●直接性と独我論――「私が××を△△する」
前回は直接性という話をしましたが、直接性という語が分かりにくい、と授業のあとで質問がありました。確かに僕自身はあそこで勢いにまかせた話の――毎回勢いに任せた話にしかならないんですけど――、雰囲気を伝えるために、直接性という語をつかいました。普段はあまり自分で使っていない言葉なんですよね。だから、今回は直接性の解説をやってから、少し先へはいっていこうと思います。
前回の授業のあとの質問では、「直接性ということをずっと強調すると、一つの独我論になってしまわないか?」と言う指摘がありました。私が直接何かをしていることということを突き詰めると、他人のことを無視したり、客観的なものをちゃんと判断できなくなるのではないかという心配がある、という。
この質問に理論的に答える前に、行為的な観点から直接と、間接を対比したときの、僕が考えるニュアンスをお話したいと思います。質問に答えながら挙げた例が、こういうものでした。
国際社会って、よく言うじゃないですか。ついこのあいだも中国と尖閣諸島をめぐって問題がおこりましたね。あと、国際人といわれている人がいます。諸外国に関するいろんな知識をもっているし、国際社会の情勢を評価したり、自国を外国に紹介したりすることができる。中国の文化はこうでしてねとか、フランスでこういうことが常識でしてねとか、いわば評論家です。その一方で、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんとかがパリに行って公演をする。海老蔵がそうであるかないかは別として、自分の伝統芸能しかやっていないし、伝統芸能に関することしか知らない人、そんな人がいきなり、パリで公演をする。
さて、国際的に活動する、交流するといったときに、どちらが直接的に活動している、交流しているといえるでしょうか?
この問題は、「私が××を△△する」という文章構造と関連します。この文章構造の形態のなかでどこに着目点を置くか、それをどういうふうに考えるか、という問題です。
授業の最初で言った、「直接性は独我論になるんじゃないの?」という問題が、なにに着目して直接性としているかというと、「私が」と「××を」の間なんですよね。そうではなくて、いま歌舞伎俳優の話を例にした場合の直接性はどこに着目しているかというと、「△△する」なんですよ。「私が日本文化を国際的に紹介する」という文章を考えたときに、評論家っていうのは日本文化を対象として知っていることがポイントになるわけですよね。だから、「私が」と「日本文化を」の間の関係になるわけです。その一方で、歌舞伎俳優が向こうへ行って、交流するといった場合、日本文化を「紹介する」仕方がポイントになるわけですよね、歌舞伎という仕方で紹介しているという点が。
ふつうは「私が」と「××を」のあいだを、物と物との関係、距離として捉えるわけです。そして隔たりがあるかないかということで直接性を考える。例えばフッサールは「志向性(Intentionalität)」という概念を使って直接という概念を考えています。ふつうはそうするんです。「私」と「××」の直接性を考える。逆に言うと、ふつうは「△△する」という動詞の部分が何なのかという話は、しないんですよ。去年もお話しましたけど、哲学においては二つの動詞だけしか本質的には考えられていないんですよ。主観的な場合は「見る」、そうではなくて、客観的な場合はそこに「ある=存在する」という。そこに「ある=存在する」ものを「見れば」、だいたい情報を取り出せるはずだから、それでいいだろうと考えちゃう。だから、「△△する」をほとんど無視しているんですよ。「私が△△する」についてはほとんど問題にならない。「△△する」は分かりきっているんだよ、「存在する」んだよ、もしくは「見える」んだよ、だから「私が」と「××を」の関係は何なんだという話に、皆、行ってしまう。
行為論は、そうではない。まず「△△する」が問題なんですよ。われわれが何かをするとは、どういうことなのか。直接性が独我論に行ってしまうのは、「△△する」という動作の問題を切り捨ててしまっている場合です。しかも厄介なことに、哲学において動作は、大概、「ある」つまり存在ね、それから「見える」つまり認識ですね、この二つに還元されてしまうんですよ。「△△する」は、「△△するのを見る」、「△△するのがある」というレベルにおいて語られるわけです。
