第05回 2009年10月19日 > 01

 前回はいちおう、システム論の成り立ちというところまではいきませんでしたけれど、「システム」という話がいかに納得できそうで、かつやばい話かということをお話しました。この話をどこに持って行きたいかっていうと、前も言ったけれど、科学と、私たちが哲学をするということを考えるうえで、科学がいかに陰険に私たちに影響するかということです。この前回、今回、次回の三回の講義でやりたいのは、科学をシステムとしてみるということはどういうことなのか、という話です。でも考えれば考えるほど、ますます科学というのは化け物のような感じがしてきて、自分でも困っているんですよね。

●機能主義
 前回お話したニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)は、非常に機能主義的な社会学から議論しているので、私にはものすごく相性がいいのです。システムというものを、機能という概念で考える。ただし、機能という言葉で注意してほしいのは、いま哲学の大きい分野として、分析哲学というフレーゲ、ヴィトゲンシュタイン、ラッセルなどの論理学をベースにして哲学的思考を形作っていこうとする系統があって、その系統からさらに脳化学、心理学の合流を経て「心の哲学」という分野があります。最近、大脳生理学とかと結びついて神経倫理学なんていうわけのわからないものも出てきて、某大学の某氏は三年間で一億円ぐらい予算をもらって仕事をしていますが。この分野のなかで機能主義ということばが出てきます。そしてこの場合の機能主義は非常に狭い意味で使われています。それはなにかというと心の働きは脳における物理的な機能によって実現され、それが心の本体である」という意味です。いま日本で機能主義ということばを使うと、この狭い意味で捉えられることが多いです。情報科学とかの文脈で機能主義ということばが使われるときにはぜんぜん違う意味で使われることがあるので気をつけてください。
 繰り返しになりますが、システムというのは世界にさまざまな現象があって、それらを説明するときのひとつの仕方として重要なものです。もともと体系という言い方をしていたから体系を当てはめるという形式で説明してきた。
 フォン・ベルタランフィ(Ludwig von Bertalanffy, 1901-1972)、彼はもともと生物学者です。生化学や、熱力学の発散方程式なんかを使って説明をする。ニコラス・ルーマンは社会科学者なので、社会科学をベースに考える。社会科学においてエージェントというのは人間ですから、私たちの働き全部を担わせることができる。そういうベースのうえでシステムという概念を考える。また、イリヤ・プリゴジン(Ilya Prigogine, 1917-2003)、彼もやはり熱力学を参照しますけれど、生物学ではなかったんですよね。彼の有名な理論で散逸構造論 があります。お湯を沸かして沸騰したときに、泡がぼこぼこのぼってきて蜂の巣状になりますが、あれはベナール対流といって散逸構造の代表的な例です。いわゆる熱平衡ではない不安定な平衡、動的平衡の解析をきちんとやったのがプリゴジンなんです。彼の場合だと、流体をベースにして考えているわけですね。いまあげた三人とも、みんなベースが違う。ベースが違えば、そこに入ってくる機能の質も違えば、なにを対象にしているかということも全部違う。だから、抽象化するということを言い出したのはベルタランフィなんだけど、そもそもそういう抽象化ができるんだろうかという問題があるわけですよね。ベルタランフィは『一般システム論』を書いていますが、彼が引っ張ってくるものは基本的には微分方程式の形態からでてくるもので言えそうな話にヒントを得て書いているわけです。だから、「一般」という語を使いながらも、最初から大きい普遍があってそれに適応していく一般ではなくて、実験的なかたちで一般化していこうという運動でしかできていないんですね。それはいま現在も行われている、いろんなサイエンスを普遍化していこうというかたちと似ているような感じがするんですね。
 だから、そういう意味で科学をシステムとしてみるということを機能的な立場から行うということを、次回以降、やっていこうと思います。
 さて、表現する、一般化するというときの、そのやり方というのは、当然、記号化なんですよね。


記号によって表現しなければ、一般化することはできない。そして、思考自身も記号だっていう議論は昔からあるわけです。ですから、システムとして記号を見るという発想をやっている状況をみていきましょう。一人は、チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)で、もう一人がフェルディナンド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)です。今回は実体論的なところが強いパースを使って説明していきたいと思います。
