「誰が見たり聞いたりするのか」2007年5月28日(前編)

(素のままでしゃべったら聞こえないか……。聞きにくかったら言って下さい。)
ええ、本来でしたらここでお囃子が入りまして、どうも皆さま、お天気のいいなか足をお運び下さいまして、高座の上から失礼します――ということになるんですが。
まず茂木さんからのご紹介を二つ、訂正したいと思います。
私が日本哲学界で恐れられている、というのは事実ですけれども、私がまっとうな意味で哲学者かということはぜんぜんわかりません。(笑) それは、アカデミーの世界のなかで、ふつうは論文を書くんですね、ちゃんと。論文書いて、学会に提出して、みんなでレフリー受けて、業績ができました、はい、何ポイントです、どっかの大学の先生に応募しましょうってことになる。
私はその道にまったく乗っておりません。理由は簡単で、書けないからです。というのも、文字で書くのがすごい苦手なんですね。昔はそうじゃなかったんですよ。彼と出会った頃まではやたら書き散らしてたんですが、最近どうも、「ものを書く」というのが私にとってなんなのかよくわからなくなってしまったんですね。で、話をすることは好きなんですが、顔の見えてる人と話をするのは大好きで、[だから相手の顔の見えない]ラジオの仕事とかふられたらコノヤロウって蹴飛ばすところですね。
僕がしゃべっているのか、この場所がしゃべっているのか、僕にはわかりません。正直言って。
ですから、[僕の話が]わからないとしたら、あなた方がいろいろ考えていることがわからないだけの話です。そういうふうに思って下さい。
ええと、それからもう一つですけれど、美学っていうのがあるそうですけれど、私、じつは美学まったく知りません。(笑)
昔々、彼とやっぱり出会ったころには、ハイデガーだとかヘーゲルの美学だとか読んだ記憶はありますが、なんだったんだか全然憶えてなくて。この話をもらったら、三日後に――先週の木曜日に近所の図書館に行きましたら、たまたま『芸術を哲学する』という米澤有恒さんという人の本がありまして、なんじゃこれは、とばーっと全部読んでみたんですけれど、ああなるほど、美学者っていうのはこんなことやってるんだなあ、と思いました。……彼は美学者じゃないか、美術哲学なのか。
でも、それを見て、僕が思ったことは、ああ、美学者っていうのがこういうことを考えているのなら、俺はあんまり賛成できないな、という話だったんですね。ですから、美学については、僕はあまり知りません。ごく初歩的なことしか言わないと思いますので、ヒマな人は寝ていて下さい。疑問に思ったら、いつでも手を挙げていいし、待てコノヤロウ、と言ってもいいですから中断してください。僕は適当にしゃべりますから。
彼が「何を話す?」ってメールをくれたので、「その場に行かないとわかんネー」と。「ただ、最近気になっているのは、誰がものを見て、誰が聞いてるのかだよ」と言ったら、彼が勝手にそれをタイトルにしたらしいんで、もしこれでなにか、絵画なり音楽なりで技法論を期待してる人、なんかあるのかな、と思って期待した人は申し訳ないですけれどそんなものはありません。
で、何から話そうかなと思ったんですが、今年の三月末にブリジストン美術館に二十年ぶりくらいに行ってきました。そのときたまたまチケットがあったからですが。行ったことがある方はご存じだと思いますが、ルノアールが何点か入っています。私はルノアールの絵が大好きで、ルノアール展が東京で八〇年か七九年にあったときに茂木と見に行ったんですけれど、それを思い出して見てたんですね。そのときに、ブリジストン美術館にあるルノアールの絵は五点並んでるんです。「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」という、よくある小さい可愛いバレエ服を着た女の子が椅子に座っていてトゥシューズのリボンのところが少しずれているのがあります。次に「カーニュのテラス」というフランスの風景画があるんですね。その次にあったのが「水浴の女」、ルノアールが技法を変えたときのものです。最後に「座る水浴の女」、「花のついた帽子の女」。
私は非常に驚いたんです。なぜかというと、ルノアールはものすごく作風が違うんですね。絵は年代順に並んでいて、「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」は1876年で、「カーニュのテラス」は1905年。「水浴の女」は1907年に描かれて、オレンジの色が強い感じで豊満な女性を描いている。そこでがらっと絵が違うんです。
なんでこんなことができるのか? どうしてこんな違う絵を描けるのか?
