第05回 2010年10月25日(後編)

ここのところで、具体的に一つ取り出すね。この通り今「文法1」っていうのが具体的にあります。そうすると何か分からないけど、使用の「ゲブラオカ?」なんで、使用Bっていうのもたとえばあったとします。お互いによく分からない関係があるわけね、この間に。そうすると、このはみ出すところではウィトゲンシュタインは何を使っていたかというと、こういう概念を使います。…(板書音)…「生活形式/Lebensform」という概念を使います。Lebensform何かというと、「それによって、我々がその生活を実現しているもの、実現している一部、それにかかわる」。だから、ここは非常にかかわりが分かりにくいです。言語は、言語の使用、我々の生活の一部なんです。だからその意味で生活の形式の一部であると同時に、言語によって我々コミュニケーションをする、それから何か相手に対して起動する自分がやったことを記録して、またもう一回掴むことができる。いろんな形で言語って言うのは、何重にも関わっているわけです。生活の仕方、生活形式というものに絡んでいます。
前にもちょっと触れたけれど、これと似て非なる概念が「生活世界」という概念なんです。これは現象学のフッサールの概念です。これはある意味で「事実の集積体」。ウィトゲンシュタインの生活形式っていうのは、この規則の両方を持っているような、またがっている概念と考えてください。フッサールっていう人は、現象学だからね。現象学っていうのは、要するに、そこに物があるんだ、それを目で見る、「目で見る」っていうのは本質・直観という形で見てとるんだ。つまり、事実を見てとるんだというのが一番ベースだ、という発想だからね。やっぱりそのなかで、抽象的にうまくいかないっていう話があって、20世紀、彼自身の最初の著作は、1890年代「数学的基礎」っていうやつなんですけれども、彼はもともと数学者なんで。有名なのが、世紀が変わったところでで出した「Ideen」と言われているやつね。1911年・・・13年だったかな、1と2があって、2のほうは死ぬまで出来なかったんですけれども。そこで抽象的なシステムを出したと。ところが、出したんだけど、本人自身が時間に対する問題が未解決だと言ってて、それがだんだんこの実際の世界が動いていくことになって、時間の問題突破ってうまくいかなくなっちゃった。1936年だっけ、「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」という奇書と呼ばれている本があって、その辺でだんだんちょっと立場がもっと歴史とかをちゃんと言わなきゃいけない。「発生論的現象学」っていう概念を作るんですけど。その頃にフッサールが考え出した概念がこれです。
 フッサールは、さっき言ったハイデガーのある意味先生なんで、ハイデガーはフッサールの現象学を方法として適用したんですね。ここの話は言語で全部やったけど、この言語を実は見るっていうレベル考えて、抽象化したものを現象学として考えて、ほぼ解釈可能だと思います。そのなかの解釈があるのかないのか。このハイデガーとフッサールは、最初の1927年に「現象学年報」という本を作るときに、彼は二人・・・。フッサールの現象学をハイデガーは、むしろ言語論的に解釈学という方法で解釈して、実は大喧嘩している。「現象学の言い方が違う」フッサールは飽くまでも、フッサールという人は、あくまでも観察なんですよ。飽くまでも「事実」、彼は事実を観察するってことに本当にベースがあって、その観察から、ヨーロッパの伝統だけどね、プラトン的にもイデアの世界を直観で見てたという発想で、事実の世界。その事実の世界の一番ベースとして、もう一回巻き込まれるもので「生活世界」というレベルがある。ハイデガーは、もちろん行為論とかそれから解釈学、行為のほうに着目があって、この同じことを「見る」っていうこと自身ではなくて、ある意味で世界に対して行為する、「世界内存在」という形で考えるっていう形で現象学を捉えました。という理由で、二人は別れたんですよ。(51:00)
余談ですけど、フッサールがこういう風に言ったんですよ。ウィトゲンシュタインのは、「生活形式」って言うんですよ。世界じゃないんです。あくまでもformで、ここの間のつながりも非常に不明確。だから、そうするとこことここの繋がりはなんなんだ。文法と生活形式と同じなの?違うの?それは当然違うよ、文法って言語の中なんだから、では、どう違うの?言語ってものなのか?そこが分からないんですよ。分からないって、僕だけが分からないだけかもしれないんだけどね。
