第07回 2009年11月09日 > 01

 学祭だったのに知らないで来てしまいました。誰も教えてくれなかったんだよね、事務からも連絡がなく……。ちょっと風邪引きましたのでね、ますます言語不明瞭……内容は不明瞭していませんが、聞こえなかったら言ってください。

 二週間あいたので、前回は何やったかっていうと、ライプニッツのシステム論的な感覚というのをちょっと最後に触れただけでしたね。基本的にはライプニッツには、僕の感覚だと、最初に神様という第一形態、ここから因果的な世界と目的的な世界が生まれて、それぞれがそれぞれ、充足定率に従って完全に展開していくと。だからライプニッツにおいては、時間と空間という概念は、第一義には秩序の名前なんですね。時間秩序、空間秩序というのが入ってくる。それを表象における能動性、受動性っていう概念を、行儀よく説明できるかされてしまうかで能動的か受動的かを考えて、それで時間性の概念を秩序づける。それで成り立たないやつをむしろ空間的関係と考える。というのがライプニッツだった。

 んで結局、そうじゃなくて、我々が何かをやってて、運動してる、動いてる、っていう感じね。ていうところはどこにあるかというと、多分神様にしかいないわけ。今僕がなにかしたっていうけど、したから何かのついでにね、例えばチョークが物理法則にしたがってどうなるか、というような決まった秩序の場合だと、連鎖っていうのはそれぞれ独立に出来ているんだけど、まずそこで、何かしたっていう、新しいことが起こったっていうことは、基本的にここなんですよ。だからここは想像の外部なんですよ。でライプニッツは、秩序内の関係、秩序内を考えるために認識を考えるために、完全だとか不完全だとか、曖昧だとか明晰だとか、その完全なところまでいったレベルで、モナドのいちばん下まで行くんだけど、そこで初めて明らかになったところを神様が全部見て、一つに戻していくと。

だからある意味で我々が動態性として持っているもの、人間っていうのは自由の始めのほうにいるわけですけど、ここを神様にしかおかないわけですよ。であとは全部これに対して決定されているものだとする。ここを動かす可能性は常にあるわけ。だからここの理由づけを彼は、証明じゃなくて、事実として最善世界を選んだんです。というタイプの理由付けをしたんですね。で、これ逆に言うと、神様は全部先に見えるからこうなっちゃった。逆にこの秩序、とくに因果と言っているものをライプニッツは、完全に細かいところまで分かる可能性を見てたけど、現実の因果ってそうじゃなくて、因果関係としてA→Bって書いたときには、細かいところは分かんないですよ、だいたいこうだと思ってる、っていう風に因果の決定はふつう時空を使って、時空はどこまでも細かく割れるから、そこで決定ができるはずだと、これ以外はないはずだ、という風に言っているけど、そうじゃなくて、これを機能的にある効果を生むもの、効果をもたらすための条件だって考えれば、どういう効果かってことの評価、効果が同じである、条件はとりかえてもいい、取り替えることによってむしろ、因果関係ってものが固定されない様々なあいだにあるもんだと、言うふうに考えることができるわけです。だから因果関係を、ある機能面から見るという話と、それ以外に何か指定をする手段、普通これを使うわけですけど、という面から見るってことは実は、同じように見えて全然違う。これが完全に一致するっていうのはある種の理想の世界の話で、ライプニッツはその理想まで行こうとしたわけです。が、現実はそういうわけにはいかないし、科学の世界でも不確定性関係とかね、ゲーデルの不完全性定理とか、そういう概念を持ってくると、本当の意味での無限っていうことを克服しない限りはこれはとても無理なんです。で、そういう風に考えたときに、実は、中途半端で構わないけど、機能的に必要な範囲で因果の部分と目的の部分というのを割り振る形で、神様とか有限の世界に落とす。ふつう人間とかエージェントとかに対して因果関係を持っていくわけですが、こちらでは目的とかは完全に決まっているわけじゃないわけです。何かをしたい。例えばこの講義で優を取りたい。ちゃんとレポートを書いたら取れる。でも同等の手段であいつを脅してやればやっぱり優が取れる。それは、手段を変えても同じ目的が成立するわけだから、そこだけを見るといつでも変わっていることがありうるわけです。そういった有限の世界でこれを作るという立場を見たときの、機能連関という概念を考えることができる。これが前言ったニクラス・ルーマンの目的概念の、それからシステム合理性っていうホームの中の、ある意味本質なんです。そうしたときにこの運動という概念、動態性という概念が、一箇所に燦然と輝いているわけじゃなくて、様々な動態性という概念が様々な因果関係の繋がりを取り替えていくことによって徐々にできあがっていくわけです。といったような見方でシステム論のイメージを、用件を了解する概念を考えたい。

