いま、僕が誰かが見ているという言い方をしたときに、画家が見ているっていいましたよね。私が見ている。私が絵を描いたばかりだとします。もう一つ、こういうことを考えてみましょう。
量るということを考えてください。
量るというのは、量る対象と量る装置があるわけです、必ず。
仮にペアで考えると、量る対象と量る装置、この二つの組み合わせがあるわけです。
はかり方はいろいろあるわけです。ある対象を描くというはかり方をする。モネだったら水面を見るというはかり方をするわけです。その顕れがあの絵なのではないか。ところが、わたしがあの絵を見るときは、わたしは水面を見てるんでしょうか。わたしはモネの見た水面を見ているのかもしれない。むしろ、モネが見るという量り方をした水面を見ているかもしれない。モネの見ることを見ているのかもしれない。
いまここで佐々木さんがいると、殴る・殴られる。(笑)
ペアがある。それが完全かどうかはわかりませんが。
ところが、いままではそうは考えなかった。みんなものを考えるときにこっちだけを見ていた。プラモデルのように考えるんです。ものを作るときに。ほんとうだったら、世界を作るでいいんです。でも、神様が作ったから、ここは無視するんです。***
あ、佐々木さんが毎日家に閉じこもってプラモデル作ってる。また綾波レイのフィギュアだ! と感じる。でも、神様が作ったのだとしたら、「ああ、神様ってフェティシズムだったのね!」神様が作るって行為は誰にも批判されないわけです。
だから、われわれはものを考えるときにプラモデルの作られたものだけを考えてきたわけです。もしくは、プラモデルの作り方、プラモデルの作る過程だけを考えていたんです。
だから、ものがどうあるか、ということ話だけ先に出しちゃう。
プラモデルを自分で作るんなら鋳型をもってこなきゃいけない。出来合いのやつ買ってきて、切り取ってここんとこ削って、ああできました。万歳。って形でものを見やすい。考えることが多い。
さっきこの善に対して、悪というのは一般的に欠如と言われたんですよ。
だから美学に対してカントとかは批判的な側面があったわけです。ものすごくリアルに対してエゴイスティックだから。
じゃあ、この図式をこれに当てはめてみましょう。
何が足りないの? 何が足りないの?
ふつうはこれなんですよ。秩序が足りない。秩序が狂うことが悪なんです。
つまり、破格のもの、変なもの、秩序を乱すものが悪なんです。
さっきの図式で考えると、秩序っていうのはなんのためにあるか、というと、秩序はものでも現象でもいいですけれど、存在するものを量っているはずでしょう。
悪だって言う前提はここなんですよ。ここは完全で、
ものというのは西洋では実体なんですけれども、実体というのは増えもしなければ縁もしないものとして考えられていて、つまり神様とほぼおなじという解釈がなり立つわけです。ここに関してはまったく問題がない。
でも、ほんとうにそうかいな、そんなもん。
さっき言ったみたいに現象って書いたのは、見ていることを見ているかもしれない。入れ子になっている可能性が常にある。悪と言うこと、足りないということはこれが少ないのかもしれない。でも、こっちが多すぎるのかも知れないんですよ、可能性としては。
もののほうが多すぎる、というのが一番よく顕れるのが精神分析です。無意識が多すぎると。
ジャック・ラカンがそういう言い方をしていますね、彼はもう少し細かい言い方をしていますけれど。大筋で言うと、
シニフィアン
シニフィエ
……(図をつかった説明のため不明)……
彼は入れ子を常に考えているんですね。
ものが多すぎるということもありうるわけです。だから、精神の乱れた人がものすごい力をもった絵を描くことがあるわけです。それは、ものが多すぎるからです。少ないんじゃないんです、もしかしたら。われわれがふつうに考えている伝統的な質料とは違った質料を見てしまっているから。
同様にものがある、ということは違うんです。
同様にものを見ている、ということも違うんです。
一人の人、私は、私という言葉を使ってのっぺりさせている。これは一つの能力です。見るということで見ることでまとめるのは、すごいいろんな事を押しつぶしている。
――といまこうやってしゃべっているのは僕が考えてしゃべっているんですが、こんな話になるとは私はぜんぜん予想していませんでした。みんなの顔を見ていて考えている。だから、誰が考えているか、ということは一概には言えない。答えがないんです。
でも、もしあなたが絵を描く人だったら、彫刻を作る人だったら、あなたは見るということに対してなにかしているはずなんですよ。
あなたはどういうふうにそれをしているんですか。
それで僕が大事だと思うのはこれなんですよ。見るということがもっているものすごい厚みみたいなもの。それを質料は理屈ではなく、いろんな仕方で縛り付けてしまう。こいつの縛りつけかたはプロセッサーじゃなくて(?)、全然違う自分が造り上げられてしまうわけですよ。それぞれで。それをどういうふうに組み合わせるんですか?