「あの生活形式って言った場合、たとえばそこで使用Dというものが使用Bに対してですね、文法、出てきたときに、どういう風に考えるのが形式で、どういう風に考えるのが生活形式なのか・・・」
ここのところ、はっきり言ってないんですよ、ウィトゲンシュタインは。そういうことが僕全部見てるわけではないんで、よく知っている人は知っているのかもしれないけれど、多分謎の概念なんです。今、伊藤さんの言った使用Bっていうのは、飽くまで語Aの使用Bですよね。そうすると、「語Aの使用Bに対して語Cの使用Dがどういう関係にあるのか、関係はもしくはないのか」っていうのは、文法上のウィトゲンシュタインの概念ではある。言語間の関係だから。通常は、ここにくるときに何かっていうと使われるのは、言語の使用によって生活ができているっていう形で、典型例をここに言っているわけですよ、と言われているんですよ、ここに伝わっているってことは。こっち側はよく分からないんだけどね。こちら側は、とりあえずは、家庭的類似性という形で。こちら側はとりあえずで言っちゃうと、適用っていうか事例って言うかよくわかんないけど、まあこういうよく分からない概念の繋がりだと。だから、生活形式もこちらはある意味で、生活形式の実現とか何とかということが・・・ですよね、必ずね。こちら側にいく場合には、使用自身が生活の中でどういう位置を持っているか、という形で、ある意味で、これは僕の発想なんだけどね。使用も結合なんですよね。しかも、生活の結合なんですよ、生活してるものの結合。多分、典型はコミュニケーションなんです。だから、そこにおける規則性規範というのは何として、この部分で何として表れてくるかって言ったときに、ウィトゲンシュタインで現れてくるのは、つまりこれコミュニケーション。これはウィトゲンシュタインがはっきり言っているわけじゃないんですけどね。多分こちらに言っているだろうと。いろんな文献から見ると。ここへ繋がっているところが、有意味性なんですよね。これが、イコール「他人が理解できる」。有意味って言ったっていろんな意味があるよね。有意味って言うこと自体、たとえば、宗教的な形の有意味性というのが当然あるわけです。キリスト教は、啓示宗教だから、逆に使用じゃなくて、個別的な話だと、キルケゴールがそうだよね。キルケゴールは、神様と一対一で向き合って、神様から自分の人生の意味をもらうんだから。それ徹底的に個別的な体験だよね、っていうのがあるわけです。その徹底的個別的な体験が人生における意味だって言うのが、ヨーロッパの伝統にはずっとあるわけです。それウィトゲンシュタインが有意味性ってことを気にするんだけど、ウィトゲンシュタインが有意味と言っているのは、しかしむしろこの筋で考えるべきなんです。他人が理解できる、コミュニケーションに他人に使わない、他人が意味が理解できる、ということが、ウィトゲンシュタインにおける、有意味だと。だから、彼は所謂ここからこれが規範であるから、これをやったんです。これは、有名なのが「私的言語っていうのが存在しない」という言い方は微妙なんだけどね、哲学探究のなかで、自分の心の中を毎日日記につける思考実験があります。今日は、こういう気分でした。その気分ってはっきり言えないから、適当な名前で書くわけです。その日記をつけると、これを他の人が理解できるかっていう問題があるのね。だって、三日経って三日前にそこのところ自分の独特の気を、たとえばね、今日僕が今ここで話している気分がさ、いろいろ混ざりこんでいるから「ううん、こういう文字だ!」と日記に書いたとするわけね。二日、次の日もやっぱりこういう感じだったって、「ううん、こうだ!」こう書いたわけね。次の日、ちょっと美味しいものをもらって気分が変わったからね「今日はこうだ!」ってこんな日記をつけるとするわけですよ。これ誰か読んで分かるか、極端な話ね。本人が本当にわかるか、本人が何したかったときに、思い返してみたときに、これ分かるか?ってとこまで議論するわけですよ。(56:14)
