィトゲンシュタインの持っている、共通項の話をしたんで、それをまたもう一回それをして、語の使用ということで、具体的にどういう風に考えて出来たのか、ということを行こうと思うんですが。
その前に、前回ちょっと一つ、言っておこうと思っていい忘れたことがあって、それでね。ちょっと、知識としてね触れておきます。知識でもないんだけど、知識に対する僕の解釈の仕方なんだけどね。それは何かって言うと、ここへ持ってきたときの、もう一つこちら側に行かなかったタイプ。オートポイエーシス全体っていう形でも良いですけど。行かなかった例として、要するに、こう回ってくるタイプに対して、なんか一つ意味ということを、何か与える、「声」という言い方をしたり。ラカンが抽象的に考えたときには、こちらの二つに、・・・分かれたんですけどね。こちらから、何かしらの、父の名にしとこう。西洋の古典で、こっち。ラカンの場合は抽象化でやるとこっちという形で、要するに二つに分けたと。これを、大体何かって言ったら、これは、参照でひきましたけれども、ジョルジュ・アガンベンが「言表行為」ということ、彼はそういう言い方をします。「純粋に行為の形態であって、中身がある場合に、何か言おうとするということそのもの」という言表行為。括弧すれば、純粋なね「言表行為」。こういう言い方のレベルで、これを捉えようとしていったんです。
これは、西洋形而上学で一回ついているっていう話をしたんだけど、これについてはちょっと、ウィトゲンシュタインが出た、ずいぶん前に、ウィトゲンシュタインの名についたことだったと・・・付け加えておきます。
純粋な「言表行為」って何か。「言おうとするんだけど、何も中身が無い」っていうのが、抽象な言い方ね。それに対して、もう少し、日常的に考えたらどういう風に思うか、という風に考えるとね、これ。実際は、こいつら自身が何かってことを考えて・・・考えると、これは、これ自体が一つの意味というこの不思議なシステムを発生させているものを、一挙に説明しようとしているわけですよね。ある意味で一挙に、この二つは、意味ということの、意味ということを、「意味ということ」という言い方をすること自体が問題があるんだけど、意味の、意味一般の概念。一般の、・・・・・・こういう捉え方をしているわけです。そうすると、具体的なところで、分析哲学の中にこいつに対応するものがある、ということを言おうとして、前回忘れちゃったんだけど。それは何か。これは何ですかって聞きますよね。これ。つまり、これは幾つかの事例なんだけど、ラカンの話は・・・。
こいつ自身は、二つの面白い考え方ができます。一つはですね、「言表行為」と対比がされるものは何かというと、「言表の内容」ですよね。つまり、細かい純粋な精製をすると、内容が消えちゃって、こっちだけになっている、という話。こういうのが、抽象的に行われているもの、じゃあ哲学のなかでこういう構造持っているものがいっぱいあるはずだと。この構造を出しているようなやつの事例として、僕の解釈ですけど、二つ。
一つは、マーチン・ハイデガー、・・・前回もいいましたけど、ウィトゲンシュタインと同年生まれ、1889年生まれだから、ヒットラーと同年代。彼にとってこの二つは何に対応しているのか。ハイデガーの場合は、抽象性が非常に高いんですけれども、ハイデガーについてこう考えたらどうだろう。これは僕の意見ですから、批判していただいて、とか、間違っているなら、間違っているといっていただいて・・・。ハイデガーの有名な「・・・」「時と・・・」「存在と時間」の中の一番根本的な概念がこの二つです。

…(板書音)…(06:45)
間違えちゃった。
日本語にしましょう。
ごめんなさい。
…(板書音)…(07:07)
この二つを分けるという、「存在」と「存在者」。・・・と・・・です。たいていは、ここのところを「存在論」と言っていたけれども、
…(板書音)…(07:25)

多分、これと対象になっているのね、行為の方と内容の方。それで、彼は言い方をするのはね、今まで、哲学がずっとやってきたのは、形而上学でやってきたのは、存在者の哲学だと。存在論と言いながら。何が存在しているか。存在するということの純粋な意味を言ってこなかった。だから、存在するということが、既にこいつに覆い隠されてしまっている。彼がよく・・・のは、存在というものは、実際・・・よりたくさんの・・・、というような言い方をするんですけど、というわけ。つまり、「言表行為」と言ったときに、純粋に何かを言うときに、「何かを言う」っていうことに囚われてしまっている。この話が出てきたこと事態が、そもそも「メッセージがどういうことか」ということと、「メッセージを言おうとする」、ラカンにおいて二つ、違う次元でやったやつは構造的に同一っていうことを言っている話だから、そういう分けて、照らしたのと同じことなんですよ。