前に芸大に来たときに聞かれた、私の作品に対して意味づけを説く人がいると、僕はそんなものはどうでもいいんです。意味づけというのは一つの見方、一つの数値です。いま言った質量ってのが、どうやって働いているかいうのを僕は見たい。その人において。意味づけっていうのは一つのなんです。意味づけっていうのも一つの作品です。私だって声を作ってしゃべっていますから。
思考っていうのは一つのスキルだと思っています。ダイナミックさ、時間的な運動は可能なんだけれどね。絵画の顔料が動いたらちょっと怖いですけど、それとはちがったスキルだと思っています。
完全な質量というのはもしかしたらないかもしれない。西洋ではまた極端に行きすぎて、プラトンとアリストテレスは大質量、プレミアム・マテリーっていうわけのわからんものを考えたんだけれど、僕は疑問に思う。僕は仏教徒ですから。仏教の伝統において、縁起と空を現すために生きているので、大質量というのはおもしろいけれど、無条件にそうですとは言えません。*パスカルは神の物質性について論じているみたいです
見るということに関して、誰が見ているか。それに対して脳が見ているという答えは違うんですよ。見ると言うことが誰くらいの質料を集める力をもっているか。
その集め方が違うから、美というものは一回しかないという言い方がありますよね。西洋伝統では感性が一回見たことで充足されたということになるんですけど、そうじゃなくてむしろ多すぎるんですよ、質料が。質料が多すぎるから、扱いきれなくて、そうなったときの幾つかの方向付けの一つが美しいと呼ばれているんじやないかと、そう僕は思います。
だから、いろんな美があっていいわけ。イデアの美、なんて一つに
収斂されると思う方がどうかしている。そうじゃなくて、美しさというのがどうやって働いているかを見たときに、もしかしたら美しさっていうのはもっと多いこと、悪であるかもしれないわけです当然。危険でもあります。そういうことを現す美しさというのを僕は理解しています。
いまのは全部見る、から言いましたが、聞くはまた難しくなります。
なぜかというと、聞くというときはまた面白くてね。
例えば、さっき盲人が見た時に順番がどうなのかという話をしましたね。さっき言ったように順番に触っている。目の見えなくなった哲学者が実際にいまして、彼はこう言います。「たしかに私は椅子を順番に触っている。でも、あとで思い出すときは触った順番にイメージしません。椅子は椅子としてぱっとイメージします。目が見えないんだけれど」と言うんです。なるほどそうか、そういう能力があるのか。
そういう議論をしたときに、ある人がこういったんです。
じゃあ、なんで彼は音楽はそうならないのか?
順番に触ったものをいっぺんにイメージできる人が、じゃあ、なんで音楽はいっぺんに見えないんだろう?
耳で聞くのと、手で触るのはどこが違うんだろう?
聞く、っていうのはなにかが違うんです。面白いのは、ドレミファソラシドって上がって、[ドシラソファミレドって]行って戻ってくる音程ってありますね。行きと帰りが同じだっていうことはたいてい聞くとみんなわかるんです。
さて、どうやってわかっているんでしょう。行って帰ってくる、ということが。逆に辿ったんですか? 音符に書いてわかったんですか? 違いますよね。
でもわかんないんですよ、こう辿ったのに、行って帰って同じだということがわかるんですよ。本当に音を逆に辿ったら、同じになるのは当たり前ですよね。
だから、音はすごく不思議なんですよ。
音っていうのは、われわれが見えないものに対する感覚をわれわれは持たなければいけない。見えないもの――いまはもうないものに対する感覚。
初めての音楽を聞いても、だいたいコード進行がどうかな、という理解をわれわれはできるわけですよ。知ってるから思い出せるわけで、思い出そうとするとぱっと思い出せるでしょ。いまないものに対してもくるんです。音を掴むことができる。
でも、それはどういうことなんだろう。
どういうふうになっているのか、ということに関しては茂木に聞けばわかると思うけれど。
でも、ないものに触ろうとしているのは、さっき言ったように聞くということにたいしてどういう働きなんだろう。
そう考えると不思議なわけですね。
すると、こう考えられるわけです。僕らのういう能力は限られたものであると。例えば、上野の**で演奏をやります。なにをやりますか。ブラームスの一番です。ブラームスの一番か、と納得して五十分聞くわけですよ。
五十分まるまるを聞くというのがどういうことかわかりますか? さっき僕は美術館で絵を見て名札を読んで、ふんふんとなる、って言ったでしょ。音楽も同じで、プログラムを見て、第一楽章か、ふんふんとなることが多いわけです。
そのまま聞こうと思ったら大変なことになるわけです。私の感覚では二十小節をまるごと聞くというのは大変なことですよ。あ、音楽家の学生さんがいて、そうじゃないって思ったら手をあげてください。私の感覚では、二十小節をそのまま音として聞くということはほとんど不可能です。
だから、ないことに対しては入ってくる情報量というのはとても多くて、関わらなきゃいけないから、逆に制約がおおいわけです。