たとえば、一年前に何か美味しいものを食べたことを思い返してください。そのときの気持ちを、本当に今も持っていますか。同じことか、わかんないでしょ。自分が美味しいなあと思った、記憶があるとします。あの固定的なものは後で確認できるもの、どこのお店だとか、誰と食べた、お金は誰が払ってくれたという話はある。でも、そのとき美味しかったっていう美味しさそのもの、すっぱい味がしたってこともあるかもしれない。でも、「ああ美味しかった」というあの気分。その通り、再現してるかどうか、本当に。保証が無い。つまり、他人が理解できるってこと。自分も含めて、自分の記憶も含めて、できるかどうか、ということをチェックする形で、この私的言語ってものは、実はこれは決まりがないんだと。ウィトゲンシュタインが、ただし言っているのは、決して心がないとは言っていません。そういう個人的な心がないとは、一言もいっていないんだけど、それを言語の上で表現するということができるか。そういうものに対応する言語があるのか。それはないだろうといわれています。ここが非常にウィトゲンシュタインが特異なところで、ヨーロッパの人たちは「そもそも世界というのは神様の言葉なんだ」という発想があるわけですよ。これはヨハネ福音書の中にあるけど、「はじめに神あり、神は言葉を得る、言葉は神なり」っていうのがあるけど、すべてのことがある意味で、言葉であるっていう理想があるわけですよ。だから、人の内部の心も言葉であるって言うのがあるわけですよ。最初にラカンって言ったとき、ラカンも人の無意識というものは言語的に構造化されている。あのさっき書いたこれの話を言語の構造化として考えることができるけど、何の言語かは言ってないですけどね。言語的な構造を持っている状態。にもかかわらず、ウィトゲンシュタインの今言っているのは、私の直接的な心を、私がいつも生々しく感じている心ね、自分個人として、それを言葉として、この意味で表わすことができてないっていうことなんですよ、少なくとも。何とは言っていない。でも、この形で表わしていることにはなっていない。しかも、この場合にウィトゲンシュタインは意味、他人が理解できるといっている理解の仕方は、実を言うと、こちらは結構モデル論的な意味合いに近いところがあるんですけれども、基本的にはね。でも基本的には、使用としてその言葉をこう使用してるかという話をします。だから、逆に言うと、彼はもう一つの比喩で、カブトムシが入っている箱っていう使い方です。この箱の中にカブトムシが入っている。誰もみたことがないカブトムシがいるんだよって、カブトムシの箱が流通するわけですよ。実は中に何も入っていない。何も入っていないんだけど、それはそれとして、通用する。言葉は特に心に対する言葉っていうのはそう意味がある、というような議論をします。(58:56)
「そうすると、生活世界っていうのは、たとえばオートポイエーシスの議論をもう一回持ち出すと、構造的カップリングっていうのが、如何に成立して繋がっていくかっていうことを問題にしていると」
そう考えていただいて結構です。そういう方向で持って生きたいです、僕は議論を。つまり、こうなったときに生活世界ということは、もしかして我々の心ということは、ひとつのこの文法の中に入っているものではないわけですよ。むしろ、文法をウィトゲンシュタインは、哲学者の批判としてね、同じ言葉をつなげてしまう、同じ文字が書いてあるから、同じ語だと思ってしまうということをしてしまいましたと。僕はむしろ積極的にそれをやっているのが、我々の心理・心っていうものの一つの側面だと思っています。つまり、構造的カップリングというのは、オートポイエーシス自身は何らかのもの。この前こう書いたけど、こういうネットワークとして、こう決まっているわけですよ、実は。カップリングっていうのは、環境との連動だから、連動自体はお互いにどうなっているかということは、こちらでは書けないわけです。書けたこともオートポイエーシスの一部であると。でも、確かに世界は一つあるんだから連動してるんです。連動してるんだけど、じゃあそれ全体を一つで書いちゃうと、オートポイエーシスって見方から見ると、それはカップリングという目では見えなくなってしまうと。だから、オートポイエーシスっていうのは、実は世界の全部を表わしていないんですよ。ある部分しか表わしていない。それが何を表わしているのかと、もう少し言いたいところなんですけど、
「たとえば生活世界っていうものを、一つの構造として分析したフッサールのやったデリダっていう人がいると思うんですけど。デリダは、構造的カップリング論の最終的には項を見つけはするんですけど、そこで止まっていると。それに対して生活形式と言い直すことによって、そのカップリングの流れをもう一度リード化させようと」
できれば、ね。ただそれがウィトゲンシュタインがどこまでリード化の方向で考えられたかっていうのは、よくわかりません。彼は逆に「心理学の哲学」っていう草稿とか、それから晩年の「・・・」についてとか、あの断片という形でやっていろいろ考えたんだけど、彼はやっぱり、バラバラと書いている人なんで、こういうグランドデザイン、グランドデザインは・・・じゃないです。実際には、オートポイエーシスのところで、このカップリングというのは、経験的な概念として、世界と環境として出会ってくるわけなんで、思考において、経験的にこれがどういう風に実現してくるか、思考の下位でどう実現してくるか、全部いっぺんに立てるんじゃなくてね。これは解説のためにこう書いてあるんだけど、これで何か意味を言ったことになってない。(1:01:49)
