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09年度講義 > 第2回 > 2.「見るという行為」の諸問題

目次


「神」が「運命」に置き換わった中世ヨーロッパ

「見る」ということのベースを、この三つをふまえてもう一度考えたときに、見方が違うわけです。感覚は通常、瞬時のものです。足を踏まれても、まだ、痛くない…、というトリケラトプスみたいなやつはいないよね。(笑) 理性は推理ですから、時間をかけている。でもそのかけている時間に関しての議論はあまりない。能動知性は直観です。ドイツ語では直観は「Anshun」ですが、「shun」はもともと「見る」という意味合いなんです。「見る」のに時間はかからない。
 そして、神様はいるかいないかわからない、確実なものではない、だから「知性」を棄却して新たな体系へ分けかえようとしたのが、イマニュエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)です。デカルト(1596-1650)の時代にはまだ神様はいました。カントは、神様を私たちの認識として措定する権利が私たちにはない、と言い切ります。

感覚 →→→→→→→→→→→→→→→ 感性die Sinnlichkeit

理性 →→→→→→→→→→→→→→→ 悟性der Verstand (understanding)
↑            ↓
知性(能動知性)   →→→→→ 理性mit Vernunft


ちなみに、哲学用語として使うときにはドイツ語の性は書かれないことが多いです。みんなドイツ語ができて当たり前だと思っているからなのかもしれませんが、ここでは性も書いておきます。
カントは感覚を「感性die Sinnlichkeit」、理性を、「悟性der Verstand」(前に立てる、の名詞形)と「理性die Vernunft」に分けました。「悟性der Verstand」は英語では「understanding」と訳されていて、ジョン・ロックの『人間悟性論』(1689)の英語でのタイトルは“An Essay concerning Human Understanding”です。
 この三つの分類がどこに書かれているかというと、『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft, 1781/1787)です。A版とB版で内容の重要なところがだいぶ書き替えられています。「感性die Sinnlichkeit」は感覚・経験として世界と接するものです。カントの場合は観念論のベースがありますからそれほど単純ではないのですが。「悟性der Verstand」はアリストテレスとも関係があるんですけれども、感性で得られた状況を判断の形に乗るようにするときの枠の取り方です。「理性die Vernunft」はやっぱり推理能力なんですよ。何を推理するかというと、届かないものを推理する能力です。直接に与えられない、確証できないものまでも推理してしまう。神様とかも。だから「理性die Vernunft」が一番危険である、とカントは見なしていた。だから彼は「純粋理性を批判する」という作業を行ったんです。
 では、クザーヌスからカントまでのあいだにあるのにすっ飛ばしてしまった中世では「見る」ということをどうやっていたのかというと、「神の光のもとで見る」、神の光にたどり着くために「理性」を駆使して人間が見ていく、というのが中世ヨーロッパの哲学の立場です。そのときに「なにが見えているか」というのが真理なわけです。そのとき「なにが見えているか」の基準を立てなければいけないわけですが、その基準となったのが、理論的な体系としてではなく宗教的な感覚も含めてアラビアから再輸入されたのがアリストテレスだったわけです。「理性」によって世界を明らかにしようとするシステムを整理した時代が中世です。その意味で、中世はまったく暗黒時代ではありません。理性を否定したのではなく、むしろものすごく理性を考え続けていた。ただ、そのベースに「神の光」は常に残るし、それを確証するという目的があったわけです。なにを哲学の問題にしたいか、と言ったときの一つベースであった「真理を見ること」は、彼らにとって手段でしかなかったのです。彼らは「神」を見たかったんですから。観想は、ギリシャでは「運命」を見ることだったのが、中世ヨーロッパにおいては「神」を見ることへと置き換えられたわけです。旧約聖書は妬む神だからおっかないところもあるけれど、世界全ての創造、この悲惨なる世界から救われるという原理の神様でもあった。その「神」を見ることが真理を見ることと一致したわけです。
 これは演劇のうえではドラマトゥルギーとして人に影響を与え、かつ政治にも影響を与える仕方としてギリシャではもともとありました。ギリシャはもともと祭政一致でしたが、じっさいに、悲劇詩人は非常に高い社会的なステイタスを持っていて、そのことから彼らの発言力が高かったことが窺えます。つまり、悲劇詩人は人々のパトスをかき立てるかたちで政治に関わっていた。例えばポエニ戦争 は詩人が「あいつらやっつけちまえ!」と煽った戦争ですし、ある種のエリート主義をもって世界に影響を与えるということがいっぱいあったわけです。この危険性は現代も残っているわけで、カントよりも後のドイツで、民族化運動がどれほどの虐殺を生んだかを省みればわかります。その危険性に対抗するという感覚を、知性的な上流市民である哲学者たちが持っていたということはあるでしょう。
 だから「運命」を言わなくなったときに、「真理」というものが非常に高く取り上げられた。かつ、「真理」が私たちの見なしている世界とどのようにかかわるかが問題となった。プラトンは最初は理論的な考察から出発したのですが、後期になると行為論的-倫理的な話が主になっていきます。アリストテレスは――彼は非常にいろいろなことをやった人なのですが――有名な『ニコマコス倫理学』を書きましたね。ちなみに、弁論術をやったソフィストたち、彼らは非常に教育的な側面を持っていました。空に舞い上がっているような理想から始める教育論なんかではなく、実際的な対人関係、日常的な人間の正しさを説いた。弁論術というのは単純に口先だけの話ではないんです。
 でも、やはりソフィストたちのやり方では満足できない。プラトンは「善のイデア」ということを言いましたし、アリストテレスだったら、「徳=卓越性:アレテー」というかたちにもっていく。死に対する予行演習だと。この死というのは「運命」とほぼ同義なわけです。中世ヨーロッパにおいてはその役割を神様が全部引き受けたんですね。