見るというのはあることに関して関わるから、いっぱいくる。いっぱいくるわけです。茂木に聞くとわかるだろうけど、見えていないものでも体が反応して見ようとするわけです。この、見えているあるものに対する多さが美しさに関わっているとすれば、音楽の美しさはないことに関して過剰であるということはどういうことか。そこに美しさの可能性もあるわけです。【見えていないものに対する過剰反応】
僕が知りたいのは、音楽は抽象的だと言われているけれど、その抽象さってなんだろう。クラシックは高級なの? ジャズはしょうがないの? 石川さゆりじゃいけないの? そういうことじゃないんですよ。
ないということにどれだけ触れられるか。あるいはないということに対してどれだけ解剖学的にわけいっていく立場と、あとでまとめて聞いて、うーん、心地良い、って言っている段階と、そのギャップっていうのは音楽のほうがはるかに大きいわけですね。
だからおじさんたちがカラオケが大好き。すごく錆びを気持ちよく歌う。その気持ちよさっていうのは辿りつかないたくさんのことを体が求めているかもしれないんですね。
哲学でも、世界はリズムでできているという節がいっぱいあるんですけれど。自分が求められているところ、つまりまず原点だと思っているレベルがものすごい上のレベルまでいろんなことが積み上がっていたということ。さっき質料で言った、何の理屈もないのに制御されてるということ。それらを、すごいなあ、と思って感じることがどういうことなのか。それを知りたいと思っているんですよ。
そうじゃなくて、最近の美学、あの人の本に書いてあって僕が嫌だなあと感じたのは、現代は貧しい、乏しい、偉大なる現実がなくなった世界だ、と言う言い方があったらしいです、二十世紀。何言ってるんだそんなもん。
ある見方からすればそうだろう。美術館にいって、いろいろタイトルを見る見方からすればそうだ。クレーなんかはすごい嫌がられるわけです。なんだこの子どもが書いた線みたいなものはって。そうじゃない人もやっぱりこういう言い方をするわけですよ。やっぱりここの線にはこういう意味があって云々かんぬん。
僕はどっちでもいいと思っている。むとろ、クレー自身の言葉のなかでルノアールと一緒に書いているという言い方がされているんですが*、彼は質料というものをどうやってあらわすかということに関してずうっと考えていた人だと思う。だから、彼は線を引くときに―これは孫引きで、たぶんドゥルーズだと思いますが―複雑なものをちゃんと表すには、われわれは単純な技法でなければならない。
つまり、複雑なものを複雑なまま扱うには能力がすごいいるから複雑なものを単純なレベルにする必要はあるんです。あることをあると感じられるのはある意味ではすごい技法なわけです。見るというのは技法なんです、ある意味で。
そういう技法を自分で作っていくということがどういうことか。
例えば、中国の絵画に関して面白い評価がありまして、中国の絵画っていうのはもしかしたら書かもしれない。なぜかというと、ものを描くんじゃなくて、線を重ねているから。線が集積している。ここにはこの線しかない。ここにはこの線しかない。とい線が集積していくと、絵になる。書と絵の差はない。書、というのは言葉を表すための文字であって、絵は見方でぜんぜん違うんだけれど、そうじゃない。そこにある線を表している。線というのは動きなんです。さっき言ったようにマテリーのひとつのあらわれなんです。さっき言ったように一緒についてくるから。だから、動きを表すというのは大事なことなんです。
動きを中心に考えたときに中国絵画が、なにを描こうとしたのかといえば、輪郭をとるんじゃない。一文一文にある動き、止まっているものも動いているわけです、ある意味では。動きの線を重ねていくこと、動きを重ねていくこと。それはマテリーと同じで理由はないんです。理由がないことを重ねていくことを現実化することによって中国絵画が出来るという節があるんです。私はなかなか納得したんですけれど。中国絵画はあまり見ていないので、そうじゃないのもたぶんあると思いますけれど。
つまり、動きというのがどういうものか非常に気になるわけです。
さっき言ったように音楽というものは絵画の時代に、ないものがある、すでに、そこで音楽を生成している音というものに入っちゃってるから、そういう性質を持っているんだけど、逆に絵画はそれがない。絵画は逆の意味で豊かさをもっている。
僕は時間論をやっているからこういう言い方をするんですが、動いているのは物理的な時間である必要はないんです。厳密に言えば。こういう問いがあります。数学を例えた場合、数学の世界には時間がないわけですね。
無時間的で、真善美だと一番最初に美のほうが××(聞き取り不能)なんですけれど、あれの一番端的な例が、ギリシャでは幾何学だったんです。幾何学というのは測量のために使われるわけです。測量というのは幾何学の世界で抽象的に考えられていたわけです。
ところが僕は一番最初に疑問をもったことがあって、―僕は数学出身なんですけれど―いまは解けちゃったけれど、フェルマーの定理というのがありまして、当時はフェルマーの問題だったわけですよ。ワイマンが解いたんですけれど、さて、世界であるAさんがそのむずかしい問題を解きました。解く前は定理じゃなかったんですが、解いたら定理になった。だとしたらそのあいだの時間ってどういう時間なの?
