これは僕の意見ですが、記号でないものに記号というものは乗らなければいけない。これがないと、記号システムは記号システム間としての複数性を持つことができない。何に書かれるかは分からん。状況によって違う。だからパースの場合は、こう考えたときにこういうものまで全部入れてしまったわけです。全部いっしょくたにしちゃったわけ。だから、記号ということの複数性の問題、記号システムそのものの複数性の可能性をどこに持ってくかというと、邦武さんの議論でいくと、彼は、第一性の最初のところ、宇宙の始まりなんですね。ビッグバン的な宇宙の始まり。その前の段階。そっから何が出てくるかはわかんないよ。でも一回分かれちゃったら、それはそれぞれの方に行くんだよ。最初の起源だけでどーんと起こって、あとはわーっと別れた。ただ部分的に別れてるものもあるんですよ。部分的に決定してるから。ただその部分的な決定の仕方が、どういうふうに全体に関わっているか分かるのは我々が外部にいるからです。結局。我々が外から解釈してるから。本当にこいつが内部からそれを生み出すという形の、サブな部分で、この一から三が発生するということは一切ないです。結局スタートのところだけ、理由がない、存在的に全部のレベルで発生するってところだけで、彼は偶然のテーゼって言ってますけど、発動するだけで、我々が解釈するから偶然に見えるってことです。その我々が結局さっき言った第一性を、純粋経験のように見ているという、私が見ているという立場。の私がここに這い出した。これがパースが面白いと同時に僕がすごく不満なところ。
でもね、これね、パース特有に思えるでしょ。でもね、そうでもないんだよ。記号だからそう思えるんだよね。彼はこの一二三はっきりしてるから。でもね。これを、概念って言葉で置き換えたらどうなる? それから最近流行りの概念は差異で議論してるよ。哲学そのものでしょ? 哲学の、ある意味で物凄くゆるい形態。二性三性って言い方はちょっと微妙なんだけどね。哲学はそういう意味で記号、意味の間の探検になるわけです。だからソシュールなんていうのはいま言った進歩の部分だけを取り出してるから。
ソシュールってしかも言語学だからね。でも言語も二つある。共時的ってやつと、通時的ってやつ。共時的っていうのは時間平面を切ったもの、切ったって言い方をしてもいいし、時間というファクターを無視した、つまりある時間がないかのように語るという形で、構造を語る。ソシュールはこっちです。彼の言っているのは差異のシステム、シニフィエ/シニフィアンのシステムです。動態性ありません。通時に対して彼はなんて言ったか。学問無理だ。彼のやってる音韻システムと構造主義でやってる学問は通時には無理だ。ありえない。はっきり言ってます。なぜか。時間的に動いている語族の議論だからね。パースは一つの思想だったけど、語族の議論をやるためには、語族っていうシステムがどうなっているかの、システム化の議論をやらなければならない。システム化の議論ということを、
差異の体系、システム全体の内部からどうやって部分システムを切り出すのか。という異質な要素を切り出すことが必要になる。それは機能の純粋性から言って無理だ。これが多分、僕の推測でもありますけど、ソシュールがいちばんベースにしているところです。
ここではっきりした面白いことが言えるんですね。オートポイエーシスもそうなんだけど、最初からなんかいるんですね。自他とかね。でも機能的に考えたらどっから他が出てくるのよ。機能のレベルで考えたら他であるってことはどういうことなのか。自他の差異を保つってんだけど、現象学なんかでも差異って言い方をして、西田とか新田さんみたいに、[*]って言って今見てるってことが、それ自身の差異を持つものとして与えるってやつなんだけど。まず差異っていうものをどうやって出してくるんだよシステムの中で。差異って何のことを言ってるんだ。なんとなく差異って言われると、2と1の差異は1っていうみたいに言ってるけど、それはものでしょあくまでも。パースのシステムには差異っていう発想はどこにもないわけです。三性はあるけれど、三性は二つのものが誕生するというポジティブな言い方でしかありえない。差異っていう形の言葉のネガティブさはどこにもない。むしろこれと同じことが、ジャック・デリダだったら差異の体系ってことをよく言ってね、デコンストラクションっていう話に持っていったけど、それに対してジル・ドゥルーズがね、そうじゃない存在的な議論をするためには、必ずポジティブで語るべきだという言い方をしてます。差異っていうのはネガティブな語り方するけど、ネガティブなものは「ない」んだから、ないものがあることに対して何か支えになるってのは矛盾じゃないか。否定神学にもそういう発想みたいなものがあるんだけど、それから前言った無知の知みたいなものにもそういう源泉はあるとは思うんですけど、でも、あるものがあるっていう形の豊かさっていうものは、ポジティブであるはずです。ネガティブってのは何かを打ち消してるんだから。
