そうしたときに意味というのは、何のために生きてるの、っていうときに、DNAを使って炭素から組み上げられてるってことから決められているわけじゃないよね。ギャップのあるこれっていうのは恣意性がはいってくる。恣意性の意味の部分を固定しなければいけない。これがいちばん危なっかしい。危険な部分です。基本的に合理的っていうのはこちら側がモデルになっています。積み上げ型だから。誰も文句が言えない。でも我々が現実に合理的か否かを非難するときにはこちらを使います。常に確実でない可能性があります。ここを何とか確実に近づけたいとしたのが、カントの『人倫の形而上学』です。教会とガリレイの差もこの次元だったわけです。この次元の意味統制、教義という形で一般民衆へ布教させることだったのでそこに対しては敏感なわけです。いろんな理論が出てくることに関してはヨーロッパの業界は非常にラディカルです。でもレラティブな次元に落とした瞬間に物凄くストレッシブになります。これがヨーロッパの宗教と科学の関係を考えるときに大事になります。宗教が頑迷で科学は開明的だなんていう図式にはならないわけです。科学もこれになるわけね。新しい分野をやったりするわけには、こういう風に完全にはできないわけです。数学の場合は証明をつくらなければいけないからいいかもしれないけど、数学だっていちばん最初のレベルで何を取るかとか、どういう話題に着目するかっていうことはこれではできない。だからこちら側のレベルが必ず出てくる。そうしたときには意味に帰ろうとするから、そのとき個人に帰れるか、個人に帰ってOKとするかが問題になるんです。システムとは個人とは限らないものかもしれない。逆に人間というレベルがないかもしれない。
そうすると、科学に対する哲学が科学と疑似科学を調べるときのベースとなるのは、二つしかないです。一つ、社会に対して功利主義的に影響がある。二つ、何とかここからここへつなぐということの、現実にできないんだけど、やっぱりベースにはこっちがあるはずだという形でこっちに行きたいというときに、どういう風に科学を理解するか対象にするかということ自体がこの哲学のベースになるわけです。コンストラクティブなものからレギュレイティブなものへいかに道があるか、現実的にはないかもしれないけど理念的にはあるだろう、と考えたときに、なになにの科学という概念から科学制度としての正しい科学へ行こうとするときに、理解を構成するところから、理解がレギュラーな理解だということになって自分の権威を主張するという構造になります。たいがいの科学哲学はこうなっています。このみちゆきがあるということをある意味で我々は合理的だと言います。それがぶっ飛んでいると合理的でないという。んなもんどうだっていいじゃないかというのが功利主義です。結果としていろんなものができてみんなが幸せになるんだからそれで何が悪いんだ、というのが功利主義です。例えば錬金術やろうってなったら、何バカなこと言っているんだ、というのが普通です。でも現代は錬金術可能だよね。原子核置換すればできるから。実際に、目的はともわれ、錬金術自体はサイエンスの発達に物凄く重要な役割をしました。そう見る限りでは、事実としての錬金術を見る限りでは、これがなかったら今現在の科学はできてません。にもかかわらず、プログラムとしての錬金術。意味を与える限りの錬金術は駄目だ。それは今は違法なわけ。そういうふうなややっこしい形がサイエンスの構造内部に入っています。
いちばんのニュアンスはどんな場合でも、こういう風に科学を見るっていうことが科学哲学になっちゃうんですよ。科学をどう理解しようか、自分的にはどう語ろうとしようかというのが科学哲学にコミットすることになっちゃうんですよ。中立的には語れないんですね。だって何が科学か分からないし決まんないんだからそうしないと。で、それが見るということで、西洋哲学では神様が見るから恣意性がないんだけど、現代では見るということが一つの科学哲学に他ならないんです。そういう意味で科学哲学は見るということ自身がすでにある種の行為であるということを内在的に持った。しかもこの行為が自分自身を変えていく。見ることが変わるだけじゃなくて社会的に影響を与えていく。という意味での対外的な功利性も常に持たざるをえない。というのが科学哲学を考える上でのベーシックな問題です。