これから、こういう形の視覚で見たときに、何になっているのか、という形で探求していこうとしたのが、ウィトゲンシュタインの計画だと思いますけれど。それは確信を持っては言えません。そういう風に見ていったときに、ここの間の関係よく分からないですけど、ここ何か関係があるんですよね。なんらかの関係がありそうな気がするわけですよ。この関係を実は直接言ってしまっているのが、生活の形式、生活のパターンを、実は言語というのが、実はここのつながりの、これは僕の考えですけど、・・・はこっちの話ね。ここのところが犠牲している何か、というのが実は、これは僕の発想ですけど、命題と言われていることが持っているのは、ここに位置するんではないかと思います。命題とか文ということ。命題文。つまりね、・・・だけど、フレーゲは「文が単位だ」って言ったんですよ。もちろんね、これから議論するんだけど、彼は数学の文だからね、本当は、言語一般に対して言ってるんだかどうか分からないけど、とりあえず「文がベースだ」と言ったんですよ。なぜか?何故、文が一番ベースなのか、我々にとって。文に対しては、イエスとノーが言えるんです。名詞に対してイエス・ノーって言えないんですよ。『太田さん』「イエス・ノー」って違うでしょ。好きとか嫌いとか言えるけど、イエス・ノーは言えないでしょう。文に対しては、イエス・ノーが言えるんです。それ以外の構造に対しては、イエス・ノーじゃないんですよ。理解をするとか、文のなかで使うか、もしくは別の形で外へ出てくって形なんですよね。つまり、カップリングの構造で今ずっと議論してきたときに、多分頭の中に、僕の頭の中だけれども、まず名詞が中心の形態なんですよ。名詞化している形で意味という言葉のとらえ方があります。その名詞ということが実際どういうことなのかって言ったときに、名詞というのは、その語の使用である。ウィトゲンシュタインはやっぱり語で使っている名詞に限らず、彼の場合は語ですから、いろんな品詞なんですけどね。あの動詞の場合ももちろんありますけれども。動詞ってあまり揺らがないんです、実を言うとね。あの我々動作に非常にベーシックにかかわっているから。動詞に取り替えると大変なんですよ。一番取り替えやすいのは名詞なのね。名詞の場合が一番揺らぎやすい。で、実は文というのは、文が単位になって、文を理解するときに、文の内容を理解しなきゃいけない。文の内容を理解するには、その構造を理解しなきゃいけない。だから、ある文章がこうやって「S・V・O・C」とかあったときに、これそれぞれの意味を固定して、繋げてはじめて分かるんだけど、バラバラにあるんじゃなくて、最初にまず文がある、この文に対して、どういう風に寄与してるかって言葉で決まってくるっていうのが、文脈の上に出ています。こいつがどこに位置しているのか、この文の単位がどこに位置しているのか、実は文に対しての言われているのは、イエスとノーが言えるってことなんです、はっきりと。このイエスとノーが言えるってことは、どの次元の概念なのか。つまり、それは我々がある反応を生活においてするときに、実際にたとえばコミュニケート何とかっていうのがあったときに、生活形式の中にはモノに触れるっていうのはいろいろあります。触れ方とか、いろんな触れ方。文に対してイエス・ノーという言い方は独特なんですよ。これを触って動かすわけじゃない。これ動かす・・・私が触っている。イエス・ノーと言ったことによって、そこの事実が変わるわけじゃないわけです、何も。ある意味で、イエス・ノーというのは、それをそのままにして距離をとって、我々がそれにかかわることが出来るわけです。是認する、否認する、という形で。参加するっていう、さっき巻き込まれる、この規範としてあるのは、規則に対して我々が「巻き込まれる」それからある意味で「参加する」なんだけど。「参加する」これベーシックなんですけれど、世界に参加するという参加の仕方もいろいろある。世界自身を変えていく参加の仕方も当然あるわけです。芸術家とかがそうやって作品を作る、政治家はそうやって人を動かす。文章でイエス・ノーという参加の仕方が独特だってことは、世界は何も変えないんです、それだけでは。でもそれによってイエスと言ったことに対して、その世界を受け入れる、その範囲を承認する。