第05回 2009年10月19日 > 02

●存在のすべての様態のカテゴリー
哲学でカテゴリーというと2人の名前が挙がってきます。アリストテレスとカント。アリストテレスのカテゴリー論は、判断に対する言葉でいろいろなカテゴリーを10個かいくつか作った。カントは認識内容のカテゴリーを作った。前にも言った通り、12のカテゴリー表です。判断行為から判断表というのを作り、判断表においてそれぞれに対応する内容の様態として―中身はなんでもいいんですよ。判断の様態ですから、判断内容は固定されていない―取り出したものです。その一方でパースは、存在の様態について、いきなりいこうとしたんですよ。この基礎カテゴリーがものすごく単純なんです。それは「1」、「2」、「3」です。

第一のもの そのものとしてある
第二のもの 当のものの力によって、現にあるようにあるもの
第三のもの それが媒介し、それによって互いに関係に入ることになる二つのもののおかげで現にあるようにあるもの

カントだったらちゃんと判断というベースがあったけれども、その変わり判断にしか使えないわけですよ。判断で拡張した世界である、判断対象であるかぎりの事態だから使えるんだけれども、パースをそのことは気にしないで、いきなり存在というものこういうものだということを持ってきたわけです。これらは厳密に言えば、存在のカテゴリーであって、存在者のカテゴリーではないです。ハイデッガーが後に、存在と存在者の違いということを議論しましたが、パースは基本的にはなにが存在者かということを不問にふしたうえで、存在のあり方の違いとして、第一性、第二性、第三性の議論を考えます。
第一性は中世からある実態と同じ意味です。つまりそのものとして、いかなる意味でも、他の何物にも依存しない。これが一番わからないわけです。個体といってしまっていいのかというとそうではない。なぜなら個体と言っていてしまったら、個体といる状況があってその状況に依存してしまうから。
第二性は、「当のものの力によって、現にあるようにあるもの」、これ不思議でしょ? 自分自身の力によってあるんですよ。第一のものと似ている気がするよね。でも違うんです。第一のものは現にあるものというわけではない、ただある、それだけ。第三のものは、「それが媒介し、それによって互いに関係に入ることになる二つのもののおかげで現にあるようにあるもの」ですけど、二つのものはどれだということはパースを言っていないんですよ。伊藤さんがうまく引用してくれているので、実際に読んでいただくとわかりやすいんですけれど、パースは、赤ちゃんがぱっと見た意識を仮に「見る」とするわけですよ。そのときにぱっと見られるわかれていないもの。ただそこにあるもの。そういうものをなぞらえています。原理的にそういう事ではないけれども、そういうようなもの。この感覚は、同じハーバード大学を出て、パースと家族ぐるみの付き合いがあったウィリアム・ジェイムズ―ウィリアム・ジェイムズの父親であるヘンリー・ジェイムズと、パースの父親の仲が良かったんですが、どうやらヘンリーがパースにエマソン流のアメリカルネサンスの思想を教えたらしいのですが―そのウィリアム・ジェイムズが、心理学の根本概念として「純粋経験」を提唱しています。また何もわからないということです。そこに西田幾多郎がヒントを得ているわけですけれども。それと似たようなことをパースはなぞらえているわけですよ。
話を戻しまして、第二のものとは何かというと、はっきりそれとしてあるものなんですよ。普通の意味でここにあるもの、ふつうは固体を第一のものだと思ってしまうんでけれど、むしろ第二のものです。だから、ふつうは第一のものというものを考えないで、現にある第二のものと、それに依存的な第三のものだけで考えてしまうのです。
