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第03回 2010年10月04日 > 01

●「何かを生み出すような何か」について――〈直接性〉と〈機能〉とnaturance

 前回と前々回の注釈を兼ねて、ちょっと今回の発展につなぐかたちで〈直接性〉について補足したいと思います。
 前回は、〈直接性〉を単純に「A地点からB地点への具体的な矢印」として見ないでほしいということを言いました。むしろどちらかというと、数学の人がよくやるみたいに「AからBまでの速度が積分されていく数式[註:速度の積分は距離]」として感じてほしい。こういう感じ、直接的って。僕が言おうとしていることは、何かがそこにあって見られているのではなくて、何かを作りだそうとしているということです。例えばこの「AからBまでの速度の積分」はA地点からB地点までの距離を作り出しているわけですよね。ただ通常の場合、このように書くと、距離を作り出す本体は、結局時間だ、という話になってしまうのだけど、そうではなくて、とりあえず何かを作りだすことに即して考えましょうというのが、前回お話したことでした。〈直接性〉において僕が言いたいのは、最初に言ったように、僕らが哲学を“している”という行為、哲学が何かの結果を生み出す行為であるということについて考えようということです。……そうだと思っていてください。
 この「何かを生み出すような何か」について、言葉として正確ではないのですが、とりあえず言葉がないので、〈機能〉とか、〈働き〉とかの言い方を僕はしています。これはまったく僕自身の用法で、すごく曖昧に使っています。その言い方のなかに〈直接性〉もあると考えてください。これらは結構マジックワードで、嘘っぱちなんですけどね。きちんと説明してないから、というかできないから。
 一つ注意点ですが、機能という言葉は非常にいろんな使われ方をしています。哲学の文脈では、機能主義(functionalism)って言う言葉があるんですけどね。これには広い意味と狭い意味があります。広い意味では、ライプニッツなどの、何かものを生むことをベースに考えるという、有機体論とかそういうものが機能主義に入ります。――また余計なことを言っちゃうけど、nature・自然に対して、ラテンの頃に、四つの分類がありました。つまり「生んで生まれない自然」、「生まれて生む自然」、「生まれて生まない自然」、「生みも生まれもしない自然」です。生む/生まない、生まれる/生まれないをね、受動態と能動態で四つに分けて、それを神学的な分類に当てはめたんですよ。現実の世界を生成する、つまり生む能力がある「生んで生まれない自然」を、能産的自然(nature naturance)といいます。これと対になる、「生まれて生む自然」を所産的自然(natura naturata)といいます。前者は神様、始原の神様です。自ら生まれることはないけど、すべてを生むというのが、始原の神様。で、その創造物の途中にあって、こうやって生んでいるというのが、後者です。後者が普通の意味で、われわれの見ている自然なんです。それから、「生まれるけど生まない自然」というある種のターミネーションがあるわけですが、これはたとえば私たちの精神とかそういうものを考える。で、「生まれもしなければ、生みもしない」というのがじつは、本当の、存在を超越した、永遠の神様である、という四つの分類がありました。[註:自然の四分類については、ヨハネス・エリウゲナ『ペリフュセオン』参照]この分類で考えるときの「能産的自然」を、ライプニッツらが組み込んで考えることについて、機能主義という言葉が使われます。
 もう一つは、最近流行の「心の哲学」というやつね。本当は哲学に関わっているんだから、ドイツ観念論だとかも官位するはずなんだけど、今、心の哲学というときは、英米系の分析哲学から派生した、心に対する哲学で、さらに、脳科学とのハイブリットも入ってくるものを指します。心の哲学の文脈において、機能主義という言葉はどう使われるのか。身心問題とか身脳問題があったときに、幾つか対処方法があるわけですが、そのなかで脳と心がどう関係しているかに着目することがある。両者は無関係です、っていうのもあります。一つは消去主義で、心というのは無い、脳の機能で全部説明が付くとするのがある。それから、随伴現象説というのがあって、脳と心は違う、何が違うかというと、脳のほうは本物で心は現象である。現象だけど、現象ということで独特の位置があるんだ、とする立場があります。いま言った、消去主義のもとは行動主義です。脳なんて見かけであってそれは行動なんだっていいます。それに近いところに、物理的機能主義というものがありまして、脳の、物理学的な機能が心の本体なんだ、という言い方をします。この場合も機能主義という言葉を使います。今、東京とアメリカで「機能主義」って言うと、この物理的機能主義を指すことが非常に多いです。心の哲学の物理的機能主義は、非常に狭い意味で、僕が使おうとしている機能主義と違いますので、気をつけて区別してください。まったく別です。
 心の哲学における機能主義は、物理的な事実、物理学的機能を実在物と認める。つまり、「実在の一種として物理的機能を認めている」わけです。そうではなくて、僕が考えていたり、あるいはライプニッツなんかが考えていたであろう〈機能〉というのは、むしろ「実在のあり方が機能的なんだ」という見方なんですよね。naturance;作るという力が、存在するということなんだ、という立場です。
 この間、直接的に対して、「私が直接、○○を××する」という構文ではなくて、「○○を××するという仕方での〈直接性〉の結果としての私」という構文で捉えるという言い方をしました。この入れ替えと同じような感じで、物理的機能主義と、広い意味での機能主義の近いを捉えてもらえればと思います。
 最初の授業の最後で、「科学」の記法としての「数学」、「社会」の記法としての「言語」をそれぞれ考えようという話をしました。――後者の実例について今回の授業で、ふれようと思います。
 どのように「数学」と「言語」を考えていくかといえば、機能のレベルから、つまり、〈直接性〉をあてはめようとするかたちで議論を始めるとしたい。そのためには、「数学」や「言語」から「科学」や「社会」へ持ち上がったときに、なにをもって持ちあがったとするかということを言っていかないと分からない。ということで、まずシステム論を少し解説しなければならない、ということになるんです。