ハイデガーはここのところに対して、更に「行為」という形を、後に技術論とつなげる形で考えています。これが一つの、西洋哲学で実際に行われたと、私が解釈した言い方。
もう一つは、これはですね。人はいろいろいるんですが、一人は、バートランド・ラッセルですね。ラッセルの名前は、本当は長いんで。これは何かって言うと、彼がこれに対していったのは、彼はしょっちゅう言うことが変わる人なんですけれども、
…(板書音)…(09:06)
「論理的固有名」っていう概念なんです。ロジカルプロパメント。
これは何かって言うとね、固有名って、たとえばここに太田さんっていう人がいるから。オオタカズヒコさん、ということです。もっとも、オオタカズヒコさんって、彼じゃなくて、『居酒屋紀行』のオオタカズヒコさんもいるんだけど。オオタカズヒコっていう名前の音が問題であって、彼を指していると。・・・と、彼を指しているということが、固有名の固有名たる問題だと。ところが、よくよく考えると、太田和彦って言う名前は、たとえば、名前でね、太田って言うんだから、でっかい田んぼのそばに住んでいたことがある。それから、和彦って言うんだから、彦だから男だしね。女の人に、なんとか彦ってつけないよね、普通ね。それから和だから優しい性格だとか、なんか意味が入っちゃう。意味というか、記述的なものが入るわけですよ。たとえば、中世でよく出てくる哲学者、ドン・スコトゥッス。スコットランドのドンちゃんだからね。スコットランドの名前が入っちゃってるわけですよ。レオナルド・ダ・ヴィンチだって、ヴィンチ村のレオナルドちゃんですからね。つまり、ある意味記述的な名前が入ってきちゃう。もちろん、それを逆手にとって、記述自身を固有名として扱うっていう言い方をしているのが、・・・なんかそうですけれども。そういう形で、記述が入ってしまう。そうすると、純粋に「固有名」は何か。固有名っていうのは、意味、指示に対する、「彼だ、もう間違いなく彼だと」数的に一だから、ということを指すんで、基礎となる。言われたときの、論理的固有名がある意味純粋な「言表行為」として表れたものが、これが所謂「●●」だ。指示詞とか、●●詞。…(板書音)…こういったものを抽象化したものだと考えています。(10:50)
つまり、「●●」は「これ」「あれ」「それ」。●●詞っていうのは、「今日」「私」「ここ」こういうやつです。同じか違うかって言う議論があるんですが、微妙に面白い話があって、ちょっと違う。前に言ったかもしれないけど、「これ」っていうのは、この状況のなかで僕がこれを指さなければ、「これ」と言えない。でも、「今日」っていうのは、「今日」を指しなさいという必要がない。「今日」と言えば、今日が決まるから。だから、ある意味では、状況が決定してくれるところがありますシジョウ詞は。(11:18)
指示詞は、状況だけでは無理です。逆の方向を行くと「これ」と言ったらば、「これ」は必ず、存続は、何回もさせます「これ」はね。つまり、日が違ってもこれは同じものをさせる。「今日」というのは、今日じゃなくなったらさせない。「今日」は今日でないとさせない。明日になったら、「今日」って言ったら違うものさしちゃう。だから、追跡をするということがあって、そこの追跡可能性っていう、追跡とか、反復可能性は指示詞の方がある。実際にそれが出来るかというところは、どういう風にそれを追跡しているかという問題があります。この部分に関しては、一つ。大学生だときついかもしれない。大学院生になったり、でもいいですけれども、一つお勧めしておきたい本があって、「」って人の。この人は、若くして死んじゃったケンブリッジの人なんですけれども、非常に若くして死んじゃった非常に・・・な分析哲学者で、今、慶応大学の名誉教授、イシグロヒデさんの学生だった人ですけれども。彼の、コレクティブメーカー…(板書音)…の中に、…(板書音)…・・・です。…(板書音)…
こういう、小さい論文、40頁ほどの論文があります。彼、非常に、哲学なんだけれども、非常に幾つか有名な、言語学者達が注目しなかった、こういう関係詞とかの扱い、指示の扱いということに着目していた人でありまして、この論文大変面白いですよ。私も今、・・・さんたちと読書会をやっているんですが、大変面白い学者です。これの、他に有名な「ドンキーセンテンス」ってやつね。「ドンキーセンテンス」っていうのは、「ロバを持っている人は、誰でもそのロバをぶん殴る」っていう文なんだけど、「誰でも」っていうのはどういう意味でかかっているのか、っていうことをいろいろ議論しているのがあります。(13:27)