パースの通俗的な解説書を読んでみると、第一のものは丸が一個で、第三のものは関係なんだから、二つの丸を線でつないだものだよね、としてしまうんです。そして二つの丸が、第二のものだよね、と。何となく合っている気がするけれども、実は正確な言い方ではないんですよ。つまり私達がすでにそれを見ているということが入ってしまっているわけですから、一個の丸は、すでに第三のものなんですよ。第一のものは、こうある限りの関係が抜けているとして、多分こうだろうな、と私達が推測して考えるわけです。第一のものは、起源としてきっとこうなんだろうな、として推測するしかない。
しかし存在論的には順番が違う。パースがいやったらしいのは、第一、第二、第三の順番ではないんですよ。カントが行っている通り、認識していて下に降りていって、ベースまで降りていって総合の道をたどってくる。学問というのはある状況があったときに、その状況の内部を分析していって、分析し終わったら総合して戻ってくる。つまり、分解と合成の組であると。
パースのカテゴリー論においても、分解されて、合成されると思うでしょう。そうではないんですよ。これは『パースの宇宙論』の後半に書いてあることなんですけれど、じつは、第一、第三、第二の順番なんです。第一がよくわからないけれど世界に現れるとするんですよ。それを可能にする可能態、純粋な可能態、何だかわからない。数もわからない。ここが西田と似ているんだけれども、純粋な可能態があるとしたときに、自分自身の可能性を限定していて固まっていくんです。固まっていくから固まった部分と残った部分があって―もちろん二つだけかもわからないんですが、もし二つとして現れたら、固まりきっていないものが部分的にかかわるというかたちで、自分の一部分をなしていくと考えるわけ。つまり、先に完全体ができて、あるいはすべての情報が準備されていて、そこから選びましょうという話ではないんです。今現に目の前にあるものから、関係がついている状況はわかるんだけれど、その関係がどんどん増えていくと、固まって、「結晶化する」と考えるんです。
『パースの宇宙論』にちゃんと書いてありますけれど、ここのところパースは自由というわけです。完全な可能態だから。今ある世界に出ることによって、結晶化されていって、ここのところで、完全に因果的に決定された世界となる。
パースをもともと物理学者、数学者として名前を知られていたんです。論理学では驚くべき業績を沢山あげています。その頃ヨーロッパで、同じような問題に頭を悩ませて、自殺してしまった人にボルツマン( )がいます。電磁気学では、マックスウェルという、デカルトの発想を通して四本の電気と磁気の方程式を作った人がいましたが、そのあとでボルツマンが登場します。熱の伝播の概念を考えたりして、いまある統計力学のもとをつくった人です。皆さんはエントロピーという言葉を聞いたことがあると思いますが、それを提唱したのが、ボルツマンです。つまり、「なぜ、コップの水のなかにインクをたらす、拡散していって元に戻らないのか」ということを数学的に定式化した人です。なぜボルツマンが自殺してしまったかというと、エントロピーが必ず増えるという、熱力学第2法則がわかったからです。この世界は熱的な死に向かい、最後にはなにも残らなくなってしまうのではないか、ということに考え至り、神経衰弱になってしまった。
