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第07回 2009年11月09日 > 03

 ちょっと余談なんだけど、何年か前の科学哲学界で、昔からある信仰というか、最近話題になってきた分野があります。系統学なんですね。昔は化石とか使って博物学の歴史的分類だったんだけど、最近それがDNAの体内タンパク質が持っている遺伝情報や化学的な、分子の構造――DNA内の組み換えの分岐の仕方に対する反応から、実はそれの系統の構造がある程度分かるようになってきたんですね。それで新しい系統学というのがずっと議論されてきてるんですよ。十五年くらいかな。そこの中で物凄く論争がいっぱいあるんですけど、というのもきちんと分からないので推測でやるしかないから。そこの人が言ってたのは、いやーいまいちばん使える科学哲学はやっぱりポパーだね、と。何でかというと、相手の議論に対して、お前これが無いぞ、って言って、文句を言うために使えるんだよ。それ以外の科学哲学は使えない、と彼は言うんだよ。それがポパーの正しい理解かは全く別問題なんだけどw、さっき言った、理解をベースにして科学をつくっていってそこから合理性という形で科学的な社会学を作るというタイプでなくて、相手をやっつけるのにいちばん使える科学哲学っていう意味では、彼らの内部の抗争のための功利主義として、この概念を使っているという事実を私は見てしまいました。それが科学哲学という言葉が持っている曖昧な部分でもあるんですよ。これだとポパー万歳というわけにはいかないわけね。ポパー自身は、批判的合理主義っていう言葉が示すように、理解のベースがどうなっているか彼本人が考えたんだから、どう断片部分が使えるからって言われたら、ちょっと科学哲学関係の人間からしたら、それはどうなんよ、と言いたくなってしまう。ただ逆に言うと、かくも多様に科学哲学ということ自体は、科学をどう記述するかという見方の問題なのね。科学自身はどう見られるかなんてどうでもいいんですよ。もちろん科学者自身が先を進んでいこうとした場合にどう見せるかという問題は起きます。これはシステム論のときに、システムを発表するときにそのシステムの自己認識という問題があることと同様の例だけどね。そういうものとして使えるということと観察者としてこう見ましょうという話は一般に一致しないわけですよ。システム論でもそれははっきり分かってる。これも論争ずっと続くんだけど、これ自体は、科学をどう見るかであって、科学が自分をどう理解するかとは必ずしも直結してない。ましてや、これが科学がシステムとして発達するために正しいかどうかなんて全然分からない。プリンキピアは論理学の体系だからね。体系から何かを考えようというベースを取ってきた。批判的合理主義でポパーが切り取った一つは、インダクション、帰納の問題だったんです。それから確率論。確率ってなにって問題があった。彼は確率に対しては傾向性解釈ってやってて、いまこれがぼくが手をはなしたら落ちない確率はいくつって問題がある。普通は頻度解釈っていって何度も同じことを確かめなさいってする。そうするとだいたいその確率に近づいていく。サイコロ振って6の目が出る確率は1/6だってことが繰り返せば分かる。その確率にどういう意味があるか。何を言っていることなのか。1/6って世界にはない。出るか出ないか。でも1/6って言うじゃないか我々は。そうしたときに、とにかくたくさん転がしなさいっていうのが頻度解釈。いちおう標準に近い解釈とされてます。ところがポパーはこう考える。だって一回しか起こらないことだって確率というじゃないかおれたちは。同じもの寄せ集めてそういう言い方をするけど、歴史的なものを集めて確率はどうって言うことができるのか。そういうことがあるわけです。そうじゃない。何かをしようとする傾向というのがその事象の内部にあって、あれが現れてくる。現れ方の度合いだ。それを傾向的に考えたのがポパーの確率解釈です。この概念をどうするか。例えば量子力学は確率的な表現しかできないけど、これってなにものなのか。っていう議論に対して現在にも繋がります。いまはすごく装置が発達したから、ある我々が有意味に測れる時間の中で、例えば素粒子のエネルギーが一個分しかないような実験ができるのね。それが一個分しかないのに確率的にできるわけ。例えば干渉実験やると波ができるわけ。一個一個十分に時間を区切ってって、パツッパツッパツッとスクリーンに絵が出るんだけど、これ重ねるとなぜかしらんけどこういう波ができるんですよ。でもいっかいいっかい現に区切ってるわけですよ我々は。区切ってるのに干渉があるってどういうことって言われたときに、それ集団の事象ですからって言い方をしていいのかどうか。公式には量子力学は集団に対する予測をしているという言い方がいちばん無難なんですが、こういう事実を解釈するときに傾向性解釈で行く人もいます。そういう形で、ポパーは何らかの背後にある実体的なものを常に想定してる。これが論理実証主義に対する一発目の反応。

