前回も言いましたけど、このときにこの文法の具体的使用っていうのは、ウィトゲンシュタインは、「言語ゲーム/Sprache spiel」という概念を使って、比喩的に出しているわけね、例示的に、ある意味で。この言語ゲームにおいて―言語ゲームということ自体がある意味、ひとり立ちしすぎているところがあるんですが―こちら側をある意味では、普通は規則ね。こちら側を規則の、ゲームですから、ゲームの実際のプレー。こういう関係で考えるというのがあったわけです。ところが、この相互関係はどうなっているか。規則が明示されているものは良いですよ、最初から。チェスとかね。ところが、日常の言語で規則がどう明示されていますか。よう分からん。お母さんから言われたりするよね。「こういう言葉遣いをしちゃいけません」とかね。「こういう風に言い直しなさい」とか、あからさまでなくても言われるかもしれないけれど、明示的にこの規則が必ずしも明示的とは限らない。明示か、必ずしもこれは、言えない。逆に明示的である場合は、その固定性がある。前言ったのは、サッカーの例で言ったけど、サッカーっていうのは、今FIFAという変な連中が決めていますよね、いくつもね。「こういうルールだ、こういうルールだ」ルールブックを決めるわけです。ただ、最初からルールブックが決まって、はじめてゲームが始まるのじゃないか。ゲームの方が、自然発生してきてだんだん整備して作っていくんだ、使えるように。だから、こちら側にくる「適用」っていう概念で、こちらを先に前提できるかというと、これがもともとのスタートだとしたならば、最初からこれがあるんだと。これが「ある」というのが一つの立場ですよね。中世で、普遍論争といったときに、文法とかが最初にあるというのは、ヨーロッパに非常に深い根っこであることです。それは何かと言ったら、そもそも「修辞格」レトリックね、文法、それからグラマティク、それから論理学、弁証法この三つが、・・・中世の名前があったうちの三つだけど、ギリシャからずっと来ているわけですよね。でもギリシャであったのは何かというと、具体的使用、飽くまでも人に対して説得するものに対して、どうやったらうまくいくのかという、一般規則の抽出作業なわけですよ。だから基本的には、こっちからこっちっていうのが、その発生論的にはベースにあるわけですけどね。形而上学的に、こっちからこっちって言うのは、抽象的にあると考えることも出来ます。「規則は、抽象的にまずあるんです。我々知らなくても規則は存在しているのです、文法においては」というのは、ある意味でイデアリズムですけどね、完全に。(30:19)
ウィトゲンシュタインは、前回言いましたけど、ここのところの概念を示すのに、なんかよう分からないんだけど、「家族的類似性/familyresemblance」という概念を使いました。さて問題は、どこまで行くんだろうと。familyresemblanceは、「こことここの間が大体似てるね、こことここのところが大体似てるね、こことここが似てるね」とこういうふうにやっていくと、前にも言ったように、ロープの比喩なんですけどね、彼の使っているのは。一個ずーっと共通のものがあるんじゃなくて、共通のものがあったら、共通のものを、この例示的な規則的なりなんなりして取り出すことができますから。実質的に深い意味がなくとも。なんとなくこういう風に絡んでいるものもあります。問題は、絡んでいるものの一つの対応を文法だと思う。問題は、どこまでがそうなのか誰もよう分からん、非常に曖昧にしか分からない。文法1と文法2大体違っている、極端な事例でいうと違っているなあということがわかるんだけど、我々が分かるのであって、どう違っているのかよく分からない。だから、同じ問題を哲学で言うと、有名な砂山のパラドクスっていうのがありますよね。まあ、ご存知の人は知っていると思います。
砂に山があります。粒があります。粒一個抜いても、一個抜いた粒はやっぱり砂山です。二個抜いても砂山です。三個抜いても砂山です。一般に、今、砂山があります。砂山にn個の砂があります。n個の砂から一個引いても砂山は変わりません。そうすると、ずーとやっていくといつか砂がなくなっちゃいますよね、有限個だから。つまりなんにもないのが、砂山ということになっちゃいますよね、数学的帰納法を飛ばして、ということです。砂山のパラドクスというものです。(32:10)