ノーといったときにはその範囲をないものと拒絶するってことをするわけですよ。独特な仕方で参加の、ある意味で準備なり、参加の構えを私たちが持つんですよ、文章で。具体的にそこからどうしていくかってときに、我々はただそれだけでは、離れたままでは何も変えられないから、それに基づいて、我々は加わっていくわけです。ですから、生活形式と文法の間に、これちょっとまあ強引なんですけど、僕の発想は、生活形式の独特な形として、命題ということを、噛んでこれが出てくる、文法ということの問題が。ここだってちょっと行き過ぎかな、文法でも文法・・・文の意味なんですけどね。語の意味と、文の意味、この間でかかわる問題なんですが。語と文は、意味のレベルがホント違うんです。まあウィトゲンシュタインは併せて書いているから、こうなるのね。表現に過ぎないので、文もある意味で・・・。文っていうのはザッツっていう独特なレベルがある。・・・は一般的な表現だから、そういうふうに考えて欲しい。だから、言語の処理において、巻き込まれているということにおいて、言語の処理が基本一般と違う、事実と違う、巻き込まれているという形で、言語に我々は規範性を持ってかかわる。巻き込まれているその巻き込まれ方において、ベースになるのはこのイエス・ノーなんですよ。その中に対して、承認する、否定する、否定するというか、否認する。拒絶するという形で二つに分かれている。
「そのときの文というのは広くとって・・・」
えーと平常文でよろしいです。
「平常文でも良いですし、文になっていない、たとえばまあ、無理やり言われるのは一語文」
一語文は、だってもう文と言っていますから。文ですから。
「ただそれは、文なのかって言うのは・・・」
それはいろいろ議論がありますけどね
「あの、教科書的には・・・」
あの、一応は文ね。このイエス・ノーって言うのは、基本的には平常文、いわゆる叙述の文章の・・・です。でも命令文だって、これできるわけですよ。命令を拒否するということもできるわけね。命令に対して従うということが出来るわけです。疑問文に対して、イエス・ノーでいうのは、たぶん、疑問を疑問として受け取るって言うか、コミュニケーションを拒否するっていう形が一番ベーシックなんですけどね。こういってみると、
「僕の発言に多いですけども、途中で切れるのも、きちっと機能する」
機能します。
「文として機能するって話ですか?」
そこが難しくて、この話とこの命題レベルと、この語の使用のレベルの組み合わせっていうことが、我々ごっちゃになっているんですよ。いつも語の使用で決めてるわけではない部分と、文の使用で決めてるんじゃない部分っていうのが絡んでくるんですよ、二つ。いつも文にしてるわけじゃない。いつも語だけでやってるわけじゃない。両方絡むんですよ。それが実を言うと、ちょっと考えたい、この関係とこれの関係というのがどうなっているのかって言うのが、それが実は、オートポイエーシスって言ってる概念が、よく意味はオートポイエーシスっていう言われ方をするんだけど、それをもっと生々しく感じているところの次元に実は合っているのではないかということを、ちょっと示して見たいという風に思っています。それは何を考えるとなるか。・・・(1:09:42)
この部分の類似性といったときに、この部分の類似性に対して何をベースにするか。どっちも形式なんですよ、これ。形式である以上、ここに出てくるものに対して、ここっていうのは一種の一般性というか抽象性のレベルであるので、何をここで問題にするか。このときに私もここはよく分かっていない、だから、あれが名詞として・・・。つまり、この文法と具体的な文法1と、それから生活形式―生活形式にも生活形式1と2があるかどうかよくわかんないんだけどね―の間の関係として、ここのところにある意味で―とりあえず命題のほうにしとこうかな―これは僕の発想なんだけど、こうだっていう疑問をとりあえず置いておきます。そうしたときに、こいつらどういう風な関係なんだと。ただ関係がある、ここにこいつが関係してそうだよという・・・。一つあるのは、生活の形式の状況を我々は、文章で記述しているわけです。つまりここの所で、イエス・ノーというふうに言うということは、イエス・ノーは文のことを言うわけですけどね、反応として。ということは、この状況をやっぱり何か描写しているという言い方になるわけですよ、ベースに。これなら一番最近やったその・・・って言ってるよね。要するに、モノはモノを写しているとか、モデル理論が言っている、写しているっていうレベルを何回か我々を・・・しているんですよ。