 二つ目。ネオ・プラグマティズム。これの代表者はクワインです。これは、同じような批判なんだけど、検証主義に対してポパーは反証って言ったけど、クワインはもう少しラディカルで、デュエム・クワインテーゼ、どこが反応するか分かんないから、じゃあ反応する場所は全体としてしか決まらないだろと。検証主義も反証主義も個々の命題を捉えて理論的になんかやってるけど、そんな区別無意味だろという言い方をしたんです。クワインの有名な論文がありまして、「経験主義の二つのドグマ」という論文があります。いちばん有名だと思いますけど、単純にここで言っていることを言ってしまうと、分析命題と総合命題が区別されているというのが第一のドグマだと。思い込んでいるだけだと。二番目。感覚与件への還元。この二つをドグマだと言ったんです。そんな区別はねーんだぞと。科学という形で世界に対処するというふうに見たときに、体系全体がぐにょぐにょっと動いてるから、デュエムはある意味ゲシュタルト心理学から影響を受けたと言われてるんらしいんだけど、ある段階で断面を切ったときに、こんな整然と分析だ総合だと、ましてやぐにょぐにょっとしているゲシュタルトが個々の経験の段階から起こってくるんじゃない全体としてのゲシュタルトってものがある。前言ったシステムの全体性と同じ意味でそれを常に持っているんだから、科学というシステムを通じて我々は世界と関わっているんだから、そうであるかぎり、こんなものを前提に科学を発想すること自体がまちがってんだろ、というのがクワインのこの論文の趣旨だと言っていいと思います。

 さらにクワインって人は厄介で、彼自身ある種の物理主義なんだよね。いま言ったような形で整合的なシステム、説明ができるんならなんでもえーぜって感じなんです。なんでもいいんですが、彼自身がつくるときは物理主義なんで、ある種の物理学との関連のベースにおいてつくるようにしています。そこに対してドナルド・デイヴィッドソンっていう行為論で有名な哲学者が、概念枠組っていうのを出してきたんですね。同時に、状況に依存する合理性っていうものを考えた。彼プラグマティズムだから、我々がそのうち一つを選んでるんだって考えてるんですよ。それに対してデイヴィッドソンは、そういう相対化をすること自身が理解の哲学ということからすれば無意味だ、ということで批判をします。これがデイヴィッドソンが、二つのドグマに対して第三のドグマという言い方をしてやってる論文です。