そこの問題はどこにいるかっていうと、実は、その両方にいるのが境界なんですよ。境界っていう概念は前もって与えることができないんですよ我々は。これがいちばん分からない。ところが見るシステム、我々が見てるところの境界は見てないんですよ。分かるこの意味? 向こうは見えない。目で見るでしょ。視野があるでしょ。視野平面の裏は見えないんです絶対に。だから見えてる部分は境界があるということが分からないんですよ本当は。これヴィトゲンシュタインも言ってる議論だけど。本当は境界というのは超えなければ画定できないわけです。超えて初めて境界でしょ。ところが、どうやって超えるの。機能の内部で機能の限界を。無茶だ。できない。だから、違う機能を組み合わせることによって、ズレてるからこいつは境界だ、と認定するしかないわけです。だから異質性というのは差異というのは境界を際立たせるために本来は働くわけです。何かがあるということではなく。しかも境界というのはパースの議論から考えれば、部分的でしかありえない。絶対的な境界線というものはない。だから二性のほうがあとなんですよ。完全な境界だったら二性なんだから。完全な境界を持ってるからそれ自身の力ということができる。
この境界性という問題がどういうふうに関わっているかということが、実は、どこまで議論されているんだろうか。それが今度、有機体論から行こうとしているのは、科学というものを、行為ということから思考を考えようとしたけど、思考するということをシステマティックに考えようとすると、行為ということの有機性なんかを考えてしまうと、中心っていう概念が出てきてしまって、境界性がなくなってしまう。我々における境界性っていうことをどっかにいれなきゃいけない。という議論として今の話を考える。そうしたときに、科学というのは、やっぱりこれは思考のレベルにおいて、パースがやったように、極めて、極めてシステマティックだ。システムとして働くわけです。つまり単に人間がやっている思考内容がそうなっているわけでしょ。いろんな学問の間で。記号というのはパースの場合だから形だけだけど、概念に引きとってもそうだよって言ったのは、やっぱり概念も同じようにシステムとして動いているわけですよ。そうしたときに科学と哲学が際立って違うのは何か。それは、この境界という概念が、科学と哲学でどう違うかです。
これ僕の意見ですけど、哲学は、人の名前で境界を作り易い。ハイデガーの哲学。カントの哲学。なんとかの哲学です、ってのがいちばんはっきりした境界だよね。そうじゃなくて有機体の哲学ですっていうのは総称でも使われるし一種の証明でもありますけど、中世の哲学です、みたいな時代区分もあるよね。機能的に境界があるのはどこなんでしょうって聞かれると、実はよく分からないんですよ哲学は(笑)この人の話は昔のこの人と似ててねって話は論文書くといっぱい出るじゃないですか。誰かと誰かの対比研究とか。なぜか。機能的に類似してるからですよ。抽象的な形では機能は同一化なんですよ。じゃあそこでズレてるってのは、境界を形成してるってのはどういうことなのか。っていうと、哲学の内部じゃなくて、人間になっちゃうわけですよ。つまり異質なものをやっているわけ。哲学のシステム性っていうのは。
科学はどうか。科学もある意味でそういうところはあります。両方にまたがってしまう。特に今言った機能的な結合性というのは数学的な定式化が猛烈に効いてます。パースにおいても数学的定式による、連続の原理っていうのがあります。第二性と第三性の間をくっつけるときに使う議論なんですけど。いやむしろ違うな。第一性から第三性に入るときの分岐に関わる議論と言えるのかな。科学においてはもっとシステマティクスが組み込まれている。対象が違う。それから技法が違う。いちばん典型的なのはなぜ科学に実験と観察があるかです。しかも実験と観察というのは哲学における内省とは違います。思考以外の五感を一緒に使う形で複数の機能を使っています。だから科学においては当然境界という問題が哲学よりもはっきりしているわけです。もちろん、厳密にそうってわけじゃないですけれど、相対的に、哲学よりも科学のほうが鋭い感覚を持っています。それがシステムとして我々の行為を考える、といったときにどう効いてくるか。さらにもう一つ異質だってことを言うと、もっと後に言う事になるけどネタ明かししちゃうと、身体っていう問題が同時に出ます。