●因果の介入説について―agencyと、実物の札束/想像の札束の違い
僕が、そこに座っている彼に傘で殴りかかったら、彼は彼の傘でそれを意識的に止めるかもしれない。ここでagencyということを考えましょう。agency、つまり社会学でいうところの主体性です。subjectivityという語には、主観/客観という図式が染み付いてしまっているから、何かするものという中立的なニュアンスで使うagentに関わるagencyを採用します。agencyというものによって、介入が図られるわけです。agencyは同じ質に対して、距離を測る。距離というのは常に、何かがそこに介入するという可能性のことだと言いましたね。
それでは、物理的な距離とは何でしょうか。物理的な距離というのは、見てとっている距離ではありません。ちゃんと物理学者は、物理的に何か無いと距離って認めてはいけないと言っていますよ。一番いい例が、アインシュタインの相対性理論です。彼は光が走っている距離がちゃんと測れなければ、距離は測れないと主張します。普通はそうではなくて、見てとって、――まさに見てとって、空間がありますね。距離はこれくらいですね、と言うわけです。ところが、有名な相対論の列車のすれ違いの実験がある。列車の外にいる人と、光速近くで走る列車の中にいる人とでは、それぞれ時計で測ったときに過ぎている時間が違う。両者のあいだで何が違うのでしょうか。走っていることですね。光速度が一定だという仮定がありますけど、スピードに対して、それぞれが進んだ距離がずれている。距離と時間の相関に光というagencyがどのように働くかが問題になっているわけです。だから、物理的な距離に関しても、agentが介入する可能性があるかないかが重要となる。
因果に対して、介入ということはどうなるでしょうか。そもそも因果とは何か、というのが問題です。Aが原因となり、その結果としてBが起こった。離れている気がするけど、一応繋がっていると。ところがそれが因果じゃなくて、偶然に起こったっていいじゃないか。Aが起こって、Bが起こったというだけなら、それを因果で繋がっていると言って良いんですか? というのが、議論の種だったんですよ。
例えば、デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)。カントが『プロレゴメナ』の序説で、「ヒュームの警告が、まさしく、はじめて私の独断的まどろみを破り、私の探究にまったく別の方向を与えたものであった」と言っていますね。ヒュームは、私たちは因果なんて分からない。私たちはただ見ているものがあって、AとBが続いてあるというところしか見ていない。ところが恒常的にそれが起こると、そこに因果を見てとってしまう。もしくは因果を、夢想してしまうんだ。ということで、因果ということをhabitat、私たちの条件付けられた習慣であると、考えたのがヒュームなんですよ。それはちょっといくらなんでも無茶な……、と普通は思うでしょう。カントもやっぱりそう思いました。カントは若い頃、地球がどうやってできたとか太陽系がどうやってできたとか、物理学の議論をやっているのですが、そういう物理的な世界、人間がいない世界で、誰も見ていなかったら因果は成立しないのか。それでは、物理学が不可能じゃないか。それはまずいだろう。という検討があって、カントは純粋悟性概念という十二のカテゴリーの中に因果を入れました。
ところが、じゃあ因果はやはり成立するということでいいのか? という問いがずっとあったわけですよ。カントは彼の理論の全体を通して非常に心理学的な比喩を用い、かつその世界は超越論的観念論と呼ばれる世界だから、いわゆる普通の科学的実在論と相性が悪い。(厳密に言うと、本当に相性が悪いのかという問題はあるんだけど、通常悪いと言われている) だから因果についてもう一度検討しようという話になり、20世紀初頭に出てきた分析哲学のなかで、因果に関する言語分析をきちっとやろうという話になってきた。
AがBの原因である、Aが原因だとBが結果する、「A cause B」、「AがBを引き起こす」ということの分析をやっていったときに、でも、「AならばB」という文章とどう違うんだろうという話になったんですよね。「AならばB」、「AがBを引き起こす」。形ほとんど変わらないじゃん、と。細かい議論は分析哲学を勉強すると分かると思うんですけど、ほとんど同じ話だと。差が無いといった話までした人がいるんですよ。だから、因果は論理なんだと。物理の世界の話と論理の世界は違うとしたときに因果に対して出てきた話が、反実仮想でした。
これは私たちには、馴染みがない概念なんだけど、欧米圏の言語では馴染みが深い。なぜなら、現実にない仮定を置いたときに、向こうでは文法そのものが異なるからです。僕ら日本人は、現実にあろうがなかろうかあまり気にしてないんですよね、文法が変わらないから。しかし「AならばB」という言い方をするときに、欧米圏の彼らはAが現実にある場合と、Aが現実にありえない場合と全く違う文章を作らないといけないんですよ。フランス語なんかその傾向が特に強い。ドイツ語も。
