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第02回 2010年09月27日 > 後編

●質疑応答.1 

[質問者] ちょっと先生のおっしゃったことが難しくてよくわかっていないのですが、いまの間接性のお話は、〈私〉と対象との間接性ですよね。

 いまの場合はね。

[質問者] 直接性の場合、「××を△△するという仕方(-様態)での直接性(という働き)、その結果(-効果, 余剰)としての私」という言い方が控えているわけですが、それに対応するものなのでしょうか。

 そう考えていただいて結構です。つまり、いま言った評論家の例だと、「結果としての私」まで変動が及んでこないようにするわけですよね。

[質問者] 議論の順番としてなのですが、媒介によって知ることが間接性であると。私とものとの関係が間接的であると言ったときには、そこに因果性が絡んできて――

 それは物理的な世界にける接触の場合ですね。想像の一千万円と現物としての一千万円の話には、意味的なものが絡んできます。

[質問者] 思考することがなんらかの行為である。それがものをぶつけるのとは違う行為であると。

 私たちには違うように見えますね。

[質問者] こちら側で何か働きかけて、その結果として何かが起こったということを知るのが「結果としての私」なのかと捉えたのですが…

 ここのところの直接性というのがどういうことかといえば、じつはまだ何も規定していません。正確に言うと、直接的な思考がどこからおこるか、全然わかりません。けれどabnormalな事柄すべてをいっぺんに見て取ることはありえないはずです。神様だったら一回しか起こらなかったことのすべてを見て取ることができるでしょうが、私たちはフィルターを通して見て取るようにしているわけであり、そのフィルターはnormalなものとして設定されざるをえない。私たちはnormalなものの影響下にあります。ですから、いきなり直接性そのものを考えるということは――それは目標ではあっても――たぶんできないでしょう。そうしたときに、abnormalなものを作り出して、テストするしかない。いま言われたときの私は、テストをするときの私です。このとき、反省という行為がなされる。反省という行為はabnormalさをnormalな仮定に組み込むという形でなされます。
 直接/間接というのは、いま言った構造で表わされるのですが、実際のところ、私たちはmediationを通すことに縛られているからこそ、対応させることができないんですよね。「××を△△するという仕方(-様態)での直接性(という働き)、その結果(-効果, 余剰)としての私」という説明は、概念でこう説明しているだけであって、この説明が“直接的な話”なわけではありませんから。
 これは哲学をやるときの困った矛盾です。ヴィトゲンシュタインは「言語が休んでいるときに哲学は行われる」と言っています。私たちは会話をしているとき、その会話のなかで自分がいまどういう立場にあって、しゃべるときにどのように反応を変えるかを常に調整しています。相手も変わるでしょう。あらかじめ「こう言われたらこう応えよう」と答えを用意しておくこともできますが、それでは辞書を引くのと変わりません。
 必ずしも直接性というのは行為に限定されるものではありません、ただし、私たちの行為は必ず直接性にかかわっているという話です。行為が直接性の一側面であるともいえます。

[質問者] エージェントということを考えるのであれば、反省ということも、何が行われているかが不透明になりますね。

 不透明ですよ。ただ、abnormalさをnormalな仮定に組み込むことを「反省」だと言ってしまえることが、〈私〉を一つの原点として置くという構造的な決断だと言えます。
 実際には、〈私〉というものは底が抜けています。例えば、概念のレベルではなく因果のレベルから捉えたとき、結果から、原因としての〈私〉を規定しようとすると、脳の話になります。目の前に現物の一千万円があったときに、〈私〉がそれを働きかける。そのときのagencyは何か。少なくとも物理的なつながりがいくつもあるはずで、それらの物理的なつながりを中心として、遡っていくと、感覚器官があり、神経系があり、脳があって――そして終点がどこにもないということがわかる(笑) ベルクソンが『物質と記憶』のなかで「脳は中継器に過ぎない」と言ったのはこの点においてです。ただし、ベルグソンは因果のつながりを一つしか考えていません。ベーシックに存在しているものが一種類だと考えます。つまり、「ある」ということのベーシックさ、一義性を前提としています。
 〈私〉を〈私〉として止めるにはなんらかの装置が要ります。ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラという二人の神経生理学者は、〈私〉という概念を脳から説明するために、そしてずるずると後退させないために、オートポイエーシスという概念を新しく入れました。でも彼らもオートポイエーシスを下支えするもの、決定的に存在しているものが一種類だと考えている。僕はそれを「仕方」とか「様態」という言い方で複数化したい。この複数化によって、さまざまな直接性が可能となる。それぞれが独立しているとは言いません。重なり合っていることもあるでしょう。それは後で話しますが〈忘れる〉ということの大事さとつながります。また、重なっているからこそ、組み換えができる。