こうやってずっと抽象的に考えても疲れるだろうから、少し歴史的に見ましょう。みんな百年あまりこうやって考えてきたんですよ。ハーシェイたちからずっと。そういうとき、こちらで考えるってことは難しいんですよ。なぜならこちら側は、ある科学の顕著な概念に対してコミットする形で理解していこうという形が多いからです。哲学は見るっていうことが行為だっていうんだけど、僕なんかも例えば時間に対してとかそうなんだけど、そうすると一般的な形になりにくい。そこで、ちょっと歴史的な観点から流れを追いながらそちらの方で考えてみましょう。どっから始めるかというとね。科学といったときに、一つ大事なのは、昔は知識人と職人が離れていた。ルネサンスでやっとそれが近づいたのがダヴィンチです。科学が成立するときには、知識人と職人、このあいだのギャップがなくなることが大事なんです。ギャップが埋まるときに何が入ってきたかというと実験なんですよ。あと実地に基づいた観察ね。物理学やってきたんで実験っていうことをいっちゃうんですけど、生物学においてはゲーテなんかがやってきた観察っていうことが大事ですから、鉱物学とかもあるからね。中世では、知識人は実験にいかなかったのね。アリストテレスの本持ってきたw 彼の本が翻訳できたのが中世だったので、それまでアラビア原典だったんだけれども、だから本がたくさん来たのでスコラの人たちがわーっと探しだしたのね。そうじゃなくて実験に戻ろうとしたのが職人たち。その二つを結びつけたのが、科学の一つの重要な定義ね。アリストテレスが、ものの落下速度は重さに比例するといった。ガリレオはピサの斜塔から木の玉と鉄の玉を同時に落としたw 今なら厳密にやればそんなことは空気抵抗とかいろんな問題があるからそうはいかないんだけど、彼は世界という書物に対して実験を試みたんですよ。この実験ということがベースに入ってくる、哲学に言い換えると経験なんですね。しかもそれが世界の経験なんですよ。この直接の置換です。こいつが哲学の知覚に関するものとしてベースに入ってこないと科学の議論にならないわけです。だから、ニュートンのときにいたのがジョン・ロックだったわけです。イギリス経験論でタブラ・ラサとか書いていた。昔は生得観念説というのがあって、それに対して観念とは何かとかやるんだけどそれは嘘だと。生得の観念はない。我々は真っ白から始まるというのがその説です。岩波文庫から『人間知性論』というのが出てるので簡単に読みます。面白いですよ。ただ彼は非常に矛盾してるんであっちこっちで別なこと言ってます。カントとの関係もあります。イギリス経験論は微妙なところなんですけど、ロックは主著は『人間知性論』だとみんな言っているんだけど、『市民社会論』があるんだよね。コミットメントのために人間の意識・知性がどういうふうになっているかということを関係して考えていた。ヒュームが数十年あとに出てくるけど、彼はもっと典型的に、因果なんて存在しないぞ、連想だとという。彼は『Treatise』っていう本を書いてますけど、そこで、完全な経験主義者だったらまっさらな知覚から積み上げてくるって考えるんだけど、彼は教育論とか英国史とかいろんな議論があるんです。本当にまっさらで、印象の重なりだけで習慣が自動的に出来てくるんだったら、教育なんて意味ないじゃない。でも彼は教育を重視してるんです。つまり彼らは実践の世界の立場から見たときに意識がこういう風に見えるから、こういう風に使わないといけないという議論をする。イギリス経験論ではのちに功利主義の強い始祖に見られているJ・S・ミルがいるけど、そこに繋がるような形で、実際我々が生きているときにどうするべきか、その立場から見たときに意識をどう考えるかと見たほうが正しい。ドイツ観念論みたいに神がどう世界を生産するかというときに観念の中で生産をするモデルだと考えるのと同じ枠組みでイギリス経験論を読んでは多分間違い。ということはここ何年も言われてます。イギリス経験論では知覚は経験が大事ですが、それが哲学の方向へはあまりいかなかったんですよね。ダーウィン自身が一つの影響を出したんですけど。『種の起源』が今年が確か百五十年かな。ダーウィンが1800年かな。これも観察からやったわけです。彼は『種の起源』では最初、鳩の狩猟をやるわけね。鳩の品種改良がどういう風に出来てたかをずっと書いてた。それから船員として乗り込んでガラパゴスの方いって、フィンチの話をやって分化を作る。っていうことでこのタイプの議論を考えました。『種の起源』は物凄くインパクトあった。だって生物って昔は神様が作ったとみんな思ってた。進化したなんて誰も思ってなかった。設計図があると思ってたら設計図がなかった。途中から設計図がその場その場で作られてた。この立場はそれまでイギリスにはなかったから物凄く影響を受けた。ここから、もう一度経験を取り込まなければならなくなった。それが実証主義なんです。現代的な科学哲学のベースはここです。経験に基づかない、還元できないものは我々にとってはまともな話じゃない。オーギュスト・コントがベースですけど、ここが一つのスタートです。ここから実証主義はさっきいった社会学の方向へいきます。全ての知識に対する制約、思考としての思考だったから、全ての知識を体系化するという十九世紀後半の発想で、コントはそうだし、ディルタイももちろんそうだし、何人もこの方向へ行きます。これは大陸なんですね。これがイギリスへ渡ります。