●システム論とオートポイエーシス

 去年もやったんですけど、システムという問題を考えようとしたときに、そもそもシステムとはなんぞやって言われると、なんなのかよく分からないんですよ。みんな簡単にシステム、システムって使うんだけど、システムってホントは何だよって言われたら、各自で想定しているものはばらばらだったりする。同じように、「言語システム」と言うときに、まさにそれはシステムとして位置付けられているようだけど、じゃあ「言語」何か? というと、よく分からない。
 システム論は社会学をスタートとしている分野だけど、そもそも何がシステムか、という“そもそも論”が無いんですよ、どこにも。目の前にシステムがあるでしょ、で、そのシステムをこのように具体的に捉えると、こういうことが説明できます、……ということで、みんなやっているわけです。システム論のなかにも、いくつかの潮流があるのですが、大概は現象記述なんですよね。「社会システム」という概念を出して何をやっているかというと、人間の集団がいつどこを動いていて、どのような振る舞いをして、っていう統計の資料を取ったり、グラフを書いたりする研究が多いわけです。中学生や高校生が、夏休みの自由研究でやるような調査報告型の説明が多い。そして、それとは逆に本体を考えるタイプの社会学、たとえば経済学・法学などでは、システムに対して、システムを動かしているものは外部から与えられていると考えているわけです。財をどのように分配するかとか、どのようにお互いに能動性を絡ませるかという現象のレベルとしてシステムを考えている。
 しかし、これはオートポイエーシスの話のなかで繰り返していることですが、脳もまた、一種のシステムだと考えることができます。脳では、生化学的反応に伴ういろいろな電気パルスが絶えず起こっている。にもかかわらず、脳みそのなかには心というものがあるらしい(脳みそのなかに、と言うと語弊があるけど、少なくとも、脳みそがないのに心があるということは、人間には考えにくい)。そういう場合に、やっぱり心は一種のシステムだろうというふうに、当然考えるわけです。なぜなら、この授業も含めて、全て人間の心をベースにして、コミュニケーションをとる、何かが起こるということを前提にしているわけだから。
 心を対象にしているせいで、これは先ほどの心の哲学と同じように見えますが、両者のやり方は全然違います。心の哲学は人間の言語における命題を中心にして脳はどうかっていう問いを立てるけど、オートポイエーシスは事実的なシステムとしての脳からどうやって原理が生まれてくるんだろうという問いを立てます。
 神経生理学者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが、1970年代に初めてオートポイエーシスを提唱したとき、そこには四つの特徴があると彼らは言いました。(1)自律性、(2)個体性、(3)境界の自己決定、(4)入出力のなさ、です。最後の、(4)入出力のなさが、一番珍しいんですよね。ふつう、システムってブラックボックスや機械のイメージで考えるんですよ。入力があって、出力がある。でも、オートポイエーシスの考え方では、入出力はないって言っちゃうんですよ。自分自身のなかで全部閉じる。そして、自分自身を作る。だから、周りの影響は単なる撹乱とか、相互浸透、構造的カップリング(structural coupling)っていう言い方もしますけど、伴って変わるだけであって、入力として何かをもらって出力として出すということではない、という発想なんです。
 オートポイエーシスは、有名な人がもう二人います。神経生理学におけるマトゥラーナの発想に対して、ウンこれは使えるぞって社会学で一般化したのが、ニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)です。けっこうね、トシが面白いんだよ。最近死んじゃったデリダ(1930-2004) よりちょっと上くらい、ドゥルーズ(1925-1995)とかの年代ですね。ルーマンの本業は社会学で、哲学としてはまったく傍流です。アメリカに行って、タルコット・パーソンズのもとで意思決定論のかなり理論的なことをやって、ドイツに戻って、社会学の観点から哲学的なことをたくさんやりました。彼が社会学から、神経生理の現象を、社会学に一般化したんですよ。初期の代表作は、『社会システム理論Soziale Systeme』(1984)です。ルーマンは、マトゥラーナが物理的イメージとして使っていたオートポイエーシスのモデルに対して、コミュニケーションに着目することで社会学のほうに持ち込みました。
 これに対して、成功しているかどうかは別なんですが、日本でオートポイエーシスを現象学に応用した人がいます。東洋大学の哲学の先生をやっている、河本英夫(1953- )です。日本でオートポイエーシスに関する本をたくさん出しているのは河本さんです。紹介もやっている。山下和也さんが『オートポイエーシス論入門』のなかで、マトゥラーノ、ルーマン、河本の三人を見比べながら、「科学として使えるオートポイエーシスを作りましょう」という標語のもとにオートポイエーシスという概念を解説しています。
 まず、オートポイエーシスに至る前段階からいきましょう。
最終更新:2011年06月05日 12:18
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