どういう意味で、あるかないかが頭にあるから、厳密になります。
ふつうは「A cause B」。Aが現にある場合は「A implies B」です。
ところが、反実仮想が何をするかというと、Aが現にある場合は「¬B implies ¬A」。Aが現にない場合は「¬Adoesn’t cause B」、Aが起きなければ、Bも起きないんだよという話をする。論理学の範囲内では、妥当な論理として決定することができないですよね。マッチを擦らなければ火はつかなかった、マッチを擦ったから火がついた。と言ったときに、本当は酸素が無くても火はつかないし、マッチが水に濡れていても火はつかない。いろんな条件があるわけです。全部のことを言おうとすること困る。だから主要なものを取り出してきましょう。その前に主要なものをスクリーニングしましょう、という話になる。じつはスクリーニングという操作は凄く問題を含んでいるんだけど、とりあえず飛ばします。
「現にあるようではないことを考えよう」という反実仮想、その問題とは何か。それは、「現にあるようではないこと」ということの意味は何なのだろうということです。「現にあるようではないこと」の同一性はどうなるんだ、とか、そういう話は過去ずっとあったわけです。
それに対して、立てられたのが因果の介入説です。これは十数年前にオーストラリアからでてきたんですけど、そもそも因果という概念を独立したものとしては考えない。因果の本体はじつは、因果のnormalなスタートに対して私たちが介入することにあるのではないか。そう考えます。
これは僕の解釈なんだけど、介入説にもとづくと、反実仮想も、私たちが「現にあるようではない」としたらどうなるか、という問いになります。
反実仮想がそうなるというのは、思考で言っているだけであって、実際にそうじゃないかどうかということは、実験しなきゃいけないわけですよ。例えば、マッチを擦ったけれど火がつかなかったとき、何がいけないか。実は、火がつくこととマッチを擦ることは関係ないかもしれない。いろんな付帯状況を確かめて、それを細かく分けなくてはならない。その作業をいままで私たちは、実験や経験を通して行うしかなかい。そうしたときに、そもそも私たちの介入、限定、状況の選択ということが「マッチを擦ると火がつくという因果」そのものを作っているのではないか。因果という概念を理解するためには、私たちが介入しうるということが重要なのではないか。そうすると、さっき言った因果って言うのは、私たちが行為的に介入するagencyがどうなっているかなんですよ。
今の議論だと、原因から結果といったときに、原因と結果があってこうなるというのではなく、まずAが起こっている、そしてBがある。Bがどういう性質かによって、Aが原因といわれ、あらためてBがAに引き起こされた結果といわれるわけですよ。agencyとしての私たちがBの性質を測ることで、それらは原因・結果と言われる。途中にAが介入することによって、AがBに影響しうるから、「AがBを引き起こす」という言葉を使えるわけです。
つまり、最初に原因・結果というものを立てて、それぞれの性質があるかないか選ぶのではなく、起こっていること、このagencyは何かということを問うなかで、原因・結果を当てる。こういうふうに介入説を考えることができます。
一般的に、介入というのは距離の議論だということをやっている人は、多分いないと思うんですよ。なぜかというと、「因果をどうする?」という問いから来ているから。「因果とは何か?」という問いにいかない。ただ今言ったように、距離が何であるかということと、agencyということを組み合わせることによって、「agencyは同じ質に対して、距離を成立させる」ということが出てくる。そうすると、心的因果(Mental Causation)ということも分かるわけです。心的因果、つまりどうやって心が動くんだろうかという問題については、ロックが「タブラ・ラサ(tabula rasa)」と言ったり、デカルトが、それは物的因果とは異なるという説明をしています。ではどこで心的因果は成立するのか、というとみんな困ってしまう。対象はある。では因果はどこにあるのか、と。デカルトは、脳の奥の松果体だ、と言い出した。いまも、心身因果は、心身問題・心脳問題として扱われています。
でも、心身因果の因果って何? って、誰も言わないんですよ。因果ってこういうものでしょ、だから心身においても同じでしょ、って先に因果をたててしまうんですよ。それはそれで非常に重要なわけですけれど、ここには問題がある。どこかで使った「因果」を、そのまま心身に持ってきて良いのか?