知的作業と技術・行為は伝統的にずっと切れていた

 ところが、だんだんと確実に、純粋に見ているかという危険性を帯びるようになってきた。
 繰り返しますが、「見る」というのは行為だとは考えられていません。だから、「見る」ということは外に向かってすることである。もっとも甚だしいのは、「運命」に対してもっとも従順であると言われるエピクロス派で、「平静な心:アタラクシア」と言っていますけれど、まったく無感動であることを説きます。例えば、会社に勤めていたらある朝倒産してお金が一銭も入らなくなった「うわあ、明日からどうしよう!」、あるいはデートの待ち合わせ場所に行ったら恋人が来なくて後日、二股かけられていたことを知った「うわあ、なんてことだ!」、これらは運命を知らなかったからです。人生を楽しむために生きなければならない。では楽しむためにはどうしたらいいか。美味いものを食おう。でも美味いものばかり食べていたら糖尿病になって苦しむかもしれない。それはまずいじゃないか。……それをどんどんあげていくと、「見る」という立場の一番の到達点は「運命」と合致するというかたちで幸福に至ろうとするのが「平静な心:アタラクシア」です。ここで「見る」はふつうの意味での行為から完全に切り離されています。
 エピクロス派だけでなく、古代ギリシャにおいて、知的な探求をする人は職人階級からまったく切れているわけです。ソクラテスの「無知の知」の話 では、ソクラテスが知恵者として評判の船大工のおっさんや法律家のところに言って対話するんだけれども、彼らは自分の知っていることしか知らなくて、それ以外を知らないということを知らない。彼らは行為としての知識は持っているわけです。しかし、ソクラテスは彼らは「運命」を知らないということで彼らを貶めるわけです。
 知的作業と技術・行為は伝統的にずっと切れてしまっていたわけです。そしてその知的作業とは「見る」ことでした。それはなぜ「科学」がヨーロッパで発生したか、という第一回の講義での疑問とも関係してくるでしょう。
 ちなみに、インドにおいても観想がありますが、身体的なヨガとか苦行とかも入ってくるので、知的作業と技術・行為が完全に切れたということはありませんでした。中国でも理論的なものはすごく発達しましたが、「見る」ではなくて「用いる」が基本です。中国の神話で、三皇五帝というのがいます。原初にいた神様は伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・女禍(じょか)であった。その一人である神農は医者です。世界の最初に医者がいたわけですよ。その一方でギリシャ神話においてもともと医学の神様はいません。アスクレピオス はゼウスの私生児です。さらに言うと、古代ギリシャでは外科医の役目を床屋がになっていました。床屋のおっさんが手術していたんです。
 知性と技術・行為が切れている、というヨーロッパの特殊性はずっと残っていて、両者が再び出会うのはルネサンスにおいてです。ルネサンスは万能の天才の時代と言われていますが、二通りのタイプがいます。一方は、典型的なルネサンス人と呼ばれるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452-1519)、彼の出身階級は職人です。つまり、当時の人たちから見れば、ダ・ヴィンチは知性のある哲学者ではなく、非常に優れたそこらの職人のおっさんなんですよ。絵画にしても、すごくステイタスの高い芸術家ではなくて、注文に応じて書く、雑誌で書け書けってせっつかれている漫画家みたいなものと見なされていました。もう一方は、ダ・ヴィンチのちょっと前にいたアルベルティ(Leon Battista Alberti、1404-1472)。彼は知識階級で、技術・行為に関心を持っていた人です。ある側面でアルベルティはダ・ヴィンチを越えるほどいろいろ考えていますが、やはり思弁的だったから、実際性に即することが弱かったと。
 伝統的に切れていた知性と技術・行為が、中世からルネサンスに至って初めて一致した。しかし、一致したときに問題が起こってきた。いままでは「見る」だけだったから、「見たような気になった」だけで良かった。神様はいる。見られるはずだ。それで良かったんです。