パースの場合も、ボルツマンと同じような発想で物理学的なモデルを考えています。ボルツマンも、物理学的なモデルの中ですべてが止まってしまうと考えたわけですね。パースの場合も、自由の余地という概念が物理学的なモデルの中で、結晶化していくように考えていたわけですね。面白いのは―ここにシステム論を使うヒントがあるんですけれども―パースの場合は自由の余地がなくなるから固定化して行くと考えたわけです。その一方で、ボルツマンの場合は、乱雑になっていく。でたらめになるからなにも動かなくなるんです。
言っていることが逆でしょう。けれど、でたらめになったものを巨視的に見ると、一様なわけ。だから、一様になるということがどのレベルで語られるかによってぜんぜん話が違うんですよ。システム論において問題となるのは、システムの範囲はどこか。サブシステム、環境の関係は何か、何をそれに設定するか。そういうことが最も問題になるわけです。
そうして考えると、パースの問題はなにか。記号には宇宙というシステムしかないんですよ。宇宙全体がシステムになってしまうわけ。しかしながら宇宙全体がシステムでしかないんだけれども、それが分離していくという様子をパースは一生懸命考えた。
いまの議論からいくと、この第一のもの、第二のもの、第三のものの、大きな枠としたこのように動きます。そうすると、3は部分的ですから、常に何かとの関係にある。だからここに出てきたものも、他のものと進展していくときには、またそれ自身が新しく関係を作る。無限に増えていくわけです。
これが象徴の表れとしてでて来るというわけです。もちろん、二性においても同じことがいえるんだけれどね。パースは物理的なモデルをとくに二性の方で考えているので、因果については別の視点を取るわけですね。「関係」と「因果」に対して、因果というものはやはり存在のレベルにあるから、因果を特別であると考えているわけです。むしろこれは第一のものに近いわけですよ。それとしてある。だから神様の似姿は、イコンとしてあらわす。神様を「→」で書いてはいけない。そこにはスウェーデンボルグ主義の影響があるかもしれないと伊藤さんは個人的に、言っています。
スウェーデンボルグは一流の自然科学者であり、同時に霊的体験をした神秘主義者でした。カントも『視霊者の夢』という意見を書いています。スウェーデンボルグ自身は聖書に対して、面白い読み方をします。聖書というのは、文字どおりの内容で読んではいけない。聖書は完璧に象徴である。だから別の解釈をして、読むべきである。それは世界がどのように成長していくかについての象徴的な記号として表している。それが彼の主著である『天界の秘儀』です。そういうものの影響がパースのイコン理解に見られるかもしれない。一番ひどいイコンというのは、それ自身なんですよ。それ自身がそれ自身のイコンであることもできるわけです。
さてパースにおいては、象徴が非常に機能的なものとして考えられています。パースは本当に3という数が好きで、世界のあらゆるものに3の数を見いだします。基礎カテゴリーにおいても、記号学においても。
シンボルという形式を通してインデックスになるのだとすれば、これと同じ方法で、私たちもまた、自由とか象徴とか意味を通してこれを完成させていく。そういう見方もできる。だからパースは第二性が因果なんだから、科学なんですよ。もちろん厳密に言えばすべてが科学ですけれども、狭い意味での決定論的な科学は第二性にあるわけです。
因果が特別扱いされるのは、パースが準拠しているのが古典物理学の決定論的なモデルであるカラです。それに対して、伊藤さんは、ゆらぎがある、ということを量子力学との関係で話していますけれど、これは話としてはあやしい。