ウィトゲンシュタインは『青色本』のなかで、同じ構造の問題を扱っています。ある文章で用いられていたパッチを部分的に持ってきたとしても、そのパッチがどこで使われているか、どのような意味で、どのような組み合わせで用いられたかによって、文字が全く同じであっても、そのパッチの使用法は違ってくるかもしれないじゃないか、ということです。『青色本』はヴィトゲンシュタイン全集の六巻に大森荘蔵が訳したものが収録されています。これ、ヴィトゲンシュタインが1934年のケンブリッジの講義を学生に書き取らせたものなんだよね。今度これの新しい訳が文庫で出るという計画があるそうです。『青色本』は全集でも120ページくらいなので、安い文庫本になると思います。青色本は面白い本なんですよ。ウィトゲンシュタインの後期の中心といわれている、哲学探究のベースになっています。『哲学探究』自身は、細かいものをたくさん出して、非常に読み難いところがあるんですけれど、『青色本』は講義の形式をそのまま書いているんで、読みやすいんですよ。ただ鵜呑みにしてはいけないところがいっぱいあるんで問題があるんですけど。
戻りましょう。言葉は同じだから文法も同じだから、ということで別の文脈に持っていったら意味は異なるかもしれないということを、ウィトゲンシュタインが『青色本』で述べた、という話です。だから、心身因果といったときに、どこかで使った「因果」を、そのまま心身に持ってきたら「因果」の意味は異なりうるわけです。agencyの概念をどこに持っていって、どういうふうに使うのか。違うagencyが重なったときに、それらはどういうふうに接合できるのか、などなど。
それでは、あらためて距離の概念を考えてみましょう。
一千万円の札束がなかなか考えられないということと、一千万円の札束を盗んでいくということでは、agencyの違いは何でしょうか。行為の形です。それでは、考えがまとまらないという行為と、盗んでいくという行為、その差異は何でしょうか。そして、直接性が表れるところはどこか。
後者は同質的な空間でのagencyです。実物の一千万円の札束が、実物の泥棒に盗まれていく。ところが、私が考える、一千万円の札束という表象(presentation)を考えるということは、実物の一千万円の札束がたてられる前(pre-)にあるものを考えている、という図式になります。(何の前なのかよく分からないんだけど、深入りはしません)前者のように表象を考えるということは、つまり異質なところを繋いでいるわけです。
後者は、同質のagencyが入るだけ。だからagencyが入るか入らないか、normalな状態によって、この傘が単に雨に濡れないための道具なのか、それとも杖のように使ったときの私の触覚の先端なのか、そうじゃなくてメディアなのかは、自由に変わりえます。はっと気付く話はよくあるわけですよ、道具に対して。道具自身は直接的なんだけど、でもあるとき、abnormalなものとして、道具が私に逆らうことがあるから、これが私ではなく道具だということがわかる。これは道具の持っている二重性とか、アコーディオン効果と言われているけど。
でも前者の場合は、現物に何かがあると決まったわけじゃない。一千万円の札束はなくてもいいわけですよ。通常はこの表象を言語だと思って、言語の内部で操作することができるわけです。このとき、逸脱という可能性、介入されるという可能性が認められるものとしての距離ということを考える枠はどうなるかというと、非常に大雑把なわけです。
その一方で、私は一千万円の札束を直接考えているっていう言い方もあるのね。これは志向性の議論として、ウィトゲンシュタインは『青色本』で言っているし、フッサールも議論しています。私がチョークを見ているでしょ。チョークを見ているって、何事でしょうか。チョークの映像が頭の中にあるときは、現物としてチョークが無くとも、チョークを見ているといえるでしょうか。無いときにもそれを見ることができる。だから、共通のものがあるはずだと。この言い方を錯覚論法(the argument from illusion)といいます。でもその場合の「見ている」ってどういうことでしょうか。頭の中で見ている像に対しては、〈何〉を見ているのか、という問いがあるわけです。現物も表象も同じように見ているのだったら、表象の表象も同じなの? 表象の表象の表象も?