拒否論と懐疑論、そしてデカルトの方法論的懐疑

 私の好きなスターリン・ジョークの一つにこんなのがあります。「科学とはなにか? 真っ暗な部屋のなかで目隠しをして、黒猫を手探りでさがすことである。哲学とは何か? 真っ暗な部屋のなかで目隠しをして、居もしない黒猫をさがすことである。唯物論的弁証法とはなにか? 真っ暗な部屋のなかで目隠しをして、居もしない黒猫をさがし、「見つけた! 見つけた!」と叫ぶことである」と。これはつまりロクでもないことをしているという話なんですけど。(笑)
 つまり哲学においては、見ているという保証がどこに置かれているか。つまり、一致したときに触れるということが言えるわけです。五感において見て、触れる。見ることしかできないのは幻なわけです。では、能動知性における「見る」における保証はどうなるでしょうか。保証する手段はありません。
 そこでデカルトの方法論的懐疑 が出てくるんです。「なにが確実に私たちに知られるのか」。比喩的に言えば、「なにが確実に私たちに観られるのか」。知る、というより「見る」のニュアンスなんですよ。
 ところで、懐疑論はなかなか流れが多くて、運命とアタラクシア、アパテイアの関係を考えたときに、懐疑論を考えると面白いんですよ。「観想の末にある見解をもつ、しかしそれが運命と一致しているかどうかわからない。だって保証がないんだもの」という議論がやはりこの時代にはあったわけです。だから「やめちゃえ!」という立場をとるのが、アタラクシア、アパテイアを目指していた、つまりエピクロス派とストア派です。そうではなくて、「まあ、そんなもんだよね」ともうすこしこの事態をお気楽に受け取っておこうとする人たちがいたわけです。後者の立場が懐疑論(scepticism)と呼ばれる立場です。これがじつは見るということの保証に対する「見てないかもしれない」になるわけです。
僕は非常に懐疑論的な部分があるのですが、懐疑論は哲学に対するもっとも敵になるものだったんです。でも、最初の懐疑論というのは、「アタラクシアになっちゃうと、人間はなんにもしなくなっちゃうじゃない」から始まったんです。だって飯を食うのもそれを幸福と感じてはだめなんだから。エピクロス派のアタラクシアは「感覚を楽しみなさい」から出発して、「すべての感覚を投げ捨てなさい。そうすればあなたは幸福になるでしょう」に到達するわけです。じゃあ死ねばいいんじゃないかと思うんですが。(笑)ストア派のアパテイアはアタラクシアと概念的には重なる部分があるんですけれど、ちょっと違います。「運命」に対する受け入れを考えたときに「パトスから離れる」態度をとるんです。
とにかく、アタラクシア、アパテイアのとる態度は拒否だったんですよ。でも、「まあそこんところは、そんなに真剣に考えなくてもいいじゃないか」という立場をとるのが懐疑論なわけです。アタラクシア、アパテイアは、懐疑論ではなく、もっと強い拒否論なんです。それに対する懐疑論を初めて言ったのがピュロン(Pyrrho、前360年頃-前270年頃)です。彼の思想はアイネシデモスによって紀元前一世紀ごろにピュロン主義として整理され、セクストス・エンペイリコス(160-210)によって『ピュロン主義哲学の概要』としてまとめられました。その著作は長らく忘れられていたんですが、ルネサンス期に再発見されて印刷されて一気に広まったんです。それが近代のベースとなってすごい影響を与えたんですね。
 そういうタイプの懐疑論が古代ギリシャにあって、そこでは「行為ということを素朴にそのまま受けとめましょう」ということが言われていました。つまり、懐疑論は拒否論ではないわけです。この世界は幻想ではないか、という存在論的懐疑ではありません。「現象的に私たちに与えられてくるもの、それはとりあえずある」ということに関してピュロン派は疑いません。「ある判断に固執してはならない。現象の裏側にある真実がなんであるか、ということについて論を立てるということをするな」という立場です。それは、その場その場でぱっぱらぱーに生きていきましょう、ということになってしまうかもしれない。だから、懐疑論はルネサンスの享楽的な時代の雰囲気とマッチしていたのかもしれませんね。それではいかん、と真面目な人たちは思ったのでしょう。だから懐疑論というのは哲学において最も忌避すべき相手になったんです。この傾向は、いまだに伝統的な発想として残っています。
 一番ひどい懐疑論批判は「「すべてを懐疑する」という命題を立てたとしましょう。じゃあお前の立場はどうなるんだと。お前はその命題に対して懐疑を抱いていないじゃないか」という反駁です。嘘つきのパラドックスの典型ですね。でも、そんな簡単な話じゃなくて、ちゃんと考えなくちゃいけないんだけど。