●アブダクション
パースで有名なお話は、アブダクションの話があります。パースが依拠するのは三段論法です。チャールズ・サンダース・パースは演繹(deduction)、帰納(induction)に対する第三の方法としてアブダクションの語を用いた。三角形があってその二辺からもう一回三角形を作って完全な形にするためにどれがいいですかっていう推論の仕方ね。で、問題は、矢印だから、ちゃんと矢印が通るかどうかの保証はないんですよ。演繹は「ならば」で考えるから正しいよね。でもこれは正しいかどうか分からないじゃん。

「この鳥はカラスである。この鳥は黒い。だからカラスは黒い。」

帰納の典型的な例ね。
次はアブダクションの例を出してみます。

「(1)犯人は現場にやってくる。(2)Cくんは現場にやってきた。(3)Cくんは犯人だ。」

これアブダクションね(笑) 厳密な三段論法は特称なんで、だからアリストテレスは「これは」、つまり小前提って言葉を使ったんだけど、記号的には「A→B、B→C」でいいから、特称でなくてもいいわけね。ということで、これは(2)という実例から(3)という仮説を設定するというので、アブダクションは仮説設定とか言われたりするわけです。

帰納では、例一個だけで判断するということはなくて、事例がいっぱいあってこうだよねこうだよねって判断するときはさっきの形を取るんだよね。

これは一性二性三性ということにどう結びつくのかというと、実は僕もよく分からない。パースは、僕が読んだ範囲では、「これはこうだ」と言ってるだけなんで、分からないんですが、この三つはどれも同等の価値があるんですね。でも明らかに、前が正しければ演繹に間違いはない。因果の流れに従っているので、演繹に行くってことは2なんですよ。でも帰納は、明らかに関係を産み出してますよね。カラスという第一性がカラスになるために部分が現れてくる。その関係が結びついていくという点で、帰納が3なんですよ。三性に対応する。そうしてアブダクションは何になるか。何か分かんないこいつが現れてくる、その現れの前に遡るわけですよ。原因っていうか、理由に遡る。その意味でこれは一性の発見の手段です。つまりパースにとって、論理ってのは、真なることを押し付けるものではない。ギリシャ時代において人を説得するために行われた弁論術とは発想が違うわけです。論理学ということ自体が、さっき言った、世界の運動をどう担っているか。そういうものとしてパースは考える。


パースの思想自体が極めてシステマティックだと言われるのは、システムを外から扱っているのではなく、一二三という基礎的な様相を使って、自分たちが考えることを含めて、システムで表そうと、システム的であろうとしているから。その意味でパースは記号システムを考えた。記号とシステムはイコールではありません。記号自身がそれ自身の中の理由から記号を作ってきて、システムという発想をこういうふうに出してきた。

だからパースは無理があった(笑)さっきの実例とかだって外から見てるもん。それが問題なんですよ。本当にシステムが単体なんだったら、その内部にいるやつはどうやってシステムを認識できるんだ。例えば、見ず知らずのこの人に、どうして僕の全てが通覧できるんですか。んなことわかんないでしょ。あとこの前ほっけの話したけど、ほっけの群れがどうなってるかなんてほっけは知らないわけですよ。

だから、最大の問題は、このカテゴリーそのものが、どこでどういうふうに誰に知られて在るのか。システムを統制しているものとしてこのカテゴリーが特権を持つわけです。単なる説明原理ということじゃなくて。その話が実は、シラバスに書いたときの、システムと言われたとき我々が思い出すコンピュータ・システムと有機体organismっていう概念の、キーになります。有機体なんだって定義しろって言われたら困るでしょ。これとシステムってほとんど言葉かわんなくなっちゃうんですよ。

部分とは何か。物体とは何か。岩波哲学事典の言葉を簡単に要約しちゃうとね、物体ってのは集まりだ。分割できます。全体は部分の総和と等しい。延長だからね。

有機体は? (物体とは)違います。全体は部分の総和以上です。これってシステムの話となんもかわんないでしょ? なんで有機体だけ特別なのよ。っていう話がどこにもない。有機体っつったら生命ですが、生命の定義はよけいわかんない。生物学的にこういう特徴がある、ってことは言えますけど。定義しろって言われたら困りますわな。

一時期AIのレベルで、ALってのがありましたね。アーティフィシャル・ライフ。コンピュータ・シミュレーションで、画面上で、図形がばーっと動いてるのね。それでグライダーがばーっと飛んでみたり、成長してみたりするんだけど、生き物に似てるじゃないか、って喜んでやってる人たちがいっぱいいたわけ。で、名古屋大学の戸田山さんなんかは、これはある意味で生命の、我々が、物理的に固定されてる生命じゃないという形での生命だという意味での、実例かもしれない。そう考えてみたらどうだろうと言ってたんだけど、最近言わなくなったから、やっぱり芽がなかったんだなあと思いますね(笑)

この生命を定義するために、むしろシステム論が応用されて、ルーマンの言い方をオートポイエーシスに変えた場合ね、自己と環境との差異を保つことによって、自分を保つ。差異を安定化させることによって自己を保つ。その安定化は動的な安定化で構わない。ということになるわけですけれども。それだったら生命に限んない。だってルーマンがやったのは、社会だからね。社会はふつう生命とはいわない。有機体とはいわない。