それが技法だって言えばわかるんです。誰かがこういう技法をあみだしたんだ、という絵を描いたのならわかる。
でも、僕はそれが信用できないんです。
なんでこんな違う絵が描けるのか?
皆さんはどう思います? 画家がまったく違う技法で絵を描くというのがどういうことか。
それで、またひとつそれと関わったのが『芸術を哲学する』なんです。米澤さんは京都の美学を出ている人で、中身は現象学、ハイデガーがベースで美学を論じています。そのときに問題になるのが、美学っていうのは西洋の伝統から「美という抽象的なものを学問できる」と考えることで、じゃあ、誰が考えるの? という話は置き去りです。考えるのは、自然に<われわれ><あなた>で理性を前提にするわけです。
だから、絵描きが絵を描くとき、我々はこう考えます。
絵描きが絵を描いている。
絵描きがいろいろな技法を取り替えて試したんだ、って言い方をするとわかりやすいよね。
でも、僕はそれがわからない。なぜかというと、僕自身にとって一番わからないのは「僕」なんです。
いまここでしゃべっているけれど、それは二十何年のしがらみがある茂木に呼ばれて、しかも約束しちゃったから、行かないとコノヤロウって話になってみんなに怒られるからなんですが、じゃあ、それはどういう意味で「僕」なんでしょう?
いま、僕は汗かいてるでしょ? どういう意味で僕が汗をかいているのでしょう。でも、それは勝手にこのへんが体温調節してるだけかもしれません。茂木は脳科学が専門だから、脳がやってるって言うかも知れない。いま、お茶を飲んだとき、胃腸の方がざわざわする。別に脳とは関係無しにあっちこっちで自律的にやっているわけですよ。細胞のなかでも、ミトコンドリアが自分勝手に[DNA]複製をしているし。そういうのが全部集まって僕なわけですよ。それが僕にとって一番わけがわからない。
時間論やっているのは、もう一つわけがわかんないのがあるからです。[講義が]始まってから何分か経ちますが、お茶飲んでてさっきまで「うまいなあ」と思っていた気持ちがいまはもうないんですよ。なんでやねん、と。なんでさっきまでお茶飲んでいたのに、うまい気持ちがなくなってしまったんだ。
それが僕は子どものころすごい嫌だったんです。楽しいものや、うまいものが食べ終わったりしてなくなっちゃったときに、「なんでその楽しいのがいま無いんだ!」というのがすごい嫌だったんです。一番嫌だったのは、小学校に入る前、じいさまが死んだときに「なんで冷たくなって死んでしまっているんだ?」「あたしゃ死にたくないよ!」でも、死ななくてはいけないらしい。「なんで?」
なくなってしまう自分が嫌だったんです。
そういう、普通だと思われていることが疑問でしょうがないから、ものを考え始めたんです。
だから、僕がこれから話す話というのは系統だっているというよりも、いろんなわかんないことがばらばらばらばら出てくると思います。
じゃあ、ちょっと戻ります。
絵を描いているというとき、誰が絵を描いているのか? 画家でしょうか。私はそう見ないんです。あるんです、そこに、絵が。
絵ってなんですか? と聞かれたときに、みなさんはなんて答えますか?