 この二つっていうのはある意味で個別性なんですが、もう一つこれに対する批判の流れがあって、三番目のこれが、新科学哲学っていうメンバーで、これに誰が入っているかっていうと、ハンソン、クーン、ファイヤアーベント、この辺です。ハンソンが理論負荷性っていうのを言った人。これを単純に言うと、さっきは分析と総合があったけど、もう一つ、実験と理論っていう区別があるはずなんですね。これに対して、実験……観察命題っていうのは、ある理論を通してでなければそもそも命題としてのくくり方できない。理論は必ず入ってくるはず。という意味で、観察命題の理論負荷性って言うんですけどね。理論が上に乗っかっちゃってる。純粋な観察命題ってものはないんだ。ある意味でクワインとちょっと近い。クワインはむしろ彼自身は物理学と論理学の先生でもあったからそっちから行ったのに対して、理論と経験っていうところで出来ないかということで考えられてます。で、その構造がどうなっているかということを歴史的に見たのがクーンのパラダイム論です。これもいろんな議論がありまして、パラダイム論をどう理解するのかっていうのも結構問題なんですよ。それに対してもっとラディカルなのがこいつ、ファイヤアーベントです。彼は何しろ、まともな意味での自分の立場に立てないと言ってる。Anything go.なんでもありえる。なんだっていいよ。ネオプラグマティズムをもっとひどくしたような感じで、科学っていったら何だって科学っていっていいんじゃないかと。ここまで行くと、『理性よさらば』っていう法政大学出版から出てる本がありますが、基本的には規範性は社会的なんだから科学から批判が出てくるわけがないというくらいの、とてつもないラディカルになっちゃった。にも関わらず面白いのは、この二つが仲悪かったので。イムレ・ラカトシュという人がいます。ポパーの流れを組む人なんですが、とにかくいいとこどりしてなんとかサイエンスを合理的に理解しようとしてた。ラカトシュという人は、科学的リサーチプログラムという概念を出して、個々の理論じゃなくて、理論文に対して関連性を考える。理論文の間での交渉という形で科学の進展を考えるという議論を出したんですけど、このパラダイム論を取り込みつつ、なんでもありじゃなくてお互い反証をやってくんだよっていうプログラムを組もうとしたんです。ところがね、これやってくと、ポパーは規範性を残したんですけど、突き詰めると規範性が意味なくなるぜ、と。現実的に規範性の意味なくなるぜ。リサーチプログラムって長い流れだから一個ずつで何が駄目なのかはっきりしない。今は動いてないけどもう一回動くかもしれないって保持することが可能だ。そうするとそこにこだわってる科学者っていうのがバカだって言うことができない。ということで規範性がなくなっちゃうよって批判したのがファイヤアーベントだったんですね。不思議なことに。というなにをしてお互いを批判しているのかが分からなくなるひとが出る、ある意味で論壇の内部抗争みたいな議論をやってるわけです。

 大きい流れはサイエンスの流れにおける実験・観察という立場の構造というのが、そもそもサイエンスの成立に対して要求される。それが当時、イギリス中心の経験論という立場につながって、それが19世紀後半に実証主義という立場で、すごく発達した科学を理解しようという流れが起こってきた。そして実証主義がいまの科学哲学へ行く方向で、サイエンスでは、数学の形式化ということと、数学への諸科学の統合っていうドイツの傾向が重なって、論理実証主義というものが現れる。その論理実証主義をベースにしながら、カルナップはちゃんと戦後まで生きてましたし、まあ今言った三つの、ポパーの批判的合理主義、クワインのネオプラグマティズム、それからハンソン、クーン、ファイヤアーベントたちの新科学哲学が、そんなんじゃねーよと言いながら科学に絡んでいく。それがいわゆる、分析系のタイプの、いま科学哲学と言われて日本に紹介されているものの大きな流れです。で、もう一つの流れが、コントからの実証主義、フランスのエピステモロジーという方向がありまして、これはまた違う筋なんですけど、そっちにも目配りしないとほんとよくなくて、それから構造主義の議論、ポスト構造主義っていうのがつながっていきます。

 覚えてて欲しいのは、こいつら、科学をどう見るかということで大論争をやったんだよ。という論争を引き起こすくらい不可欠な行為だった。ところで、科学にとってこれが何の意味があったのか。と言われたときに、科学者が理解しようとしたんならまだ言い方あったと思うし、ポパーなんてエクルズと一緒に三世界論なんてのをやってて批判されたりするわけだけど、実際に動いている科学というシステムに対して本当にどれだけ広まったのか、って言ったら結構ネガティブな答えしか出てこない。科学をどう見るかということは、システム論としての、科学というシステムに入るということも見ることだけど、科学哲学という全く違う機能分化した見方、観察者じゃない別の機能を持った流れは一致してないです。むしろ分化することで別のものになったわけです。それがもう一度どう影響しあうかってのは逆に現代的な我々自身の問題なわけです。それを覚えてくれているといいです。次回は、反証主義とか言ったけど、それでも気にしてるわけ。全体性とか合理性とかそこにおける歴史的ななんとかなのか、ラカトシュなんて理論間のグループ関係とか、システム論と相性のいい問題もあります。次回はその中身を見ながら考えていくという形にします。
最終更新:2011年06月05日 12:07
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