で、別の方で数学の形式化という問題が出てきます。十九世紀後半の数学っていうのは現代の普通の数学科の先生では歯がたたない様な問題がいくらでも出てきました。リーマン予想のリーマンなんていうのも十九世紀後半で全部出てるし、フェルマーの定理はもっと前だしね。だいたいこの辺で多様体論とか解析関数複素関数論、十九世紀後半で解析関連のものは全部出てきてます。二十世紀で新しくでてきたのは位相幾何学とか集合論とかは位相関連のものです。ただそのころは整理されてなかった。数字で書いてたからね。それを形式化して整理しようとした。それをやったのがフレーゲだったのね。彼が現代的な記号論を発明します。この二つの流れがイギリスへ渡ったときに、分析哲学のラッセルとホワイトヘッドによって、『プリンキピア・マテマティカ』っていう本ができました。自然哲学の数学的原理という本は、ニュートンの例の本です。それの半分あたり、数学的原理という辺りはラッセル、ホワイトヘッドです。これは現代の数学をフレーゲから派生させた理論によって全て論理的に導こうとした理論です。それと同時に数学の形式化ということでドイツでこれが万学化するんですね。ドイツでは数学に全部科学に統合しようという動きがあったんです。例えばヘルマン・ワイルっていう、『空間・時間・物質』っていう本がちくま学芸文庫に入りましたけど、これは相対論の数学的な記述を全部書いている本ですけど、ワイルが所属したのがベルリン大学の数学科です。つまり、物理学を応用数学だとして数学に集約しようとした。数学が独自の学問だっていう発想がなされない。理論の中心で、本当は実証があったのに、理論がどんどん発達してこういう話が出てきて、ある意味で、理論の先行性が凄く強くなる時期があった。だから物理学っていうとみんなが思い出すのはまあアインシュタインの影響が凄く強いんだけど、理論なんだよね。ノーベル賞とった小柴さんみたいに飛騨の山奥にでっかい水瓶作って空から宇宙線降ってくるの待ってピカっと反応した、っていうのをあまり科学など思ってない。みんな数式わーっと書いてさ、科学が凄いんだっていうイメージが、少なくとも僕らの子供のころはありました。日本はドイツの科学をよく輸入していたしね。
この二つの流れから、現代科学哲学では最初に出てくるものとして、論理実証主義がある。実証主義なので経験がベースなんですが、これがプリンキピア・マテマティカをベースとする論理学の形式で表せるべきだというものなんですよ。かつ実証とは経験です。つまり経験が論理の形式で全部書けるべきであるという。これは二つの流れがあって、一つはウィーン学派。ヴィトゲンシュタインの影響はありますけど彼はここには入っていません。有名なのはオットー・ノイラート、モーリス・シュリック。この人はウィーン大学で戦争始める前に精神錯誤の学生にピストルで撃ち殺されたんですね。いまだにそのイメージがありますけど。もっとも有名なのはルドルフ・カルナップです。彼がこれを本気でやろうとしてでかい本『Logische Aufbau』世界の論理的構成を出そうとします。立場はどんどん変わっていくんですけど。あともう一つベルリングループがあるんですね。ベルリンにはこれがあるんですよ。つまりだフィット・ヒルベルト。それからフェリックス・クライン。このクラインは非常に偉い人なんだけど、ポアンカレと同じ立場にたって、いままで空間の中で図形を書くと思っていた幾何学という概念を、変換をする移り変えるという風にした。そのときに普遍で保たれるんだということが幾何学の対象であって、変換群という発想でもって代数と結びつけたんです。それで幾何学を展開するというプログラムを考えたのがヒルベルトとクラインです。で、これが後に構造主義、レヴィ=ストロースとかと対応する一つの元となります。この二つのグループが合致する形で未だに残ってる、っていうか再開したんだけど、例えば重要な雑誌で『エアフェンドス』っていう雑誌があるんですけどこのグループが作りました。ていうことでこれらのグループが言っていることは実証主義の立場を受け継いでいる。しかしその実証主義のベースは全て論理学の言語で書けなければならないといったのが論理実証主義です。しかしいかにも無理がある。
これに対して無茶があるぜという立場が科学哲学の内部で三つあります。まず批判として一つめはカール・ボパーの流れを引く批判的合理主義の立場があります。これは単純に言うと、内在的な批判でして、あっちは経験主義だから元にあるのはロック的な発想なわけ。センス・データって言葉があるけど、ラッセルが使ってカルナップが引き継いだんだけど、チョークがあるよね、でも視覚にはチョークっていう言葉はないわけよ。ある種の光の波長はあるけど、チョークっていう単位をベースの経験の記述に使っちゃいけないんですよ。いちばんのベースを確定するのは難しいんだけど、それを生理学とか、そういう科学を論理のレベルで書いていこうというのがカルナップの発想なわけです。経験のレベルが、感覚のレベルが要素的なものにするっていう立場なんです。あとはそこから積みあげていきまっせー。そりゃあ無茶でしょ、だって人間だって何らかの構造を背景に持っているでしょ、っていうのが批判的合理主義の立場です。ただ、批判的ってあるように、アプリオリに何かあると決定する立場は取らない。これだけで一年講義できるくらい細かいことがあるんですけど。