いま、上野でダ・ヴィンチ展をやってますね。ダ・ヴィンチのことはNHKが最近自分のことを宣伝するためにたくさん番組作って放送しています――あいつも片棒担いでいるかは知りませんけれど。[展覧会の]ポスターに張ってある有名な受胎告知の絵は、ダ・ヴィンチが描いた羽っていうのは解剖学的にはあの羽がないといけないということが言われていますよね。
じゃあ、何を表したんです? あんなのはいないんですよ。いないのはわかってるんですよ、どこにも。どんなに継ぎ合わせたって存在しないキメラです。じゃあ、なんのためにその絵を描いたか。――というふうにみんなは問うわけですよ、ふつうは。
僕はそうは思わない。あるんですよ、そこに、その絵が。
絵はある。
画家が描いたかどうかは別にして、絵は「ある」んです。逆に言えば、生まれちゃったんです。
絵はわたしにいろいろ語りかける。
たぶん、最初にルノアールの「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」を六時間くらい見ていた高校生のときは、女の子が可愛いな、きれいだな、と思って見ていたんでしょうね。その次、同じルノアールが描いている「水浴の女」って絵があったときに全然語りかけてくるものが違うんですよ。どうしてルノアールのなかにそういうことが起こり得たのか? それはなんだったんだろう? というのを僕はすごく恐ろしく感じたんです。むしろ。
学問とか哲学とかやっているときって、けっこう連続的なんです。なにをどう考えるということが根本的にがらっと変わることは滅多にない。だいたいこう考えてしまう、というスタイルで考えます。慣れてくると作家を見ていると、だいたいこの作家はこういう書き方をするんだな、というのがわかってくるわけです。僕はあまり読書家ではないので一概には言えませんが、一回一回の題材がすごく違ってもスタイルがわかってくるわけです。
何を伝えたいか、という具体的な題材よりも、どう語っているか、どう書いているか、というニュアンスが読んでいる私と課題が合うか合わないか[が重要になってきます]。
例えばエッセイストで漫画家の東海林さだおという人がいます。彼は独特の書き方をする。しかも、彼のエッセイを見ているとだいたい同じような話をやっている。同じような連載をしているのに、何年か経つとまた同じ話をさも新しそうに始めたりする。でも、彼の語り口が好きだから、ああ、ああいうふうな語り口があるんだな、と彼の語り口に酔わされていくわけです。
さっき、私は出だしで落語をやろうと言いました。内田百閒という作家がいますが、彼がある対談のなかで彼自身の文章作法に関して、落語家に話が及んだときこういってるんです。落語家はネタで語るうちはまだ下だと、ネタがなくても語れる。語り口で読ませる。彼自身も百鬼園随筆というエッセイがありますが、彼はどういうふうに語るかという語り口。それを表すのが、彼にとっての一つのジャンルとなっているわけです。
そう考えると絵というのはどうですか、画風というのはどうですか。
そういうふうに思ったときに僕はルノアールを見たときに、なんでこんなことが可能なのか驚いたのです。
どうして一人の人間なのにそんなことが可能なのか?
もしかしたら彼本人にとっては話は単純だったかもしれない。あっちで勉強したからこっちで描いた。それだけかもしれない。それはわかりません。
でも、僕にとっては非常に不思議だった。
どうしてだろう。この人の頭のなかはどうなってるんだろう。この人の絵に向かっているという状況、どうしてこんなことが可能なのだろう。
しかも写真で見るとぼーっとしたじいさまなんですよ。そんな頭のなかで鋭い対立を保てるような顔はしていない。
そう思いながら次に行くと、モネ(Claude Monet:1840-1926)があるんですよ。モネが何枚かあるんですが、睡蓮があるんですよ。睡蓮はたくさんありますが――あ、裏側にミレーがあるんだけれど、今日はミレーはいいや――『睡蓮の池(睡蓮の池、ばら色のハーモニー/1900)』っていうのがあって、1903年の睡蓮があって『ベルチア』という作品がひとつ。そして『リヴァプール橋』という作品がある。
なにが描いてあるのか。
もちろん睡蓮の池なんですが。僕が言いたいのは、水面なんです。
水面が見えるんです。
じゃあ、どう見えるのか。反射が映っていることで水面を表しているのではなく。水面を表しているのがすごい。水面に映ったものではなく水面という現象が起きている。
ブリジストン美術館を見た後に、まだタダ券が残っていたので西洋美術館に言ったのです。
そっちを見ると、睡蓮がまたぜんぜん違うものです。
水面の部分がないんです。全然違うものになっている。
モネに睡蓮にはいろいろありますけれど、僕は彼は「なにを見るか」について非常にこだわった。いま言ったように、水面をどうやって水を見るか。それだけを考えて描いたのではないか。
つまり、そのときは水面はそこにないんですよ。マテリアとしての水はあるよ。
それを彼は追求しつづけたんじゃないか。
そこで一つ問題になるのは、印象派ですから、何をみるか。何を見ているか。
ふつう、何を見ているか、というふうに考えていますよね。
何を見ているかということをどこまで突き詰めて考えているか。
茂木を見ているときは、脳の中では「茂木だ」って言ってしまっている。
美術館に行くとタイトルを見て、ふんふん誰それが何年に描いたなんとかってタイトルの絵だって納得して帰るわけですよ。
でも、画家がそんな描き方をしているわけがないんですよ。
つまり、そこで言葉とか、何を見ているということ、これは指向性という言葉でもあるんだけれど、ふつうは言葉で代用しちゃうんです。
僕が何枚か見た限りでは印象派というのは、何を見るのか、ということを突き詰めて考えている。見るということがどういうことなのか、ということを突き詰めて描いている。
頭で考えてもなにも起こらない。彼らは描いて見ているんです。
つまり、僕の印象では―もちろん何通りも見方はあるわけですが―あの絵は目なんですよ。描いている人の目なんですよ。まさに目なんですよ。
間違えないで下さいね、目がものを映しているんじゃないんです。あれで見ているんです。あれが見ている、っとことなんですよ。
見るという操作、われわれは目を使ってものを見ています。生きているために必要ですし、生きていくため以外にも使います。見るってことは目だけで見ているんでしょうか?