それは置いておいて、指示詞・シジョウ詞っていうのは、「これ」「あれ」「それ」だから、「これ」「あれ」「それ」っていうのは、それ以前の名前はないわけです。それ自体は、何も内容が入ってないよね。状況に助けてもらわないと、純粋に文法上意味がない。そういうものを、抽象したものを論理的固有名という形で考えるわけです、ラッセル。これが、「これ・あれ」ですから、指示というものの一番ベーシックな、指示を基にしてベーシックな発想をしようというわけです。これ、「意味の生成説」という非常にダイレクトにこちらで考えた場合は、意味ということは、前も言いましたけど、モデル理論ね。…(板書音)…
これは、対数でなくて代表者が、・・・ですけど。これが、最初言った、名前というのは何か名前の言っているものを指示する。述語というのは何か知らないけどこういう、こういう何かをこういうものを何か指示している。だから、「AがPである」というのは、現代的に書くと、・・・これは、たとえばこういうことを考えます。なんかある性格を・・・。これに属していると、こういうような幾つか表現法はあるんだけどね。こういうようなタイプの意味論のベースになっているのが、これで、それの時の、意味の発生の一番下にあるものがある意味これだと。日常言語においてね。・・・の、日常っていうのは、モデルセオリーは数学でもう決まっちゃってるから本当は。こうなるって使い道決まってるから。日常言語において、一番ベースになるのはこういうもんなんだ、哲学的には、って言ったのがラッセルです。ある意味で、クワインがこれを引き継いでね。クワインは、論理的固有名なんだから、こういう形にしたときに、そこにある一番大事なものは何かって言ったら、結局こうなるんだから、ここっていうのをさっき言ったみたいに、Aというものは、これが何かって言ったら「X=A」だと思えばいいだろう。Aである、述語としてできるから。だから、本来は全部これでいいだろう、論理的固有名全体・・・。(16:06)
だから、・・・・・・彼はこういう有名な言葉を出します。「存在するとは、…(板書音)…」
ちょっと正確な訳語ではないですけれど。これは文字ですからね。・・・に対して、・・・これは意味の値ね。指示するものになるっていうことが、存在するってことの意味だとかっていう風に、クワインは言い切っちゃいます。これが、クワインの言っている・・・・・・です。この人は、ハーバードの分析哲学の親玉というか、もう死んじゃいましたけどね、2000年になってから、の人なんですけれども。こういった流れで、現代哲学・・・分析哲学がこういう流れであると。当然だから、こちら側のずっと「存在」ということにこだわるんですね。ハイデガーの方にもこういうふうにかかっているわけ。ハイデガーは、とうとうこういう存在論的差異というものを、現表行為ですからね、行為論からやりかけて、ここで議論していると。こういうような流れがあります。(17:14)
「すみません、指示詞の方は、現表の内容に振り分けていいんですか。」
いえ、指示詞、シジョウ詞というのは文章です。こういう形の現象がどこで現れるかということを、言語の中で見てみようという話しです。
「一番現表行為というものを捉えやすい、現表内容というのは、指示詞である。・・・。」
指示詞において、「指示詞」というのは、文法上の単位だから、指示詞がどういう原題を持っているか、その場で決まるわけですよ。デモンストみたいに、デモンストレーション、その場で示さないといけない。だから、固定はしていない。あくまでもこのレベルで言ってるのは、言語のレベルであって、言語使用のレベルで我々は、これを補完するわけですけどね、実は。しかし、まさに言語であることの問題であって、どうして言語であるか、言語の意味ということが成立するか。問題は二つあって、言語の意味というものは何か、ということと、言語の意味がどういうふうに具体的に決まるかということは別です。ですから、指示詞の場合には、「彼」と言って太田さんを指した場合は、具体的に太田を指しているということは、これは意味を適用しているはずです、意味という概念を。問題は、意味という概念がそもそもできるとはどういうことだ。意味概念のレベル。指標詞?というのを出したのは、意味概念のレベルとして、固有名という性格を与えているわけです。で、・・・にはあくまで事例なんですね、これは。これに対する、例として出していて、哲学的概念としてこういものを出して抽象するわけですけれども。これはあくまでもそういうものとして見たときには、指示詞というものは、あくまでも「これはこれ」「彼は彼」それだけで。だから、具体的に彼が何であるかという需要は全部違うわけです。世界中の全ての人を指すこともあれば、誰もしてないで指すことも可能です、文章としては。まあ、そこが問題なんだけどね。