[質問者]  因果性、行為、リアリティなど、いろいろな理論系が複雑につながっていてわかりにくいのですが…。

 こう理解してください。こうなって、こうなって、こうなって……という論理的な基礎付けの段階をふまえて僕は話をしていません。モザイクのように、こことここはこうつながっています、という示唆をその都度行っているだけです。存在論的なつながり、論理的なつながりについてはもっと検討しなければならないでしょう。それは地道にやっていかなければならない作業です。その作業の前にある見取り図として、こういうものを出しています。今日、僕は情報をたくさん提示してしまいましたが、それらが必須要素であることはなく、理解しやすいように随時消してもらってもかまいません。イスラム教にミニアチュールがあるじゃないですか、微細なものが関連しているんだけれど、ぱっと見たときの印象ってあるでしょう。その印象を受けてくれれば充分です。微細なところは矛盾していたり、循環したりしてエッシャーの絵みたいになっているかもしれないけれど。


●質疑応答.2

 今日のここまでの議論を整理しましょう。直接性のベースが幾つかある。まず距離という、私たちが通常表象しているものから、直接/間接という概念があるということを指摘しました。それでは距離とは何か、という問いに対しては、agencyを持ち出してきた。そのagencyの一つの働きとして介入説を入れました。カントのリアリティの話は、私たちが〈考える〉ということをどう行為に持っていくかということをやるとき、agencyの話がどのように使えるのかということの一つの例です。
 これらはいかに思考のイメージを「私が××を△△する」という形に縛られているか、ということを示します。例えば、文章を書くとき、自由な思考があって、それを言葉に直す、というイメージがありますが、そもそも思考には枠組みがある。思考の自由度は、文章の細部に、どのような名詞や形容詞、語尾を選ぶか、というところにあるように通常は思われています。が、枠組みに自由度はあるのか、という話はあまりなされません。そこにこだわって、いろいろと話をしました。

[質問者] 少し異なる角度からの質問になりますが、よろしいでしょうか。

 どうぞ

[質問者] 考えることを行為として捉えるとき、そこにはエージェントの介入する可能性があるというお話がありました。そして「考えた結果」を決めることができないと。いま、例えば私が一千万円の札束を思い浮かべるようとしたとき、行為として考えようとすると、一千万円の札束の使い道や、この教室は涼しいな、とか、そんなことよりお腹が空いたなとか、余計なことが「一千万円の札束を思い浮かべる」ことを阻害し、思い浮かべることに失敗することも充分ありうると思うのですが、それが先生のおっしゃっている、行為として考えていることになるのでしょうか?