よく、目の見えない人がものを見るという哲学には昔からある問題なんですけれど、ここにマイクありますよね。目の見えない人がマイクを触っているわけですよ。昔からある問題で、彼はこの形がわかるんだろうか。ヒュームとか、十八世紀からの問題で、いまだに回答はないんだけれどある意味でめあきの人間が――めあき、って言葉使っちゃいけないんだろうけど。ごめんなさい。語彙が古いんで放送禁止用語をつかいますけれど差別的な意味はありませんから――めあきの人間がめくらの人間に対して非常に図々しいのが、彼らは順番に触ってものを感じているはずだから、触っている順番にものを把握しているから、われわれとおなじように一挙にものを見ているわけがない。というタイプの議論がある。
もう一方の議論はそうじゃない。彼は我々とまったくおなじような見方が生来備わっている。ただ、それに対するアクセスの仕方が違うだけだ。
どっちが正しい?
そんなものは答えが出るはずがないんですよ。
目が見えていた人が目が見えなくなった。それは生まれてからずっと目が見えなかった人と同じだと言えるの? わかりません。じゃあ、生まれてものがずっと見えなかった人が初めてものが見えたときはどうですか? これはかなり微妙なんですが、最初にいくつか訓練されると変わってしまうわけです。だから、どう見えたか、というのはわからないわけです。
それ以上に、果たして見えるっていうのはそれだけの話なんですか? つまり、描いていること事態が見えているということならば、ダヴィンチの場合はやっぱりああ見えたんですよ。世界を、聖書の世界を、キリスト教の世界をそう見たんです。見るということのなかにはいろんなことが入っている。個人のなかでなにを見ているかというのは相当に違うわけです。つまり、見ているということを通して名前をつけた―それがそこにあってあれがあそこにあります、というのはある意味「見ている」ということではないんですよ。見たことを利用して私たちが使いやすいようにためた情報ではあるけれど、それだけが見ているということではないんです。
でも、ふつうはそれで生きちゃっているから、それを見ているとしても問題ないわけです。
だから逆に―これはジャンプがありますけれど―さっき見たルノアールの絵の描き方が変わったということは、彼が表したかったことが根底にベースにあって、そのために技法を変えたと考えてしまうんだけれど、ここにあれがあります、あそこにあれがあります、と見ることを固定しておいて、見ることを映すことだと考えたときはそれで理解できる。
でも、僕はそうは思わない。
見るということはもっと不思議なことなんです。
だから不思議さというのを感じることができる。そういうことをルノアールを見ていて思った。
ところが、西洋美術館に行ったときに、はたと思ったことがあった。
ご存じの通り、西洋美術館は入って左側のところに古いイタリアの祭壇画があるんですよ。さて、さっきのルノアールにしろ、モネにしろ、マチス、セザンヌにしても、見るということにブリリアントな議論がされているけれど、じゃあイタリアのルネッサンスの連中は[彼らと]なにが違うんだ。
僕が間違いないと思うのは、モネが見るということを深く突き詰めて考えたということ。
じゃあ、イタリアはどうだったのか。
工房って概念がありますよね。イタリアの工房。
個人が一人で絵描きとしてアトリエに隠って絵を描いているっていう図式はけっこう近代のものです。イタリアのルネッサンスの絵画っていうのは基本的に工房の作品です。分担しています。
工房で描いている画家たちっていうのはどういうことをしているのか。そこで描かれている絵というのはいったいなにか。
誰が見ているの?