 パースは日本語でまとまった著作集を読みにくくて、勁草書房から『パース著作集』が三巻でているのですが、なにがポイントかちょっとわかりにくいかもしれない。また、パース研究者の伊藤邦武さんが書いた『パースの宇宙論』という本がありますて、なかなか見通しはいい本なのですが、パースの思想を現代とつなげる解説で、僕から見るとちょっとおかしいなと思うところもあります。
 さて、数学はぜんぶ記号のシステムです、見方によっては。またコンピュータ・プログラムもある意味で記号システムだって言ってしまってもいいかもしれない。ただ、それがどのようにつながっているかといったときに、数学の場合の機能は証明とか演繹ですよね。論理が機能性を担っている。しかしコンピュータの場合は、ソフトウェアの限りでは論理との関係でやっていこうとする反面、じっさいに動くかどうか、ということも機能性に入ってくる。だから似たようなことをしながら、違うようなところもあるんですよね。ソフトウェアのレベルでプログラムを書くと、「うん、この実例だよね」ということで終わってしまうんですけれど、発見的なほうで見ていこうということになったら 、なかなかそうはいかない。
 その記号というシステムを根本から考え直そう、きちんと説明しようという試みは伝統的に行われています。例えば中世ヨーロッパにおける「普遍言語」という考え方です。バベルの塔の神話で、人々が神様の怒りに触れる前は、みんな同じ言葉を話していたという話がありますよね。また、ヨハネ福音書は「はじめに言葉ありき」という出だしで始まりますが、世界はある意味で神の言葉による設計図から作られたものなんですよ。設計と施工の概念で作られた世界、そこにつながっている言語、というかたちで「普遍言語」という考え方があったんです。
 じっさいに十七世紀に普遍言語計画 というのがありまして、)、イタリアのウンベルト・エーコ( )がそれに関する『完全言語の探求』 という本を出していますが、この普遍言語計画には、じつはライプニッツが参加しています。ライプニッツはじっさいに、普遍言語の表現として、いまのコンピュータにおけるビットの単位を考えるような「結合法」を普遍的な記法として考えました。これは完全に操作的なものです。
つまりコンピューターの0と1だけが、パーっと並んでいるところを考えれば意味なんてものはないですからね。けれどライプニッツに対して、パースは、伊藤さんの本によると、私はアメリカのライプニッツになりたいと言ったらしいのですが、数学、電気、天体観測、いろいろなことをやって科学者としてアメリカンをアカデミーの一員になった人なんですけれども、その背後にある哲学の研究を始めたら、破滅的なことになってしまったとそういう人なんです。
彼はライプニッツのような裸のシステムを考えるのではなくて、存在一般を考える。存在すべてを一つのシステムとして考える。その形式を扱うものとして、彼は記号論、記号学という概念を考えました。ここにはもちろん前史がありまして、ソシュールが記号をシニフィアンとシニフィエに分割したことがあります。通常はここをシンタックスとセマンティックスのように言っているけれども、これはソシュール本人の言葉ではありません。ソシュールのあとで記号学の方に彼の思想を引きつけた事に由来しています。バンヴェニストが一番強いのかな。ソシュール自身は全くそういうものとして、シニフィアンとシニフィエを掴めていませんでした。ただそういう話が出てきたのかというと、さらにその前の19世紀に、言語学はものすごく興隆したわけですね。フンボルトとかグリム兄弟がものすごく精力的に研究をしたわけです。その背景にはさらにフランス革命以降の民族主義的な方向性、アイデンティティーの決定という問題があったわけです。さらにそれが決定的だったのはドイツだった。ドイツは1000年以上にわたって分裂国家だったから。

ドイツにおけるドイツ性とは何かということに関して、言語を通してやろうとしたのが、フンボルトたちの背後にあった発想なんですね。そこから言語族という概念ができて、現在ではみんな自然に思っているインド・ヨーロッパ語族などの区分が出てきたわけです。サンスクリットとゲルマン系の言葉は近いんだとかね。それが民族主義と結びついてアーリア人至上主義とかいう話が20世紀にあるわけなんですけれども、そういうバックグラウンドがあって言語研究が大量に進んだと。例えば、プラハ言語学派は、音韻論の研究を進めました。日本語でも語尾が変わりますよね。「なになにだよ」「だよね」「だっぺ」とかね。そういう変わり方の法則を大量に見たわけですよ。音韻論のひとつ上にある形態素、そういうものの記号的システムを抽象化したものがソシュールのやり方たんです。音韻には意味はまったくありません。だから差異、ある音と別の音との差異によって意味がある。記号支えるものとして、差異があるという。この発想が二〇世紀のポストモダンと呼ばれた潮流にものすごい影響を与えているからよく知られているのです。