 この同じようなことが実を言うと、サイエンスとか科学を考えるときにどこでこれが起こるか。動態性がどこにあるかというのを考えるときに、これ一つじゃ困難なわけです。ある行為をすることによって何かが起きる。行為の目的とか行為の結果というのを当然選ぶ。行為性という概念もこういう風に考えられるとすれば、行為のネットワークというのは、最初から中に入った一部じゃなくて、逆にこういうことの中から、秩序をどう書くかっていうことが出てくる。科学とか哲学っていう行為を、見るという行為から、これは神様が見ているっていうんじゃなくて、中に入って考えていくってした場合に、どういう風なことが起こるか。そういう実現として、科学というのを考えていくならば、それの持っている構造が、同じような立場にたって我々の行為に対してどう影響してくるか。というところを考えていこうというのが僕の課題です。

 けれども抽象的に言っていても分かりにくいし、具体的な例として書こうとすると、これがまた科学がどの範囲なのか、しかもこれでいくとまた問題が起こっちゃうわけね。つまり科学の議論をするときに誰が科学をしているのか。科学者だろう。でも、科学者が科学を全部知っているとは限らない。この間、ある人が医学系の研究室を尋ねた。何をやっているかというとサルの研究をしている。サルの脳をあけて電位差を調べている。MRIとかが嫌いだから脳をあけて直接電極を差し込んで実験を行うわけです。サルにある課題を与えて、鏡見せたらこっち見て驚くとかね、なんかものを出すとか。そんときに起こる電位をずっと測り続ける。何年も何年もそれをやり続ける。何が出てるってデータが出てきているだけなんです。こうやると電位がこう変わりました。っていうのが膨大な量が出続ける。で、これで何が分かるんですか。って俺の友達が聞いてしまったそうです(笑) 「何か分かるはずです」「何が分かるんですか」「何でしょう」そこでやってる科学者は博士号とったちゃんとした学者です。でも、毎日こうやってさ、なんかしてさ、グラフに出てくるのをばーっと見てさ、サルはこっちの真似とかしてるから隣の部屋行くと下を見だしたりとか台の上乗ったりとか、そんなこと毎日やっているわけです。さてそれがこういう意味での動態性とどう関係しているのか。ここにそのタイプの科学者を持ってきて意味ある? ほとんどわけわかんないよね。だからこことここに入ってくる動態性は常に、これ非常に広い言葉で怪しいんですけど、なんとなく我々は、なんかの意味、この意味は意味付けとか私の生きる意味とかすごく広い意味、なんかの意味があるレベルで取ってくるわけです。問題はこの意味って概念がまたよくわかんない。基本的に僕は意味についてはヴィトゲンシュタインが好きなんですけども、それでも狭すぎる。意味と重なる形で我々はなんかしてるはずだ。ある意味で神様はなんの支えもなかったから。神様はライプニッツのときには、世界がもっともよくなるように意味付けしていたんだから。充足率はそういう風に、なんか意味付けがないと人間は不安でしょうがないということなのかもしれませんけどね。

 こういうような形で考えていくと単純にこの図式を当てはめていくわけにはいかない。だから逆に、科学が実際にどういうふうになっているんだろうっていう人たちがいっぱいいたわけです。だからこの図式のほうに行くためにどういう着目点があったのか、ということを科学哲学と言われているものたちをざーっといくつか概観してなんかヒントを引き出そうというのがこれからやろうとしていることです。