だから、言葉に言ってるんじゃなくて、命題に対して反応するってことは、命題が言ってる世界の姿に対して、反応してると思います。つまり、了承しているっていうことは、何が似ているのか、何か多分形が似てるんですよ、形が。どう似ているかは、分からないんだけど、形が似てるんですよ。一番あるのは、世界に対して、いろんな文章が書けます。一つの出来事に対して、違う記述もできます。何等かは似てるんだけど、似方がぜんぜん違う。だから、形が似てるってことは、これに対して、世界の本質の構造そのものが似てるとは限らない。ある形が似てるんですよ。ある面でいつも、ある面で形が似てるんですよ。余力がある場合、ウィトゲンシュタインが言っている家族的類似性とは何が似ているの?似てるってどういうことって答えがないんですよ。似てるって、一番似てるっていう言葉じゃない。形って言葉はあるのね。似てるってことに対する我々の理解は、形が無いものが似てるってよく分からないでしょう。抽象化して形、振舞い、仕方ね、これ、仕方って、これも何かの「方」でしょ・何々の仕方、見え方とか何とか「方」が似てるんですよ。形、「方」、これ僕ら現象的になんだこうだと受け取っているんですよ、「方」が似てるってこと。「方」が似てるってことで、一番情報量が多いのが、ある意味これなんですよ。形って言っているのは。つまり、視覚っていうのは、形って言っているのと似てるってこと、つまり使用していくってことに対して、ある意味で宝庫なんですよ。形ってことを知っているということね。つまり、形と言うのは直接さっき言ったみたいにね、このレベルで言ってるってことは、具体的にこの使用に対して、語の使用において、意味ってことは個別で境界のところで作動ってことがありますから、オートポイエーシスは。この作動に影響するわけですよね。動いていることに。で、動いてるってことが最近考えていたこの直接的に動いているってことの何かイメージになったとする。これに、当然かかってくるんだけど、これに入るのはこの具体的な入り方によっていろいろ変わるわけですよね。形が似ている。それは青なのか赤なのか、服の色が青なのか赤なのか。こいつが白いけどチョークなのか、それともキャンディなのかということで具体的に変われば変わるわけですよ、いろいろと。それは作動にかかわって、我々こう食べるとか、食べたら吐き出すけどね。私は世界の中に巻き込まれてる。巻き込まれてくことが、本当に世界を作ることに巻き込まれてくることに関わるときにはここに至っているわけですよ。ということは、形が似てるという次元でのこいつは、それのためのある意味で―これは僕の言い方なんだけどね―資源なんですよ。資源とか素材。素材って言うとちょっと雑すぎるかもしれないね。で、これを別の言い方をすると、たとえば、こうかもしれない「アフォーダンス」。アフォーダンスは僕はあまり好きじゃなくて、「アホウザンス」という悪口を言っている人がいっぱいいますけど、基本的にこういう次元にあることがあるんです。つまり先ほど伊藤さんから指摘があったけど、我々が具体的に何かをしていくということが、オートポイエーシスと境界構造的カップリングのこれとの対立ね。・・・・・・
動的な仕方という形に絡まってくる。それに対してみる文というのは、ある意味で資源を形成するってことなんですよ。視覚自身が大体そういう性格を持っているんですけど、よくある心理学であるでしょ。ブラインドサイトとかいう題でね。ある視覚の、一般には脳の・・・の欠損だったかな、神経経路が切れちゃったのね、ここにある色が見えない。実際には視覚像として入ってこない、だけれども、そこに意味があるような刺激、たとえばそこに障害物を避けるようにするとか何とかあるとするとね、有意味な確率でちゃんとそれが何かあるってことが分かってるって形で、たとえばその障害物を避けてしまう。統計的にそれが分かっていると。つまり、彼は視覚像としては見てないんだけど、視覚情報として入ってきて、身体がちゃんと反応して動いている。本人に聞くと、「何で避けたんですか?」「いやなんとなく何だけど」見てるって事が繋がってないんだけれども、ちゃんとそういうふうな情報として入ってくるんですよ。視覚っていうのは、そもそもそういう性格がものすごく強い。それがさらに反省という形を加える形で、我々の視覚像って言うなるものが出来ているということがあるんで、この次元でこういう風に見てるということと、さっきのここにおける作動、つまり使用という概念、この二つが絡み合う形で、我々の意味って言う概念が出来ているわけです、常に。で、どの次元でこれが動いているかということが、いつもこう何重にも絡み合いながらあがっていくわけですよ。使用の仕方という段階で、これは使用に対しての資源のレベルにあがるわけですよ、どんどん。問題は逆で、実は資源を使用するというときは、これは必ず使用の選択が必要です。資源そのものが使用になるというレベルがあるかどうかって言うのが実は、僕の形而上学上の問題なんですけども。という形で、あがっていくことが出来ます。で、この場合に、この資源ということが、実は、オートポイエティックな見かけを我々に与えるということ。なぜか?資源ということは実は・・・・・・(1:17:50)