パースはソシュールの逆です。パースはもともと物理学をやっているでした。だから現実にある記号や何かというものを見ていたわけですよ。つまり、ソシュールは差異の体系でしたが、パースはむしろ意味を機能的に考えるんですよ。意味というものを機能的に考えるときの記号論ってどういうものなんだろう。こういう問を行ったのは、パースのほかにも、アルフレト・タルスキ(Alfred Tarski, 1901-1983)がいます。この人は1930年代に論文を出していますけれども、現代の数学におけるモデル理論の考え方の開祖です。どういうことかというと、フレーゲとタルスキにおいて、意味ということは指示(レファレンス)なんです。「これはなに」という。フレーゲの考え方の基礎がそうだというのは少し言いすぎなのです。フレーゲは固有名の意味に関しては、指示がベースだと言いました。フレーゲは本当は述語の議論をしたかったので、一般名の意味に関しては、そう言っていません。一般名詞に関しても、一時的な概念を発見したのは、タルスキの先生だったレシェンフスキという人で、その人非常に面白い体系を作った人です。その人の一般化からタルスキが数学的な形式化を行ったわけです。さらにその指示という形を変数として扱うということ、個体として扱うということを提案しました。そこにはあるなりしているのがクワインとかです。「存在することはないかといえば、変更の値になるようなものである。」というクワインの有名な言葉がありますが、これはラッセルの論理的原子論と、タルスキの両方から引っ張ってきて、彼の存在論にコミットさせた形です。
ところがパースにおいてはそういう抽象的な記号論は先取りされていません。フレーゲやタルスキの場合は、抽象的な記号が先にあったわけです。フレーゲは数学を記号化するにはどうすればいいのかということを考えていましたし、―フレーゲ以前は、数学の証明なんて日常言語で書いて、たまに式が入ってくるというぐらいでしたから、どうつながっているのかわからなかった―。パースはそうではなくて現にある記号がどう働いているか。どういう意味を持ち方をするかというところからパースは発想します。
パースにおいては記号は三つの機能を持つといわれています。インデックス(index)、イコン(icon)、シンボル(symbol)です。
まず INDEX とは何か。パースの場合、記号とは抽象的な文字があって、その機能として記号がある、だから文字はほうっておいて、という話をしないわけですよ。文字をほうっておいたら文字に対して説明することができないですからね。世界全部という事は文字だって関係しているはずなんだからまず文字に対して説明しなければならない。 INDEX というのは、物理的なベースの上で何かを示唆するということです。例えば、男子トイレとかに行くと「←」と書いてある。その矢印の方向を見ると、「↑」、そっちを見ると、「→」、「↓」、そして「バカが見る」とか書いてある。(笑)何の理由もないのに、私たちは「→」の方向を見てしまうわけですよ。ソシュールたちの議論では、これは恣意的に決められたのだからとなるわけです。つまり記号支えて熬るものを切り離して考えるから、結合は恣意的であると考える。しかしパースは、現に今これがあるときに、何だかよくわからないけれどもそっちの方向を見てしまうということから始めます。理由はわからないけれども因果的な何かにおそらく生物的なベースがあって、したがっているんだろう、というふうに想像したんでしょう。とにかく元にある記号に関してはそうであると。
次はイコン。イコンというと神様の似姿ですよね。コンピューターでいうと、アイコンですよね。デスクトップにゴミ箱の絵が描いてある。それがゴミ箱の機能をもつ。つまり形が似ているわけですよ。これも非常に曖昧なんですけれども、とりあえずは見た形。もともとは東方キリスト教において神様の似姿を書くことだったんです。つまり像ではなくて絵だったんですよ。ところがイコンに対する崇拝は、偶像崇拝ではないかという大問題があって、いやイコンは偶像ではなくて象徴なんです、などという議論が中世にはあったわけです。プロテスタントがわかれたときにさらに問題になります。今でもカトリックの方では、イエスが磔刑になっている十字架があるけれども、プロテスタントの教会では十字架はあっても、イエスはいないことが多いです。なぜなら聖書の言葉を通してのみ真の結合があるから。それ以外の象徴は、すべてまがいものの可能性がある。原理主義的な宗派ではそういうものを一切否定するというところもあります。ルター派のほうはカトリックに近いところがあるんだけれども、カルヴァン派のほうがそういう傾向の強さがあったわけです。ヨーロッパでは、さっきの記号系のひとたちが出てきた位置に、フランスから追われたユグノーたちがオランダや北ドイツなどに追われてきたという経緯があります。そういう影響が哲学の根本的なイメージを作っています。パースは、かなり微妙な人でして、アメリカルネサンス、つまりエマソンなんかから来ている流れに入っている人です。ご存知の通りピルグリム・ファーザーズがイギリスで追いやられて、アメリカへ逃げてきた。そこですごい厳格な宗教やっていたんだけれども、だんだんそれは変だぞという話になってきて、ある種の自然神学のようなことが起こってきて、その第一人者が詩人であったエマソンなんですよね。