身体って誰かを区切るよね。例えばベルグソンの哲学。身体があるだろベルグソン!って言い方するけど、この身体ってのは単純に物理的なものばかりじゃなくて、私の思考に対して思考とは違う働きをするものとして、当然身体は重要なしかし異質な、システムの境界を勘案することができるわけです。そういうふうに考えたときに、現象学においてシステムの議論をやろうとしたメルロ・ポンティって人はね、非常にいいところに目をつけた。って解釈することができる。ただ、いつでも問題なのは、さっき言った、理解をするということは一つの有機体になるということです。だってバラバラであるわけにはいかないから。理解という言葉は、これ今日いきなり思いついちゃったんだけど、理解の手段として普遍妥当性というのが必要なわけです。つまりある意味で中心を持ってくれ、って言ってるわけです。つまり思考のシステムを理解する、中心化するってそういうことなんです。その場所を決定するものを与えようとする。この中心化が当然アニマという意味での自我、これ反省が入るから単なる魂よりも上のレベルなんだけど、ということ結びつくことが機能的にも分かるわけです。自我があるから分かるのではない。理解という中心化の構造が必要となったときに、自我という概念とのかかわりが出てくるんじゃないか。かつそのときにシステムとの間の関係をどうするか。とりあえず一番簡単なのは、境界という概念を曖昧にしたままできるのは、モノを渡すという形で、別にすることができる。あることからあるひとへモノを渡す。渡すときモノは境界を超えている。もしあるんなら、境界を明確化しなくても超えることができる。だとすると、モノを渡すということが、この境界という概念に対する一つの選択になるわけです。モノを渡すという仕方で私と向こうを区別する。これは社会学で言えば贈与の関係と言われてることね。レヴィ=ストロースがベースにしたもの。それから渡すんじゃなくてかっぱらうというものもあるから。経済学のベースとなるような発想としても考えられます。そしてコミュニケーション論における意味を渡す、内容を渡すという概念のベースもこの形で考えることができます。だからハーバーマスとルーマンは70年代に論争したんですよ。僕はフォローしてないんですけどね。基本的にルーマンはシステム論で考えてて、ある意味で是認主義になるから、非常に保守主義になるんじゃないかと。ハーバーマスはもっと自由なコミュニケーションを考えてて、フランクフルト学派からきてる人だったから、それに対する反対の論争をした。僕の解釈ですけど、そのときハーバーマスがベースにしてるのはいま言った境界に対してのものを渡すというコミュニケーションの戦略です。システム論では境界を厳密にしないとそれができないから。だからシステム論を突き詰めていくとそこの部分の関係がどうなるか。コミュニケーションに対してコンフリクションを起こしちゃうわけですよ。それがルーマン・ハーバーマス論争のひとつの側面ではないかと僕が思っていることです。
今日あまり有機体論の話なのに生物学の話をほとんどしなかったのは僕が機能論としてやろうとしているからなんですけど、パースというのは非常に面白いので紹介したんですが、
理解可能性とシステムを同一視するということが常に有機体というシステムの中心性という概念と結びつくという効果を持つような形で我々は世界を生きています。さらに言うと、中心になるという比喩、境界になるという比喩を使ったとたん、我々は空間のイメージを思い浮かべます。でも空間のイメージってなんなの。先にあるの。だってカントは空間は感性の形式だって言ったじゃない。外的直観の形式。でもそれなのに先に空間が来てしまうということは、そこまで感性が入ってくる。それは境界の問題にも絡んでます。こういうふうに時間・空間という概念自体、ベーシックなところからの機能的な問題として、我々が依拠してしまうもの。さっき言ったようにルーマンはシステム論で社会に依存した。ベルタランフィが熱力学の構造に依存した。それと同じように我々の思考システムが空間のイメージ、日常の我々が知っている経験のイメージに依存してしまっている。これを突き詰めてしまったのが経験論のやり過ぎだと思います。
という話で時間になっちゃいましたので、次回は科学のシステム性っていうことをもうすこしやりたいんだけど、それと同時にできれば、内外っていう概念を問題にしたい。みんな分かってる気がするけど、もうひとりシステム論者のライプニッツを取り上げ、もっとシャープな内外の議論をやりたいと思います。
最終更新:2011年06月05日 11:08