「現表行為と現表というふうな対で、対応させたときに、その前にハイデガーは存在というのが、まあ、対応させられるだろう、と。で、固有名は・・・」
固有名の場合は、その場合は、こうだぞ、これに対する対応者は、指示対応です。(19:25)
…(板書音)…ついでに書かなかったからね。ついでに書けば指示詞と指示対象です。つまり、ここにおいて指示という概念、つまりハイデガーが存在論的差異として・・・この間の差異は、こちら側では指示という概念です。
「それは、たとえばさっきの戻して申し訳ないんですけれども、ラカンの議論で言えば、指示対象っていうのは、同じように他者の方にいって、存在というのが、多分父の・・・」
父の名か、パドスですね。・・・
「視点によっていろいろ変わる・・・」
ラカンの場合どこに個人にするかっていうレベルが変わりますけれども、一番抽象度が高い場合で、シニフィアンの発生レベルっていうことで言えば、多分・・・でしょうね。
「まあ今日の話で言えば、父の名」
だから、この現表行為というのは、たとえば誰かの個人の現表行為という言い方をすれば、当然個人に落ちるから、ラカンの場合だったら、それ主体、あのエスバラの場合の主のレベルに落ちると思いますけれども。現表行為一般という形で、特にこういう風になって、メッセージのレベルにあがると、この現表行為一般の主体というのは、誰か分からなくなりますから、社会に上げることもできるし、
「いや、あのちょっと混乱するかと思ったのは、前回シェーマエールでもって、・・・シェーマエールの場合は、多分そこに父の名が来ないんですよね。」
来ないです。
「ですから、ちょっと父的な根拠が、前回の・・・」
今、伊東さんが言っていただいた、これですね。…(板書音)…(20:58)
これ先ほどのラカンの図式ですけれども、シェーマエールの図式。で、ここが自我、主体であって、ここのところが、対象Aと言われている小さい対象で、これが所謂「自我」「私」で、ここのところが、…(板書音)…という形ですよね。この場合には、一般化の度合いが、父の名、これ全体を、これは実は、この主体というのは、具体的現表消費者の主体レベルで止まっているので。しかし、何に対して言及するかは完全に一般的なんで、これ人の話とか経験じゃなくて、既にここに可能性、経験の可能性のレベルの一般化、かんじゃってるんですよ。
 これ自体が個人ということで縛られないで、全体として、シニフィアンとして可能かというレベルになったときに、この上のレベルの話と、ある意味言おうとすれば。にもかかわらず、こちら側は、更に上のレベルが無いんですよ。で、この上のレベルが無いってところが、実はサイエンスとの関係でちょっと考えなきゃいけない問題があります。
ウィトゲンシュタインのところで、今日やろうとしている話で、ちょっとここに関係する話で触れます。(22:05)
「多分、この上に上げたっていうことが、多分父の名が、左側にきた理由であって、」
理由だと思いますね。
「ただ、そうじゃないと自我と父の名っていうのは、概念としてセットにならないんで」だから常に、これが父の名、誰の父の名なのかが問題で、こっちから見ると自分の父なんだけど、父から見ると子供が誰であるか固定しないんですよ。
「それはわかります。」(22:30)
という形です。というのは、これは前回の補足なんで。あとは補足に対しては、この固有名の個体性の話は後で、別にやったほうがいいか。
それでは、これ補足の話。本筋ではないから、こんなことで時間使いたくないんだけど。というような形があります。後に、分析哲学を議論するときに、僕らこっちで今議論しようとしているから、いつでもこっちとは話が違うんですけどね。でもこっちをベースでみんな話しているんですよね、基本的に。だからさっきの、実は語の意味とは、イコール、こういう言い方をしちゃう人がいるんですよ。こうじゃなくてね。ウィトゲンシュタインの青色本でこの間書いたみたいに、語の意味というのは、語の、その語の、我々が出すところのその語の使用を介して、我々に対して、特徴付けられるものと言ってるんだけれど、そうじゃなくて、これをこうだといっている人もいるんだよね。(23:38)