これを哲学の話にすり替えるとどうなるか。
印象派が出てきた十八世紀から十九世紀にかけて、哲学ではカントとか近代哲学と呼ばれる人たちがいた。それ以前の中世では、固有の人じゃなくてだれかの思想、つまり伝統のなかの思想というものがあったわけです。伝統が考えていたんです。近代ではそうじゃなくて、誰それさんの思想、というのがいっぱいある。そういう状況と[工房から画家へという流れは]けっこうパラレルだな、と思うわけです。
イタリアに工房という概念がある。レンブラントの工房がありますね。工房で描かれている絵と一人の人間が描いている絵というのはどういう違いがあるのか。
僕は知りませんけれど、芸大の学生さんたちは個人制作として作品を作っているのでしょう。もしかしたら工房制作している方もいらっしゃるかもしれませんが。どう違うんだろう。その間は。
だとしたら、工房という概念でわれわれが考えてしまうのは、こうなんですよ。現代でも建築現場では磯崎新がでてきたり、アール…(?)が出てきたり、中心となるデザインを考えるデザイナーが、ものすごく強い形で所有権というかアイデアを表すと考えられるわけです。…ふつうはそう考えられるだろう、と思います。
じゃあ例えば、ルネッサンスはそうでもないんですが、――バチカンでしたら誰が描いた、という名前が残っていますが、もっと前のゴシックやロマネスクの時代の壮麗・壮大な教会画は、最初から誰かが作ったという形で伝承されていないわけですよ。フィレンツェの花のドームは××の名前が出てくるとか天才的なアイディアとして残っているものもありますけれど。ルネッサンス期になって個人の名前が出てくるようになりましたけれど、それ以前はそういうのはなかったわけですよ。そうなると、誰それの能力としてなにかを作るる誰それの能力として何かを見るということはどういうことなのか。
われわれはふつう前提として考えるわけですよ。美術館に行って、私が見てるんだ。誰、その私って? どういう私がどういうふうに見ているの? ということに関していくつもの疑問を感じないわけです。
例えば、謎解きみたいな絵が現代もいっぱいありますね。ああ、これがこうなってるんだなあ、って考える。頭で考えているということが、見ているということもあります。じゃあそこで色のインパクトをばーんと与えたとき、わっ、と驚いたときに見ている私はどういう意味で同じ私なんでしょう。見るということに関して幾つもの分裂を感じませんか?
見るということは画家が描くということもそうだし、観賞するということは見る側にとってもすごく幅のあることなんです。それはいまここに座っている何十人かがね、みんなが共同してやっている作業というとしておこなっているものなんですよ、。それぐらい見るというのは幅のあることなんです。
最初に言ったように、見るということは印をつけやすいんですよ。名前をつけやすい。ペットボトル、とかね。なぜだ。見るというのは膨大な作業量なわけですよ。茂木は専門家だから彼に聞いた方がいいんだろうけれど、視覚というのはものすごい多量の情報を扱えるわけですね。
情報を扱うというのがどういうことか、一般にはわからないんですよ。僕らは外から、その情報を扱っている学問として、これは有用だろうな、とかこれは面白いだろうな、としているわけで、そこにあるそれがどういうものかはよくわかっていないんです。
だから美学で一番つよい[疑問]が、美って誰にとって美なんですか? それが僕のあの本に対する、西洋伝統に対する不満なんです。「それは問題じゃないだろう。あなたが美を感じているんだろう」
美しい芸術作品と美しくない芸術作品というのはあります。では、美しいというのは誰に対して美しいのか、聞いたことはありますか? 好みの問題ではなくて、いまこの私に美しいといっている美しいはどういう次元で言われていることなんですか?
ふつうはその話は作品が美しいという方に行っちゃうわけですね。伝統美学では作品が美しいというのは美のイデアの顕現としてある、ということになりますから。でも、その美しいは、誰がみたときに美しいと言ってるの? あとから、ああ美しかったとまとめて言っているだけじゃないですか? 美しいという経験に私ということはいるんでしょうか?
美しさというのは西洋伝統の方ではその一瞬で完結するという類のものなんですけれど、僕はそれには賛成できない。完結するかどうかわからないからるでも、その場で美しいというのは美しいなんですよ。誰がとも言ってない。なにがとも言ってない。ただ美しいんですよ。美しいと言うことを納得するために、なにが美しい、誰が美しいというのを後から言っているんじゃないですか? なんのために?