それは、ばかばかしいことであるのは分かっているんだけど、問題は「何でばかばかしいの?」「論証のどこがおかしいの?」っていう話なんですよ。ただ、いくつも砂山から一個ひいたら、よくやるのね、一個粒をひいたら、砂山じゃなくなります、というのがあります。間違っているんだったら、どこで間違うんですか、と聞くわけですね。一万五千粒あったら、一万4999粒の砂山じゃなくなるんですか。誰もそんなことは言いません。じゃあ、そうじゃなくて、ここいらでなくなるんですか?ここいらでなくなるって、じゃあどこでなくなるって言っているんですか?よくわからない。
だから、概念適用として「砂山」っていうのはその概念に当てはまらないとしたら、「そもそも砂山っていうのは何なんだ」「砂の集まりの集合体っていうのは嘘じゃないか」「砂山って概念がそれに抽象的にあるのか」って話にどんどんなってくるわけです。何通りも、これの解決法というか、何通りも回答法がありまして、一つは「そもそも砂山という概念をそれに当てはめてはいけない。今、言っていたように」。そうすると、すぐ次に「砂山っていう概念はじゃあ一体そもそもどこにあるのか。どこから砂山っていうのは、作ったんだろうか」という問いが来る。そうじゃなくて、数学の人たちの中でまじめにこれをやる人がいる。こういうふうな文章構造があって、これ論理学が違うんだ、ファジー論理という論理を使って、そう説明できるんじゃないか、とかいろんなことを言っている人がいます。まあそれはあれなんですけど、まあこういった家族的類似性っていう言葉は、みんなわかったような気がするんだけど、よくよく考えると、どこまでこれ言ってんの?何が分かったことになるの?という問いがわかんないんですよ。確かに我々の現状では、そういっている使い方の範囲ってのがありそうなんです。
ところが、もしこれずーっとやっていくと、曖昧だっていうことでとりあえずいっちゃうと、一般的というと、ここまで言っちゃうんです、語の意味ってとこまで。使用全部にこう繋がっているんだもん、語の意味集めれば。そうすると問題、文法って何なんだい、語の文法って。「『語の文法』の文法」というこの述語自体は何なんでしょう、砂山と同じでね。これ、なんなんでしょう。集めてきたものが文法という言葉の概念を、説明していますか?してないのね、ちっとも。確かに、それは文法であると言えるかもしれない、集まってないけど。でもそれは、文法って言う概念を説明していない、何も。それが文法であることを承認させてくれる我々に。さっきのこの指示詞と同じでね。指示詞というのが我々に対して、これは指示詞である、これは固有名詞であるということはわかるけど、そもそもその概念は何なのか。概念の特徴付けになっていない、指示詞を出しただけで良い、という問題が起こってきます。特にこうした場合に、意味まで行けばいいじゃんか、それだったら、似てるんだから。なんでわざわざ「文法」なんて言葉必要なのか。しかも、文法個別の文法でいいじゃないか、語の文法って呼ぶことはないじゃないか、この概念浮いちゃうよ、スパッと。で、この浮いちゃうってところが、実はあんまり議論されていない。
ウィトゲンシュタインは、自身は、もちろん文法っていう説明に対してもう一つ、これを違う言い方をしたっていうか、本人が正確に言ったっていうよりも、まあ後々のこの講義を聞いていた人たちの解説でも書いてあるのですが、やっぱりこういったときにね、ウィトゲンシュタインは、これを考えたら…(板書音)…こうかな、言語の処理、処理という言葉の使い方をすること自体が、言語の処理を理解するということと、…(板書音)…記号一般の処理を理解するということの差異・違いは何かというところにだんだん問題が進化していると言われています。この見方自体というのは、大体前も言った「ブルーブック/青色本」の前に出てきますけれども、青色本のリースという人はウィトゲンシュタインの講義を聞いた人ですね。序文になってるやつのところで、あの解説しているけれども、この問題が、ウィトゲンシュタインは青色本ではまだちゃんと分かっていない。茶色本と言われているその次の出版用の出版しなかったノートと―茶色本も死後出版されたのはそうなんだけれども―もっと出版しようとまじめにやっていた、哲学探究において、この問題が、だんだんきちんと入ってくるというふうに言われています。(36:47)