そうすると実は有機体ってのは、ヨーロッパではもう一つコノテーションがあるわけです。有機体は何かというと、中心を持つんですね。この中心が全体性を担うんです。部分を集めたものから抜き去った何かを中心が担ってると考えます。問題は、中心がどこにあるのかという問いが、有機体の場合はダイレクトに効いてくるんです。本来はシステムだったらみんな全体以上なんだから、どっかにはあるんだけど、その担い手はどこにあるのかっていう問いが出たときに、有機体という概念で典型的に考えられるのは、有機体はそれを主導するものがある、そのときに、ライプニッツがそうだったし、ある意味アリストテレスがそうだったらいいんですけど、それをアニマ、魂としたんです。その全体を担うものを魂と呼ぶ。存在物として中心を措定する必要があったんです。

機械はいくらみても中心が措定できないんですね。フィードバック機構で見た場合には。確かにフィードバックという過程そのものが、今言った全体以上であるってことを、動態性が担っているんだけど、この動態性がどこにあるのかっていう局在性が分からない。有機体って言う場合は、ふつう、局在性があるかのように考えるわけ。だから有機体の典型としての人間の中心がどこかっていう話になったときかつてアニマ、心だって言われてたものが今は、脳だっていう風に移っているわけです。だから脳というやつがなんかすごく偉いもののように思えるわけ。でも本来は、全体と部分の差があるということを、何がどういう担い方をするというのはよう分からんわけです。

パースが言ってた話に戻すと、第三性の現れという形です。しかもさっき見た動態的変化だよねこれ。パース自身も世界は展開している動態的変化として、存在論的に見ると、一から三が出てきて二に行く、っていうのを考えているわけですよ。もちろん彼自身科学者だったら、伊藤邦武さんの本を読むと、時間が先に出てきてるって話を書いちゃうんですよ。それから空間と物質が出てきて、みたいな。素材論みたいなものが出てきちゃうので、そこにはちょっと僕は……。時代的にパースにはシステムっていう発想がないから、不整合だと思っているんですけど。

とりあえず大雑把に言えば、パースはさっき言ったこの、一ということから何かがあって、三を経由して二に行く、っていうことで、ここに部分性とか自由っていうことが残っていて、それがこの、全体から部分をっていうことの総和の隙間なんですよ。パースの話は、部分がまだ全部出てきていないっていうことなんです。全部が出てきたら部分と総和が決定する。だから、因果的な結晶化された世界になるはずなんです。つまりパースの内部でもシステム論的な動態性があるはずなんです。するとパースの場合全部の思想の中心が何かっていうと、それがカテゴリーなんです。パースにおいて中心は非常に抽象的な記号のレベルでしか考えられない。

ところが生物学的とかになってきたときには固体としての生物の中心、パースの場合は相対的な中心ですよね、それは何なんだろうかという問いが当然起こるはずです。生物に対してそれなあにって言ったときに、それがどんどんバラバラになっていくわけね。帰納的に。思考・行動だったら、心があるから脳だって言うでしょ。じゃあ生物としての形態の形成、僕が手を持ってるというときの形態形成の中心は何ですか。脳じゃないよね。ふつうこれDNAですわ。遺伝物質のコントロール性。でも遺伝物質たくさんあるじゃない。

人間とか動物とかいう固体がありますが、次の有機体の段階はどこだって言ったら、細胞なんですね。organismってorganだから器官なんだよね。器官が集合して、全体以上の働きをするからorganismだったのに、中心のところの内面から来たから、organismという形での有機体と言った場合にいま考えてるのは、個体生物の次は細胞にいっちゃうんです。つまり自分では働いてない。部分は違うから。そうすると細胞間の関係はどうなってるの。細胞間はどうやって連絡してるの。細胞がシステムだとしたら。自己を保つようにしてる。内外の連絡によって。だから細胞間連絡をするときはそこんとこにベースとしての生物学的な物質とかなんかがあるからまあそこに依拠することができる。記号になったときにそれがどこまでできますか、ということになるんです。記号論になるわけです。
最終更新:2011年06月05日 11:07
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