理解のレベルでこうしていくっていうときに制度に対する問題があると言いました。これが科学として認められるっていう基準。それが何かっていうと彼らは、論理って言うのは、文章・命題で表現されるべきだと考えたわけです。だって論理学がベースなんだからね。証明のシステムなんだから。命題において言語において何が問題になるか。意味があるかどうか。広い意味じゃなくて、命題に意味があるか。有意味な命題か無意味な命題か。ということが問題になるんです。それが論理実証主義と同時に言語哲学に関わるのね。文章の有意味性。有名な例ではラッセルの、現代のフランス王はハゲである、という文章。これ、文法的に間違いじゃないよね。ハイ、これ真だと思う人います? ふつういないよね。じゃあ偽だと思う人。どっちでもない人……は何だろうw っていう風に、そもそも有意味なのかっていう問題があるわけ。現代のフランス王っていないじゃないか。いもしないものにハゲであると言って意味があるのか。ベーシックなところでは、神様は全能である、っていってもいないじゃねえかっていう問いを開いちゃうわけです。有意味か無意味かっていう問題が命題に対して、論理実証主義を取る場合は物凄くクルーシャルになります。これに対してもいくつも有意味性の基準っていう概念は、言語哲学の方向で、分析哲学の流れでずっと出てきます。論理実証主義の人たちが、科学的命題の有意味性とは何か。それは、検証可能性。正しいことを調べることができる手段があるということ。現に正しいかは別。正しくなかったら有意味だけど偽って言えるわけね。現在のアメリカの大統領はブッシュである。これは意味があるけど間違いですよね。現代のアメリカの大統領はオバマである。これは有意味で正しい文章ね。現代の日本の大統領は小泉純一郎である。これは無意味なわけよ。現代の日本の大統領ってないから。だから検証可能性っていうのは身体じゃなくて有意味か無意味かなんです。その文章が正しいかどうかを調べられるかということ。これが言語哲学に重なっていくと真理条件意味論に重なってきます。何かが真であるという条件を明らかにするものを確定できるんだったら、それがそもそもその文章の意味だ。検証可能性そのものが有意味であるっていう基準なんだよね。言語哲学になったんでいきなり意味にジャンプしたんですけど。
それに対してポパーが有名なのは、あんなの無茶だぞという、決定実験があるかどうかが重要だったわけです。決定実験というのは、この文章が、仮説が正しいかどうか分かる、中立的に分かるっていう話なんだよね。ところがさっき言ったピエール・デュエムっていう人が、物理学でいったらそんなことねーぞって言ったんです。どこが反証されるかよく分からん、だっていろんなものが絡んでるんだから、その実験が駄目だからといってその仮説が駄目だということにはならない。後にクワインがこれを取り上げてホーリズム、全体主義を始めます。そういう批判もあったところで、これが正しいか正しくないか検証する、ピンポイントでこの仮説を決める、ということが、検証する手続き自体は科学という実際のシステムに関わっているんだから、ピンポイントにその命題に正しい正しくないにならないだろ。だから、ポパーは検証主義じゃなくて反証というのをやります。反証可能性。これは何か。間違っているということ、駄目だ、使い物にならないということを出すことができる基準。これは色々バージョンがあってよくわからないんですけど、いちばん簡単にいうと、ピンポイントにこれは駄目だっていうとばちっと簡単になっちゃうんですね。普通はむしろそうじゃなく、二つの対抗する対抗仮説を出して、こっちはOKこっちは駄目って形で分離できるようにするのが普通です。ですから、なんとかいいくるめて、そっちは駄目だけどこっちは大丈夫だったんだよ、ということを許さないのがポパーの反証可能性を成立させるために大事な議論なんですね。ということは、検証は保証されないから、ポパーの場合同時に、科学の命題は正しくなくていいんだ、間違いでもいいんだと言います。でも間違っているんだったら、間違いを出す手段が可能じゃなきゃいけない。そういうものとしてシステムを考えるのがポパーです。ポパーは非常に幅が広いので、もういっかい色々言わないとよく分からないんですけど、いちばん有名なのはこのへん。
最終更新:2011年06月05日 12:08