最初から真か偽かが決まっていて固定されている。それならしょうがない。それがやっぱり十九世紀までのモデルだったんですね。そうじゃないっていったのが、有名なリーマン幾何、ロバチェフスキーが言ってる、非ユークリッド幾何学です。
昔はユークリッド幾何学というのがイデアの世界だと思ったわけです。そしたらそんなことはありませんぜ、とガウスが言い始めた。アインシュタインが世界というのはユークリッド幾何学じゃなくて、リーマン幾何学や非ユークリッド幾何学の方が雄生なんですよ、と言った。
算術―一足す二足す、ってやつね、算術でさえ、やっぱりそうなんだ、というのが二十世紀になってからずいぶん研究されました。ラッセルのパラドックス、クレタ人のパラドックスというのがありますけれど、私は嘘つきである、というこの文は正しいか正しくないか。そういうパズルがあります。同じように、算術で足し算をする、引き算をする。そういうところにも結果は一つに決まらないという結果を出してしまいました。事実として。
決まったことがあるということがないわけです。
なんでそんなことを言ったのかというと、動くっていうことに関しては、物理の時間じゃないかもしれないんですよ。いろんなうごくがあるんですよ。コンピューター関係をやってる人はプログラミングが動的なことであるというのがどういうことか、を考えれば納得できる人がいるんじゃないかな、と思いますけれど。
僕はさっきの質料という概念と連関して考えていますから、絵画においては動くということはきっとあるはずだ。絵画においてはじゃあ何が動くんだろう。そのとき、絵画においては質料に対してもうひとつ。これも受け売りで僕は専門家じゃないんだけれど、メルロー・ポンティという人がいますね。彼が肉という概念を使うんですね。それはこういう定義です。この間慶応のある院生さんが発表していたんですけれど、画面があります。ふつうの意味で物質がありますね。画面という物質が。
でも、それが絵であるということが成立するために必要最小限であるための質量、マテリーを彼は肉っていうんですよ。ぎりぎり最小限のもの。顔料の配置とか、そういうものじゃないわけですよ。さっき言った、どうしようもなくいろんなものが積み重なっていく状態、そういうところでこの絵をなり立たせているぎりぎり最小限のもの、そういう概念として肉があるわけです。だから肉を通して世界が広がっていくんです。絵の世界は。だから、質料っていうのは窓なんですよ。世界の、もっとたくさんあるかもしれないものに対する窓なんですよ。だからなにかがあって映していると言ったとき、そのなにかはこの世界の質料じゃないかもしれないんですよ。
一番具体的な例を言います。いまここにペットボトルがあります。この絵を描いたとします。簡単なのは、写して描いた、と言えますが、そうじゃなくて、ここに一つの通路ができる。でも、あっちにも通路ができる。あれと同じね。お風呂やに行って男湯女湯って書いてあるでしょ。入ってみると中で一緒だったという。そういうものかもしれないんですよ、世界を現すことばは。だから、それだけ多様なもの、多いもの、世界にはいろんな触れ方があって、逆にいうと、プログラムを眺めたときに世界に触れることができるのかどうかね。というところが、芸術とか作品に対して僕が興味をもつところです。
私は絵は描けない。せいぜいものを考えるというやり方でしか、それをアウトプットすることができない。それは各人各人のできること、やりたい範囲でやればいいことだ。でも、なにかそういうものを目指してやったほうが面白いんじゃないですか? というような話です。こんなところでいいかな?