エマソンの影響をパースは非常に受けている。だから神学を含めたアメリカ独自の思想を形成しようという発想が、彼には強かった。だから、ヨーロッパのイコンをめぐる経緯についての縛りがなかったわけです。
シンボルはこの場合なにかというと、訳すとすれば、象徴ですよね。これが狭い意味でソシュールたちを言っていた記号の位置にあるわけです。つまりある言語の意味はこれを表しているよということなんですね。問題は何を表しているのということです。記号は記号をあらわす。これがパースの発想です。ふつう、記号は意味を表します。
前にお話した通り見るということは見られた世界を表す。見た内容は実在の世界を表す。記述は書かれた事態を表す。それぞれ違うものだったわけですね。事態ということに関して行為的に記号が記号を表す、というのがパースの非常に面白いところです。哲学において、見るということは、心の内容を認識という形式で得るわけですね。認識内容、それはなにを表しているかというと、世界にある存在、事態、事物ですよね。異質さということに対して、前々回まで「見る」というかたちを、何かをなすという行為の一部として考えようということをやってきました。そのときに、目の前にあるものがそのまま認識される―イギリス経験のロックは「タブラ・ラサ」という言葉でそう考えたわけですが―そうではない。いろいろこちらには能力があるわけだから、ないことをつくり出ししまうことがある。そういうことはないようにしようと努めたのが純粋理性批判を書いたカントだったわけです。いや、それでも私達は世界の中にいるんだから、どう関係しているかはもっといろいろあるわけじゃないか、と考えたのはドイツ観念論でした。そのときにここのところを一致させる方向で、行為のほうからダイレクトにいこうとしたのが、フィヒテの「事行」でした。
ところがパースをこちらの方を世界全体だとみてしまっているわけです。
記号が記号を表すんですから。行為という概念ではないわけですよ。ある意味で通常は対象となっているシステムを世界全部に広げて、しかもその外側がないように考えている。だからここは同じような構造をしているにもかかわらず、
最初システム論について説明するときに、ニコラス・ルーマンとベルタランフィについて紹介しましたが、彼らはベースが違うから似ていることを言っているにもかかわらず、大事なところがすごく違う。フィヒテとパースは、2人とも、すごく思弁的に頭がいい人です。フィヒテは、『全知識学の基礎』というこんな分厚い本を書いていて、パースはすべての思考体系をまとめようとした体系家だったわけですよ。本当に構造的には良く似ているのに、中身はぜんぜん違う。
じゃあ、この事どうやって可能なんだといいたくなるわけです。記号はこの三つしかないと考えたくなるのですが、そうではない。この三つは契機なのです。どれかが強力になることがあるけれども、現実にある記号は、必ず三つの契機のいくつかを持ってしまう。だから、「→」だって、矢のイコンだと思う人がいるかもしれませんし、数学のベクトルの表現であると考える人がいても全く不思議はないわけです。また見ろという指示ではなくて、ある動きを表しているのかもしれない。
そう考えていくと、前回話した例に似ていることがわかりますね。オースティンの言語行為論に。言語行為には、三つありました。発語行為、発語媒介行為、発語内行為。これは僕の意見で学説として言われているわけではありませんが、オースティンを例にすると、発語行為は、イコンに似ているわけですよ。音を出して、音を口真似する。発語媒介行為は、物理的に動かすインデックス。発語内行為はシンボルです。特にこれが言語的であるというところから象徴という概念がつねに問題になり、その象徴という事が記号が記号を表しているという内部的な循環性を支えている部分になるわけですね。ではどうしてパースはこのような形を発想することができたのでしょうか。何を持ってこういうことを考える基礎としているか。それは実は彼の存在のすべてを扱うという記号学の基本的なカテゴリーを作ろうとしているわけです。
最終更新:2011年06月05日 11:04
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。