僕が前回がんがん言っていたことは、そうじゃない、「△△する」という動詞のレベルを生かそう、という話なんですよ。西欧は動詞の文化なので、いろんな動詞からスタートしても良さそうなんだけれどね。でも、もしかしたらそうではなくて、動詞の文化だからこそ、動詞のなかで暗黙の動詞である二つを選び出すという作業をしなければならなかったのかもしれない。動詞のなかで万能の動詞である二つを選び出すという洗練を進めた結果、「△△する」が無視されるようになってしまったのかもしれません。
●直接性と現実性――「××を△△するという仕方、その結果としての私」
僕がここで直接性という場合、先ほどの文章構造を使うと「私が××を直接に△△する」というふうになります。これをあえて書き換えるとすると、こうなります。
「××を△△するという仕方での直接性、その結果としての私」。
「仕方」は「様態」とも言い換えられるでしょう。「結果」は「効果, 余剰」と言ってもかまいません。むしろこういう文章構造で話したいんですよ、僕は。「××を△△するという仕方」の結果、その効果として出てくる「私」。「××を△△するという仕方での直接性」というと名詞になってしまいますけれど、本来、これは副詞として機能するはずです。
この構造とさっきの構造のどちらが良いとか悪いとかの話ではありませんよ。文章は用途、使い方で決まる、意味を与えられるものですから。どちらかが正しいわけではありません。ただ僕は後者の構造を考え方のベースとしてやっている。後者をベースとしてこれからずっと議論していきたいなということです。
この場合の直接性・間接性を、さっきの日本文化の例で考えて見ましょう。歌舞伎役者の場合は、「私が日本文化を国際的に紹介する」の「紹介する」が「参加する」なんですよね。彼は動詞に直接関わっているわけですから。参加することによって、紹介する。評論家の場合に一番典型的なのは「紹介する」が「観察する」なんですよ。外から見て「観察・観測する」、つまり、見てとってしまうんです。このとき「観察する」ということ自身が、どういう意味で、「参加する」になれるのかが重要になります。そして、僕自身がずっと気になっていることは、「考える」ことが、「参加する」になるためには、どういうことをすればいいか、それはどういうことなのか、ということです。
先ほどの文章構造にのっとれば、「考える」結果として、余りとして、「私」は出てくる。……ついつい「私」を最初に立ててしまいがちですが、それは私たちがそういうふうに言語に意味を与えるほうが当然有用だったのだからです。だからしょうがない、なかなか抜けられない。でも、「考える結果として、余りとしての私」という視角をとりましょう。このとき、現実性という問題との関係がでてきます。
前回、直接性ということを強くこだわった理由の一つに、現実という問題があります。ドイツ語では「Wirklichkeit」、英語だと「actuality」でしょうね。他に「reality」というのが別にあるけどね。これは語源が別なんですよ。詳しくは調べていないんですけれど。「reality」の「res」はもともと「esse」ですから。essence(本質)と同じ系統の言葉なんですよ。存在、物、延長して広がっているそれの本質です。その一方で、「actuality」は「act」、これは動き、働き、目のまえで行われていることです。「actuality」の方が、僕の直接性に近い。
で、actualityとしての現実性と直接性がどういうふうに関わっているのか、という問題が当然入ってくるわけです。
通常は「私」と「××」の距離として直接性をとらえる、という話をしました。つまり最初に「私」があって、「私」から「××」まで行くには距離がある。この距離が近いか近くないか、ということで、直接か否かを言うわけね。だから、こういうことがあります。僕が手のひらで、机を、ばん、と叩く。これは直接叩いていることになります。また、こうやって傘で、机を、こう叩く。このとき僕は机を間接的に叩いていることになります。間に傘が入っているから。「直接/間接」の第一義は、ふつうこれですよね。だから、mediate(間接)の「media」は「間、中間、媒介、差し挟まれたもの」です。直接はimmediate、間に挟まっているものが無い(im-)と表記されます。
しかし、物理的には距離があるから間接だって言うけど、いま僕が傘で机をバーンって叩いて怒られたとする。そのとき、いいえ僕がやったんじゃないんです、傘が悪いんです、僕は直接関わっていませんって言っても、誰も信用しない。この場合は、僕は直接、机を叩いていることになるわけですよね。