 さて科学哲学という言葉ですが、Philosophical Scienceですね。で、何をもって科学哲学かといういことが問題なんです。岩波思想辞典によると、私の大先輩にあたります東北大学の野家啓一さんが、科学哲学とは何かというと、科学を対象とする哲学である、それの総称である、と言っているわけです(笑) さて問題、科学とは何だろう。何も分からない。対象にするってどういうこと? それも分からない。もし自然に関するある種の思考ということを考えるのならば、つまり自然の理論的認識なら、これもよく分からないんだけど、ほとんど全ての哲学がそれになります。タレスの時代からだいたい理論的認識となると自然哲学がだいたいのベースだし。世界を理解するってこと、宗教的にではなく理論的ってなると本を書いちゃいます。特にアリストテレスは『ピュシス』って本があるみたいに自然学・博物学のほうが主になるわけです。彼はこれをすごくやったわけですね。また当然のことながらデカルトは解析力学のもとになるようなことをやって、カントは当時広まっていたニュートン力学とユークリッド幾何学を結びつけるために『純粋理性批判』を作ったって言っているんだから、カントだって科学哲学やったことになっちゃうわけです。なんでもかんでもこれになってしまう。そうではなくて科学哲学と言ったら16世紀からのいわゆる科学革命と言われるルネサンス以後起こったある種の知の体系を科学と考えて、かつそれに対して、もう少し科学の制度化とか、コペルニクスとか色々あるんですが、この制度化も微妙な言い方で、社会的な何か知らねば分からないもの、個人がやっているものじゃない何かとして紐帯が結ばれるわけですが、この段階の科学に対して、対象化しているという風に考えていいだろうと考えられます。カントも入らないことはないんだけど、彼の場合は科学の基礎に対する一つの提案だったから、彼を科学哲学と見るひとはいないです。また『純粋理性批判』はそう見なくても読める部分があるのでまあ言いません。で野家さんからの資料ですけど、最初に出てきたいわゆる固有の科学哲学というのは、J・ハーシェル『自然哲学研究序説』が1810年にあります。それからウィリアム・ビューレルっていう人がいまして『機能的諸科学』っていう本を1840年に書いてる。それから功利主義で有名なJ・S・ミル、彼は帰納法に対する色々な勉強をしてその正当化っていう議論をしていて『論理学体系』っていう本があります。ここらがだいたい初期の科学哲学。その後はアインシュタインがいかれたエルンスト・マッハ『力学の発展』、それからアンリ・ポアンカレ科学三部作の『科学と仮説』『科学と方法』とかが入ってたり、それと同じ時期にピエール・デュエムって言うフランスの物理学者が『物理学理論の目的と構造』1906年なんですけども、このへんが現代の科学哲学に直結してきます。デュエムは1906年なんですが、後にクワインがそれを取り入れてデュエム・クワインテーゼというような概念を出すことになります。あと面白いのは、どこで科学哲学という講座ができたか。どうもウィーン大学が早いらしい。1895年にはあったらしいです。あと野家さんの宣伝だから分かるんだけど、東北大学は1913年にはあったそうです。

 問題は科学哲学に二つのパターンがあるということです。機能面を強調したんだけど、このとき問題は対象っていう概念が何かなんですよ。機能における対象とはある機能を担っている、そこで機能が実現されるという側面から働くわけです。ところが対象を実体として見る、実体はそれ自体として存在しているという中世以降の定義があるから、それ以外の機能の可能性を常に含んでいるということがあるのね。対象を考えるとき、機能と対象がイコールかどうか分からない。ある意味で機能は対象に影響されているし、機能が実現してその結節点として対象が現れる。でも対象があるからといって機能が決定するかは分からない。それが分かるという想定が全体性を基礎づけます。神様は分かるということです。近代西洋哲学・思想において、全体性の計画の中から、対象の内在的本質が分かる。内在的本質に従って思考しているんだというのが、神様モデルからずっと来てたんですけど、レヴィ=ストロースが『野生の思考』で、んなこたねーよ、という例を見せたのがあります。

 科学哲学が科学を対象にするといったときにどう対象とするのかが困るわけです。やり方はしょうがない。科学があるんだから。なんとか学の哲学。これはよくあるパターン。なんとかに入るのは例えば数。数学の哲学。それから物理。実は大学の哲学ってあんまりないんですよ。非常に難しくて。最近のはやりなのは生物学の哲学。ほとんど自然系なんですよ。人文科学だったらどうなるの。経済学の哲学って言い方をするの? いまでもそうじゃないの。特にマルクス主義経済学なんて経済学の哲学そのものですから。あんまり人文科学ではやらない。法学ではあります。法哲学。でも法哲学は法学の特殊な部分って感じ。それから社会学。これは、実はこれは最初から諸科学の科学であることを目指したんです。なぜなら、社会は全ての営みとしての科学の現象を集めたものの総体だ、社会に対する科学は当然その一部である科学に対する科学だ。というんで社会学の哲学。という言い方は、最近はするかもしれないけど、もともとの構想からすると転倒した言い方です。社会学こそが諸科学の哲学である。べきであるというのが、19世紀末から20世紀への組織化されていくころのベース的発想です。あとは、哲学の哲学というのはこれはないんですよね。流行だったのは数学の哲学。これはいわゆるヒルベルト・プログラムに代表される1910年代の数学基礎論の勃興に対するものです。物理学の哲学は、いちばん有名なのはアインシュタインの相対論をどう理解するかということなんだけど、その前にも少し厄介だったんですよね。19世紀の熱力学、ボルツマンがいったエントロピーの増大、世界が死んでしまう……、耐えられなくて自殺したっていう説もありますが、それに対してどうするかっていうことで物理学の哲学は物理学者がやった。生物学の哲学は、例えばダーウィンの進化論が強い引き金になったんですけれどもそれをダイレクトに哲学の方に応用したのは社会学の方です。結局はDNAなり神経系に関するなど操作系に関する理解が進んできたことによって、どうも操作的じゃないものに対して俺たちが持っているものとどう結びあわせたらいいか、というのが出てきました。なんとか学の哲学が起こる状況っていうのはたいがいはっきりしてて、我々が科学を理解するときになんとなくわかってる感じってのがある。これがそのときに出てきた科学と結びつかなくなる場合。齟齬が起こる場合を科学がうちだしてきて、かつそれが科学的な成果としてきちんとした位置を確保してくる。このときになんとかの哲学が巻き起こってくる場合が多いわけです。裏返すと、なんとか学の哲学と科学哲学が目指しているのは基本的には理解だと。理解の改変なんです。どういうふうに理解したら我々はそれを受け入れることができるか。というのがなんとか学の哲学が起きるときの状況です。