 先ほど、原因と結果はまず先にあるのではなく、後付されるものだということをお話しました。そして、脳科学においては、〈私〉の底が抜けているせいで終点がないことが問題となることもお話しました。じつは、そういう立場からいくと、本来ベースに置くべきは、「→」なわけですよ。でも「→」には、スタートとゴールがあるかのように思えるじゃないですか。僕が問いたいのは、どういう意味でスタートとゴールがあるか、ということなんですよ。まさにいまこの状況において、これをスタートとして、これをゴールとする、ということが、「結果」として出てくることなんですよ。
 例えば原因と結果を2地点だとすると、「→」は2地点をつなぐ線に見えるよね。距離という例を出すときには長さになりますが。でも、実体として「→」があるという話ではありません。「→」は働きです。働きが、ちょっきり2地点をつなぐようになるか。なりませんね。「→」のゴールが幾つもぐちゃぐちゃと出てくるかもしれないということが、「→」の形態を表わしているわけです。しかもゴールはいわば未来ですから、開いているわけです。
 問題は、normalとabnormalといったときに、normalさとabnormalさの区別をどうやってつけているのか、という問いです。私たちはその区別を抽出したときに、それを「本質」などの言葉で表現します。いま、ここ(スタート)から僕がチョークを投げたときに、チョークは放物線を描いてチョーク箱(ゴール)に入るでしょう。でも現実には、途中で誰かが投げた消しゴムに当たって軌道がそれて入らないかもしれない。個々のケースではいろいろなことが考えられる。けれど「通常は何回繰り返してもこうなるだろう」というかたちでnormal(なスタートとゴール)ということを取り出して、それによって私たちは生きているわけです。
 ですからnormalさ、と言うとき、考えることに、いままでの反復や積み重ね――この言い方は正確ではありませんが――ある種のパターンが内に含まれていることがわかります。しかもその反復は、歴史的な時間として含まれているというのではなくて、むしろ歴史的な時間としてしか記述ができないような機能として含まれている。オートポイエーシスはいろいろ問題があるのですが、この側面をよく捉えています。単純にいえばオートポイエーシスはスタートもゴールもない閉鎖系で、ぐるぐるぐるぐると回っている円環構造をなしています。これは「→」の延長構造ではわからなかったnormalさを表現することができるわけです。
 外にnormal/abnormalの基準をたてると、どうしても2点間の長さの問題が出てきてしまうわけです。そしてその長さを測定している私はどこにいるのか、という問題が出てきてしまう。「私が××を△△する」に対して、「私が「私が××を△△する」を観察する」、「私が「私が「私が××を△△する」を観察する」を観察する」……という具合に。
 思考は、おそらく、繰り返し使えるものとして、私たちに身についています。それは神様の思考のように一回限りのものではない。しかし困ったことにキリスト教圏では、思考を司っているのは神様なんだよね。「Patris, et Filii, et Spiritus (父と子と精霊と)」のなかの、Spiritus(精霊)はドイツ語ではGeistです。そしてGeistは精神も指す語です。つまり、人間が思考するということは神様の思考が分与されているというイメージがあるわけです。だから、思考の本態として繰り返しがどのように起こっているかとか、繰り返しが機能としてどう含まれているかということについては議論があまり無いんですよ。あるとすれば、学習という歴史的な時間の形態から入っていく。ヒュームが言っているような習慣の話にしかならないんですよ。もちろん習慣は重要なんですが、では現実にあったことだけが思考のすべてを構成しているかといえばそんなことはない。それはabnormal云々という話ではなく、normalのなかでの解説の域をでないわけです。
 「→」のゴールが幾つもぐちゃぐちゃと出てくるかもしれないということが、「→」の形態を表わしている、というところに戻りましょう。このときには「××を考えている」の「××」をしぼり出すことが困難になる。しぼり出すために何かをしなければならなくなる。例えば、「→」のつなぎ方を変えたりね。その差分を、「××」を取り出す一つの手段とする。私たちには視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という感覚器があって、さらに心的なものもあるわけだけれど、それらは私の機能として、私のうちで出会うことができる。それら複数の「→」の総体があって、初めて「考える」ということが意味を持つんです。それでもGeistが、論理が、神の設計図が、まず決定的にベーシックとしてあってね、という話についついなってしまうのは、私のうちで出会うものの総体を統一するのがとても難しいからです。だから、ひとまず「決定的にある」ということにしてやっていきましょう、とやってきた。逆に言えば、私たちにとってのコミュニケーションや他者、abnormalさを、思考のレベルだけで表わすこともできたんですよ。いま言語哲学とかがやっている括りだし方の問題はここにかかわってきます。でも、現在では、脳科学や精神医学における投薬の効果などが現実問題としてからんでいるわけで、思考は、私のうちで出会うことのできるものの総体とともに捉えざるを得なくなった。
 去年、僕は評論家風に科学の影響力の強さについて、そして科学の気持ち悪さについて話したんだけれど、具体的に哲学でこういう思考の捉え方をする要素が、現にあるわけですよ。しかも科学を解説するときには、どうしても物理的因果という一本の「→」にすべてを収めようとしてしまう。科学そのものは、たくさんの「→」の出会いを作ったという点で私たちにとってものすごく大事なんですよ。ただ解説するときには一本の「→」になってしまう。この違いを私たちは知らなければなりません。その違いを、私が行為するという現場で考えていきたい、ということでよろしいでしょうか。
最終更新:2011年05月28日 10:55
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