どうしてこういう二つの言葉遣いができるのか? 言葉を使う観点が違うからですよ、とウィトゲンシュタインが言っています。何が違うか。この場合は距離という概念を使う観点です。私たちは、小学校から習うわけですよね、二本の立ち木の間が何メーター離れています、これが距離です、と。だから、距離と言うと、まず物理的な距離をイメージする。他方で、僕とA君は親しい、でもB君とはあんまり親しくないから心理的な距離がある、という言い方もしますよね。いろんな意味で距離って言う概念を使います。
だから、距離や隔たりといったときに、何が隔たっているかが問題なわけです。
僕が傘で机をバーンって叩いた場合、傘は僕が何か行為をしようというときに、介入してこないんですよ。それはただ、僕の腕の延長としてあるだけです。目の不自由な人は白杖を使いますけれど、白杖の先端は彼の触覚の延長された先端だと言えます。なぜなら、傘や杖には自由意志が無いからです。これ、空間におけるなかなか面白い議論なんだけど、今は、考えるということが私たちの問題ですから、割愛しましょう。
考えることの直接性を、空間をモデルとしてやるわけにいきません。なぜか。昔から有名なのが、想像の問題、想像という概念規定の問題ですね。
カントが『純粋理性批判』(1781/1787)のなかで概念の一〇〇ターレルと現物の一〇〇ターレルの違いについて話をしています。一〇〇ターレルとは当時の大金です。銀貨が百枚あると。いまはとりあえず、一千万円の札束を考えてください。札束の色や形は大体分かるよね、厚み、匂い、手触り……そういう諸要素を考えることができます。でもそれはあなたの頭にある想像の一千万円であって、現実にある一千万円じゃありません。どう精密に考えても、頭のなかの一千万円で買いものはできません。想像されたものと現実のものの、何が違うのか。
カントは、こう答えようとしています。想像されたもののほうは概念のレベル、「悟性der Verstand」の働きのなかにある。そして悟性とは、思考の形態を全部調べることだ。それに対して現実のものには、世界との感覚における「感性die Sinnlichkeit」が入っている。これが違うんだよ、と。じゃあ、感性とは何? と聞かれたときに、彼はニュートンからの影響もあって物理な世界観を採用していましたから、それは世界と触れていることだねとしか言いようがないわけですよ。一般的感性、超越論的感性がありますと。どういうふうに世界に触れているかという問いは、彼の批判哲学の問題です。
でも、私たちはもう少しよく考えてみましょう。
今、現実に一千万円の札束があったとしましょう。一千万円の札束をこの教室の机の上に置いて帰ったら、次の日にはなくなっていることでしょう。誰かに持っていかれて。私が頭のなかで考えた一千万円の札束は、泥棒が持っていくことはできません。
また、一千万円の札束を想像している途中で、想像することに失敗することはありますよね。ばかばかしくなってやめたとか、一万円札の肖像が誰だった思い出せないことに気がつくとか、想像が成立しなくなる場合があります。この場合、想像していた一千万円の札束はなくなるわけです。現実の一千万円の札束とは関係なく、想像の一千万円の札束はなくなりうる。このとき、どこで想像したものは崩れるのか? 私の心の中の、一千万円の札束との距離において、と言うことができるでしょう。
つまり、距離というのは、逸脱という可能性、介入という可能性が認められるかどうかなんです。現実の一千万円の札束を持っていく泥棒は介入者です。想像の一千万円の札束を消し去るのは想像の逸脱です。なくなる札束と私のあいだには距離があります。
距離があるかないかを考えたときに、逸脱や介入によって、結果がabnormalになるか否かが一つの視点となります。あるいはabnormalさを吸収してくれるか否かが。
たとえば間接的なものの代表として、伝言ゲームがあります。僕がなにかを話す、どんどん伝言が続いていく、誰かが間違える、そしてヘンな伝言が伝わる。俺、そんなこと言ってないよ、途中誰かが間違えたんだよ、というわけですね。これはいい。では他の例はどうでしょう。例えば電話をしているとき、電話の向こうから、おかしいよって言われる。俺、そんなこと言ってないよ、電話線が間違えたんだよ、って、普通、言わないよね。
つまり、「××を△△する」こと、何か動作しよう・行動しようということは、本質的に、何かあたらしいことをしようということなんですよ。逸脱をする。介入される。その結果としての私自身も逸脱する。繰り返しますが、距離というのは逸脱という可能性、介入という可能性が認められるかどうかです。傘や電話線な場合は、物理的な介入――傘を振りかぶったら折れたり、電話線が断線したり――がありえますが、意識的な介入は無いわけで、そのぶんだけ距離がないように捉えられるわけです。
最終更新:2011年05月28日 10:54