……そうではなくて私たちは、直接に対象を考えてるんだっていうわけですよ。直接にチョークを考えているんだ。表象を操作しているんじゃない。つまり、その場合は、現物に向けて表象をいっぺんに通しているんですよ。それを私たちは指示と呼びます。しかしそのとき、私が「チョークについての認識が間違っているかもしれない」、「このチョークは正確な像ではないかもしれない」と思い悩んでしまったらどうだろうか。つまり、ここの途中でagencyが介入する可能性を考えたらどうだろうか。このとき、私がバカであるから正確でなくなる、ということは考えませんよ、私は私でまともであり、それにもかかわらず正確でなくなると。
直接的にものを考えている、という言い方をする場合と、表象を見て考えているんだよ、という場合とでは、agencyの介在が重要です。normalなものしかなかったら、直接的にものを考えていることと表象を見て考えていることの区別はつかないんですよ。abnormalなものがあるということ、それがどういうものかについてなんらかのことを知っているから、両者の区別は可能になるんですよ。これはある概念が規定されるにはその反対概念を規定しなければならないとか、Aという言葉を使うときには、Aが当てはまらない状況を考えなければ使えないというようなことと実質的に同じです。
いま、Aという言葉があるとします。「目の前のすべてにAという言葉を使うことができるのであれば、Aという言葉を使わなくてもいい」、というのはよくある議論なんですよ。すべてに対して当てはまる述語は意味がないと。でも形式的にはそう言えても、「Aが当てはまらない可能性がある」ということについては何も考えられていない。つまり、agencyが介入する可能性があること、距離があるということと、〈逸脱する〉ということ、私の〈外〉であるということがどういうふうに絡まっているかについては何も考えられていない。そうなってはじめて、直接ということに実感がもてるわけですよ。
授業の最初に出した例に戻りましょう。国際文化の評論家とパリに行って公演する歌舞伎役者の違いはなにか。パリに行った歌舞伎役者にとって、その状況はすでにnormalではないわけですよ。何が起こるかわからない。拍手喝采を受けるかもしれないし、この野蛮人! と罵声を浴びせられるかもしれない。なにかに参加するときは、この先が決まっていないわけです。この先を参加することによって作ろうとするわけですよ。その意味で直接性はオープンです。
その一方で、評論家にとって答えは決まっているわけです。既にわかっている結果や知識から、この先をnormalに解説しようとする。abnormalであることを本当は知っているわけですよ、しかしそこから目をそらそうとする、知識や図式で吸収してこの先に届かないようにする。だから、彼は間接的にしかなりえないんです。
〈私〉の議論も絡めると、〈私〉の本体が変動しないようにして、そこで使っている編み込みが換わるようにする。評論家ってだいたい偉そうでしょう? 他人から意見を言われてうーんと考え込んでしまう人は評論家として評価されないわけね。どんな意見を言われても手練手管でちゃんと枠に入っていることを示せる人が先生と呼ばれる。でも、それは枠を揺るがさない限りにおいて、間接的な語りしかしていないんですよ。
最終更新:2011年05月28日 10:55