●今日の授業のメッセージとしては塩谷さんの思想に感化されて――感化されちゃまずいか。僕にとっての塩谷のような友人を同時代で探してほしいということです。三千人いたけれど、こんなに変な奴は一人しかいなかったけどね。同じ世代じゃなくてもいいけどね。今日塩谷を自分の友人にしてもいいですけれどね。…怖いなあ。(笑)
Qさっき言われたみたいに善い生き方についてよくわからないのですけれど。
一種の治療ですね。つまり、説明を与えることによって相手を催眠状態にしてごまかすということかもしれない。納得することによって癒されるというかごまかされるというか。そういうレベルの話です。
つまり、善い生き方というのは決して楽な生き方ではないということです。場合によっては苦しい生き方になっちゃうかもしれない。欲張りになることによってすごく辛いことはあるんです。
僕は忘れるということは幸福な能力だと思うんです。
忘れるというのは量ることができないので。それは本質的なことなんですけれど、量るというのはあることを忘れることなんですよ。だから、違うものが同じ量りで量れる。違うものをつなぐことができる。
忘れるというのは、すごく大事なファクターなんですけれど、忘れるというのがどういうことなのかを真剣に受けとめなくてはならない。
自分でも答えになっていないと思いますけれど、善い生き方というのは必ずしも楽の生き方ではない。幸福な生き方ではないということてす。ギリシャでは、[善い生き方というのは]幸福な生き方だったかもしれませんが。
じゃあ世界は幸福に創られているのか、というのが僕にとってはすごい疑問だったんですね。
さっき言ったように、ものがありすぎるということ、豊穣さはもしかしたらすごく苦しいことなのかもしれない。よくありますね、過剰なる性的エクスタシーは人を死に至らしめる。ですから、いい生き方というのが、あなたに幸福な安定した人生をもらたしてくれるかはわかりません。
だから死ぬことと神という概念があるのかもしれません。超越者に対して、超越者が量ったものを忘れるということ。
そういう方法でものをつなぐということが宗教という快楽を支えているのかもしれない。その限りで、昔から現実と宗教というのが、非常に深くリンクしているのかもしれない。単に宗教画という題材だけじゃなくて、いま言ったように見るとか、そういったものに関わる形で、忘却というものにどうつながっていくかという話は、宗教美術を考える上で、おもしろい要素なんじゃないかな、と思います。
Q.いまの日本人は多様性に対して感受性が鈍くなってきているんじゃないか。それから解放されるにはどのような方法をとったらいいのか。
それに関しては二つあります。一つ、多様性の感受というのと多様性を自覚しているかどうかこととは別問題なんですよ。いまの日本人は多様性の感受は高くなっているけれど、無意識・無自覚になっていると思います。だからむしろ、お年が上のほうかなと思いますけれど。自覚的に豊かだと言うことを目指したんだと思います。現在は自覚的に豊かじゃないかもしれない。けれども、無自覚的に豊かな可能性はあると思うんですよ、二十代、十代の方たちを見ていると。一番の危険性は、だからどう制御していいかわからないということだと思います。ですから、感受性を高めればいいという話じゃなくて、感受性はあるんだけれど自分から離れた感受性になっているということが問題なんです。さっきも言ったけれど、私が参加するというのはどういうことなのか。加わるというのはどういうことなのか。だから、いじめ問題とかいろいろありますけれど、いじめなんて前からあったんですよ。問題は切られる、ということに参加していないんですよ。ある意味では距離をおいているんです。加害しかしないという。
昔からあるんですよ。殺されなければ戦争ほど面白いものはないって言葉があるんですよ。死ななければ、傷つかなければ戦争ほど面白いものはない。実際に哲学ではドゥルーズが戦争機械って言い方をてしいますけれど、それだけ戦争っていうのは面白い概念なんです。ただ、そこで自分が傷つくということ、参加するということ、つまり自分自身が多様性のなかにおいて飲みこまれてしまうという可能性があるということを自覚するかどうか。自覚というより、感受できるかどうか。これを無自覚であれ感受していれば、自覚的に豊かでなくたっていいと思うんです。ただ、いまやっていることは技術がものすごく進んでいるから、理屈に合わないことが重なっているという状況に重なることができないんですよ。むしろ分化させて、ばらまいちゃっている。
でも、一つ言えることは旧来の形で「自覚しろ」と言ったって、元に戻るには多様性自身が広がりすぎているから、それはたぶんできないだろう、ということはわかる。ただ、どうしていいかということに関してはいいアイディアはないです。残念ながら、僕は答えがありません。
最終更新:2011年04月19日 09:16