 これ以外の科学哲学もありえます。なんとか学の哲学というタイプともうひとつ、もっと別のタイプがある。それは、科学の制度に対する哲学。分かりにくいかもしれないですが、いちばん簡単なのは、科学と疑似科学を区別する基準。有名なのは京大の伊勢田くん、彼が疑似科学に関する本をいくつも書いてますが、いっけん科学的に見えるものが、そうじゃないそれはやってもしょうがないという風に蹴散らす。変な人がいたりします。アインシュタインの相対論は間違っている!とか。誰とは言いませんけどw それは科学的な態度ではありません、というような話をする側面もあります。科学哲学とは、個人的な理解という側面がありますが、科学専門家の場合は必ずしも理解がいらない。システムの中に組み込まれて調教されればいいかもしれないから。ある意味で科学系の学部からマスターくらいは調教の期間なんです。こういう思考の仕方をしなさい。こういう手続きをしなさい、っていうことを押し付けられる分野がいっぱいあります。理解というのはあくまでも個人のものです。ところが科学の制度というのは、社会的なサイズを持ってきたときに、予算配分をどうするか。本屋に本がたくさん並んでいる。どれを買ったらまともでどれは間違いか。資源の配分みたいな問題があります。それに対するガイドラインを作る意味での科学哲学もある。この二つをどう組み合わせるというのは、そもそも理解をどういうスタンスで考えるか。ですから科学哲学にはいろんな側面があるわけですけれども、ベーシックにはこっちです。自分の理解の仕方に対して沿ってないやつにたいして、疑似科学とかエセ科学とか、別の科学哲学に対して攻撃したりするわけです。その激しい論争が事実としてたくさんあった。制度に対する戦いでいちばん問題になったのが、生物学のダーウィン進化論に対する立場です。社会学に持って行かれたときの社会進化論。プラスの面もあったけどマイナスがものすごくあった。人種が進化するとか白人が進化しているとかだから白人はアジアアフリカを虐げていいんだとか、そういうタイプの色々な偏見と結びついた。ダーウィンにはもっとはっきりとした答えがあった。あとコペルニクスの例。あれはあんまり大したことなかったんだけど、ガリレオの宗教裁判は、宗教者の方でかなり科学精度が上がっていたのであれは問題ないということになっていた。問題は聖書との記述の整合性を打ち壊すような語り方を民衆に対してするかどうか。知的なあるサークルのレベルではこういう説が起こることは問題ない。ところがこれを一般民衆に対して教義として広めることはあかん。そういう裁判です。実をいうと、サイエンスと宗教で何が違うかというと、科学はすごく万能だっていうイメージがある。個別化するとき時間空間を使えるのですごく細かい差異を決めることができる。物理学はいちばん細かくやっているから物理学的にしか新しい差異は生まれないという話があります。これをよく言うのは、スーパーミーニアスっていう概念。果たしてこれは本当なんだろうか。科学者と話していると、科学って本当にわずかな世界しか知らないんだよ。見てるのはせいぜい物理学だったら位置と運動量だけ。質とか見てないじゃん。質が生まれてくるということは、ある理論として言えるだけで世界が保証しているわけでじゃない。何に着目しているかという科学の課題が広いかどうかは、まともな科学者はそんなにむちゃくちゃに自信を持っているわけじゃない。そうすると説明ができないものが出てくるわけです。そういうのが社会とか共同体で生きていくレベルのなかで問題になったときに、何らかの統制をしないと困るときがある。 説明するために本質が何かとかを積み上げる必要があるよね。ライプニッツの場合はこれを完全にやるようにしたわけですよ。下から。科学や数学はこれですが、これに対してもう一個倫理学がある。無限があって、我々が分からないレベルが入ってくる。でも何か方向を決めて動かなければならない。例えばゼノンのパラドックスね。無限のあいだを通らないと矢が届かないわけだ。理論的には。どう解決する?っていうとき解決ほんとは分かんない。動きましたっていう事実があるだけ。世界の現実と理論のあいだには必ずギャップがあります。にも拘らず現実に即して何とか構造化しなければならないときに、この概念、統制的っていう概念を使用します。
最終更新:2011年06月05日 12:08
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