つまり、言語っていうのはある意味で記号なんだからね、全部。この話で、記号の処理が全部出来るわけですよ。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」って言ったときに、これはチェスだと。チェスっていうのは、駒が置いてある。駒はこういう動き方をするっていう記号だと。記号の規則に従って記号が動くんだというふうに、言っておけば、それは記号の処理なんですよ。問題は、彼はこれは違うと思っていた、言語、言語と記号は違う。いやもちろん、記号は一般の一部ではありますよ、普通の意味で言えば、言語は、特殊な記号なんだから。でも、記号を処理しているっていうことの意味と、言語を処理している
ということの意味は違う。何が違うのか、というのが問題です。
これは、同じことが数学にいくとこうなります。記号一般のところを、全く同じものを、ここ論理って置き換えるのね、置き換えるとやっぱり同じ問題が出てきます。コンピューターサイエンスの上で、コンピューターがこうパーッと動いているでしょ。コンピューターで表示ができるじゃない。今、いろんな何とか論理、さっきファジー論理とかああいう例えた論理があります。あれは論理っていくらも論理ってあるんだよ、たくさんね、体系として。記号一般の一部の体系としても論理があります。でも、我々が通常たとえば論理学の先生なら、論理学とか言ってね、論理って記号なんですね。たぶん記号一般なんですねって言われるとなんとなく抵抗があるわけです、気分としては、ない人もいるかもしれないけれど。何が違うのか、この二つにおいて。つまりこのときに微妙なのはこれなんですね。規則といっている言葉の意味が違う。これこそ「規則の文法」が違うんです、この二つで。どう違うか。
こちらで言っている「規則」は「事実」なんです。こういうものに従うのがこの記号である。こちらで言っている「規則」は、―規則って言葉はどう変わるのかこれもちょっと微妙な言い方なんだけどね―こちらの場合には―これは僕の解釈ですけれど―「事実としての規則」なんですよ。こちらの側は何か、「基幹としての規則」なんです。これは同じものではありません。つまり、これは「事実」、あるんですよね。こっちは「なんとかすべし」なんですよね、こっちは。これが違うんです、規則に対する見方が。つまり、これがどう違うか。言葉で分かっても、漢字が違うってだけの話じゃ分からないよね、これは。
たとえば「Regel」って言っちゃうと、同じ言葉を使っちゃうことがあるんです、これが重なり合いとして。だから、これは非常に分かりにくい。でも、こっちに特徴な言葉はmoralですよ。規則の方にmoralとは使わないんですよ。この「法則/law」っていうのは、どっちにも使います。それから、英語が分かんないんだよな、ドイツ語になっちゃうんだよな。
「Regel」という言い方、レギュラーって言葉の元になるんだけどね。というのは、どっちかって言うと、規則というものを直訳している感じがあります。ただ、言語的にはラテン語では、「規則」といった場合にはこちらを使っているはずなんですけれども。この二つの違いは何か。たとえば、「サッカーの規則は規範である」って言う場合と、「サッカーの規則は事実」であった場合、どういう人がそういう使い方をするか。サッカー選手が今、サッカーやっているでしょ。では、どっち使うと思う?サッカーを現にやっている人がいる、こっちだと思うか、ここで言っているのは事実なのか。
そうすると、ラグビーのボール・・・いきなりボール持ったことあるでしょ・・・ラグビーの伝説だけどね。サッカーやっているときに、あの「ラグビー」っていうあのイギリスの中学校で、誰か興奮したあまり校庭を駆け出したって話があるんだけど。それは、違う事実としてのラグビーの規則の発生になったわけですよ。比較する人が、研究する人が、対象としてそれを述べるときに、規則を事実として分枝することが出来ます、我々は。比較は出来ます、事実であると。つまり事実としての規則が違ってたと、違うゲームです。違うルールに従っているから。比較はできます。サッカーをやっている人が、これ事実ですからという・・・。サッカーをやっている人は手を使っちゃいけないですよね。