簡単に説明するだけで、使用の全体だとイコールになります。それは語の意味ということに対して、つまり、この使用の全体というほどの意味に代えてる問題ですよね。可能性は全部含んじゃう、だから。しかもそれ使用の全体っていう問題、一番の問題は、オートポイエーシスっていうレベルでない。オートポイエーシスって可能性を全部尽くさないんですよ。現に動く可能性と名目上可能である可能性と違うんです。これちょっと、あとで出てきますけれども、その際も無視している言い方なんですよ、あの言い方は。(24:10)
そうすると、この言い方をもし採用しちゃうと、このレベルの意味になっちゃうんですよね。意味一般、意味一般のレベルの既定の話になっちゃう。だから、そちら側の方にウィトゲンシュタインにひきつけて、考える人はいっぱいいます。一番の問題は、それがどういう構造でひきつけられているか。確かにそうあっているのは事実なんだけど、そう議論できるんだけど、どういう風な構造でこの二つが繋がっているか、もしくは繋げられてしまっているか。それが今日やろうとしていることです。(24:44)
 ここまでで、何か他にありますか、ご質問があれば。何かよく分かりにくいからもっと言ってくれとか、何かあれば。なければ先に行きますよ。
「すいません、あの語の使用の全体っていうのが、ダメだってことは絶対って何だって言う気がしますよね。」
まあそれは、実はオートポイエーシスの問題になるんだけど、少なくとも全体という言葉を、そのまま鵜呑みにして、あれで置き換えるというのはまずい。こう言うためには、何を持って全体というのかってことを検討した上で使ってくるのだけは嫌だという話です。
「意味からの矢印があって、オートポイエーシスの全体と境界の話で、全体と言ってしまうと、上に戻っちゃう、」
ある意味戻っちゃうんですね。何言っているかわからないから。でもね、これがすごく魅力的だってところも、実はあるんですよ、我々には。オートポイエーシスがある一時期、みんなをこうワーっとやったのは、前にも言ったように、何かというと、直接性って言っているものを何か指示しているような気がするんですよ、何か示している気がする。今日はちょっとウィトゲンシュタイン自身のあの言い方の中から、そういうところに繋がる道を、ちょっと考えていこうと思います。(25:53)
こちらへ行きます。これは、余談だったんで、この余談の部分で一講義できるんだよ、やろうと思えば。それでウィトゲンシュタインにおいて、「キャラクタライズ」この意味をちょっと考えましょう、もう一回ね。このあいだ書きました「語の意味というのは」です。ウィトゲンシュタインは、飽くまでも語の使用に関して、文法的なんだと言います。前回書いたことです。語の文法という言葉を出すと、文法というのは、実は文法1、文法2、文法3いっぱいあるわけです。ウィトゲンシュタインが追求しているのは、違う文法の違う言葉遣いの仕方があるのに、同じ文字を使っちゃうから、同じ名前を使っちゃうから、同じだということで、繋げちゃう。哲学者よくそういうことやって、人を煙に巻いているというわけです。一番のいい事例は、カントの「純粋理性批判」の最初のほうを読んでください。途中でホント言ったことは、フォローもせずにそのまま、みんな同じ語で、たとえば「概念」、概念とかね。何とかって言葉を使ってるけど、場面によってこの文法が違ってるんじゃないかということがいっぱいあるわけですよ。でも、あたかもそれが一つの語の意味なんだから、・・・概念がある限り使っちゃう、ということが一番の哲学者がそうしてしまう問題だから。でも、そう言いたくなる。確かに言いたくなる。なんでそう我々は言いたくなっちゃうんだろうと、ウィトゲンシュタインも最終的な問題であり、それは結局ウィトゲンシュタインの最後の問題。「言語って何なんだ、そもそも」という問いになるんですよね。つまり、言語っていっているんだけど、そもそも、これ言語ってなんだろうっていう答えはないんです。発見的に言語を探していくしかない、ある意味で。この文法って言葉が一つの文法にそれぞれこれ、重なるような場合が当然あるわけね。ここで、出ててくるのは、具体的で手法です。…(板書音)…(27:48)

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最終更新:2011年04月16日 18:30
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