ここからはちょっと無理数の議論をしますね。自分でもかなり危ないなあと思うんだけど、資源ということを考えます、もう一度。資源という言葉だけど、もちろん一般性があります。使用に対する、つまりこれ、使用に対する・・・がありますけどね。この使用というのは、要するに現実の使用の場合の一般化でもあり、可能な使用の一般化でもあると、両方あるわけです、この場合ね。今問題にしているのは言語の中で、こちらのレベルで否定、しかもこう否定しているわけだから、可能な資源って言うと一般的に可能なって方を先に考えちゃうでしょ。でも可能なってことは、原基じゃないです、今の議論では。今やろうとしているのは、具体的に使用ってことをベースにおいてあるんだから、こちらの方から資源っていうことに対して、まず狙いをつけておく。そうすると、ある資源ということが、一般として言えるってことがどういうことかというと、一番の原型はこれです。この繋がりは「一般化」。いろんな意味があるんだけどね、一般化。一つの典型として、今、これ繰り返したいのは反復という形で、使用の反復によって、その資源という概念が、認められるというレベルでもっていきたい。そうするとこの使用の反復ってことであの概念のさっきのところで言うと、今、こういう形です。文法1とそれから生活世界という形があって、ここのところが命題というレベルで繋がっていて、ここのところで、Aの使用Bという、こういう具体的なものあがるんです。そうすると、このAの使用Bということの反復というのはここで起こるわけです。類似的な反復では・・・ないよね。厳密な・・・だとか。反復ということがこの概念のこの。これが命題という話で、ここのところは資源という形でこれに対するとらえ方になってくるわけです、命題として。そうすると、この反復ということを実際これを、こう集めてくるよってこういう風に見るっていうのが、家族的類似性のさっきみたいなもちあがってくるとか、双発という概念です。これを逆にこっちから見るとどうなるか。この二つをこちら側から見ると、これはある意味で命題資源という概念の双発なんですね。双発とか、…(板書音)…・・・立ち上がる・・・そうとしか言いようがないです。どういうものがそれになっているか、こっちで規定してないけれども。こちらから見たら、…(板書音)…何度も使用Bを作るわけですよ。使用Bをこれによって再生産するわけです、この形に従って。しかも、この使用の再生産はどこにおいておこなわれるか。命題において使用の再生産の条件が決まるわけですよ。命題は、これ文法なんだからね。文法を経由して、これは文法によって決まるんですよ。文法って言われているのは命題って言うのは、この関係を表わしているんだけど、文法によって定まってくる。しかも、これがどこまでがその使用の再生産なのかっていうのは、これは文法で決まるって言ってるわけですよね、こっちからこっち見たときに。文法1と文法2が違うといった場合、この間がずれてるから、資源?からずれてるんだからという風に考えていくと、しかも、使用Bって言うのは、・・・なんですよね。使用Bの再生産、文法によってのみ決まる。再生産の仕方は、文法が言語的には決めてるはずなんだから。我々が通常これよく当てはまってるねって言われてるわけですよ。状態を言語で最初に文があるとして受けとって何をしてる、これが一番あってるねっていうときに、文のほうが決めるわけですよね。何か新しい言葉を作ろうって言わないわけよ。今、この状態決まってないから、このなんともいえない雰囲気をね。これは、たとえば茂木健一郎が使った言葉で「ももけてる」って言葉を新しくつくろうって言ったんだよ、あいつ。そういうのを作らないですよ、我々は。文法の方から決まってくる、そのかぎりで語のAの使用Bに関して状況があるわけです。境界条件、これが相応しいっていうのがあるんだけど、語のAのこれが入出力ないんです、適用ですから。この特徴っていうのは何かって言うと、これ個別だよ、個別の再生産であって、それのみが、どこまでか範囲を決めて入出力を出す。