すべしですよね。行動を規制しているわけです。つまり彼がそのゲームに関わる関わり方、彼がそのゲームの規則に縛られるように、そこに入りこむわけです。この縛られるって言葉も微妙なんだけれど、譲歩的に縛られるんじゃなくて、彼の振舞いを規制するように、まあそれも微妙だよね。事実だって、人の振舞いを規制するわけだから。ホント正確にじゃないんだけど、振舞いの仕方に対する規制をするわけです。「こういう風にしなさい」「こうしちゃいけません」事実というのはそうじゃなくて、これを元にして、何をするかは、ある意味自由なんです。これは物理の言葉で初期条件として、こういうふうにしなければ条件ではあるけれど、これに対して振舞いの仕方そのものが、固定されているわけではないです。だから微妙なの。「自然」という概念は、この場合どっちになってるかが凄い問題になるわけです。
「自然」というのは、ある意味で我々が「自然」を対象として考えれば、こっちになります。自然法則としてのnatural law。でも、「我々も自然の一部である」という意味でいうと、こちらになるんです。自然の特異性は、「すべし」に違反した場合が存在しないことです。つまり、普通は「事実に反する」ことが出来る。どっちも反するんですよ。ある意味どっちも反することが出来るんです。「規範」の場合は、反したら別のゲームになるんです。「事実」の場合は反することがある意味で、かもですよ、事実でないことは存在しない、この世に。という意味で、最も強い規範だということができます。でもそこからいって、自然法則は規範から外れられないんだから事実だ、っていう言い方をしたときには、一般に規則が事実だった場合に、規則が当てはまっている範囲内、範囲内がどこであるかって問題が全部抜ける形で言っているんです。それがここに近いよね、この概念。いくつも文法がある。文法一般と言ってしまったときに、一般にしたときに文法もそうではみ出すものは何もないんです。これは文法もそうで、はみ出す比較対象があるからこそ、事実ということの間の比較が出来るんです。それは何の事実かというわけです。ここに持ってきちゃうと全部が事実だとしか何もいかないわけです。だから、反することが出来ない事実っていう言い方自身には、ものすごく問題が・・・ですよ。この使い方が、実は我々非常によくやるわけです、概念の一般化って言ったときに。反することが出来ないというのは、我々は本来、こちら側が原義的にはあるわけです、「すべし」という方が。それは違反をしたら、処罰をとられるなりなんなりするんだけどね。違反をするべきでないという話は、我々原型で一般・・・です。でもそれをこちら側にも、使うことが出来るわけです、自然とか全体とかね。こういうものを持ってくると、考えられる範囲ですよ。だから、考えられる範囲全部に対して、それが法則としての規範性、法則という性格をもつ何かっていう議論をするときに、前も言ったように、この典型例として因果法則ってあるよね。因果律。因果律はただそこにある事実を集めたのでは、因果律にならない。そうでなければ、そうならなかったって言う存在してない事実を比較するっていうのがあるかもしれない。それが前に言った、反実仮想、反事実条件とかね。反実仮想って言うんだけど、その理解をともなって、つまり「すべし」、この場合の「すべし」はそうしないと現実にならないか、という「すべし」。この因果に当てはめて、そうじゃなかった場合にそう現実にならなかったという、二つの差異ということを、述語(?)で二つの差異の可能性を次のレベルで当てはめることで、一つの事実の規則という概念を分かるようになるんです。ですから、いつでも我々は外にはみ出すということを考えてるからこそ、この二つが分かるんだという話がやっぱりここででてくるわけですよ。ただ、それがベースから行くと「境界」、はみ出すというところに、それがまさに位置しているところっていう性格を、大変強く持っているわけですよ、ウィトゲンシュタインっていうのは。では、ウィトゲンシュタインは、何においてはみ出すことをここで見ていたのか。この場合の、この規範にあたるべきものは何だったか、具体的使用における。
ちょっとごちゃとぎゃしちゃったんでこの汚いところをちょっと消して。(46:24)
最終更新:2011年04月16日 18:31