一つは次に見たときに、美しいと感じたいから。慣らされていくんですよ、われわれが。慣らされないと受け入れられないから、私が受け身として訓練されていくんです。
もう一つは再現するために。再現するためには[なにが美しい、誰が美しいというのを後から]言わないとむずかしすぎて再現できませんから。
例えば、ここにだれのか知らないけれどペットボトルがありますね。形がありますよね。円筒形。色がありますね。空色。形と色って関係ないでしょう。私は円筒形を持ち上げたんだけれど、なぜ空色も一緒に動いちゃうんですか?
なにを言ってるんだ、ということになっちゃうんですが…。当たり前でしょう、ものが動いたんだから。じゃあ、なんでものはそうなっているんだろう?
これは最初から答えがないんですよ。そうだからそうだとしか言いようがないんです。色が見えているのはこうだ、形が見えているのはこうだ、という学問はあります。けれど、そもそもなんで色と形が一緒に動いちゃうんだ? という答えはないんですよ。世界はそういうふうに現されているものとしか言えないんです。
裏返って言えば、芸術家が、あるいは絵描きが空想のものを描くとき、ばらばらだっていいんです。そういうふうに見ることができるのなら、統一しなくていいんです。ただ、使っている絵の具の性質からは逃げられないから制限はありますけれど、抽象画を描こうと思ったら切れていてもいいんですよ。
何の話をしていたんだっけ。利用するという話でしたね。
つまり、そうなってしまっているもの。円筒形を運ぼうとするときに空色も運べるんです、逆の言い方をすると。理屈でつながっていないものを一緒に動かしてしまえるわけですよ、どんな場合でも。哲学の僕の立場でいうと、それこそが力というものであり、それこそが――前に茂木と池上が駒場で話をしたときに僕の発言を憶えている人はわかるでしょうけれど、それがマテリーと言ったりします。古い言葉でいうと質料ね。それは僕に言わせると、理屈で合わないものがつながっているということなんです。
ここで戻ると、その質料というものはどういうふうにつながっているかわからないものです。それをふつうは物理学とか言って、われわれが生きている日常生活で使っているもの、プラス、我々が使っている理屈、理性ratioが扱えるものを定型として考えるわけだけれど、そうじゃなければいけない理由はないでしょう?
だから逆に、質量っていうのをどうやって利用するか、ということはものを作る上ではかなり大事なことなんです。
質料はものを作るということにも関係があるし、ものを見るということにも関係している。もう一つ聞く、というのがあるんですけれど、聞くというのは別のファクターが入ってくるのでちょっと後回しにします。
この両方において、モネは見ている。描くことで見ている。彼は絵の具という質量を使って水面を見ている。これと同じ意味で鑑賞者は見るんです、やっぱりそれを。……というふうに考えたらどうだろうなあ、というのが僕にとっていまのところ納得している美術作品の考え方なんですね。いまのところ納得しているだけですけれど。
さっき言った美しいという話とこのあいだ[質料]の話ってどうなっているの?
醜いものはいくらでもあるじゃないですか。
でも、よくよく考えたら、じゃあ、醜いってなんなの?
伝統的には、美っていうのはイデアだと。ギリシャの最高のイデアは真善美が一致している状態ですね。ギリシャではこれが最高だったんですけれど、完全性という概念が加わったりして、キリスト教神学の神という概念になるんですが。これを人間のほうにもってくるということは、イデア界から落ちてくるわけですから、人間の世界に受肉するわけです。
ここで考えると、キリスト教やそれに準じた哲学では醜いということや悪というのは欠如なんです。何かが足りない。あるということは美しい。あるということは完全だ。
これは昔から哲学である議論で、ライプニッツが定式化しましたけれど、哲学の第一の問いは「なぜ、なにかがあるんだ?」「なぜ無ではなくて、なにかがあるんだ?」誰も答えようがない。けれど、あるということはそれだけで価値なんですよ。なぜなら神様が世界を作ったから。完全なる神様が世界を作ったから。でも、世界には醜いものがいっぱいある。なんとか解釈しなければならない。それを中世では弁神論という形で神様を弁護してあげなくちゃならないという形で議論してきたわけですけれど、ところが現代はそうじゃなくなってきている。
なにがおかしいんだろう。この概念のなかで。

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最終更新:2011年04月19日 09:15
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