この形からこれを見てるってことが実は、定義ではないけど、オートポイエーシス・・・きちんと書かなきゃいけないんだけど、オートポイエーシスに見えるんですよ、我々は。言語の使用ということが。これがオートポイエーシス、意味、我々がね、意味と言ってることが何かオートポイエティックだと、意味ということが言語システムのなかで、何かそう言われていると、ネットワークをなしているんだと言って、オートポイエーシスってことに意味って言う概念を適用させると。それがいろいろやっているし、それを意味概念を、たとえばカワモトヒデオさんなんかは、彼現象学者だからね、意味の原基として身体云々ということに使おうっていう話もあって、やってる。つまり、意味ってことに対して、我々は何か意味の独特の固有性ね。何かさっきあったウィトゲンシュタインが「書けない」っていったところ、この規範に対して巻き込まれるんだけど、私的言語使用、このベースがあるんだけど、「書けない」っていっているところの外のところということを何か我々知っていると思い、それがしかし、言語の中にちゃんと捉えられているという言い方をしたくなるときに、オートポイエーシスっていうのは、きっとわれわれ魅力があるんです、言い方。それは、我々が脳に対してね、脳っていうシステムがあって、脳システムの神経傾向があって、具体的にこう絡んでるんだけど、そいつが私の心、私の思いってやつを何か個別で支えてる、これ・・・たちが最初にね、そうだって思った発想なんだけど、と同じような形で、ここに何かがあるように思いたくなる。だから、オートポイエーシスって言葉って言葉を使って、意味って言葉を聞くと、きっと何か納得する部分がある。僕は、それは否定しない。でも多分、こういうカラクリで繋がっているんだろうという話です。つまり、言語システムっていうのは、こういう非常にいろんな厄介な話を、最初からスタートしたのね。言語、意味、一番最初に持ってきたオートポイエーシスとシステム論として持ってきて、環境とシステムと、直接性と。これに対して、世界のレベルと、それからある意味社会のレベルと、最初の方にこういうふうに書きましたけど、こういうのをオートポイエティックな絡みで、とりあえず最初としてだしたんですけれども、これの内実を、言語ってところから考えていこうとして、辿っていくと、ここまできちゃうんですよ。つまり、ここでオートポイエーシスっていうレベルがあるんじゃなくて、言語っていうこと自身は、そもそも社会コミュニケーションっていうことに対していった、そちら側の境界のレベルで働いている。だから、ウィトゲンシュタインがここのところでオートポイエーシスが、コミュニケーションのレベルで何か視すると言っている、この視するという言い方、これ自身はコミュニケーション、彼は、こう思ってるのね。基本的にはものがあって、受け渡して、こうしてっていう風に思ってるわけね。でもそれは現代のコミュニケーションになっていない。これはあくまでもコミュニケーションは、あくまでも、そのそれ独自のオートポイエーシスのシステムだと。そうしたときに、何故そこのところで我々が、何かモノを入出力したように思ってしまうかって言うと、言語そのものの使用というレベルが、こういうふうに、ここを前提にしてみていくと、それ自身が言語のこれはなくて、この語の使用部分が、オートポイエティックに見えてくるんですよ、こういう形で。つまり、語を使用するって言う形を、言語のほうから否定しよう、ここから否定しようっていう形で見たときに、この部分の関係ってことが、実は本当はカップリングなんだけども、そうじゃなくて、何か一つのシステムになっているように見えてしまうんですよ。実はこの話が、ここまではね、この言語側で、これをやっていると、この話がこっちにどれぐらいうまくいってるのかと、サイエンスの方で、もしくは考えてるってことは、一般にどっちにも入っているから、考えるってことに対して、どういう構造でこちら側でなってて、こっちになってる、どこが同じで、どこが違うかっていうのが、次の話題です。そのときにはさっき言ったこの辺のこの話、この話がつまり、何も言ってないことだということが、実はポイントになります、というんで、ちょっともう少し共通性の話がしたいんですが、それは次回に回しますんで、時間がすぎちゃったんで、今日はここまでです。

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最終更新:2011年04月16日 18:30
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