見るという行為が重要なのか? 見た内容が重要なのか?

 とにかく、ピュロン主義は判断を立てることを、よくない、というわけです。判断を基礎付けとして生きていくことは決定的な真理をもたらさない、ということを言うわけです。
ここが大きな分岐点となります。
 見るという行為が重要なのか? 見た内容が重要なのか?
 見た内容に関しては、私たちはふつうイメージで、五感のレベルで立てる。知性で観た場合は、命題、または判断のレベルで立てる。「この内容が重要である」という立場と、「見るという行為はしてもかまわない。けれど、見た内容に絶対性を与えるということをやめましょう」という立場がある。後者の立場がピュロン主義を引き継いでいます。
 ここで「見る」という言葉が行為として持っている意味というのが、非常にずれてくるわけですよ。
 「見る」が行為ではないと思ってしまっていることが哲学の源泉として伝統的にあった。正確な場所を覚えていないのですが、オルテガが引用しているフィヒテの言葉として、「哲学をするということは生きていることではない。それは見ていることだ」と。さらに、ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951)の、後に「治療的理解」という言葉で言われることですが、「哲学は擬似問題である」なぜなら、「哲学の思考は言語が寝ているときに行われている」。これは言語行為、言語ゲームとして見たときに「哲学として問題になっている議論は言語ゲームから外れている」と考えているからです。だからそうではなくて言語行為のなかに哲学をとりこもうとする計画が、後期ヴィトゲンシュタインの方向性だったと思われます。
 これまでの話で、「見る」という行為がいかに問題を抱えているかがわかっていただけたと思います。
 懐疑論というのは、「見た内容」に対する懐疑論だったわけです。それしか見るというこを考えていないもの。だから、「懐疑しつづけてもそれでも懐疑できないものを見せてやるよ」というのがデカルトの(René Descartes, 1596–1650)の方法論的懐疑でした。ピュロン派は疑ったからといって生きるのをやめろ、と言っているわけではないわけです。デカルトは懐疑論を、エピクロス派のように「見るということをやめろ」という態度であると思ってしまっているわけです。じゃあやめてみせようじゃないかというのが方法論的懐疑です。疑うことを中断するのではなくて、疑わしいものを拒否するわけです。この態度はちょっと違うんですが、フッサールの「エポケー」に近いです。ちなみにエポケーはアタラクシアに至るための判断中止という意味が元になっています。
最終更新:2011年06月05日 10:53
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